自然はおのずから美しい

Facebook上田 一美さん投稿記事

自分は何故これ程反応しやすく、議論に巻き込まれやすいのか、ほとほと呆れていた時に、このメッセージに出会った。よく熟読玩味したいと思う。

OSHO Japanese

OSHO : 今週の瞑想/ 不安を感じる? 醒めなさい!あなたが心配で、不安にかられている時、どうするか? 不安がある時、普段あなたは何をする? それを解決しようとするだろう。

そして、いろいろな選択を試してみては、ますますそれに巻きこまれてしまう。

あなたはより大きな混沌を作りだすだろう。なぜなら、不安は思考を通しては解決できないからだ。それは思考を通しては解決できない。思考そのものが、一種の不安だからだ。

このテクニックでは、不安に対しては何もしないように、と言っている。

ただ、油断なく醒めていなさい!

禅師・睦州(ぼくじゅう)についての、古い逸話を話してみよう。

彼はひとりで洞窟に住んでいた。ところが、日中あるいは夜間でさえも、ときどき声高に「睦州!」と呼ぶ――自分自身の名前をだ。

そして、「おう、ここにいるぞ」と答える。でも、そこには彼以外にはだれもいない。そこで弟子たちはよく尋ねたものだ、「なぜ、『睦州!』と自分の名前を呼び、『おう、ここにいるぞ』と言うのですか?」

彼は言う、「思考の中に巻きこまれてしまう時はいつでも、油断なく醒めていることを思い出さなければいけない。そこで、『睦州!』と自分の名前を呼ぶ。『睦州!』と呼び、そして

『おう、ここにいるぞ』と答えると、その思考、その不安は消え失せる」。

でも、晩年の2、3年間、彼はけっして「睦州!」と名前を呼ぶことも、「おう、ここにいるぞ」と答えることもなかった。

弟子たちは尋ねた、「なぜ、あなたは最近それをしないのですか?」彼は言った、「それは睦州がいつもいるからだ。睦州はいつもいる。だからその必要がない。以前、私はよく睦州を見失った。ときおり不安が私をとらえ、私をすっかり曇らすと、睦州はいなくなる。

そこで私は『睦州』を思い出さなければならない。すると、不安は消え去る」。

自分の名前で試してごらん。

あなたが深い不安を感じた時、ただあなたの名前を呼んでごらん。

「睦州」や他の名前ではなく、あなた自身の名前を。そしてそれに答える、「私はここにいるよ」と。そして違いを感じてみなさい。不安はそこにないだろう。

少なくとも一瞬、雲を超えた一瞥が得られるだろう。そしてその一瞥は深まっていく。

一度、油断なく醒めることによって不安は消失するとわかったなら、あなたは自分自身と、内なるメカニズムを深く知ったことになる。


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シータ「土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬をこえ、鳥とともに春を歌おう。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ」


Facebook森井 啓二さん投稿記事

おはようございます。朝の八ヶ岳から眺める南アルプスの前衛の山々

「風の音は、耳を澄ますと聖音となり 雪は、踏みしめるごとに聖なる教えとなり

樹々の一本一本は美しい精霊であり 石ころ一つひとつは、精妙な言霊となる

この世界のすべてが美しく奇跡的 多くの人がそれを忘れている」

光の魂たち 山岳編序章より


FacebookOSHO Japanese投稿記事

美は野生的なものだということを覚えておきなさい。美は決して文明化されない。

文明化したとたんに、それは醜いものになってしまう。美を文明化する方法はない。

美は自然の一部なのだから、それは野生的なものであらざるを得ない。

それは、はぐくみ育てるものではない。それは、自然のものだ。

木々が美しく、動物たちが美しく、鳥たちが美しいのはそのためだ。

醜い鳥や醜い鹿を見つけることは不可能だ。自然はおのずから美しい。

Osho 


https://www.osho.com/ja/read/featured-books/yoga/grace-is-inner-beauty 【優雅さは内なる美しさ】より

