沖について

https://www.oki-haiku.com/oki.html 【沖について】より

「沖」とは

「沖」は1970年(昭和45)に刊された俳句雑誌です。

「市川馬酔木会」から発展した「森句会」が主体となり、八十八名の末広がりの投句者により創刊されました。 創刊主宰の能村登四郎の熱い志のもと、初代編集長の林翔と共に「伝統新しさ」という創刊理念を掲げ、俳壇に向かって伝統俳句の未来について発信を続けてきました。

 曼殊沙華天のかぎりを青充たす

この句は、能村登四郎が創刊した時の高揚した気持を詠んだ句です。

これまでに、福永耕二、今瀬剛一、鈴木鷹夫、大牧広、正木ゆう子、中原道夫などの多くのすぐれた俳人を多数輩出しながら、伝統俳句の未来について発信を続けてまいりました。

2001年(平成13)に能村研三が主宰を継承し、登四郎の俳句精神を受け継ぎながら「人が作らない俳句」を目指し、進歩発展のある「沖」を作りたいと「ルネッサンス沖」を標榜しています。

「沖」の主要俳人

・森岡 正作(副主宰)     ・千田 百里(名誉同人会長)

・辻 美奈子(同人会長・編集長)【俳人協会新人賞受賞】 (※しんにょうの点は1つ)

・大畑 善昭(同人会副会長)・吉田 政江(同人会副会長)・田所 節子(同人会副会長)

「沖」を創った人々

林 翔 1914年(大正3)‐2009年(平成21)長野県長野市生まれ。本名昭。

國學院大學に学び、能村登四郎と知り合い、1939年(昭和14)、登四郎のすすめで旧制市川中学校(市川学園)に国語の教諭として勤務します。翌年、水原秋櫻子の「馬酔木」に初入選。昭和23年初巻頭。篠田悌二郎指導の新人会において、登四郎、藤田湘子らと競い、生活詠に新生面を拓きました。

