http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2010_07.html 【俳句の「常のもの」 ―日本の伝統的芸能と「第二芸術論」―】より
伊藤 無迅
はじめに
このほど俳句雑誌「炎環」で、「第二芸術」論に関するアンケートを行った。その中である俳人から「桑原氏の方法は他のジャンル(書や絵画等)にもあてはまる、すべてのジャンルに第二芸術論は可能だと思う」という意見が寄せられた。この意見は、「第二芸術」論が単なる俳句・俳壇批判でなく、わが国の文化論の側面をもつこと、さらに論の根底(作者の心根)に、敗戦という壊滅的破局に至った我が国の文化に対する八つ当たり的哀惜があること、の二点を感じての意見ではないかと思っている。この思いは筆者がこの数ヶ月、幾たびか「第二芸術」論を読み返し、漠然と抱いていた思いと一致するものであった。その点で、やはり同年(1946)に発表された坂口安吾の『堕落論』と同質のものではなかったかと・・・・。両書とも破滅の道をひた走った軍部への憤怒、それをなすがままに見ていた国民への憤りと愛惜・・・・。こういうものが背景となり、湧くように書かれたものではなかったかと・・・・。それにしても作者の個性が色濃く出た二冊ではあったが。
これを契機に今回、管見ではあるが他のジャンル、特に日本の伝統的な芸能である日本画と書および、いけばな(生花)が、近代・現代にどう立ち向かって来たかを探り、翻って俳壇の今後の在り方に関する、若干の提言に辿り付けないかと筆をとった。
一. 日本の伝統的芸能と近・現代
日本の伝統的芸能と呼ばれるものは、和歌・書を除き、鎌倉・室町時代に生まれたものが多い。その長い歴史の中で、存亡の危機に瀕するほど、時代の風を激烈に受けたターニング・ポイントが二度ある。明治維新と戦後(第二次世界大戦)である。いずれも欧米の文化が、国家主導、あるいは占領軍主導で怒涛の勢いで入った時である。日本の伝統的芸能は、この二つのターニング・ポイント即ち、近代化と現代化に如何に対応してきたのであろうか。その対応如何が、その後の盛衰に決定的な影響を与えている筈である。これらの足跡を辿りその教訓をもって、今後の俳壇のよすがとなればこれに越したことはない。
なお「伝統芸能」という言葉の定義は、「西洋文化の影響を受けずに、現在まで受け継がれている伝統的な日本の芸能」(インターネット・フリー百科事典『ウイキペディア』より)という解釈も存在するようである。筆者がこれから述べる内容は「西洋文化の影響を如何に受けて対応したか」であり、「伝統芸能」の言葉の定義上から少し外れるので、日本画・書・いけばなを、ここでは「伝統的芸能」と呼ぶことにする。
二. 日本画における近代と現代
二.一. 近代日本画の宿命
明治期の日本画壇は日本画・洋画ともに守旧派、開明派に別れ複雑な様相を呈していた。特に日本画は官を巻き込んだ抗争に発展し、清新な印象派を擁す洋画の盛隆に比べ、とりわけ岡倉天心の率いる開明派は、ほとんど仮死状態まで追い込まれた。明治期における近代日本画の宿命は、『現代日本美術全集3』(集英社)に詳しい。
近代日本画の宿命は世界性に傾けば日本画の特性を失い、だからといって古い伝統を固守すれば近代性から絶縁される。絶えず襲ってくる西洋の新鮮な感覚を前にして、しかもいずれにも徹底できない矛盾ゆえに、危機感をいだかされていた。(『現代日本美術全集3』(集英社)吉村貞司「菱田春草の生涯と芸術」より)
指導者天心はこの状況を招いた元凶は、古い伝統の殻から一歩も出ようとしない守旧派の頑迷な保守性にあると見ていた。
二.二. 印象派と朦朧体(線との格闘)
日本画の描法は大別し、輪郭線を描かない没骨(もっこつ)と、輪郭線を用いる鉤勒(こうろく)があり、日本画は伝統的に没骨を捨て、輪郭線を用いる鉤勒の描画法を取ってきた。しかし明治中期、西洋美術からもたらされた印象派は、形を否定し光と空気によって描くという、日本画とは正反対の表現法であった。天心はこの動きを見て、日本画が洋画に伍して近代を生き抜くには、全く新しい人材を一から育てる必要性を強く感じていた。天心は意を決し、東京美術学校とは別に日本美術院を開校し人材の育成に入った。これに応えたのが、大観・春草達で果敢にこの命題に挑戦した。しかし成果はなかなか生まれず、逆に線を使わない彼らの作品は、守旧派から猛反発を喰い、その没骨描法は朦朧体(朦朧とは吉原の駕籠かきを揶揄した言葉で、インチキ・贋物の蔑称でもあった)と揶揄された。このため画商からも敬遠され、経済的にも逼迫する事態となった。
二.三. 外遊
窮地に追い込まれた天心以下は、以後、頻繁に外遊する。この頃の三人は、生計不如意状態にも拘らず、実に気軽に外国に出かけている。訪問先の各地で展示会を開き、絵を売りかつ西洋の美術をつぶさに見て回っている。当時にあってのこの行動力は、国際感覚豊かな指導者・天心の影響によるものであろうが、目を見張るものがある。以下は明治三十八年、欧州より帰国した大観・春草の帰朝講演の内容である。
