FacebookMasaru Hagiwaraさん投稿記事
【思い切って生き方を見直しませんか】
「サレンダー」というマイケルさんが書いた本があります。この本の主旨は、「自分を明け渡し、人生の流れに身を任せる、というものです。」
人生の流れとは宇宙の流れに身を任せる、ということです。
人は自分で考えて、行動して、結果を得る、そう思っています。
しかし、138億年の宇宙の英知は人智がとうてい及ぶ所ではありません。
更に、マイケルさんは、「世俗的なことと、スピリチュアルなことを分ける考えが消えた。
流れに任せると、人生はひとりでに花開いた」と述べています。
このことは、世俗的なこととは、顕在意識で思考することです。
スピリチュアルなこととは、潜在意識のことです。顕在意識と潜在意識との境界が消えたことになります。催眠状態とは、まさに、顕在意識と潜在意識の分ける考えた消えた状態です。
催眠療法を学ぶとは、まさに、この催眠状態を学ぶことなのです。
【委ねて過ごしませんか】
「サレンダー」というマイケルさんの本の続きです。
サレンダーとは、明け渡す、委ねる、任せる、という意味です。
マイケルさんは、この成長過程では、はっきりと二つのステップを踏むと指摘しています。
最初に、自分の内面を形づくっている個人的な好き嫌いの反応を手放す。
二番目に、その結果得られる明晰さを以って、目の前で展開されている状況が自分に何を
要求しているかを見抜く。好き嫌いに振り回されないとしたら、あなたはどうなるだろう?
より深い導きに従えば、個人的な選り好みとはまったく異なる方向に、人生を導いていくに
違いない。個人的な選り好みにより判断するのは「エゴ」の領域であり、意識では顕在意識に属する。判断しないのは潜在意識の領域となる。
この時に、潜在意識は集合意識につながり、更に根源へとつながる。
その為に瞑想は大いに役立つ。ここを目指すのが、座禅であり、マインドフルネスの世界だ。
スピリチュアルな分野とはエゴを放棄することを目指している。
Facebook田中 宏明さん投稿記事
自分を本当に愛している人は決して自分を死の恐怖にさらしたりはしないでしょう
自分を本当に愛するとは自分を守ることではなく自分に起こりうる全ての可能性に対して
完全にサレンダーしていること つまり一切のコントロールを放棄してゆだねていること
それだけが自分自身 にとってこれ以上ないいたわりと愛であることを知っている人
その人だけが命を自由に生きることができるその人だけが死を超えて行くことができる
そしてそれこそが唯一と言ってもいいこの地球ゲームの攻略法 そんな気がします
もちろんこれは僕にとっての真実で誰かにとっては違うでしょう^ ^
だからいつも 言うようにあなたはあなたの真実を生きてください
それが何より一番大切なことですから
ワハハ^ ^なんのこっちゃ😆ってなところでおやすみんぐ🌈皆さまもよい夢を✨らぶ💓
Facebook刀根 健 さん投稿記事「サレンダー」とは何か?
「サレンダー」…「降参・降伏する」では、「何」が「何」に「降参・降伏する」のか?
「誰」が「誰」に「降参・降伏する」のか…?
それは、「自我(エゴ)」が、「全体」に降伏すること、だと、僕は個人的に感じています。
僕たちは「自我(エゴ)」で生きいます。
「自我(エゴ)」がなければ、社会生活をトラブルなく進めていくのは難しいでしょう。
「自我(エゴ)」は必要だし、大切です。
でも、この「自我(エゴ)」が様々な苦しみを生み出す根本的な原因であること知っている人は、あまりいません。
では、「自我(エゴ)」とは何なのか?
「自我(エゴ)」とは、僕たちがこの3次元世界を生き残るためにインストールされた「プログラム」です。サバイバル・プログラムです。生き残ること、サバイブすることが目的のプログラムです。
そう、ちょっとショッキングな話かもしれませんが、僕たちが「私」と言っている「私(自己概念)」は、プログラムにすぎないのです、しかも、過去にインストールされたもの。
周囲から認められること、受け入れられること、愛されること、そして、その目的が果たせなかったとき、代わりに何で穴埋め(代替)をするのか…
お金・ステイタス・地位・家・車、ブランド品や、外部的な美しさや若さ、評価や承認、様々な物質的なモノ、あるいは人脈は人間関係など、これらを「持ち物」として保持する生き方をエーリッヒ・フロムは「持つ様式」と呼んでいます。
そうやって「自我(エゴ)」プログラムは自分の外側に幸福を求め、無意識にサバイバルの人生を走り続けます。
エリック・バーン博士(交流分析・TA)はその状態のことを「人生脚本」あるいは「袋の中に入って抜けられない状態(そもそも袋に入っていることにすら、気づいていない)」と言っています。
その「(自我)エゴ」のプログラムから、抜ける、ということ。
私は「自我(エゴ)」ではない、と、「知る」こと。
自我(エゴ)は「私の一部」であって、私のすべてではない、と、知ること。
「私」という、いつも、常に頭の中で「わたしは」「わたしが」「わたしの」と、しゃべってる「自我(「エゴ)」が、もっと大きな「ほんとうの自分(実在・全体)」に、降参、白旗を掲げること。
「南無というのは、捨てても捨ててもついてきおった物乞い(エゴ)が、消えていなくなった心であり、
南無というのは、耳の聴こえぬ者が、立ち聞きをして、「あかなんだ」と諦めた心なり」
(澤木興道)
『南無阿弥陀仏』
南無…サンスクリット語で「ナマス」。
阿弥陀仏…アミダーバ・アミダーユス/サンスクリット語で(永遠の光・永遠のいのち)
「大いなる全体・実在」に「お任せします」という意味です。
「一番根本は何か、というと、ただ一つの実在から生み出されたものである」
(中村天風)
自我(エゴ)が、諦める。自我(エゴ)が、より大きな存在に、自分を「明け渡す」。
それが「サレンダー」ではないかと、思います。
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