Facebook相田 公弘さん投稿記事「急がば回れ」という言葉の由来
もともとの意味は、琵琶湖にて「もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」
と室町時代の連歌師宗長が詠んだのが始まりです。
これは、かつて江戸と京都を結んだ五街道の一つ・東海道の途中にある琵琶湖についての歌です。「琵琶湖を渡るのに矢橋から大津へ出る渡し舟は便利です。
かつて琵琶湖に渡し船がありましたが,比叡山からの突風で荒波が立ち、遭難する事があったので,急ぐ人は逆に橋を渡ったということに由来しています。
Facebook本庄 敦さん投稿記事
「自分を見いだす最良の方法は、我を忘れて他の人のために尽くすことです。」(マハトマ・ガンディー、1869-1948)
https://www.akatsuka.gr.jp/bosco/yamatouta46/ 【心に咲く花 46回 藤袴(ふじばかま)】より
やどりせし 人のかたみか 藤袴 わすられがたき 香ににほひつつ ― 紀貫之
【現代訳】
我が家に泊まっていったあの人の形見なのだろうか。藤袴の花が咲き、忘れ難い香りに包まれていて・・。
心に咲く花 2021年46回 藤袴(ふじばかま)
『万葉集』で、山上憶良(やまのうえのおくら)が「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし)また藤袴 朝貌の花」と詠んだことから、「秋の七草」の一つに数えられている藤袴。
『源氏物語』にも「藤袴」の巻があります。古来、日本人にとても親しまれた花でした。
掲出歌は、『古今和歌集』仮名序の執筆者としても知られる紀貫之(きのつらゆき)の『古今和歌集』の一首です。
茎頂に淡紅紫色の小さな花をたくさん咲かせる藤袴は、日本はもちろん、朝鮮半島や中国など、東アジアでよく見られます。かつては河岸の草地に自生していたものの、近年は護岸工事などの影響ですっかり減ってしまいました。環境省では藤袴を準絶滅危惧種として、レッドリストに載せています。
過度に自らを主張する派手さはないものの、風に触れる立ち姿には品のいい柔らかな風情があり、藤袴は秋の野に欠かすことのできない植物です。
この藤袴のもとに好んでやってくるのが「旅する蝶」アサギマダラです。海を超える蝶として知られ、美しい翅(はね)は国内外の多くの人々を魅了します。1500キロとも2000キロとも言われる距離を飛翔するアサギマダラは、どうして藤袴を好むのでしょうか。
今、藤袴が一面に咲いた静岡県掛川市にアサギマダラが数多く飛翔しています。長距離を旅する蝶にとって藤袴は居心地のいい宿泊所なのかもしれません。
薬草としても知られる藤袴は利尿剤としての効能の他、冷え性や疲労回復にも効くと言われ、入浴剤にも活用されています。アサギマダラの疲労さえも回復させる何かが藤袴にはあるのでしょうか。
藤原定家(ふじわらのていか)や西行(さいぎょう)、良寛(りょうかん)、釈迢空(しゃくちょうくう)、樋口一葉(ひぐちいちよう)ら時代を超えた多くの人々に詠まれた藤袴。
今、糖尿病の予防薬や治療薬としても注目されているのだそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=4x_ntVd_GMc
Facebook相田 公弘さん投稿記事
以前、どん底の時、藁をも掴む思いで、稲盛和夫さんの「生き方」を読みました。
稲盛さんは得度(和尚の資格)。
その後、いろんな和尚さんが著した仏教の易しい解説本を読みました。
その中の一つ、和尚ではありませんが、ひろさちやさんの「仏教が教える こころが穏やかになる話」も読みました。
とても良いお話ですが、はっきり言って長いのでご興味ない人はパスしてください!(^_-)
☆「人生の意味とは ひろさちやのサラリーマン生き方塾
困難こそがいい」
今の世の中は、なかなか困難な時代だといいます。バブルが崩壊し構造的な不景気が続いて、多くの人が、いつリストラに遭うのだろうか、再就職ができるのだろうか、老後はどうなるのだろうか、と不安をかかえて生きています。
しかし、よく考えてみれば、今という時代が、とり立てて困難な時代でもないのです。そして、自分だけが困難な人生でもないのです。困難というものは、なくなることはありません。
いったい困難のない人生なんて、どこに意味があるのでしょうか。そもそも困難のない人生を生きようというところに、問題があるのです。困難こそがいいのです。
苦しみというものは、自分自身で苦しみにしているのです。
仏教でいう「苦」の本来の意味は、「思うがままにならない」ということです。
わたしたちは、---思うがままにならない事を思うままにしようとしたときに、苦しむ---のです。ですから、思うままにならないことは、思うままにならないことだと諦(あきら)めればいい。明らかにすればいいのです。するとそれは、苦にならないのです。「苦しみ」がなくなることはありませんが、---苦しみでなくなる---のです。それがお釈迦さまの説いた教えでした。