今回の洋行で得たのは非常な失望であり、ラファイルロの「マドンナ」さえ侮蔑の意味の失望しか感ぜず、それにかわって大いなる自信を得た。ヨーロッパ全体を見渡して、彼らの美術はありがたがるようなものではなく、写実に走りすぎ、フランスのごときは写実でふぬけになり、その反動でかえって東洋を学ぶ傾向にある。西洋が追求している写実がそれほど必要なものであろうか。なるほど写実は美術の土台であるから、大切にちがいないが、もっとより多く大切なものがあることを忘れてはならぬ。それは精神である。西洋のいわゆる名匠の傑作の前に立ち、精神の不在に驚くのは私だけではあるまい。洋画の小川千甕が西洋美術の精神の欠如に傷ついて帰国し、日本画に転向した。大観・春草もまた精神の不在に傷つけられた。それは虚無に蝕まれて疾病になるにひとしい。(『現代日本美術全集3』(集英社)吉村貞司「菱田春草の生涯と芸術」より)
帰朝講演という幾分ハイテンションな場であることを差し引いても、現代の三現主義(現場・現物・現実)に基づいた、実に自信に満ちた講演内容である。十九世紀後半、宗教画・肖像画を中心に発達してきた西洋美術界において、特に印象派が広重・北斎等の浮世絵に大きな影響を受けた事実は、現在でこそ周知である。しかし明治という舶来崇拝の風潮の中で、これだけ西洋をこき下ろした日本の芸能ジャンルは、彼らを除いては皆無であろう。さらに同年二人が連名で作成した「絵画について」と題するパンフレットには、「芸術は人格の表現であって、技術はその手段にすぎない。日本にあってはこれほど平凡な思想はないのであるが、その平凡ささえ気がつかないほど、ヨーロッパ絵画の精神の不在に傷つき」とあり、正直落胆しているのである。当時の日本画壇と俳壇では、置かれた状況は異なるであろうが、病床の子規が説いた写生と、現地で西洋美術を実際に見た大観・春草の写生(写実)とでは、ジャンルによりこれほどまでに違った捉え方がされていたとは、驚くばかりである。
二.四. 「色的没骨」
大観らの朦朧体は、次の飛躍へ至る大きな関門であった。伝統的な描法である線を放棄し、朦朧画と嘲笑されたものを「輪郭は絵画発達史上の残礎であり、古人既に色線を利用し後世の無線描法のために、早くも一段階を設けし(中略)又一方には東洋画中没骨描法の発現あり、(中略)今更に之に加ふるに色的没骨の一段を以てせば今日描写の術に於ては、則ち至れる」(前述パンフレットより)と次のステップへの目標を定めている。これは西洋の印象派が客観主義の袋小路で写実の固い枠を突き破りながらも、大観・春草に思想の欠如を見抜かれた事情に似ている。また当時の日本洋画界もしかり、欧州直輸入の自然主義の呪縛から逃れられず停滞していた。この間、天心達は十九世紀洋画の奔流である自然主義を受けとめつつも追随せず、洋画に対抗する新しい日本画を必死で模索していた。
大正元年、大観は文展に「瀟湘八景」を出展する。この絵は同一場所の一日と一年の時間の変化を描いている。この手法はフランス印象派のモネも、「ルーアン大聖堂」と題された一連の連作などで好んで用いている。この二人の作品には、無意識のうちに同じモチーフで光を描くと言う共通点があった。このことは、まさに当時の西洋美術界の最新画法が、日本の伝統画と同じ水準にあったことを物語っていよう。
二.五. 総括
日本画の最初で最大の危機は、西洋画が現れた明治期にあった。日本が国家を挙げて欧化主義に走った時代に、仮死状態にあった日本画を救ったのは、天心・大観・春草である。頑なに伝統に篭ることなく、その現実を受け入れ打開する姿勢がこの危機を救ったと言える。しかし無条件に西洋美術を受け入れたわけではない。彼我の実態を自らの目で確認し、納得したものを受け入れている。彼らの根底にあったものは、明治人の日本文化への誇りではないだろうか。気骨といってもいい。そのことを如実に物語っているのは、前述パンフレットの言葉、「芸術は人格の表現、技術はその手段」である。欧風文化絶対の風潮に流されることなく、確とした日本における芸術への考え方を持ったこの言葉は、国粋主義者とも呼ばれた天心の影響が強い。しかし天心は単なる国粋主義者ではない、それは彼の生涯を見れば分る。交友・著作・行動どれをとっても、当時第一級の国際人であった。指導者・天心を得た日本画壇は、他のジャンルに比べ幸運であったといえる。現在、日展における日本画の迫力は洋画を凌ぐものさえ感じられる。明治期に消えかけた日本美術院は、その主催する院展と共に脈々と現在まで続き、著名な画家を輩出し続けている。因みに現在の日本美術院長は東山魁夷氏である。
三. 書における近代と現代
三.一. 「書は非芸術」
「俳句は芸術でない」と桑原武夫にこき下ろされた俳壇と同様、書壇でも同様なことが昭和初期に起きている。正確には起きかけたのである。しかしこちらは、あの折口信夫の一喝で、「第二芸術」論のような大論争には発展しなかった。以下はその顛末である。少々長いが、中島司有著『書の世界』(出版芸術社)から引用する。
国学院大学の松尾理事長から、最近こんな話を聞いた。
パリから帰って来て間もない頃の画家伊原宇三郎さんが、研究室へ折口先生を訪ねて来た。伊原さんは今宮中学からの先生の教え子である。先生はまだ講義中か何かで、ちょうどそこに居あわせた松尾さんを相手に、伊原さんは「書は芸術ではない」という論を熱っぽく語り始めた。松尾さんは、なぜ自分がこんな話を聞かせられなければならぬのかといぶかしみながら、パリ帰りの気鋭の画家の「書は非芸術」の論を聞いていた。そこへ、折口先生が帰ってきた。気づかないで話しつづける伊原さんの論に、しばらく耳を傾けていて、「伊原」と声をかけた。そういう時の先生は、大体、怒っているのである。「君の言う通り、書は芸術ではない。書は紳士の学門なんだ」と、一気に切って落とすように言ったという。
この引用文は孫引きになるが、短歌誌「人」の主宰岡野弘彦氏が「人」誌上に書かれたものであるという。
