Facebook岡本 よりたかさん投稿記事
「ラディカル・ラブ」個人の感想です
神社は元々は自然崇拝から始まったものである。いわゆる八百万の神の信仰である。
「日本固有の宗教である神道」は「崇高な神様が降りて来られ宿られる特別の場所」であった。人間も自然の一部であり、自然に生かされ、そして自然に感謝しなくてはいけない。それを神社が教えてくれる。京都で開催されたサティシュ・クマールの講演でも、サティシュはしきりにその点を強調していた。
ラディカル・ラブ
根本的な愛。分け隔てなく愛する心が平和をもたらし、人々に幸福をもたらすと言うガンジーの思想に沿う。
素晴らしい講演だった。通訳の辻さん、ファシリテーターの上野さんも素晴らしかった。万物に宿る神と万物を愛する心。
だから、僕はその足で神社に出向こうと思い、下鴨神社に立ち寄り、本堂の案内を受けてみた。神社は「先人や天皇の祖神、怨霊など、さまざまな神様が祀られている」
天皇の祖神。つまり、天照大御神。アマテラスオオミカミ。
天皇は神ではない。僕はそこに違和感を感じてしまう。
一礼二拍手一礼との記載があったが、神社で祈るのになぜ儀式化が必要なのか。いや、理由は色々あるのだろう、多くは言うまい。
そして神服殿に立ち寄った。中には、天皇皇后両陛下が参拝する際にお座りになる椅子が置かれていた。その椅子は新品のままだった。天皇はお座りにならず、結局椅子は誰にも使用させずに展示していると言う。椅子は座るために作られている。じゃあ、なぜ誰にも座らせないのだろう。椅子にも神は宿る。その神に感謝するならば、座るべきだと僕は考えるのである。
神社とはなんなのだろうか。全ての物に感謝すべき場所ではないのか。外国人観光客に混ざって、なぜか居心地の悪さを感じてしまった。
僕は郡上市石徹白町にある白山中居神社が好きだ。そして、白鳥町にある貴船神社が好きだ。
そこは、ただひっそりと神社が佇む。苔むし、木々は朽ちていくが、それが自然である。
誰かが感謝と共に、その場所をそっと護り続ける神々しい神社。
参拝客は少しの小銭を抱えて、静かに祈る。余計な儀式も要求せず、大自然は優しく参拝客を包み込む。
そして明日の希望を抱いて帰っていく。
それこそが神社であり、万物に宿る神であり、ラディカル・ラブなのである。
Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事
私たちのほんとうの価値は周りの人と比較することができない絶対的なものです。
学歴や社会的な地位、銀行の残高が私たちの実体ではありません。
それが私たちのほんとうの価値ではないのです。
魂が目覚めたときに自分のほんとうの価値がわかり「私は私だ」と宣言することができます。
私は私以外の何者でもなくただ私であるだけです。
他の何かと比較することはできず私は私であるだけなのです。
その私としてこの世を生きること、それが自由で創造的な人生の秘訣です。
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
心で語る
「どっどど どどうど どどうど どどう 青いくるみも吹きとばせ
すっぱい かりんも吹きとばせ どっどど どどうど どどうど どどう」
北風が吹く季節になると、こんな一節を思い出します。
むかし読んだ「風の又三郎」の一節です。いかにも荒々しく風が吹いています。
子どもの頃に読んだり、読み聞かされたりしたものは、案外心の中深く残っているものです。
絵本「ぐりとぐら」シリーズの作者である中川李枝子さんの訃報に接して、そんなことを思いました。「ぐりとぐら」は1963年に発表されたとのことです。私が3歳のとき。それから22作のシリーズとなったようで、本当に永きにわたって愛された絵本のひとつですね。
お姉さんである中川さんがお話を書き、妹さんである山脇さんが絵を描かれています。
絵本や童話は、想像力もですが、同時に表現力も刺激すると思います。
子ども達が、豊かに育ちますようにという願いから生まれるものですが、いつからか、見えるかたちの「能力」というものを求めるようになっていきます。想像力も表現力も能力ですが、それよりも「点数」に換算できるものが優先されがちです。
大人の多くが勉強は楽しくないと考えます。それこそ、比較という古い価値観で育てられた大人がこうむった弊害ですが、(絵が描けない大人が多いというのも同じです)人生が長くなって、いつからでも楽しく学べること=学ぶことの楽しさにも気づきました。
自分の人生の向き合い方にあわせて、なにを語るか、なにを伝えていくかに向き合うのも大事なことです。本当の自分で語るということです。
そして、本当の自分とは心ですから、「心で語る」ということになるのでしょう。
Facebook榎本 了壱さん投稿記事
南椌椌さんの詩集「ソノヒトカへラズ」(七月堂)
これがなんと正式な処女詩集という! やさしく、あたたかく、せつなく、かろやかに、それでももう、触ることの出来ない、遠くの、風のような、光のような、闇をいとおしく撫でる。椌椌さんの絵もテラコッタの天使も好きだけれど、この深くから湧いてくるようなかなしみは、やっぱり言葉の重みなのかな。父親の故郷のあちこちに、自分の証を見つけて、それをふわっと教えてくれる。椌椌さんの失ったものを、取り戻してあまりある、時間のディスタンスを、詩と呼ぶのだな。
Facebook近藤裕子さん投稿記事 ☘️疲れた心に潤いを☘️
「三密」 さんみつ
「密」とは、弘法大師が唐から伝えた密教の智慧で、「身口意(しんくい)」を表す密教の
身密(行動)、口密(言葉)、意密(心)の三密です。
日常生活において、身体を正し、言葉を正し、心を誠にし、、、。という教えです。
日常の疲れた心を癒す「おあしす運動」というのがあります。
「お」おかげさまと感謝して「あ」ありがとうを心を込めて「し」静(しず)かに坐り
「す」勧(すす)んで手を合わせる だそうです。
今年もあと2ヶ月足らず。様々な工夫で日々を過ごしたいと思います。
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