1950年(昭和25)「馬酔木」同人。

1952年(昭和27)秋櫻子の「葛飾」句碑が、市川市真間山に建立されたのを機に、登四郎とともに「市川馬酔木会」を結成しました。

1970年(昭和45)、登四郎が「沖」を主宰するにあたり編集主幹となり以後、1983年(昭和58)より副主宰。2001年(平成13)に最高顧問。

1971年(昭和46)処女句集『和紙』で俳人協会賞

1983年(昭和58)「沖最高功労賞」の「鳰賞」

2001年(平成13)市川市市民文化賞

2004年(平成17)句集『光年』で第20回詩歌文学館賞を受賞 市川市俳句協会会長、俳人協会顧問、「馬酔木」最高顧問などを務めました。

句風は秋櫻子の美意識を尊重し、石田波郷の唱える「打座即刻」を主眼としますが、それのみに拘泥しない俳句観を持っています。

【句集】

『和紙』『寸前』『石笛』『幻化』『春菩薩』『あるがまま』『光年』など

【代表句】

今日も干す昨日の色の唐辛子         竹馬に土まだつかず匂ふなり

秋風の和紙の軽さを身にも欲し       胡桃割るこきんと故郷鍵あいて

光年の中の瞬の身初日萌ゆ

福永 耕二 1938年(昭和13)‐1980年(昭和55) 鹿児島県川辺町生まれ。

私立ラ・サール高等学校在学中より「馬酔木」に投句。

1958年(昭和33)二十歳で「馬酔木」巻頭。

1960年(昭和35)鹿児島大学文理学部国文科を卒業、純心女子高等学校に教師として奉職。

1963年(昭和38年)能村登四郎が鹿児島を訪れたのをきっかけに上京登四郎の勤める千葉県の私立市川高等学校に奉職。

1969年(昭和44)「馬酔木」同人。

1970年(昭和45)登四郎の「沖」創刊に参加。同年「馬酔木」編集長。

1972年(昭和47)馬酔木賞、沖賞受賞。

創刊間もなくの「沖」では若手の育成につとめ、「沖二〇代の会」の指導にあたり、能村研三、正木ゆう子、大関靖博などを育てました。

1980年(昭和55)『踏歌』で第4回俳人協会新人賞受賞。同年、42歳で逝去しました。

【句集】

『鳥語』『踏歌』『散木』

【代表句】

新宿ははるかなる墓碑鳥渡る       燕が切る空の十字はみづみづし

黒板にわが文字のこす夏休み       子の蟵に妻ゐて妻もうすみどり

凧揚げて空の深井を汲むごとし


https://www.haijinkyokai.jp/reading/garden_17.html  【俳句の庭/第17回 鵜は神の使い  能村研三】より

能村研三

1949年、千葉県市川市生まれ。1976年より福永耕二に師事。 「沖」入会ののち、同人を経て2013年から主宰を継承。国際俳句交流協会副会長、千葉県俳句作家協会会長。「朝日新聞千葉版俳壇」選者。「読売新聞」地方版選者。「北國新聞」俳句選者。1997年、俳人協会新人賞を受賞。句集に『鷹の木』ほか7冊。他にエッセイ集。公益社団法人俳人協会理事長。

 鵜はペリカン目ウ科に属する水鳥で、日本には海鵜と川鵜がいるが、鵜飼に使われるのは海鵜で、体が大きく力も強いうえ我慢強く比較的おとなしい性格であると言われている。その海鵜が神の使いとして伝わる神事がある。能登地方に伝わる鵜祭で、4年前の平成28年に「鵜様の宿」総本家の方のご案内で見にいくことが出来た。

 12月16日の早朝、午前2時外は雪が降りしきる中を氣多大社に向けて車で出発。気多大社は何度も訪ねているので、馴染みのある所だが、雪が降りしきる暁闇中の神社のたたずまいは厳かな趣があった。

 鵜祭は気多大社の神事で神前に放った鵜の動きから翌年の吉凶を占うもので、鵜は40キロ離れた七尾市鵜浦で捕獲され、3日かけて徒歩で運ばれるが、籠に入れられた鵜は「鵜様」と呼ばれ、道中「ウトリべ、ウトリべ」と連呼して通過を町の人に知らせる。祭儀は午前3時から拝殿で行われ、神前に設けた木製の台に一対の蝋燭が灯る中、神職と鵜捕部が問答を交わした後、鵜が放たれる。鵜がよどみなく上れば吉、なかなか進まないときは凶とされる。社殿の一番前に席をいただいたが、祭儀を待っている間は寒さがしんしんと忍びよる中、鵜様が来られるのを待った。この年は元気な鵜で、神前に放たれた鵜は瞬く間に蝋燭を掻き消し突然漆黒の闇に包まれた。大役を終えた鵜は宮司の手で別の籠に移されて、雪が舞う中、大社の一の鳥居近くの一之宮海岸で暁闇の空に放たれた。

 今年は2年続けて主役となる「鵜様」の捕獲が出来なかったことで中止となったが、コロナ禍で日本中が疲弊している時こそこの神事は是非やってほしかった。


https://mainichi.jp/articles/20210708/dde/014/070/003000c 【俳句を未来につなぐ決意=酒井佐忠】より

句集『神鵜』

 旺盛な文芸活動をつづける能村研三の新句集『神鵜(かみう)』(東京四季出版)が刊行された。能村の父は、戦後の代表的俳人で、俳誌「沖」を創刊した能村登四郎。今年は登四郎の生誕110年、没後20年、さらに昨年は「沖」創刊50周年となり、俳人として大きな節目を迎えての刊行だ。

・暁闇(ぎょうあん)の冷えを纏(まと)ひて神鵜翔(た)つ

 句集名となった一句。硬質な言葉の中に聖なる気持ちを現した句にひかれる。句の舞台は、能登は石川県羽咋市にある気多(けた)大社で行われる鵜祭の神事。捕らえられ「神鵜」となった鵜が、最後には放たれて能登の海岸から「暁闇」の空に飛びたっていく。その光景が見事に描かれ、格調の高さと美しさが感じられる。気多大社は能村家のルーツにかかわり、この句の句碑が建てられた。短い17音の背後に多くの物語が隠されている。


https://www.youtube.com/watch?v=11gZZawjziM

https://www.youtube.com/watch?v=ac5spXYQEQg

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000