人は「生まれ、苦しみ、死ぬ」
サマセット・モームの『人間の絆』という本にこんな話があります。
東方のある王さまが、人間の歴史を知ろうとして、学者に命じて本を集めさせますと、それは五百巻になりました。ところが王さまは国事に忙しくて、とても五百巻も本を読むわけにはいきません。もっと要約するように命じます。
そこで学者は二十年かけて五百巻の本を五十巻に要約して、王のもとに持参しました。しかし、王さまはすでに年をとってしまいました。とても五十巻も読めません。再び学者に要約するように命じました。
学者はまた二十年かけて、わずか一巻に要約して持参しました。ところが、王はすでに、横たわってまさに死に就こうとしていました。
結局学者は、人間の歴史をわずか一行にして、死に逝かんとする王の耳元でささやきました。「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ。それが、人間の歴史でございます」
どんな時代でも、どんなにお金があってもなくても、地位が違っても、人間の本質というものは同じです。 それは、「人は、生まれ、苦しみ、そして死ぬ」ということなのです。
乱暴な言い方ですが、そもそも「人生には生きがいがある」と思っていることが、大間違いかもしれません。人生はつきつめてみれば、「生まれ、苦しみ、そして死ぬ」ということだけでしょう。 わたしたちは、人生に何か大きな意味があると思っています。飢え死にするような人生より、美味いものを食べる人生の方が意味があると思っています。
わたしたちは、一所懸命に働いて、ぜいたくするとか、大きな仕事をするとか、出世するとか、それが値打ちのある人生だと思っています。
しかし、仕事にどれほどの価値があるのでしょうか。
この社会では、「世の中の役に立つ」ことが、大きな価値のようになっています。
この資本主義社会では、大量生産・大量消費で資源の無駄遣いをしています。期限が切れたコンビニのお弁当は、みんな捨ててしまうように、せっかくの資源をムダに捨ててしまう社会です。資源・エネルギーの無駄遣いをして、環境汚染を進めて地球を痛めつけています。役に立つというのは、そういうことを活発にやっていることにもなります。
人生に値打ちがあるのか
インドを旅しますと、路上生活者がいっぱいいます。彼らは路上で生まれて、路上で育ち、物乞いをして、路上で死んでいくのです。
そういう人々を見ると「こういう人たちにとって、生きている値打ちがあるだろうか」と、つい思ってしまうのが、誰もが持つ正直な感想でしょう。
けれども、そう思った途端に、はっと気がつきます。では、自分の人生と、この人たちの人生とでは、いったいどれだけ値打ちに差があるというのでしょうか?
インドの路上生活者の人生に値打ちがないとしたら、私たちの人生だって、値打ちなどないのです。
生まれてすぐに死んでしまう子どももいる。すると、何のために生まれてきたんだろう、生きる値打ちがあったのだろうかと思います。では、百歳まで生きた方が人間の値打ちがあるのでしょうか?
わたしたちは元気に仕事をして、長生きをして安楽な生活をすることに、価値があると思っています。そして、知らず知らず、他人と比べてわたしのほうが値打ちがあるのだと思っています。そういう考え方そのものが、慢心だと思うのです。
ほとけさまは、「すべての衆生は、わたしの子どもだ」と言っておられます。『法華経』には「この三界はわたしのものなんだよ。その三界の一切の衆生はことごとくわたしの子である」(譬喩品(ひゆほん))と説かれています。
ほとけさまからみれば、すべての衆生が等しくわが子です。路上生活者であろうが、生まれてすぐに死んでしまう子であろうが、ほとけさまからみたら、どんな人も等しい価値を持っているのです。
徹底して自由人であれ
わたしたちは、生きている間にしか、人生に値打ちがないと思っています。これはまさに、宗教を持たないから、そういう考え方になるわけです。
「死んで花見が咲くものか」とか、「二度とない人生だから」とか「生きてる間が花よ」とか言いますが、生きてる間にしか価値をおいてないのが現代人です。
死んでしまえば価値がなくなるというわけです。死ねばスクラップ同然で無価値というわけです。自動車は走れる間だけしか、値打ちがありません。動かなくなれば、まったく価値がありません。それと同じです。
生きている間にしか、人生に値打ちがないという思想は、かけがえのない人生を、「商品価値」としてとらえることです。
商品価値とは、別の言い方をすれば「機能価値」です。人間は「働く」機能で評価されます。働けなくなったら、価値が下がります。年齢が高くなるほど次第にゴミに近づいていって、定年退職したら粗大ゴミになるというわけです。