まことに興味ある文章である。伊原宇三郎は1894年徳島に生まれ、ピカソに憧れ洋画家を目指した。1925年から4年間、仏国に留学し1929年(昭和4年)に帰国している。もし伊原宇三郎がこのとき折口信夫に会えず、「書は非芸術」論を公表しておれば、俳句より一足早く昭和4年に、書の世界で「第二芸術」論の論争が華々しく展開されていたかも知れない。今となっては、批判の内容を知る術もないが、当時の気鋭の洋画家が展開する「書は非芸術」論を是非聞きたいものである。(後述するが明治15年にも、一洋画家により同様の論争があった)
三.二. 「書は学門」
前述した『書の世界』の著者、中島司有氏は書家であるが、「書道家」や「書道芸術家」と呼ばれることを嫌う。その理由は「いわゆる書道家の狂信性や書道芸術家の独善性が、正しい書の世界を理解しようとする者を、屢々おしのけている」(『書の世界』より)ように見える現代の書に、少々疑問を感じていたのである。このため書の世界を、もう少し科学的に「学門」として学びたいと考えていた時に、前述の岡野氏の文章に出会ったのである。さらに中島氏は「書が紳士の必須の教養であることは、源氏物語などにもよく示されている。そして、今も中国では書を専門にする人などはなく、紳士の学門の中のものとしてある」(同書より)事実を知り、咄嗟の時に、ぴたりと正しい言葉の言える、折口信夫の認識の深さと正しさに驚嘆している。
三.三. 「道」と「芸術」と「学門」について
我が国には古来、外来の技術や知識、あるいは製品を、一端はそのまま受け入れるが、暫くしてそれ以上の付加価値をつけるか、あるいは日本人に合うものに作り変えてしまう能力がある。この能力を「草化」とも言い、他の民族に卓越しているといわれている。漢字を瞬く間に「やまとことば」に組み込み、さらに仮名文字を考案したのもこの能力によるものであろう。近年は、もっぱら工業製品面でこの能力が発揮され、多くの富を我が国にもたらしている。
さて、「道(どう)」という言葉がある。日本の芸術論の古典とも目されている世阿弥の『花伝書』には、能楽道とも言える能楽論が記されている。また世阿弥の『花鏡』(応永三十一年、1424)には「一切芸道に習々覚してさて行道あるべし」とあるように諸芸には諸芸の行くべき道があると記されている。この「道」の概念はすでに、『源氏物語』の「雨夜の品定め」(箒木の巻)の段にこれを示唆する記述がある。そこでは書に関する鑑識眼に触れた記述があり、基礎の確かな筆跡と見かけだけの筆跡の違いや、「木の道の工匠」(細工師)に関する記述では「臨時のもてあそびもの」と「うるわしき調度」とを区別し、本物への鑑識眼を持つことの重要性を述べている。次いで稽古による基礎的「型」習得の重要性、そして型を研鑚し本物を追求する匠の存在についても言及している。その後、この概念は五〇〇年を経て世阿弥により、その著作『花伝書』で「時分の花」、「誠の花」として体系化される。いわゆる東洋芸術の大きな特徴である「型」の体系化が、我が国で始めて成文化されたのである。因みに西洋の芸術には「型」という概念はない。『花伝書』における「誠の花」とは、伝統の型(不易)を指し、「時分の花」は一時的なかりそめのもの(流行)を指している。さらに『花伝書』では「物数を究むる心、即ち花の種なるべし」とあり、稽古に稽古を重ねると「花の種」が生まれ、その種から「誠の花」が咲くと説いている。また稽古は「ものまね」であり、ひたすら先生を真似ることであるという。さらに世阿弥は「稽古は強かれ、情識は勿れ」とも説き、稽古に精進せよ、しかし自分勝手はいけない、と自己流を厳に戒めている。以上のように日本の「芸道」の基本的な考え方は、稽古に継ぐ稽古で伝統の型(基礎)を身に付け、その上に立って始めて新たな工夫(新境地、或は個性の表現)が可能になる、という構造であることが分る。
次に「芸術」であるが、芸術という言葉は意外と新しく、明治期に西洋の「Art」を訳した言葉として誕生した。しかし翻訳の際、なぜ「芸」や「芸能」あるいは「芸道」という既成の言葉を当てなかったか疑問が残る。「Art」はそもそも「医術」の意味もあり、その連想から「術」をとり「芸術」に翻訳したものであろうか。あるいは訳者が、前述した日本の芸能(芸道)への造詣が深く、西洋の「Art」とは極めて異質に見えるため、敢えて新しい言葉「芸術」を造語したのであろうか。東洋的な「型」の存在、そして極めて閉鎖的な師弟関係を通して身に付ける「芸能」・「芸道」は、西洋の「Art」の翻訳語にはそぐわないと判断したのであれば、明治人は西洋の「芸術」を、端(はな)から日本の「芸能」や「芸道」とは別のものと認識していたことになる。そう考えると「第二芸術」論の根は、意外にもこの辺りにルーツがあるのではないだろうか。
次に「学門」であるが、前出の中島司有氏は、「道」「芸術」「学門」について、いみじくも次のように言っている。
(現在の書は)「書道」という宗教的なものに替えてしまったり、「書芸術」という方向に向けてしまったりして、書の本質から離れたものだけを大切にしている(『書の世界』より)
このため中島氏は「書の世界」を改めて科学的に学びたいと考えているのである。同様なことは数年前に他界した書壇の重鎮、村上三島の著書にも垣間見える。どうも「道」とか「芸術」は「学門」的視点から見ると、本質を大きく外れることもあるようである。
三.四. 書と近代
