https://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama/e/958d114de46cdc4162727c786a87b0cb 【「岩手の誇り、宮沢賢治」】より
岩手の誇りはなんといっても宮沢賢治です。賢治の作品は現在読んでも胸が熱くなります。随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて現在の日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。
賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」というものでした。38歳で亡くなるまでの短い人生を苦しんだのです。
今日は「銀河鉄道の夜」を皆さまと一緒に読んでみようと思います。出典は筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻です。
なお第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。
さて「銀河鉄道の夜」の物語は、星祭りの夜のカンパネルラの水死から始まります。
そしてストーリーは夏の夜空にかがやく銀河の列車に乗ってくるいろいろな人の話として展開して行きます。
人間は死んで天に登り、星になります。ですから銀河鉄道の汽車に乗って来る人は皆な死んだ人です。
主人公のジョバンニ少年も水死した親友のカンパネルラを探すため銀河の列車に乗るのです。
星祭りの夜にカンパネルラは水に落ちた友人のザネリを助け自分は水死してしまうのです。
川に飛び込み消えてしまったカンパネルラの捜索を見ながら、カンパネルラの父が自分の時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。
その後でジョバンニは死んだカンパネルラをもう一度銀河鉄道の中で見つけるのです。そしてジョバンニとカンパネルラは一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つの例だけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時です。他人を助けれために、人で溢れる救命ボートに無理に乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから「タイタニック號」と書いてありませんが、そのように想像出来ます。
最後に一緒に乗っていたカンパネルラも他の乗客もみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは胸を打ちながらカンパネルラの名を叫びます。銀河鉄道の列車の窓から暗い星空に向かって。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り病気の母親を助けながら真の幸福を求めて元気よく生きて行きます。
この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。
この作品のキーは死んでしまった愛する人と再会するという奇蹟です。再会出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。カンパネルラは友人を救って自分が死んでしまうのです。友のために死んだ者は天国へ行くのです。
この悲しい美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の教えそのように理解し実行しようとして38歳で亡くなるまで苦しんだのです。
今日の挿し絵代わりの写真は宮沢賢治の生家跡と幼い頃や学生の頃の賢治です。出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は花巻市にある賢治の生家跡地です。賢治の頃の建物は現存していません。
2番目の写真は1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左) です。
3番目の写真は盛岡高等農林在学時、同人誌『アザリア』のメンバーと一緒の賢治(後列右)です。
4番目の写真は田の中に立つ花巻農学校教諭時代の賢治です。
https://yukihanahaiku.jugem.jp/?eid=53 【アテルイはわが誇りなり未草 ~ 「佐藤鬼房俳句集成 第一巻全句集」を読む】より
アテルイはわが誇りなり未草 ~ 『佐藤鬼房俳句集成 第一巻全句集』を読む
五十嵐秀彦
朔出版から『佐藤鬼房俳句集成』が刊行された。全3巻で、まずは第1巻「全句集」を入手。この巻はその名のとおり鬼房の全14句集が網羅されており、金子兜太、高橋睦郎、宇多喜代子の文による栞や、詳細な年譜が付けられているのが資料的には特にうれしい。編者は高野ムツオである。
初学のころから佐藤鬼房は気になる俳人であった。そのころ特に好きだった俳人は、寺山修司(これは私が俳句を作ろうという動機となった人なので別格)、西東三鬼、永田耕衣、高柳重信、そして鬼房だった。当時は特に意識しなかったが今になって振り返るといわゆる新興俳句系の作家が多い。中でも鬼房は群れることのない孤高の人という印象があった。その実、他の俳人たちとの交流も少なくなかったようなのだが、おそらく宮城県に居を定め東北を蝦夷(えみし)の地とし自ら末裔と言う姿勢にそう思わされたのだろう。
切株があり愚直の斧があり 「名もなき日夜」
この句が代表句のひとつであることは世評の定まるところで、私も強くこの句にひかれてきた。今回の「集成」で、昭和23年29歳の句と知った。初期の代表句と言ったほうがいいか。最初に見たときは「愚直」という表現に疑問を持った。無用の卑下ではないかと思ったのである。しかし他の句も読み、まがりなりにも鬼房という作家を少し知るようになって、これは卑下ではないと気がついた。「愚直の斧」という言葉には、鬼房のいうなれば思想が込められている。
結論を急ぐのはやめよう。ここで佐藤鬼房という希代の俳人の人生を簡単に振り返ってみたい。
