https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/73941.html 【沼尾の池】より
和銅6年(713)頃編さんされた『常陸国風土記』香島郡の条に次のような一文があります。
「…其の社の南に郡家あり。北に沼尾の池あり。古老の曰いしく、神世に、天より流れ来し水沼といへり。病有るもの、此の沼の蓮を食えば早く差(い)えて験あり。…」
沼尾神社の西側崖下にある水田一帯が当時の「沼尾の池」で、蓮根が群生していました。この蓮根は味わいよく、余所の蓮根に優れていて、病気のものが食べると早く治って霊験があったといいます。(参考:「常陸国風土記に記された”鹿嶋”」)
康元元年(1256)11月5日、藤原光俊朝臣が鹿島詣のついでに、この沼尾神社を参詣した時には、もはや蓮が存在しなかったと『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう)に記されています。
昭和9年(1934)秋、当時東大農学部教授であった大賀一郎博士が、沼尾の池の旧跡を探訪し、その時案内の者に、「池中2mくらい発掘すれば、当時の蓮の実があるだろう」と話したといいます。大賀博士は、発掘した古代のハスの実を開花させた「オオガハス」で知られます。
https://www.food-fukushima.jp/kashima-jinja-oga-hasu/ 【鏡石町 鹿嶋神社参集殿と大賀ハス】より
鹿嶋神社は、向かいの池にある大賀ハスとともに記憶されています。
夏、ハスの花を見にいくついでに立ち寄りたい神社です。
鹿嶋神社は、一般に武甕槌神(タケミカヅチ)を祭神とする神社です。
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮を総本社とするもので、東北地方・関東地方を中心に600社ほどあるといわれています。
武甕槌神(タケミカヅチ)は雷神であり、剣の神でもあります。
社殿の裏手には石塔や石仏などが並んでいることがよくありますが、ここ鹿嶋神社にもありました。
鹿嶋神社
ひとつだけ変わったものがあったので近くでよく見ると、どうも庚申塔のようです。
庚申塚としても知られているものです。
庚申信仰とは、庚申(かのえさる)の日の夜に、寝ている人の体内から三尸(さんし)の虫が出てきて天帝のもとへ行き、自分の宿主である人間の悪事を報告に行くという道教に由来するものです。
そのため、江戸時代には庚申の夜は寝ずに、夜通し近所のものと話をしたり、宴会したりという風習が生まれました。
庚申塔は、そのような場において祈りをささげる対象でありました。
鹿嶋神社
庚申塔にはさまざまなバリエーションがありますが、足元に「見ざる聞かざる言わざる」の三猿があることが見極めのポイントになります。
庚申(かのえさる)ですから、猿になります。
つぎのポイントは、上のほうに月と太陽があることです。
鹿嶋神社の庚申塔にも、左に月、右に太陽があります。さらに、腕は6本で、弓と矢を持っていること。足元には邪気がいることが多いのですが、ここの庚申塔にはありません。
子どもで憤怒の相をしていることも特徴になりますが、鹿嶋神社の庚申塔は合掌し祈りをささげている姿です。
鹿嶋神社
見どころは大賀ハスの池
鹿嶋神社の向かいには、大賀ハスが美しい花を咲かせる池があります。
見ごろは7月下旬から8月初旬くらいになります。
大輪の大賀ハスは、直径20センチ以上もあり、神々しい姿を見せてくれます。
大賀ハスの美しい姿を、ぜひインスタにアップしてください。
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50038.html 【東北進出と鹿島神宮】より
大和朝廷の東北進出
蝦夷(えぞ)とは、大和朝廷から見た東部・北部の原住民の蔑称であり、この時代では東北地方(鎌倉時代以降は北海道)を指しています。
大和地方を根拠としていた大和朝廷は、4~5世紀にかけて九州をはじめ東国に進出し、大化改新などにより天皇を中心とする中央集権国家を建設し、海上から、または陸路の東海道・東山道から東北地方へ進出していきました。『日本書紀』には、斉明4年(658年)に阿部比羅夫(あべのひらふ)が軍船180艘で征討したことが記されています。
蝦夷と鹿島神宮