前後してしまったが、書における近代は書と芸術、あるいは書と美術に関する論争から始まっている。書は「読み書き算盤」の言葉が示す通り、日本人の基礎的修養である「お稽古ごと」として生活と一体化しており、いわゆる西洋的「芸術」とは一番遠いところにいた。このため明治から昭和にかけて、何度か「書の非芸術論」が展開された。このためか、西洋美術の影響を受けた本格的な活動を開始するのは戦後となる。まさに「遅れて来た芸術」である。最初の「非芸術論」論争は、明治15年に起きた「書は美術ならず」論争である。この論争は、同年に開かれた勧業博覧会に、洋画家小山正太郎が「書は美術ならず」と主張し、書の出品に反対したことに始まる。これに対し、当時東京美術学校長の岡倉天心が反論した。反論は「書は文字の大小、配列、形を工夫し美を意識するものであるから立派な美術である」とするものであった。これに似た話は文展(文部省美術展覧会)にもあり、当初は書の展示がなく絵画・彫刻が主体であった文展に、書壇が強く働きかけ、ようやく書の出展が可能になった。この明治期の二つの出来事と前出の洋画家伊原宇三郎の話は、明治から昭和初期にかけての「書」の微妙な位置付けが推測できる興味深い話である。このことについては、後にまた触れたい。その後、近代の書は明治人によって以下の三つの面で成果を見ている。
第一は、西洋をも射程に入れながら東アジア的表現の質を最大限展開した副島種臣等の巨大な表現の営み、第二は日本語の中に入り込んだ西洋的な質を書に採り入れ、表現した画家・中村不折、俳人河東碧梧桐の表現、そして第三には、国民的な書字の水準を近代化した日下部鳴鶴等の表現と運動です。(石川九楊著『書に通ず』、新潮社より)
その後、会津八一が自著『東洋文芸雑考』で「書は文字の美的工夫」であると発表し、これにより書は「規範+美的工夫」の考え方が広がりを見せる。この考えは戦後、後述する井島理論によりさらに推し進められることになる。
三.五. 書と現代
京都大学の西洋美術学者・井島勉は自著『書の美学と書教育』で「書は文字の美術」論を発表し、書は造形芸術であり美術の一種であると明確に位置付けた。しかしこの論は井島が伝統書家との付き合いがないままに、前衛書家との議論だけで理論化した点と、書の美を西洋美学の枠内で理論づけしたため、やはり京都大学の吉川幸次郎(文学部)あたりから、書の原点である「言葉・文字の視点」が欠落しているとの反論があった。しかしこの反論も強いものでなかったため、井島理論は当時の前衛書家を励ます思想的なバックボーンとなり、多くの前衛書道を輩出させた。そして結果的にこの井島理論が、現在の書道界の中心的な理論となり、現在の書壇の二大潮流、伝統書家と前衛書家の流れはこのときから不動のものとなった。しかし井島理論は現在でも賛否両論があり、縷々論争が繰り返されている。井島理論は書の表現面で大きな変化を与えた。次の比田井天来と会津八一の書をめぐる石川九楊氏の文章は、これを如実に物語っている。
書が言葉を書くことに主律されていれば、当然にそれは二折法か三折法に従って書かれ、これらの形状(比田井の書を指す)はいずれも出現するはずがありません。つまり、ここでは、(中略)言葉が書かれているのではなく、速度感や力動感そのものが書き込まれているのです(中略)、ここにあるのは書という衣裳をまとった、速度感と力動感の表現―タッチとストロークの表現に外なりません(中略)書道家・比田井天来と歌人・会津八一の書はちょうど対照的です。比田井は文の表現に悲観的であり、会津八一は書の表現に悲観的です。(中略)書がこれまで蓄えてきた表現を前に進めようとすると、書ではなくなってしまうという、不思議な背理の段階を迎えた表現、それが現代という不思議な時代の表現です(中略)現代に入って書と文とは完全に背き合うようなそぶりを見せています(中略)このことは書が表現の価値を圧し上げようとすると、書であることからそむく背理の段階、危険な段階に至った表現である。
(石川九楊著『書に通ず』、新潮社より)
比田井天来(1847~1939)は、副島種臣の書から出て戦前の書壇で活躍した。井島理論の信奉者で従来筆法の枠を越えて書の表現可能性を追及し、現代書のひとつの到達点とも言われている。因みに書道家という職業が生まれたのもこの頃である。(それまでは書を職業にすることはなかった)一方、歌人・会津八一は能書家として知られているが、八一の書論、あるいは書に対する考えは単純で、端的に言えば「文学に奉仕するのが書」とするところが見られる。文・言葉を離れ、書の表現力に主体が移った比田井の書と、八一の書は対極をなしている。
三.六. 戦後書
前述したような危険な段階に至った現代書を、さらに一歩進めた書が戦後書である。従って戦後書は敗戦により起こった書ではなく、前述した矛盾を孕んだ書活動の継承(矛盾打開)である。この動きは、従来の書の概念を破る二段階の展開を示す。再び石川氏の文章に拠る。
漢詩や和歌を書いた時に、その筆触に力や速度の表現が伴うという文と書との伝統的な関係を、速度感や力動感を表現するために漢詩や和歌を書くという転倒した段階の書、さらにこれを拡張して漢詩や和歌に擬態することさえやめた段階の書(石川九楊著『書に通ず』、新潮社より)
前者が伝統書と呼ばれるもので、後者が(戦後)前衛書である。平たく言えば、どちらも従来書の概念である言葉や文字からの従属関係を断ち切り、書の表現を優先するものになっている。
三.七. 総括
