宮沢賢治の詩的視座から俳句を味わう

Facebook能村 聡さん投稿記事

賢治さんは私が小さなときから、大好きで敬愛する作家・思想家さんです。

彼自身の生き方(菩薩行)が、この「雨ニモマケズ」の詩に凝縮されています。

宇宙的な視座をもって、子どもにも伝わる童話を通じて、宇宙の真理(法則)や生態系(いのちのつながり)の素晴らしさ、魂の真実、を伝えようとした宮沢賢治さんは日の本が誇るべき日本人の一人だと思います。

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「雨ニモマケズ」の宮沢賢治さんのお話しです。

偉い人よりも、人のために働く人になりたかった賢治。 賢治は岩手の花巻の農業高校で、教師をやっていた時期があるのですが、答案用紙に何も書かなくとも、生徒に絶対に0点をつけなかった。 名前だけ書いても20点をあげていました。 たとえ何もできなくたって、0点の存在などこの世にいないからです。 せっかくついた安定職である教師を辞めて、農民になろうとしたときも、思いとどまらせようとした校長に対して、賢治はこう言いました。 「私は、もっと土にまみれて働きたいのです。教師をして、生徒たちを立派な農民に育てるのも大切な仕事です。 でも、それだけでは、本当の農民の苦しみはわかりません。 雨が降れば大水でたんぼを流され、日でりが続けば、稲の枯れるのをじっと見ているよりほかに、何もできない人たち。 その人たちのことを思うと、のんびり教師などしていられないのです。 その人たちと一緒になって働き、その人たちのために、いますぐ役に立ちたいのです」 農業学校に通う生徒たちの多くが、卒業後、大変だからと農業をせずに役所に勤めたりするのを見て、賢治は「これではいけない。新しい農村社会をつくろう」と意を決したのです。

「絶望は神さまからの贈りもの」 ひすいこたろう 著 柴田エリー 著 SBクリエイティブより

「雨ニモマケズ」の現代語をご紹介します。

雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けず 丈夫な体を持ち

欲はなく決して怒らず いつも静かに笑っている 1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを自分を勘定に入れず よく見聞きし 分かり そして忘れず 野原の林の下の蔭の 小さな萱ぶきの小屋にいて 東に病気の子供あれば 行って看病してやり

西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い 南に死にそうな人あれば

行って怖がらなくてもいいと言い 北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き 皆にデクノボーと呼ばれ

ほめられもせず 苦にもされず そういうものに私はなりたい

この有名な詩は、賢治さんが亡くなった後、賢治さんの手帳に書かれていたものをトランクの中から発見されたもので、発表されるためにつくられたものではありません。 賢治さんの理想の生き方だったのでしょう。 誰かが見ているからとか、有名になりたいとか、損得とかじゃなく、 純粋に、誰かのために優しく生きる生き方。 そういうものに私もなりたい。

※魂が震える話より


https://www.kenji-world.net/who/who.html   【宮沢賢治とは誰か】より

イントロダクション

▽このサイトの狙い

 宮沢賢治は日本で世代をこえてもっともよく読まれ、愛されている作家のひとりである。約100年前の1896年に岩手県で生まれ、37歳の若さで亡くなった。そのため、生前に出版されたのは童話集「注文の多い料理店」と詩集「春と修羅」だけで、ほとんど世に知られていなかった。しかし、彼の死後、書き残した多数の童話と詩などが編集され出版されるとともに、作品世界の豊かさと深さが広く認められるようになった。

 1996年は賢治の生誕100年にあたり、故郷の岩手県をはじめ各地でさまざまな催事が開かれただけでなく、賢治をめぐる多数の書籍が出版され、たくさんのテレビ番組と何本かの映画が製作され-------といったようにさまざまなメディアをあげての大きなブームとなった。この現象には大手の広告代理店や鉄道会社が仕組んだブームという面もあるが、それだけのこととはとても言えない。

 近年、世代をこえて熱心な賢治の読者が増えていて、これには、日本社会のいき詰まりを感じている人たちが、賢治の著作に新たな方向を探っていく手がかりを感じとっているという面がある。

 このように日本国内ではもっともよく読まれる著作家の一人になっているにもかかわらず、海外では賢治はいまのところほとんど知られていない。それなら、賢治の作品の豊かさ、深さを海外の人たちにも知ってもらうきっかけをインターネット上でつくろう、というのがこのサイトの主な狙いのひとつである。

 賢治の著作は、国や文化の違いにかかわりなく、現代の困難な課題に挑もうとする人たちを励ます力をもつと思われるからである。

▽辺境的な地域に根を下ろした世界的な普遍性

 賢治が生涯のほとんどを過ごした岩手県は、東京からは辺鄙な貧しい地方とみなされていた。賢治の生家は富裕な質屋であり、周囲の貧しい人たちから絞りとった利益によって恵まれた生活をしてきたのではないかという思いに彼は苦しめられた。そうした思いと仏教への信仰に駆られて、賢治は短い生涯の間、貧しい農村の生活を改善することに役立ちたいという情熱を持ち続けた。

 賢治は地域の生活の向上に役立つために苦闘するとともに、他方で同時代(1910~20年代)のヨーロッパを中心に起きた科学や哲学、芸術の大きな地殻変動に対して強い関心をもち、貪欲に知識を吸収していた。

 こうして急速に近代化しつつある日本の辺境扱いされた場所から、ローカルな地域に深く根をおろしながら、同時に世界中の人々の心に訴える普遍性をもつ賢治の作品群が生み出された。

