鷲見流一宅で「海程」新春祝賀会。

金子兜太展 新春祝賀会 1963年(昭和38年)

金子兜太先生の右隣が隈治人先生(向かって左)。隈先生は、「海程」創刊同人で、「土曜」主宰。私は長崎東高等学校在学中、隈先生に師事し、のち「土曜」同人。ここでたまたま懐かしい先生のお姿を発見して感無量でした。お優しかった先師の思い出は尽きません。ご縁に深謝!!

https://kanekotohta3.livedoor.blog/archives/14286303.html?ref=head_btn_prev&id=8486240 【№8『語る兜太・わが俳句人生』現代俳句協会と俳人協会】より

現代俳句協会と俳人協会

現代俳句協会の分裂と「海程」創刊 

安保闘争の翌年、一九六一年(昭和三十六年)の暮れに、私か所属していた現代俳句協会というのが分裂しまして、俳人協会というのが出来ました。この俳人協会はスローガンに「有季定型」という言葉を掲げた。現代俳句協会というのは前衛の集団で少数者の集団であると。これは俳句協会賞の選考会でもめまして、その結果、俳人協会をつくる人たちがそこから離れていったんです。この分裂の経緯も話題として面白いし、いろいろな人がいろいろと書いていますが、私から見ると、どれも正確さが足りないんです。分裂したその現場に身を置き、実際にそのドラマを体験した人間として、ここで事実を正確に申し上げておきたいと思います。

 昭和三十六年に現代俳句協会賞の選考委員会があったんです。石田波郷、三鬼、草田男、秋元不死男、石原八束、原子公平そして私も選考委員でした。

 私は能村登四郎と一緒に現代俳句協会賞を『少年』でもらっていましたし、東京に戻ってきていたから、選者になっていた訳です。原子公平、沢木欣一など私たちの世代と、私たちより一つ上の世代のなかから選考委員がたくさん出ていたわけです。ただし、龍太君はいなかったし、森澄雄も入っていなかったですが。

 そのとき、私たちは赤尾兜子を推したんです。波郷や三鬼たちは石川桂郎を推しました。このとき、石川が新人かどうかでもめたんです。すったもんだの挙句、最後は場所まで移して議論したのです。ともかく一票差で新人であるか否かが決まるのです。そのカギを握ったのが原子公平です。遅れて出席した原子の票が石川桂郎は新人ではないというほうに入ったために非新人票が一票ふえた。原子はそれで憎まれてね。結局、石川が新人ではないと決まることによって、赤尾の受賞が決まったということです。したがって、石川桂郎の非新人が決まったときを協会分裂のときと見て差し支えないのです。

 なお、決定前が九対九の同票だったのは、加倉井をがこれも遅れて來て、石川非新人のほうに票を入れたためにそうなったので、当然加倉井は石川新人説であろうと見ていた人たちから加倉井も憎まれてしまった。新人として推していたグループの読みが逆になってしまったわけだからね。加倉井という人はいい人で、われわれとも親しかった。彼は年が上だから、俺たちを弟みたいに思っていた。

 沢木と一緒に「風」でやっていたわけだしね。だけれども彼は三鬼たちとも親しい。彼は迷ったらしいんだ。ああいう人で建築家ですからね。俳句はどっちがいいかとかという考えじゃなくて、親しい人に、親しい人にと考え方が傾くんだな。若い弟分みたいな連中がみな赤尾を推しているんだから、自分もそっちを推してやろう。とそうなっちゃって、石川を落とす方に向かってしまった。それでとうとう最終的に赤川兜子を出す結果に同調することになってしまった。加倉井のその一票で同票、そして遅れてきた原子の票で逆転、となった次第です。

 そうです。思い出すなあ。石原八束は秋元不死男が嫌いだったんです。不死男、東京三(あずまきょうぞう)も八束が嫌いだった。八束が不死男に対して何かぶっきらぼうな発言をしたんです。とたんに波郷が怒った。「先輩に対して何だ!!」と言ってハァハァと息をついでいた。彼は身体がすでに弱っていまして、息がゼイゼイとしていて悲壮感がありました。でもこっちは皆若いから手加減なんかしない。言いたいことははっきり言う。そういうことが波郷には気に入らなかったんでしょうね。結果的に受賞から石川が脱落しかとき、波郷は「もうあなた方と私だちとは一緒にはやれん。ここで袂を分かつ」と言って去って行った。

 そのとき、三鬼はすでに癌の宣告を受けていたんですね。青い顔をして私たちの世代のところまでちょっとあいさつに来ました。そして波郷たちと一緒に引き揚げて行ったのをはっきり覚えてますよ。

これが分裂劇の幕開けです。非常にドラマティックな瞬間でした。そののち三十七年に俳人協会が発足します。実際には三十六年の十一月です。

 樺美智子さんが亡くなったのが一九六〇年、昭和三十五年ですね。私か東京に戻ってきた年ですが、その翌年に、『俳句』編集長の塚崎氏にすすめられて「造型俳句六章」を連載しました。その翌年の四月、私たちの「海程」が同人誌として創刊されます。

 我々の「海程」が四月一日に出来たのですが、そのときにちゃんとお金を出してくれた人がいたのです。スポンサーです。『俳句』に連載した私の「造型俳句六章」を読んで、これからの俳句の傾向はこういう流れになる。新しい俳句の流れの中で、金子にはぜひその指導者として大いにやってもらいたい、という考えを持ってくれた実業家がいましてね。肥料関係の実業家です。