大正8年3月20日、岩手県釜石生れ。俳句を作り始めたのは昭和10年、16歳のときだった。18歳で上京するも一年ももたずに帰郷。この時期に北海道人には特別な作家である細谷源二の影響を受けることもあったという。京大俳句事件に始まる新興俳句弾圧の時期には、兵隊に取られ中国に行かされていた。その後、南方で終戦を迎える。帰国後は宮城県に戻りそこから出ることはなかった。戦後、西東三鬼の弟子として本格的な俳句活動を開始する。結社は「天狼」「電光」「夜盗派」「風」「頂点」「海程」などに参加。昭和60年、66歳で宮城県塩釜市にて「小熊座」創刊。平成14年1月に82歳で死去。
句集は「名もなき日夜」「夜の崖」「海溝」「地楡」「鳥食」「朝の日」「潮海」「何處へ」「半跏坐」「瀬頭」「霜の聲」「枯峠」「愛痛きまで」、死後に第14句集として「幻夢」を出している。ずいぶんと多い。
「小熊座」創刊以前に8作の句集を出しているのに注目したい。鬼房は結社主宰にならねばという思いはあまりなかったのではないか。俳誌を持たずとも自らを独立したひとりの作家であるという覚悟を持っていたのに違いない。高い評価を得ながら66歳まで自分の結社誌を持とうとしなかったところに鬼房その人の性格がうかがえる。
縄とびの寒暮いたみし馬車通る 「夜の崖」 獣骨にたどりつく波炎える冬日 「海溝」
陰に生(な)る麦尊けれ青山河 「地楡」 夷俘の血を呼び北颪身ぬち過ぐ 「地楡」
吐瀉のたび身内をミカドアゲハ過ぐ 「鳥食」
生きてまぐはふきさらぎの望の夜 「朝の日」 冬森の背筋を伝ひゆくわれか 「潮海」
新月や蛸壺に目が生える頃 「何處へ」
アテルイはわが誇りなり未草(ひつじくさ) 「何處へ」
地吹雪や王国はわが胸の中に 「半跏坐」
みちのくは底知れぬ国大熊(おやじ)生く 「瀬頭」
霜夜なり胸の火のわが麤(あら)蝦夷(えみし) 「霜の聲」
北冥ニ魚有リ盲ヒ死齢越ユ 「枯峠」 白鳥の帰るころかとひげを剃る 「愛痛きまで」
約束の死が見えてくる雪柳 「幻夢」
句業を振り返ってみるとき、東北の地の「アラエミシ」であり続けたいと常に思い続けた男の姿が見えてくる。「東北」とは何か。古代から、まつろはぬものの地、蝦夷の地であり阿弖流為(アテルイ)の地であるという意識。それが長い年月を通して、森に海にこの地に生きる人々の中に息づいているのだ。その「気」のようなものが鬼房の肉体に染みわたり、詩となって生れ出る。それが彼の風土詠であり、この国の歴史の中で常に抑圧されつづけてきた民衆の心の声なのである。それを辺境と言い切るとき、地理的な意味ではなくなり、反権威・反中央の思念として屹立する。私がしばしば言うところの「辺境の詩学」ということと完全に一致するものを鬼房文学に感じている。北海道もまた同じ辺境の地であるからだ。東日本大震災、福島原発事故とその後の国による処理を見て、私達は政治的辺境視というものが今なお存在していることを感じた。平安時代に熊野の地が中央からみたクマの地・闇の地であったように、現代の北海道・東北が闇の地であるのだろうか。
ならばそこに高い塔を建てよう。鬼房が中央俳壇に合せることなく、辺境の地が持つ根源的なもの、中央がその存在を無視しても絶対に消すことのできない根源的な声を詩化し続けたように。
翅を欠き大いなる死を急ぐ蟻 「幻夢」
(「雪華」2020年7月号)
https://ihatov.cc/blog/archives/2004/07/post_99.htm 【アテルイの首塚】より
しばらく更新が滞ってしまいましたが、京都ではこの間に祇園祭の山鉾巡行も終わり、ほんとうに暑い毎日がつづいています。
今日は、ちょっと大阪に行った帰りに、枚方市の「牧野」という駅で京阪電車を降りて、「アテルイの首塚」 と伝えられている旧跡を見に行ってきました。
アテルイ(阿弖流為)とは、8世紀末から9世紀初にかけて今の岩手県胆沢地方を根拠地に活躍した蝦夷のリーダーで、 十倍もの圧倒的兵力で何度も侵攻してくる朝廷軍に対して勇敢に立ち向かい、そのたびに打ち破り続けます。しかしついに802年(延暦21年) 、抵抗戦争も限界と決断したアテルイは副将のモレ(母礼)とともに、征夷大将軍坂上田村麻呂のもとに投降しました。 都に連行されたアテルイらは、田村麻呂による助命嘆願にもかかわらず、河内国の杜山(椙山あるいは植山との説もあり) というところで斬首されます。
そのアテルイの首がその後どうなったのか、ちゃんとした記録には残っていません。「斬られた首は、叫び声を上げながら空を飛び、 故郷へ帰った」という伝説さえあります。しかし、この河内国の一ノ宮の境内には、昔から地元の人に「エゾ塚」と呼ばれてきた盛り土があり、 いつしかこれが蝦夷の頭領アテルイの塚であると考えられるようになったのです。
京阪の牧野駅から南東に300mほど歩くと、片埜神社というこぢんまりした社があり、 その隣にある公園の木の下に、高さ50cmほどの小さな花崗岩の碑が立っていました(右写真)。 碑はたしかに塚のように盛られた土の上あるのですが、碑文もなく周辺に何の説明板もなく、 知らない人にはこの小さな丸い石の意味は、まったくわからないでしょう。でも毎年8月にはこの前で、「アテルイ・ モレ慰霊祭」が行われているのだそうです。
ご存じのように、賢治の「原体剣舞連」には「達谷の悪路王」 が登場しますが、この悪路王とは、ほかならぬアテルイのことと考えられています。ただ「原体剣舞連」の中では悪路王の首は、 塚に埋められずに「刻まれ、塩漬けにされ」ますね。
じつは私は最近、『火怨―北の耀星アテルイ』(高橋克彦著)という小説を読んだもので、 アテルイや古代東北にちょっと傾倒しているのです。
4年前の夏に「原体剣舞連」 詩碑を探して彷徨ったあたり、北上川を水沢から江刺に渡る四丑橋の東畔の平原で、 788年にアテルイ軍が紀古佐美の率いる10万の朝廷軍を破ったのかなどと思いながら、ページをめくっていました。この調子では、 夏に予定している花巻旅行のルートにも影響してしまいそうです。
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