書におけるターニング・ポイントは明治期よりも戦後にある。特に筆者の考えでは、井島理論への論争が不完全燃焼し、未消化に終わったことが決定的な意味を持っているように思う。書は発生以来、中国においては三千年、我が国においても千三百年の長いあいだ、言葉・文字と共に歩んできた。現代に至り、書は西洋美術の影響下で、書単独の表現美をより優先する姿勢に変わって来た。書き手側に立った姿勢から、見る側にその視点を変えたのである。すなわち書的側面をより主張するため、言葉・文字から自立することを目指した現代書へ、さらに言葉・文字から完全に自立し、書の表現だけで現代の言葉にしようとする戦後書へ展開したのである。石川氏も述べているように「書が言葉の芸術であり、文学であることを見失ったところに展開する戦後前衛書や戦後書は、今後克服されていかねばならない」(石川九楊著『書に通ず』)のである。書はいったい何処へ行くのであろうか。
四. いけばなにおける近代と現代
四.一. いけばなと近代
明治維新という大きな政治体制の転換は、それまで繁栄を極めてきたいけばなを一挙に衰退させた。その主たる原因は、いけばなを支えていた武家や商家の没落であった。特に東京の衰退は激しく、江戸時代に名をなした流派・家元は、その看板を捨て他の職業に移るか、旧体制が残る地方へと移住した。いけばなが復興するのは、新しい政治体制が固まり、新興中産階級の生活が安定する明治も中期以降となる。大正に入ると欧風化は徐々に日常生活にも入り込み、いけばな界にも西洋のフラワー・デコレーションの影響を受けたものや、花材に洋花が登場してくる。またラジオの「いけばな講座」が人気を集め、婦人雑誌でもいけばなの紹介が急増した。このため新興ブルジョア階級の子女を中心に、いけばな愛好者が急増していった。このいけばなのユーザー層変化は、いけばなの目的自体を変化させた。それまでの中産階級子女の修養を目的としたものから、西洋美術の影響を多分に受けた教養(芸術指向)を目的にするものへと変化していった。昭和期に入ると、若い作家達の間に、近代的な理念でいけばなをとらえようとする「自由花」が出現する。例えば山根翠堂は「真・善・美」の世界表出を提唱、伝統的な束縛を排し、花材に自己を埋没させるという真生流を創流した。また勅使河原蒼風も、より芸術的な感性を重視した造形的な表現を提唱し、草月流を創始した。他に露伴・漱石などの文人達の支持を得た西川一草亭などがいた。これらの作家たちは、自流の雑誌を発刊しその成果を発表しあった。これに刺激された総合誌や新聞も評論記事を頻繁に掲載するようになり、一大いけばなジャーナリズムが出現した。中には「新興いけばな宣言」のように、西洋の造形理念をそのまま適用した「一切の植物的制約を斥ける」など過激なものも出現した。このような新しい近代化の運動も、昭和12年からの戦争で中断状態となった。
四.二. いけばなと現代
戦前・戦中、自由を抑圧されていた前衛美術運動は、敗戦で一気にそのエネルギーを爆発させ各方面に飛び火した。いけばなも戦前の「自由花」運動が未消化であった反動もあり、若手作家達がこの美術運動に呼応した。周知のようにこの運動は当初、アヴァンギャルドのイデオロギーに支えられていたが、芸術上の前衛か、政治上の前衛かを問う運動となる。このためいけばなでも、「封建的な家元制度の否定」や、「流派より個性的な個人活動の重視」という運動からスタートし、伝統的ないけばなのもつ自然観・季節感などを否定した新しいいけばなを目指した。この運動は新しい素材感を生み、従来の植物以外に鉄・石・石膏・プラスチックなどの無機物素材を採用、素材の拡大をもたらした。この自由な表現は、西洋美術の考え方や手法をいけばなに持ち込み、実験することを可能にし、いけばなを床の間や応接室といった室内から解放、その場を広く屋外に求める空間芸術へと発展していった。いけばな界の面白いところは、これらをリードした中山文甫・勅使河原蒼風・小原豊雲などは、家元の頂点に立つ人で、本来アヴァンギャルドの推進者としては適性を欠く立場の人達であったところである。結果としてその運動は芸術のみに絞り込まれ、家元・流派制度と両立させながら展開したところに、いけばな界のしたたかさがある。またこの三人は作品面でも互いにライバルで、個性と主張をもちながら合同展示会を開催し作品を競い合った。同時にこの動きは、周辺の多くの新人作家を刺激し、有望な若手作家を育てることにも繋がった。一方、日本に進駐した米軍婦人たちは、いけばなに大きな関心を寄せた。彼女達はいけばなを本国に紹介するとともに、勅使河原蒼風などを誘い、米国でいけばなの一大デモンストレーションを行った。この結果昭和30年代後半には、米国のミセス・アレンの提唱で「イケバナ・インターナショナル」が設立され、瞬く間に世界に100を超える支部が設立された。この国際化の成功は思わぬ現象をいけばな界にもたらした。その一つは、これらの新しい形のいけばなが、各流派の末端まで紙に水が染み込むように伝わって行ったことである。二つ目は一般の女性達が、その芸術指向に大きな関心を示し、いわゆるOLと呼ばれる多くの女性達が、いけばなに参加してきた点である。このため前衛いけばなは、名称の「前衛」にためらいを感じるようになり、「造形いけばな」あるいは「オブジェ」と呼ぶようになった。日本の経済が伸長した昭和30年後半から40年代には、自主的にいけばなに参加する女性が爆発的に増えた。
