https://note.com/camesan/n/n8a026aba6ea3【句集紹介 夕ごころ 芥川龍之介句集を読んで】より
亀山こうき/俳句の水先案内人
あまり知られていないが、芥川龍之介は俳句もすごい。
そして驚くことに、完成度はあまりにも高い。たった17音の俳句の中にも、芥川龍之介の文学らしさがしっかり刻み込まれている。
例えば、
死にたれど猶汗疹ある鬢の際 芥川龍之介
意味としては「死んでもなお、頭の側面の髪の際にあせもがあることだ」となろうが、どことなく『羅生門』にでてくる老婆を想起させられる。
水洟や鼻の先だけ暮れ残る 芥川龍之介
水洟は「みずはな」で鼻水のこと。哀愁溢れるこの句は処女作『鼻』を思う。
ほかにも『トロッコ』や『河童』などの、彼の傑作小説を類想するような句が沢山ある。どの句からも一貫して格調高さを感じるが、やはり「自嘲」というか「冷めている」というか「狂っている」といった感じの、芥川龍之介らしさは健在だ。
文豪で俳句を嗜んでいた人は多くいるが、その中でも芥川龍之介の句は際立っているように思う。厳選十句より、あまり知られていない彼の文芸を楽しんでいただければ幸いである。
・厳選10句
水さつと抜手ついついつーいつい 献上の刀試すや今朝の秋
星月夜岡につゝ立つ武者一騎 蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな
死にたれど猶汗疹ある鬢の際 青蛙おのれもペンキぬりたてか
曇天や蝮生き居る罎の中 木がらしや目刺にのこる海の色
木の枝の瓦にさはる暑さかな 水洟や鼻の先だけ暮れ残る
・作者略歴
芥川龍之介。小説家。東京生まれ。別号澄江堂主人、我鬼。第三次、第四次の「新思潮」同人。「鼻」が夏目漱石に認められ、文壇出世作となる。歴史に材を取った理知的・技巧的作品で、抜群の才能を開花させた。致死量の睡眠薬を飲み自殺。著作「羅生門」「地獄変」「歯車」「或阿呆の一生」「西方の人」など。(精選版 日本国語大辞典引用)
https://guukei.blogspot.com/2017/01/blog-post.html 【夕ごころ】より
元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介
元日を迎えるとこの句を思う。芥川自選の七十七句を編んだ『澄江堂句集』の一句。芥川の作という枠を超えて、今や元日の句として最も有名な句であろう。
元日は、初日の出、朝の時間が祝福される。だが、芥川は朝をそれとなくやりすごす。昼から夕方へと時は移り、「手を洗ひをる」。身体の所作だが、幾分か象徴的でもあり、自分を洗う、自身を浄める意味を帯びているかもしれない。補助動詞「をる」のおさまりがいい。「洗ふ」動作に終止符を打ち、いったん間をあけ、「夕ごころ」につなげていく。
芥川龍之介は眼差しの人でもある。自らの「手」を凝視した後、田畑の家の庭にでも降りて、夕暮れを見たのだろうか。それとも書斎にいて記憶の夕景を思い出していたのだろうか。どちらにしろ、彼は「夕ごころ」に佇んでいる。
「yuugokoro」というなめらかな響きはどこか懐かしいが、芥川特有の憂愁がある。
芥川は夕暮れ、日暮れの時を好んだ。よく読まれている作品では『羅生門』冒頭の「ある日の暮方の事である」、遺稿『或阿呆の一生』の「彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した」など、繰り返し表現している。日暮れ時、物語の主人公は一人で往来を歩く。路地を彷徨する。その憂愁に包まれている。
そんなことを考えていると、志村正彦・フジファブリック『茜色の夕日』が浮かんできた。この歌にも「夕ごころ」の憂いが込められている。
大晦日にさかのぼりたい。朝日新聞朝刊のある面全体に歌詞らしきものがあった。下の小さな文字を読んで、NHK紅白歌合戦に出場する「THE YELLOW MONKEY」のメッセージ広告だと分かった。「ロックの歌詞」がこのような形で新聞の全面を覆うのは初めてのことではないか。どれだけの経費がかかったのか。毒を以て毒を制すということなのか。「残念だけど、この国にはまだこの歌が必要だ。」という言葉が添えられていたが、確かに、この国に必要な歌であることは間違いない。
夜、紅白を見た。椎名林檎とRADWIMPSのドラマーが刄田綴色だと気づいて驚いた。
終盤近くになって、THE YELLOW MONKEYの登場。吉井和哉が、ロック的なあまりにロック的な『JAM』を堂々と切々と歌う。2016年のロックの聞き納めとなった。
儚なさに包まれて 切なさに酔いしれて
影も形もない僕は
素敵な物が欲しいけど あんまり売ってないから
好きな歌を歌う
( THE YELLOW MONKEY 『JAM』 作詞・作曲:吉井和哉 )
https://meiku.exblog.jp/4395181/ 【元日や手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介】より
季題は<元日>。「夕ごころ」とは、夕方だなあと思う心ぐらいのことだが、何と実感にあふれたしみじみとした語であろう。日本人にとって元日は特別の日。朝から初日の出を拝み、屠蘇を祝い、雑煮膳を囲み、賀状に目を通す。身辺に子供があれば凧上げや羽子つきをする。現代ならトランプや様々なゲームなのであろうか。
そんないつもと違う一日も日暮れに近づいた時の、少しものに飽いたような、何とはなしに淋しい実感が、さりげなく叙べられている。それは「手を洗ひをる」という、何でもない動作を通して表わされているからだ。この一日も暮れてゆく、というしみじみとした実感は、元旦という特別な日の無聊がもたらす感慨とでもいおうか。誰にも心当たりのある情景である。 <和子>
俳句に遊んでいる時の芥川にはたとえば『夕鶴』のおつうのように心身をすり減らしながら創るという姿勢よりも、むしろよい意味で俳句にあそぶという余裕すら感じられる。
元日の一日が何事もなく過ぎてゆき、やがて夕方に近い頃、作者は厠にでも立ったのであろう。そして手洗いの水を使いながらどこを見るともなくあたりを眺めているのである。
この時の龍之介の心は、まさに「夕ごころ」としか表現しようがないではないか。それはハレの日におけるとある平常心とでもいおうか。ある種の充足が感じられる一時なのである <克巳>
大正十年作。『澄江堂句集』所収。
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