いのちの総和としての「森」

https://yukihanahaiku.jugem.jp/?eid=15 【いのちの総和としての「森」~ 宇多喜代子第八句集「森へ」を読む】より

いのちの総和としての「森」~ 宇多喜代子第八句集「森へ」を読む

五十嵐秀彦

宇多喜代子が2018年12月に第八句集『森へ』(青磁社)を発表した。宇多は1935年10月15日生まれ。今年2019年には84歳となる。1970年「草苑」に参加し桂信子に師事。2004年に「草樹」創刊、会員代表となる。現代俳句協会賞、蛇笏賞、現代俳句大賞など多数受賞しており、現在の俳句界を代表する作家のひとりで、大物中の大物である。

一方、私にとって、宇多喜代子というと思い出される作家がいる。それは小説家・中上健次だ。

「汽車がこの間全通したと思ったら、いつの間にか、本数が減った。熊野に〈近代〉は一番遅くやって来て、一番早く去っていくという事なのか。それなら〈近代〉が打ち壊した山を返せ。原っぱを返せ。熊野川のあの川原の黒い砂利を返せ。人の情をかえせ。魂をかえせ。」(「熊野大学公式サイト」より)

中上健次がそう「檄文」を発し故郷の地に「熊野大学」を立ち上げたのが1987年だった。宇多もこの構想に参加する。そして1992年に熊野大学出版局から句集『夏月集』を発行する。その句集を中上は「日本の、詩歌文芸の世界に対する、不意の一撃(クー・デ・ター)だ」と評価し、「宇多喜代子は、水の女の感性でもって禁忌を突破し、大胆に詠う」とも語っていた。

その中上も、この句集出版の年に世を去った。あれから26年の歳月が流れ、時代は流転を続けた。私は、中上健次不在の26年間という時代状況・文学状況というものを、今回の句集『森へ』を読むことで思い返さずにはいられなかった。「山を返せ。原っぱを返せ。」「人の情をかえせ。魂をかえせ。」この中上の叫びは今もなお、この国に響き続けているのではないか。

永劫と瞬時をここに滝しぶき       この郷の湧水尽きず蝶尽きず

水分の神か真白に草氷柱         燕くる空を綺麗にして待てば

宇多は、永遠のものと一瞬のものとが途切れることなく存在するこの世界・宇宙というものに大きな慈愛を感じるとともに、冷酷なほどの空虚もそこに見つめている。同時に、自分自身の老いもまた流れゆく時間のひとこまとして凝視してもいるようだ。それは次の句に強くあらわれている。

もてあますわが体温や麦の秋        初夢の縁者こぞりて吾に向く

手足無事目鼻無事なる青田中        短夜や生涯木の家より知らず

読めて書けてされど忘じて冬日和      七十の次の八十冬帽子

秋袷死なずに生きていずれ死ぬ

生きる。その意味を考えるとき、彼女の魂は自然の美しさと人の世の愚かさ醜さ、だがしかしいとおしくもあるものたちの間を往還するのだ。終戦の年、10歳だった宇多にとって、戦争の記憶は、愚かしさと残酷さそのものとして人生に底流し続けているのだろう。

降り来たるものみな怖し火も雪も     露しぐれ戦のことはもう聞けぬ

炎天下死んだ少女の手に水筒       終生の目の底を這う炎かな

生きてあれば生きてあればと金魚の尾   八月はまことに真夏永久に真夏

芒原死者が生者をいたわりて        国益にならぬ蚕も透き通る

不戦宣言そののち緩む単帯

人の愚かさの中にいやおうもなく自分自身がいる。戦争が過去となり、まるで無かったかのように流されてゆく時代にあって、動くもの動かざるものの、ひとつひとつに全神経を感応させようとするかのように宇多は荒野にひとり立っている。

鳥獣ぞうぞう動く冬の山       梟を見る肩肘を張りつめて

対岸もこの世か春の茜さす      梅咲けば梅散れば父母在すかに

子午線はこのねこじやらしこのあたり

俳人として生きることは、薄っぺらな「花鳥風月」を詠うためではない。もっと生の本質的な、生暖かい核に触れることである。森羅万象とは、永遠に流転するいのちの諸相のことだ。宇多はいま、森へとその歩を進める。いのちの総和の象徴としての「森」が、俳人を迎え入れようとしている。

昭和、平成と詠い続けてきた俳人の一句一句が、時代意思さえ光らせながらいのちの森へと向かうのである。あたかも静止しているかのような自然の世界から、細かくふるえる魂の律動が聞こえてくる。

蛇の手とおぼしきところよく動く      雨あとの森を背負うて蝸牛

森の風絶えて樹形のととのいぬ       森の匂い書庫の匂いに似て晩夏

2018年、金子兜太が世を去った。戦後俳句という時代の代弁者がまたひとり去っていった。宇多にとって、兜太の死は何を意味しているのだろうか。自問するような数句がこの句集の終盤におさめられていた。

白梅にひろびろとして他界の野      兜太に母その母に母山の梅雨

これぞ前衛夏の草の曲りよう       棒に止まらぬ蜻蛉もいて秩父かな

兜太はひとり母の山へと帰っていった。秩父の梅雨の山に、振りかえることもせず、「棒に止まること」をいさぎよしとしなかった孤高の男の後ろ姿が消えていった。

時代、孤心、自然。そこに俳句の本質がある。それはまた俳句だけではなく、短歌も、自由詩も、あるいは歌謡曲の歌詞もまたそうであろう。詩歌の変わらぬ本質がそこにある。人と自然、瞬間と永遠、戦争と平和。点としての生が集まって森となる。孤心は孤独ではなく、自然界の一点として詩となり立ち現れるものだ。

宇多喜代子の第八句集『森へ』は、そのことを私に教えてくれた。心の奥底を揺さぶる感動作である。

鰯雲その果てその果て鰯雲

(「雪華」2019年2月号)

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