一方、これらの「前衛いけばな」に対し、昭和初期に生まれた「自由花」は、戦争で一時中断状態であったが、戦後になり湯川制の呼びかけで、その理念の継承活動を発足させた。この活動も西洋の造形理念に基づくもので、各流派の大きな支持を受け、後に「現代花」と呼ばれた。また注目すべきは、昭和40年代より、理念の近い流派の若手作家が、流派を超えてグループを形成するようになった点である。これは従来のいけばな界にはなかった現象で、流派を認めながらも新しい、いけばなを模索し追及しようとする動きである。流派の枠内では、新しい創造が出来ないという認識が多分にあったものと思われる。この動きはさらにその作品を一堂に集め、流派を超える発表の場を持つまでに発展した。いわゆる「グループ展」である。関西では「阿吽の会」、東京では「八人の会」が有名である。このグループ活動はさらに拡大し、昭和50年代の「公募展」へと発展する。この公募展は流派の階級秩序や地位に関係なく、個人的作品の発表の場であり、戦前のいけばな界では、全く考えられない現象であった。このような現象が生まれた背景としては、前衛いけばなの存在が大きく影響している。戦後に活発化した前衛いけばなは、多くの作家達に西洋美術の洗礼を与え、個性ある活動を目指す若い作家を増やした。同時にいけばな界にそのような土壌を許容する雰囲気を醸成したのである。
昭和50年代に入ると、こうした若い作家達の間に、「いけばなとは自分にとって何か」という根源的な問い直しが起こってきた。具体的には前衛いけばなが広げた素材の中で、植物、すなわち生あるものを扱うという、いけばな本来の姿への問い直しである。芸術は時代の変化の胎動に始まり、その時代に叶った本質の追求を要求する。ここに現代化をリードした前衛いけばなの使命は終わり、再び新しい時代への胎動が始まったのである
四.三. 総括
いけばなの近代は、明治維新という、それまでいけばなの基盤であったユーザー層(武家・富裕商家子女)を、一夜にして失うというショッキングな事態からスタートした。このため指導者達は、新時代のユーザー層獲得に必死であり、常にいけばなはどうあるべきかを考え、時代に対して敏感であった。指導者層、特に若い家元作家は、貪欲に西洋美術の摂取に努め、従来のいけばなとの接点を模索した。その成果が昭和初期の自由花や戦後の前衛いけばなを生んだ。その経緯は従来のいけばなの大胆なスクラップ&ビルドの活動でもあった。結果的には見事な変身を遂げた。いわゆる「修養から教養のいけばな」への変身である。これは時代の変革が市民生活・意識に与えたものを、自らも味わいながらいけばなを変化させるという、新しい支持層を見据える活動にほかならなかった。そしてその成果は、造形芸術として国際社会から高い評価を得、現代女性の圧倒的な支持を得たのである。この精神を、自ら前衛いけばな作家の活動経験をもつ工藤昌伸氏は、次のように言い切っている。
最も大事なことは、このような現代いけばなを支えているものは、実は一般家庭で日常的に繰り返しいけられているいけばなだということです。(中略)日常的ないけばなと非日常的な現代いけばなの造形作品との間が連続されていなければ、一時的な異端者として方向を見失うでしょう。
(工藤昌伸著『いけばなの道』より、傍点筆者)
この文章はまさに「源氏物語」以来、世阿弥親子を通して現在まで貫通する日本の芸道の心に通じるものである。すなわち近・現代化という激動の中にあってさえ、「常のもの(人間の日常生活)」を通して伝統の型が作られて行く、という過程を物語ってはいないであろうか。
五. 俳壇の今後の在り方に関する若干の提言
以上、日本の伝統的芸能と呼ばれる三つの芸能の近代・現代化を概観してきた。これらは芸術の分類から見ると、いずれも造形芸術に属するものである。これに対し俳句は言語芸術に属する。ジャンルは異なるがこれらの近代・現代化の対応は参考になると思われる。なぜなら俳句も根のところでは「日本人の生活」を対象にしているからである。俳壇事情、特に明治期の俳句の生い立ち事情に疎い筆者にとり、正鵠を得た言及は勿論出来ないが若干の提言をしてみたい。
五.一. 日本文化への信頼
先ず第一点は、「日本文化への信頼」である。前述した三つのジャンルの中で、より西洋芸術の影響を受けているものはいけばなと書であろう。両者とも「修養の道」として長い間、日本人の生活と共にあったジャンルである。書は余りにも生活と一体化していたため非芸術論争が長引き、西洋美術の理念(井島理論)をベースにした活動は戦後になる。この戦後書の活動は文や文字からの独立を目指し、書の単独表現を現在も模索中である。一方いけばなは、大正期より西洋美術の理論を真正面から受け入れ、表現の方法とエリアを大きく拡大し、遂に柔道と並ぶ国際化を達成した。いけばなの特筆すべきは、後述するいけばなの「常のもの」の質的変換(修養→教養)に見事に応え、支持基盤(ユーザー層)の転換と拡大に成功している点である。一方日本画は、西洋美術の刺激を糧に独自の描法を開発、洋画に並ぶ表現力を快復しその精神性において今や、再び洋画に影響を与える存在になっている。明治以前においてすでに日本の「型」を確立していたこれら三つのジャンルは、政治体制の地殻変動(明治維新・戦後)に遭遇し、古い型を見直す(自らを解体・再構築)ことで新時代を生き抜こうとしたのである。このプロセスが、いわゆる近代(明治)・現代(戦後)化である。もし伝統の型に安住しこのプロセスを放棄するようなことがあれば、たちまち「伝統芸能」もしくは「古典芸能」へとカテゴリーを変えなければならないであろう。このプロセスでのポイントは、指導者のポリシーにありそうである。その良い見本はいけばなに見られる。指導者達は自らアヴァンギャルドに身を投じ、解体を先導し、再構築を指導した。このため他のジャンルで見られたような、解体時にいたずらに政治行動に走ることもなく、また再構築においては国際性も視野に入れ、見事な指導性を発揮した。そこには日本画でも見られたような「三現主義」に根ざした指導者の率先垂範があった。さらに重要なことはいたずらに他文化に偏ることなく、日本の文化を「芯」に行動した点である。いけばなの国際性の成功は、日本文化の独自性にあり、その点を西洋が評価したことが最大の要因である。その点、「遅れて来た芸術」書はその破壊がまだ終わっていないように見える。筆者としてはその長い破壊のあとに、書の原点である「言葉・文字」への回帰を願うばかりである。