 優雅さは内なる美しさ、魂の美しさだ。肉体には身体の一定の美しさがあるように、魂には魂の美しさがある。肉体が醜くなり得るように、魂もまた醜くなり得る。

 私たちは肉体をより美しくしようと、あらゆる注意を払う。私たちは魂にどのような注意も払わない。だから、魂はほとんどつねに醜い。誰も魂に注意を払わないので、美しい魂を持つ人を見つけることはひじょうににまれだ。魂のための美容室は存在しないし、化粧品もないし、美容師もいない。内なる世界もまた気配りを、滋養を、世話を必要としているとは誰も考えない。

 だから、私たちは表面的にはますます美しくなりつづけているが、内側深くにはただ傷が、花があるはずだったところに醜い傷がある。私たちは表面的に自分が美しくなり、健康になり、衛生的になるのを助ける多くのものを持っているが、私たちの内なる世界は完全に無視されており、まるで私たちはそれを見捨ててきたかのようだ。私たちはそれを見ようとしない。そこには雑草だけがはびこり、薔薇は育っていない。それは天地逆さまの状態であり、きわめて本末転倒の世界だ。人びとは肉体のことばかり考えているが、それはつかの間のものであり、永遠のものである魂のことをまったく考えていない。

 私は肉体に反対しているのではない。肉体にあらゆる注意を払いなさい――それは神からの美しい贈りものだ。だが、それはひじょうに小さな断片であり、あなたのほんとうの存在ではない。それはあなたの住処だ――それを飾りたて、それを掃除しなさい――だが、それはあなたではない。あなたもまた風呂を必要としている。そしてあなたが内側で美しくなり始めたときにのみ、優雅さが生まれてくる。

 内側の世界は嫉妬、憎悪、怒り、暴力、自我(エゴ)でいっぱいだ――そういったものは毒だ。それらはあなたを病気にさせておく。それらは、あなたの魂が健康で全一になるのを決して許さない。

 人はこれらすべての雑草を引き抜かなければならない。それがまさにサニヤシンであるということだ――これらすべての有毒な植物を内なる世界から引き抜いて、薔薇のための内なる世界を準備する。

 奇跡的なのは、すべての雑草を引き抜いたとたんに、薔薇がひとりでに育ち始めるということだ。神があなたのなかに降りてくる。あなたは価値がある者になり、あなたは神に値するようになる。あなたが主人になり、神は客人になる。そしてそこに大いなる優雅さがあふれ出す。

 優雅であるということは、至福に満ちているということだ。なぜなら、人はわが家に帰っているからだ。人は達成できないものを達成し、自らの天命を成就している。だから人は喜び祝うことができる。

 美は野生のもの

 美は野生的なものだということ覚えておきなさい。美は決して文明化されない。文明化したとたんに、それは醜いものになってしまう。美を文明化する方法はない。美は自然の一部なのだから、それは野生的なものであらざるをえない。それは、はぐくみ育てるものではない。それは自然なものだ。木々が美しく、動物たちが美しく、鳥たちが美しいのはそのためだ。醜い鳥や醜い鹿を見つけることは不可能だ。自然はおのずから美しい。

 人間だけが醜くなる。そしてジレンマは、美しくなろうとするのは人間だけだということだ。その美しくなろうとするまさにその努力の中に、醜さが入り込む。その美しくなりたいという考えそのものが、あなたは自分が醜いということを受け容れているということを示している。その考えはあなたの自己非難の中で方向づけられている。ひとつだけ確かなことがある――美しくなろうとしている人は自分が劣っていることを、自分が醜いことを、自分が無価値であることを受け容れている。今や彼はそれを隠そうとし、それを包もうとし、それを改善しようとしている。人間は美しくなろうとする唯一の動物であり、そして人間は醜い唯一の動物だ。

 だから生において第一に覚えておくべきことは、自然――その野生の側面、野生の海、野生の山々、野生のジャングル――に近づけば近づくほど、あなたはより美しくなるということだ。美さの中には喜びがある。そして美しさからは愛が生まれ、美しさからは表現が、創造性が生まれる。

