https://amp.amebaownd.com/posts/7933046 【古池や蛙とびこむ水の音】
https://blog.goo.ne.jp/miki701_1941/e/b243430a769a99abe26f19f40fedb2b2 【雲見】より
宮沢賢治に『蛙のゴム靴』という童話がある。出てくる蛙は、カン蛙とブン蛙にベン蛙。蛙たちの家は、松やナラの林の中を流れる堰の近く。カン蛙は堰の岸に茨やつゆ草やたでなどの雑草がいっぱいに繁り、つゆ草が10本ほど集まったところ。林のナラの木の下にブン蛙の家、その向うのススキのかげにあるのはベン蛙の家。3疋の蛙は、年恰好も同じわんぱく仲間であった。いつもカン蛙の家の前にあるツメクサ広場に集まって、3疋は雲見というものやっていた。夏の夕方、夏の雲の峰見物である。人間なら花見とか月見というしゃれたものだ。
蛙が雲見を好きなわけは、雲の形が美しいとのはもちろんだが、その形が蛙たちの頭の部分が似ているし、入道雲はブドウの形のようでもあり、生まれてきた蛙の卵のかたちを思わせるからであった。雲見のときに話題になったのは、人間が履いているゴム靴である。あれがあれば、栗の毬もなんでも怖くない、ぜひ欲しいという話になった。カン蛙は、知り合いの鼠に頼んで、ゴム靴をこしらえてもらった。それを履いて、2匹に見せるとうらやましがった。そこへ出てきたのが、婿探しにきた美しい蛙の娘ルラであった。ゴム靴を履いたカン蛙を一目見て、この人に決めた、と話は進む。
カン蛙のあまりの幸運にやきもちを焼いた、ブンとベン。カン蛙にいたずらをして、自分たちの気を晴らしたい。その話の顛末は、童話を読んでいただくとして、賢治の童話の世界が、懐かしい昭和の自然であることに注目したい。雲見というのは、蛙の世界にあるのではなく、畑の作業をしながら空を仰いだ賢治の体験であろう。山を歩きながら空を仰ぐ機会は多いが、雲は様々な姿を見せる。気温の異常な上昇は、空にも時代を映す多くの変化を見せることだろう。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883632125/episodes/1177354054890167451 【五月雲見つつしをれば鳥ならぬこの身の上は思ほゆるかも】より
【読み】
さつきぐもみつつしをればとりならぬこのみのうへはおもほゆるかも
【語釈】
五月雲――皐月の雲。「皐月」は旧暦五月の異称で、新暦だと6月頃にあたる。梅雨の雲。
見つつしをれば――見ていると。「し」は調子を整える語。
【大意】
梅雨の雲を見ていると、鳥ではないこの身の上が思われることである。
【附記】
「世の中を憂うしとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(山上憶良)という歌に唱和したかたちである(わたしは目下のところその歌を和歌のなかの和歌と思っている)。わたしは短歌よりも俳句をつくることが多く、自己認識の上でも俳句をつくる人間であるためか季語を入れることを忘れていない(むろん季語は不要である)。わたしのつくる短歌の終わり方がワンパターンである点が気になっている。
「つつ」の後には「あり」を置くのがふつうのようである。それを敢えて「をり」にすることで、その動作の主体が詠み手であることをほのめかした。
Facebook滝沢 泰平さん投稿記事 西伊豆にあるイワナガヒメの聖地。
烏帽子山には「雲見浅間神社」という浅間神社がありますが、全国2,000社ほどある浅間神社のほとんどが「コノハナサクヤヒメ」を祀っているのに、この雲見浅間神社は極めて珍しく
「イワナガヒメ」のみを祀っています。コノハナサクヤヒメの姉とされるイワナガヒメ。
姉妹でセットで嫁に出され、美しいコノハナサクヤヒメに対して、醜いことから、ニニギノミコトに追い返されたイワナガヒメですが、実は「醜い=見にくい」見えにくい、目には見えない世界、高次元を司る女神とも。
八ヶ岳も、山の御神体は、イワナガヒメであり、里宮もイワナガヒメが御神体。
雲見浅間神社は、烏帽子山(162m)の山頂に御嶽浅間宮という奥宮がある。
そこにイワナガヒメが祀られているだけでなく、そこには1人の男神の肖像画も。
「天火明饒速日神(アメノホアカリ ニギハヤヒ)」
と書かれており、ここにはなぜか出雲王であったニギハヤヒも祀られている。
僕の行く先々でニギハヤヒと遭遇する確率はハンパではないですが、ここでも天照(アマテル)ニギハヤヒと出逢うとは…。
雲見浅間神社は、静岡県賀茂郡松崎町雲見にあり、3500年前の出雲からやってきたニギハヤヒは賀茂族で、京都の上賀茂神社が、かつてのコミュニティの最初の拠点。
伊豆と出雲、イワナガヒメとニギハヤヒ。
大事なキーワードがたくさんシンクロする西伊豆ご神事。
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