俳句は俳諧の長い歴史の上に明治に生まれた。まさに子規個人により俳諧の近代化として生まれたのである。生まれたての俳句は、わずかに「写生」という西洋芸術の影響を受けるが、散文文学のように自壊するまでの解体には至らず、基本的には発句の延長、すなわち俳諧からの独立とその詩形整理で戦後を迎える。従って本当のターニング・ポイントは戦後になる。その意味では「第二芸術」論は時宜を得た論争であった。翻ってそこには前述の解体・再構成サイクルがあったであろうか。これは今回のアンケートで探るところでもある。それはともかくとして戦後から半世紀を悠に越えた現在こそ、日本の文化に大きな信頼を寄せて「型のサイクル」を回すべき時と思う。その点でいけばなに現代化を学ぶところは多い。特に前述した若手作家による流派を超えたグループ展の活動や、新ユーザー層形成のあり方等である。例えば俳句の結社といけばなの流派を較べてみたい。いけばなの流派のオープン性は前述したように前衛運動の成果であるが、つまるところ指導者層の自覚と垂範姿勢である。いけばなは明治期の支持基盤(武家・商家の子女)喪失が危機感をあおり指導者層の大同団結につながった。俳句は幸か不幸かそのような危機はなく、逆に戦後は飛躍的に俳句人口が増大し結社の数も増え続けている。しかし結社間の繋がりはなく、結社の蛸壺化が進行している。その良い証拠が俳句総合誌の苦戦ではないだろうか。「俳句朝日」に続き昭和7年創刊の老舗「俳句研究」も終刊する。世の俳人は結社誌の枠内で充分に満足している証拠ともとれる。ジャーナリズムの衰退はやがて俳壇の衰退にも繋がらないか心配である。日本文化の基本が「型」にある以上、型の修練の場として結社は重要である。反面、運営如何では閉鎖性を助長するなど結社の功罪を俳壇は明確に打ち出すべきである。同時に結社交流策や超結社的な事業の企画など、俳壇全体の視野に立った活動が指導者層に強く望まれる。例えば、超結社的な事業の一つとして、季語を一つの型と見なし、「型の修練と更新の理論的な体系化」を取上げ、中国芸能(特に演劇)を研究する企画などはどうであろう。中国演劇は国家的な保護機関の下に型の更新が図られ日本より型の更新サイクルが遥かに早い。このため京劇は日本の歌舞伎などと較べて、現代でも多くの中国人の今日的な生活的共感を得ている。これに対して日本演劇の場合、伝統的な家元制度の下に半ば秘伝化し、容易に型を変えることはしない。このため庶民の今日的生活共感を得られず古典化の道をたどることが多い。すなわち俳句は一面「型」の文化論として考えてゆくことも重要である。一方、明確な型を持つ俳句の急激な人口増加に対して、型を持たない自由詩や、型の比較的緩い短歌の最近の停滞は、日本人の日本文化(型)への回帰の現れではないだろうか。日本文化を信頼し、今こそ現在の生活を基盤にした「型サイクル」をダイナミックに回すべきではないだろうか。
五.二. 俳句の「常のもの」の見極め
日本の芸術感(芸道感)は、「常のもの」に珍しさを発見するところに基礎を置き、そこから伝統の型が作られるという特徴をもつ。四季折々に咲く花の美しさの発見、これはまさに「常のもの」であり日常の生活そのものである。すなわち日本人の生活に基礎を置くものが日本の伝統的芸術観である。この姿勢は、先にも述べたが『源氏物語』や世阿弥親子を通し、現在に貫通する日本の心である。しかしその日本人の生活は、近代以降「時代」に翻弄され続けている。端的にいえば日本人の生活は欧米人と遜色のないほど欧風化している。心と「常のもの」は表裏するものでもある。戦後半世紀を経た現在の俳句の「常のもの」が、どう変わったかを見極めねばならない。いけばなにおける「家庭の日常の花」に相当するものである。いけばなの「常のもの(家庭の花)」が「修養」から「教養(芸術指向)」に変わったように、俳句の「常のもの」の実態とその行方を見定めねばならない。例えば、句会のメンバー・年齢構成から、桑原が指摘した「他に職業を有する老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさはしい」句会運営となっていないか。また技術・点数に偏重し、作者の人格や句作動機(精神発露)・思想を軽視した句会となり、桑原をもってして「率直にその慰戯性を自覚し、宗因にこそかへるべき」と言われそうな句会が多くはないか。もしこのような句会運営が現在の大勢ならば、それが現在の俳句の「常のもの」として、西洋芸術の理念(価値観)から外れていようと、敢えてこれに順じ進むべきである。しかしそれさえ見えないのである。この問題が、現代俳句の一番厄介なところである。結社という障壁が高すぎ、現在の俳壇の「常のもの」を見失ってはいないであろうか。現代俳人は「俳句という皮袋にいったい何を入れようとしているのか」を、早く見定めなければならない。