 彼に俳号をつけてくれとたのまれ、私は「流れる」という言葉が好きだったので、その人のペンネームは鷲見(すみ)流一その鷲見さんが私たちにお金をくれたんです。昭和三十七、八年の頃。ポンとおいてくれたのがいくらだったかな。高度成長が始まる前ですから、とにかくそうとうな金額。私は驚きましてね。それで同人誌がすぐ出せたのです。しかし、この人の考えは金子主宰の結社で、大勢の作者から句を集めてゆくというものだったのです。彼のイメージと我々の同人誌のあり方はずれてゆく。結局、お互いにずれてずれていって、しばらくして鷲見さんが亡くなられたので、そのままになりました。鷲見さんとのご縁は結局、初めのときだけだったのですが、彼のカンパということもあって、スムースにわれわれの雑誌「海程」が出たということは事実です。

 俳人協会が出来て、我々は「前衛俳句」なんては言いませんで、「現代俳句」と言っていました。その現代俳句を守る。その梁山泊として「海程」をしっかり固めてゆこうとお互いに言い合って力を合わせてゆきました。

 そのとき、関西で私にいろいろと機会などを提供してくれる、非常に優秀な人物で堀葦男という人がいました。大学の一年先輩でしたね。この堀さんと私は常にいろいろとそののちよく話し合って 「海程」をすすめてきました。もうひとり、水戸高に入ったとき、私を句会に誘い、俳句に引っ張り込んだ出沢珊太郎という男。この人も創刊から参加してくれました。鷲見流一、堀葦男、出沢珊太郎。この三人の恩は忘れられません。しっかりと彼らの力があった。その土壌の上に我々の「海程」は成立したということを、昨年の「創刊五十周年の集い」の折にもあらためてしみじみと思い返していましたね。

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 それとね。昭和三十七年のあたりはとてもドラマティックなんですな。四月一日。その日に西東三鬼が死んでるんです。新興俳句のなかでは三鬼はいちばん人気ありましたよね。もちろん、いまでも皆から非常に愛されてます。その男が死んでるんです。われわれはそのニュースを数日後に知りました。

 「ああ、この雑誌には西東三鬼さんの魂が乗り移ってる」「だからこの雑誌『海程』は守られてる」と皆で喜んだことをはっきり覚えています。そうそう、富澤赤黄男も同じ年の三月七日に死んでますね。虚子はこの三年前の四月八日ですね。

 四月っていう月は、自分達から見ると、いろいろな意味で興味のある人間が皆死んで、それで「海程」が残る。そんなうぬぼれたことを若かった仲間たちで話し合っていたこともいまや懐かしい事実となりましたなあ。

中村草田男・金子兜太論争

 ともかく私の「造型俳句六章」が出ました。翌年には現代俳句協会から分かれて俳人協会が出来上がります。そのあいだをつなぐように私を非難の中心の対象にして、中村草田男という、現在私は尊敬はしませんけれども、若いときから親しんできている先輩俳人が、私金子および現代俳句協会に対する非難中傷の文章を朝日新聞に書くんです。

 俳人協会ができるのが十二月二十二日でして、彼草田男が朝日新聞俳壇時評に書いたのが十二月四日です。俳人協会をつくるということは、すでに彼らと同世代の連中が結局皆で相談していたんですね。その空気を受けて、草田男って人は正直な人だから、それはまあ、我々から見るとひでえものを書きましてね。彼のこの文章を「分裂宣言、設立宣言」であると、そういう風にわれわれは呼んだわけです。

 つまり、俳人協会のね。それで、早速、われわれを非難する草田男の文章に反駁をさせてくれということで、忘れもしません。私と石原八東、原子公平、この三人の同年の俳人が三人固まって朝日新聞に乗り込みました。俳壇担当者の門馬義久という人、これが面白い人でしてね。私ははじめて会ったときから、ずっと彼を面白いと思って、その後も親しんできたのですが、この門馬という人が職場の朝日で、なんと着物に桍という格好でね(笑)。なかなか変わったというかユニークなイメージのいでたちでのこのこ出てきて、「貴様ら、何だ」つて三人を睨みつけるんですよ。

 そこでまず石原が、彼は声がバカにでけえ男ですが、「草田男はけしがらん。彼を批判する文章をぜひわれわれにも書かせろ」と大声で言う。門馬も最後には「わかった。わかった。じゃあ、このうちの誰かが代表して書け」となりまして、結局、その場で金子に執筆のお鉢が回ってきまして、俺が書いた訳です。

 そこから世に言う、「中村草田男・金子兜太論争」というものが始まった訳ですが、これはわりあいに俳壇の名物になっている訳です。

 この論争については、真相をいちばんよく知り、双方を公平に正確に理解している人物は、草田男の最後の弟子の横澤放川です。現在、「萬緑」の代表で選者をつとめてますな。上智大からドイツに留学、カトリックの人で哲学者だ。彼は優秀ですし、冷静ですな。

 この論争を通して、結局、草田男は最後はノイローゼになった。そのために主宰誌「萬緑」を出せなくなってしまった。それで草田男のいちばん末の娘さんは金子をいまも怒っています。お茶大の仏文学教授の優秀な女性です。三年か四年前に会ったときにも彼女、言ってましたな。

 「父はあなたに対する反駁の文章を書いたあと、疲れ果てて寝こんでしまった。あなたはケロッとした顔ですね」つて(笑)。

 「あの論争を読んでみると、父は自分の俳句観をきちんと書いている。あなたは何も書いていない。父を非難することだけを書いている。もう一度、あなたは自分の俳句観を書け」と。

 [俺は『造型俳句六章』つてのを書いているんだ。あなたはまったく読んでもくれてねえらしいが、こちらはきっちり書いてあるんだよ」つて言ったんだ。さらに「草田男さんは、それを念頭においてああゆう文章をお書きになってんですよ」と言ったけれども、彼女は御承知しなかったようでした。ともかく彼女は父親の草田男が金子の被害者だと思いこんでいたようです。


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