当時の蝦夷征討は東海道・東山道を経由しての軍事行動が大部分であり、延暦21年(802年)に征夷大将軍 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷制圧するまでの144年間にわたり、朝廷は断続的に東北地方へ軍隊を送り続けました。
そのため常陸国などの街道周辺国の民は租庸調(そようちょう)・雑徭(ぞうよう)・兵役・運脚(うんきゃく)・仕丁(しちょう)などの税負担のほかに出挙(すいこ)の返済、臨時の食物徴用などや、護送中の蝦夷俘囚の反乱に伴う被害などもあり、圧迫された生活を送っていました。
鹿島神宮は、武の神である武甕槌大神を祭神とする「天の大神の社」と地元の神である「坂戸神社」「沼尾神社」で構成されています。蝦夷征討時、征討軍は武神である鹿島神宮の御祭神 武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)を奉じて東北へ進出していきました。そのため、陸奥国には鹿島神宮の分社である鹿島御子(児)神社・鹿島天足和気(あまたらしわけ)神社・鹿島神社など38社が鎮座しています。
阿弖流為(あてるい)との戦い
鹿島神宮の宝物館には「悪路王の首」と題された木製の首が展示されています。この悪路王とは、征討された蝦夷の大将で、蝦夷の英雄、阿弖流為のことだとも言われています。(他には、大陸系の漂着民族オロチョン族の首領であるとの見方もあるようです。)阿弖流為は常に兵力が数倍の朝廷軍と戦いました。
『続日本紀』延暦7年(788年)3月3日の条には、来年3月までに常陸国鹿嶋神饌・武勲のあった者・弓馬に優れたもの集めて、歩兵と騎兵52,800余人を徴発して多賀城に集結せよと桓武天皇の勅命があったことが記されています。
延暦8年(789年)3月に52,800余人が多賀城に集結し、第1回の戦いは副将軍入間広成軍4,000人、阿弖流為軍12,000人で戦い、阿弖流為軍の大勝利に終わります。朝廷軍の戦死者(溺死者を含め)は1,055人だったのに対し、阿弖流為軍は89人でした。その後朝廷軍と阿弖流為軍との間に小競り合いが続きますが、大規模な戦いは無く、6月には朝廷軍が撤退しました。
悪路王の首
『日本紀略』には、延暦13年(794年)に、朝廷軍10万人と阿弖流為軍が戦い、朝廷軍が大勝利したと書かれていますが、阿弖流為軍の損害は軽微で実質的には引き分けでした。
延暦16年(797年)11月に坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された後、次々と懐柔策を行い、阿弖流為を孤立させ、延暦20年(801年)2月に朝廷軍4万人で遠征し、9月には桓武天皇に勝利の報告をし、胆沢城(いさわじょう)を築いています。延暦21年(802年)4月15日、阿弖流為は田村麻呂に降伏し、144年間に渡る蝦夷進出戦争が終わりました。
鹿島神宮の悪路王の首(木製)は、時代を下って江戸時代に奉納されたものです。昭和49年発行の『鹿島町史 第2巻』には、寛文4年(1664年)に奥州の住人、水谷加兵衛満清が奉納したものであると記載されています。奉納の経緯などについては不明ですが、この悪路王の首は、今も境内の宝物館で見学者を険しい顔つきで睨んでいます。
https://www.fujisaki-kanko.jp/history/kashima-shrine.html 【鹿嶋神社】より
藤崎八幡宮と並ぶ藤崎地区を代表する神社です。
神社の由来は、平安時代初め坂上田村麻呂の蝦夷征伐の際、蝦夷の頭領・恵美の高丸の霊を退治した時、田村麻呂の守護神である毘沙門を祀ったのが始まりといわれています。
鹿嶋神社で田村麻呂が地面に突き立てた藤の杖から、枝や根が伸びて花が咲いたと言い伝えられており、そこから”藤の咲く里・「藤咲村」”と呼ばれ、「藤崎」の町名の由来となった伝説の場所です。
神仏分離以前は「毘沙門」と呼ばれ、明治3年に今の鹿嶋神社に改称されました。本殿には荒磯前神社や愛宕神社も祀られ、ほかに坂上田村麻呂神霊などたくさんの神様が合祀されています。
神社の境内には、神社碑、忠魂碑や平和祈願碑など戦争に関する石碑、藤崎町出身の名大関、大ノ里など相撲関係の顕彰碑、庚申塔など多くの金石文や、相撲場も併設しています。
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