 美しい人だけが創造的になれる。なぜなら、彼は自分自身を受け容れているからだ。彼は自分自身であることを喜び、自分自身であることを感謝しているので、その喜びと感謝と受容性からは創造性が自然に生まれてくる。神は彼のために多くのことをしてくれたから、彼は神のために何かをしたい。彼は絵を描いたり、音楽を創ったり、この世界をもう少しよくすることや、人類の成長を助けることをしたい。いずれにせよ、彼は何かをしたいのであり、それは神が彼のために多くのことをしてくれたからだ。まさにこの感謝の気持ちから創造性が生まれる――それが創造性のほんとうの源だ。だが、それはあなたが自分自身を受け容れた時、仮面の背後に隠れようとしない時、カモフラージュをつくり出そうとしない時に、人格をつくり出すのではなく、自らの本質が言うべきことを言うのを許す時に初めて可能になる。

 動物にはどのような人格もない。私は飼い慣らされた動物のことを言っているのではない。彼らは人格を持とうとしている。野生の犬には人格がなく、ただ本質だけがあるが、いったん犬が飼い慣らされると、彼は政治的になり、駆け引きをするようになる。彼は人格を持つようになり、もはや「個」ではなくなる。彼は自分を偽るようになる。あなたが彼を叩いても、それでも彼はあなたにしっぽを振りつづける――これが人格だ。ほんとうはあなたをずたずたに引き裂きたいのだが、彼はあなたが主人であることを知っているし、自分の限界を知っている。じきに夕食の時間になれば、困ったことになることを知っている。彼は叩かれ、お仕置をされるだろう。彼は自分に力がないことを知っているから、ペルソナを、仮面をつくり出す。彼は偽者になり、ふりをするようになり、文明化され、教育されるようになる……そして美しさを失う。

 美しさは野生のものであり、美しさは広大なものだ。海は荒々しくて広大だ。向こうの岸を見ることはできない。美の向こう岸を見ることは決してできない。それを感じることはできるが、それをつかむことはできない。それを手中にすることはできない。これを生きることはできるし、それを楽しむことはできるし、そのなかに飛び込むことはできるが、決してその底を知ることはできない。それは底知れないものであり、測り知れないものだ。美は海のようであり、広大、とてつもなく広大だ。美には海のような深みがあり、深ければ深いほど、それは神聖なものになる。深みは神聖さを意味する。深みは神聖さの次元だ。

 文明化された人間は表面で生きている。彼は泳ぐ人であって、潜る人ではない。彼は周辺部でどのように身を処してゆくかを充分に知っている。彼は周辺部には慣れ親しんでいる――そのやり方、礼儀、エチケットなどに。彼のすぐ下には底知れない深みがあるが、彼はそれに気がついていない。

 美は深みから来る。深くなればなるほど、あなたはいっそう美しくなる。そこでは美はこの世のものではない。なぜなら、深みは神聖さの次元だからだ。深く行けば行くほど、いっそうあなたの内奥の核からの何かがわき出してくる。美はつくられるものではなく、わき出るものだ。つくられるものは表面にある。

 先日、ある小話を読んでいたのだが、ある男が友人にこう言った、「私は世界の避妊法を見つけたよ」友人はたずねた、「どんな?」すると彼は言った、「ただワイフに化粧を落せと言うのさ。メーキャップを落してしまったら、メイクラブする気なんてちっとも起きないからね」

 だから、人びとはメーキャップとメイクラブしているのではないだろうか? それがまさに起こっていることだ。人びとは人格と愛を交わしている――それはメーキャップであり、あなたを包んでいる衣服にすぎない。それはあなたではない。だから愛さえも醜いもの、表面的なもの、月並みなものになり、祈り、親密さの質をもたないものに、永遠の質をもたないものになる。

 だから私はあなた方に、これら3つのことを覚えてほしい。美は荒海のように野生的であり、大海原のように広大であり――向こう岸を見ることができないほどに――そしてそれは、深みから来るものであって、けっして表面から来るものではない。美に至ったなら、人は至福に至り、祝福に至る。

 これが私の言う「神への準備をする」とうことだ。美しくなりなさい。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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