わたしたちは、人生を、そういう価値観でとらえているのではないでしょうか。
この人生を、商品価値でとらえていると、自分を商品として高く買ってもらうことが、幸せな生き方と思ってしまいます。さらには、自分自身を商品として、会社に売り渡すことにもなるのです。
自分という人格そのものを、会社に売り渡してしまうと、自分の人生はまったく会社に従属してしまいます。そうなると、会社がどんなに悪いことをしても、逆らうことはできなくなります。
会社に見捨てられることを恐れ、リストラされたらどうしよう。妻子がいる、子どもの教育もある、家のローンもあると、先の不安をかかえています。仕方がないから、会社に従属し続けることになります。
それでは、まるで「会社の奴隷」です。
自分を商品として売り渡してしまったら、幸せな生き方はできなくなります。ほんとうの自分を大事にするのであれば、自分自身を商品として売り渡してはいけないのです。
会社を離れて、万が一、食べていけなくなれば、そのときはそのときだと、腹をくくればいいのです。腹をくくったときから、道が開けてくるのです。
ほとけさまの教えは、
---奴隷になるな。自由人であれ---
ということです。お釈迦さまが、わたしたちに教えられたことは、徹底して「奴隷になるな」ということでした。
自分らしく生きるとは
だから、会社から離れて自分という存在をうち立てることです。「わたしはわたしなんだ。会社はわたしの労働する時間に対して給料を払っているだけで、会社とわたしとは違うんだ」という意識にならなくてはいけません。
自分らしく生きるとは、自分の権限内にあることを努力すればいいのです。
自分の権限の外にあるものは、努力したって仕方ないのです。
音楽家がうまく歌おうというのは、それは自分の権限の中で努力できることです。しかし、聴衆の拍手喝采を浴びようとするのは、自分の思うままにならないことなのです。カメラマンがいい写真を撮ろうというのは、自分で努力できるけれど、入賞しようというのは、これは思うままにならないことです。
わたしはよく講演するのですが、自分がよかったなと思える講演をしようとは思います。でも、聴衆が喜んでくれるようにとは思いません。それは聴衆の勝手だからです。
サラリーマンだったら、上司に気に入られるかどうかではなく、自分でやれる仕事だけをやればいいのです。デパートの販売員は、お客さんによく説明すればいい、それは自分の努力でできることなのです。しかし客がそれを買ってくれるかどうかは客の勝手です。
だから、自分なりに一所懸命に仕事をして、もしもクビになるときは、クビになったでいいのです。そうタカをくくって仕事をすればいい。クビになったら困ると不安に思っているほうが、苦痛なのです。
歯医者に行く前は、歯を削られる恐ろしさを思うと行きたくない。でも、行ってしまえば、なんだこんなものかと思うのです。
ある人が資金繰りができなくて、手形の不渡りを出しました。それまで会社倒産の危機で何とか不渡りを出さないようにと金策に駆けずり回って、血尿まで出て死ぬ思いだった。しかし、会社が倒産してしまったら、「なーんだ、こんなもんか・・・」と逆に明るくなったという体験を聞いたことがあります。
人生は無限の中のヒトコマ
インドで、食うや食わずの路上生活者の人々を見るとそんな生活をするくらいなら、泥棒して捕まって刑務所に入ったら、さぞかし楽な生活ができるのにと思ったこともあります。でも、彼らはそうしないのです。
生活に困っても、悪いことをしないのは、インド人にとって、この世は輪廻転生のわずかヒトコマだからなのです。
インドの人たちは、この人生を一回限りではなく、無限に輪廻すると思っています。
だから、今の世で泥棒をやったら、次の世は地獄に堕ちると考えています。地獄に堕ちればとてつもない長い間、苦しむことになります。わずかな安楽のために、一兆六千二百億年という長い苦しみを受ける。それでは割に合いません。だから、彼らは悪いことをしないで、慎ましやかに生きているわけです。
「輪廻転生」とは、死んで生まれることを、無限に繰り返すわけです。
無限の人生があるのですから、無限の可能性があるわけです。ところが、「この人生だけがすべて」という考えに立つと、人生を商品価値として見るような生き方になってしまうのです。
徹底した自由人であるためには、人生は一回限りではなく、無限に輪廻があるのだということを知らねばなりません。
倶会一処(くえいっしょ)
『阿弥陀経(あみだきょう)』に倶会一処(くえいっしょ)という言葉があります。
「倶会一処」とは「ともに一つのところで出会う」ということです。「一つのところ」とは、ほとけさまの浄土です。
ほとけさまの浄土は、宗派によってそれぞれ呼び方が違います。浄土宗や浄土真宗では「極楽浄土」、真言宗では「密厳浄土(みつごんじょうど)」、日蓮宗では「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」と呼びます。