五.三. 「俗化対策」
桑原武夫は「第二芸術」で、「俳諧の俗化」に言及している。すなわち、芭蕉はそれ(俗化対策)を古典に求めたが、桑原は今や「世人の憬れは西洋近代芸術にある」と述べている。確かに書・いけばなを始めとする多くのジャンルはその道を辿った。いけばなは、それを「教養(芸術指向)」に結実させたが、書は未だ難産中である。また子規も俳句を生む際、月並俳諧の弊害を排する上で、それを西洋芸術の「写生(写実)」に求めた。(草田男は後に、これにより俳句の精神性が抜け落ちたとし、写生を認めながらも、これを子規の「痛ましい手落ち」とも言っている)しかし当の桑原は、草(古典)と木(西洋芸術)にたとえ、俳句はそれを西洋近代芸術に求めても失敗するだろうとし、ニヒリズムに注目しなかった非を述べている。この指摘は重要である。いけばなは、アヴァンギャルド・イデオロギーを通して、また書も前衛書運動で、これに相当する活動を展開した。いわゆる西洋芸術の「理念」に求めたのである。しかし言語芸術である俳句、しかも発句より独立したての俳句において、これを行えば収拾のつかない事態になることを、桑原は植木鉢(思想・価値観)を例に、「もしそれ(木=西洋芸術)が俳句のうちに正しく移植されたならば、この植木鉢は破れざるを得まい」と、ある程度予想していた節がある。このためニヒリズムを持ち出し、俳壇そのもののブレーク・スルーが先であることを訴えているようにも見える。家元制度のような結社のあり方を、桑原は心から嫌っていたのであろう。これに対して虚子は「ほう、俳句もとうとう芸術になりましたか」と応じたと伝えられている。この解釈はいろいろあるが、決して負け惜しみ的なものではあるまい。桑原の物差しの違いを鋭く見抜いていた虚子の方が、俳句の本意・本質の捉え方において、桑原よりさらに数段上であった結果の発言と言える。
問題はそれから半世紀以上を経過している点にある。この俳句の「常のもの」は、最近の急激な生活の洋風化とグローバリズムの進行で物心両面にわたり大きく変化している。現在の「常のもの」がどう変化しているのかを見極めることは、俳壇にとり大変重要である。特に俳壇の支持基盤(ユーザー層)が、圧倒的に高齢者層(七~八割が五十代以上であろう)にある見地から、若年層への支持層拡大策が急務である。
再び工藤昌伸氏の言葉を引く、
「日常的ないけばなと、非日常的な現代いけばなの造形作品との間が連続されていなければ、一時的な異端者として方向を見失うでしょう。」(工藤昌伸著『いけばなの道』)
ここで重要なことは右の「現代いけばなの造形作品」に相当する非日常的なものが、俳壇でも必要であるという事実である。俳句の「常のもの」を見据え、常に日常をリードして行くもので、同時に俗化を防ぐ指針に当たるものである。それが、再び山本健吉のように古典に拠っても良いし、あるいは若手俳人達のライト・バース感覚に偏ったものであっても、はたまた前衛(西洋芸術理念)的な自由律俳句でも、俳句の日常的なもの(「常のもの」)と繋がっていればいっこうに構わない。これがないと、近世の月並俳諧や狂歌のように俗に堕し、やがては支持層を失って行くであろう。もし現俳壇が、そういうものを論じられる土壌がないか、あっても土壌に力がないとしたら、実はそれが本当の問題である。
六. おわりに
桑原武夫は実のところ密かに俳句を愛していた形跡がある。これは直接桑原の講義を受けた清水哲男氏の講義状況や、今回のアンケートで橋本いさむ氏から寄せて戴いた挿話(京都の茶屋で桑原の俳句短冊を見たという)を読むと、一層それを確信する。また今回の調査で得た戦後資料を見ると、桑原武夫は結構、当時の著名人への攻撃が多い。(例えば、小田切秀雄や、本多顕彰など)その傾向はだいたい往時の権威者やジャーナリストに集中している。冒頭に述べたような、事業に失敗した父への八つ当たり的な論争を仕掛けているところが多分にある。この鼻っ柱の強いところが桑原武夫の魅力でもある。
出でよ、平成の桑原武夫!
なお挿話に載っていた桑原武夫の句は、観念が少々出すぎていて正直あまり上手でない。しかし俳号「知風」はとても良い。
おわり
《参考文献》
・後藤茂樹編『現代日本美術全集2横山大観』、
集英社(1981/6/15)
・後藤茂樹編『現代日本美術全集3菱田春草/今村紫紅』、
集英社(1980/10/1)
・横山大観著『横山大観の世界』、美術年鑑社(2006/4/1)
・石川九楊著『書に通ず』、新潮社(1999/8/20)
・工藤昌伸著『いけばなの道―日本人は花に形を与えた』、
主婦の友社(S60/10/16)
・桑原武夫著『第二芸術―現代俳句について―』、
「俳句あるふあ」(1995/6月号)掲載より
・桜井満著『花と日本人』、雄山閣出版(H6/6/20)
・中島司有著『最新改訂 書の世界』、出版芸術社(H9/4/10)
・河竹登志男著『演劇概論』、東京大学出版会(1978/7/20)
・清水哲男著「個我からの解放」『すばる』、集英社(2005/10)、「特集、短詩形文学の試み―定型とは何か」より
・村上三島著『良寛とこれからの書』、春秋社(1995/12/30)
・松岡潔著『現代俳句評論史』、角川書店(H17/3/25)
・榎本一郎『子規との対話』、邑書林(H15/9/5)
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