呼び名は違いますが、それぞれがほとけさまの浄土なのです。
この浄土という考えは、わたしたちはこの人生だけでおしまいではない、わたしたちは死ねば、ほとけさまのもとに生まれることができるということです。
ある女性に聞かれました。
「お浄土が倶会一処というのは、ほんとうですか?」
「ほんとうですよ」
「それじゃあ、わたしはお浄土なんか行きたくありません」
わたしは、その方がどうしてそんなことを言うのか、ピンときました。
「いじめられたお姑さんに、またお浄土で会わなくてはいけないのだったら、わたしは地獄に行きたい」
彼女はそう言うのです。それで、わたしは言いました。
「では、あなたは地獄に行けばいい。地獄では、お姑さんには会わないけれど、同時に旦那にも会えないよ。自分の子どもにも会うこともできない。親しいお友達にも会うことができないよ」
「どうしてですか?」
「あんな人には会いたくないと憎む心が、まさに地獄の心です。だから、あなたの堕ちる地獄は、孤独地獄なのです。誰もいないところで、一兆六千二百億年じっといるんだよ」
そう言ったら、彼女は真っ青になりました。
この娑婆世界では、いろいろな縁で、ともすれば憎しみあう関係になることもあります。二度と会いたくない、という人もいることでしょう。
しかし、それは互いに、ただ縁があって対立したのです。縁によって対立しているということに気がつかないで、人を恨んだり憎み続けるとしたら、その心がまさに地獄なのです。
けれども、浄土とはそうした縁を超越した世界です。死んでお浄土へ往けば、対立した者同士が再会して、「あのときはつらかったね」と許しあえる仲になるのです。
互いに許し合える心が、お浄土と言うことができます。許し合えるのは、縁というものがよくよくわかっているからなのです。
美しい思い出とは
人生とはこの一回限りだけではないのです。無限の人生の繰り返しがあります。また別の言い方をすれば、お浄土があるのです。
そうすると、人生の意味は世の中に役に立つとか、楽しいことをやるとか、そういうことではないということになります。
わたしたちがお浄土に往って、もっていけるものがあるとしたら、それはなんでしょうか。それは形あるものではありません。財産やお金、地位だとか名誉だとか、そんなものは持っていけません。
お浄土に持っていけるものは、
---この世の中での美しい思い出---
ではないでしょうか。しかし、旅行してきて「あんなところへ行ったよ、景色がすばらしかったよ」というようなものが、美しい思い出ではありません。
苦しんで、つらくて、涙を流したことが美しい思い出になるのです。この世の中で苦しみのたうちまわって、傷つきあって生きたこと、それが美しい思い出になるのです。
イエスは、有名な「山上の垂訓」でこう言っています。
「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。
幸福(さいわい)なるかな、悲しむ者。その人は慰められん。」(マタイによる福音書)
幸せなのは、貧しい者、泣く者である。神の国においてあなた方は必ず慰めを受ける。そうして、不幸なのは、今、笑う者である。あなた方はすでに慰めを受けているから、というのです。
イエスのこんなパラドックス的なことばが、真実をついていると思うわけです。かといってわたしは「苦しみなさい、泣きなさい」ということを言っているのではありません。
楽しむときには、楽しめばいいのです。笑うときには、笑えばいいのです。そして、くるしまないといけないとき、苦しめばいいのです。
今こうして生きていて、なんでもいただいたものを、あるがままに受け取ればいいのです。
自分の本来の姿とは、ほとけさまの赤ん坊なのです。仏子です。
ほとけさまは、「この三界の衆生は皆、わが子なり」と言われています。蛙の子は蛙であるように、仏の子は仏なのです。
だから、わたしたちは仏なのです。無限の価値を持っているのです。
でも、まだ赤ん坊なわけです。赤ちゃんは赤ちゃんなりの楽しみを味わえばいいのです。
わたしたちは高度経済成長の時代や、バブルの時代に浮かれきっていました。そのような体験は、美しい思い出になることはありません。
この不況で停滞して、不安で苦しんでいる今こそ、美しい思い出をつくることができるときなのです。
ひろさちやさんプロファイル
1936年、大阪に生まれる。東京大学文学部インド哲学科を卒業後、同大学院博士課程を修了。気象大学校では、講師、助教授、教授として20年間教壇に立つ。宗教思想の研究、講演など、仏教を中心に宗教をわかりやすく説き、多くの人々の支持を得る。現在、大正大学客員教授。主な著書に、『仏教初歩』(すずき出版)、『ひろさちやの般若心経88講』(新潮社)、『こころの歳時記』(徳間書店)、『タテマエとホンネ』(講談社現代新書)など。
(2004年7月現在)
0コメント