▽賢治のコスモロジー

 賢治の物語では、人と動物や植物、風や雲や光、星や太陽といった森羅万象が語りあったり、交感しあったりする。このような森羅万象の関わりあいの自在さに、賢治の物語の大きな特色がある。これらがデタラメなこととしてではなく、生き生きとしたリアリティをもって語られる。

 地質学者としての訓練を受けた賢治はフィールドワークの人であり、彼のファンタジーの出発点も、野外を歩き回っている時に実際におきた心の中の出来事におかれている。そのために、リアリティをおびた生き生きとした語り方が可能だったのだろう。野外を散策しながら、鉱物や植物について細かく観察し、気象の変化を敏感に感じとるだけでなく、それらに促されて自分の心の中から湧いてくるさまざまな感情や想念とその交錯を観察し、記録するという方法をつくりだしていった。そうした方法を賢治は心象スケッチと呼んだ。 →『宮沢賢治と心象スケッチ』の概念マップ

 賢治は、生き物はみな兄弟であり、生き物全体の幸せを求めなければ、個人のほんとうの幸福もありえないと考えていた。しかし、単に理念としてそう考えただけでなく、山野を歩き生き物や鉱石、風、雲、虹、星との関わりのうちに、しばしば我を忘れて没入する人だった。賢治はそうした自然との交感に至福を見いだしていたし、賢治の文章の豊かな活力の源泉も、そうした森羅万象との交感から得たエネルギーにあった。

 賢治のたくさんの作品群から、自然に対する近代の人間の傲慢さ知り、人と生き物と地球と宇宙の関係を捉え直す、新たなコスモロジーへの方向づけを、読者は読みとることができるだろう。

▽排外主義的な日本社会に対するオルタナティブの探究

 また賢治が生きた時代は、日本社会で周囲のアジア諸国の人々に対する排他的で自己中心的な意識が強まり、やがてアジア諸国に対する侵略戦争へと進んでいく時期だった。他方、賢治の物語の中では村人と村をとりまく自然の中で生活する異質な者たち(山男、風の精、山猫、鹿、熊、狐-----)との開かれたコミュニケーションが重要なテーマとなっている。賢治はこうしたテーマを通じて排外的で閉ざされた日本社会と違った、オルタナティブな可能性を探ろうとしたのだと思われる。

 これは、21世紀に向かう現代社会に対する新鮮な問題提起でもある。

賢治とその作品の魅力 賢治作品のユーモア 賢治作品のリズム

星や風、生き物からの 贈り物としての詩、物語

科学と詩の出会い 詩と科学の出会い・2 心のたしかな出来事としてのファンタジー

異質の者に対して開かれた心 子供から大人への過渡期の文学 作品の多義性、重層性

作品における倫理的な探究 エコロジスト的な探究 教師としての賢治

社会改革者としての賢治


https://note.com/astro_dialog/n/n01a1e0526092 【宮沢賢治の宇宙(32) 「宙宇」に見る、相対論的な賢治】より

宙宇の謎

宮沢賢治は自分の思いつきで新たな言葉を使うことがあった。特に説明なしで使われるので、読者にはすぐ理解できない言葉も多い。そのひとつの例が「宙宇」だ。『詩ノート』付録〔生徒諸君に寄せる〕〔断章五〕に「宙宇」が出てくる。

宙宇は絶えずわれらに依って変化する  (『【新】校本 宮澤賢治全集』第4巻、筑摩書房、1995年、298頁)

賢治にとって「宙宇」は「宇宙」のことだが、なぜか「宇」と「宙」の順番が逆転している。

それはさておき、この文章を読むと、賢治は宇宙と私たちは相互作用し、ひとつになって変化する描像を抱いていたようだ。賢治の信じていた、法華経的な宇宙観なのだろう。

「宙宇」はこのほかに下書き原稿で2回使われている。

〔日はトパーズのかけらをそゝぎ〕下書稿(一)

古い宙宇の投影である。(『【新】校本 宮澤賢治全集』第3巻、校異篇、筑摩書房、1996年、162頁)

〔薤露青〕下書稿(六)

もしこのそらの質の宙宇(『【新】校本 宮澤賢治全集』第3巻、校異篇、筑摩書房、1996年、270頁)

註: 索引には『インドラの網』の下書きに2箇所「宙宇」が出ているとされているが、該当はない(『【新】校本 宮澤賢治全集』第9巻、校異篇、筑摩書房、1996年、134、135頁)。なお『インドラの網』の下書き情報がある132-140頁までを調べてみたが「宙宇」を見つけることはできなかった。

一方、「宇宙」の方は、『【新】校本 宮澤賢治全集』の索引を調べてみると、一回しか使っていない。童話『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』に登場する博士の言葉に「宇宙」が出てくる。

「げにも、かの天にありて濛々たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す。」 (『【新】校本 宮澤賢治全集』第8巻、筑摩書房、1995年、316頁)

下書き稿を含めれば「宙宇」が3回、「宇宙」が一回使われている。単なる間違いではなく、意識的に「宙宇」を使っていると考えてよい。何らかの意図を持って賢治は「宇」と「宙」の文字を逆転させたのだ。その理由を考えてみよう。

「宇宙」の意味

じつは、この逆転は、天文学者としてはよくわかる。

そもそも宇宙という言葉は中国の戦国時代に諸子百家の『尸子(しし)』で最初に使われたと言われる(紀元前四世紀)。一般には漢の時代に編纂された書物『淮南子(えなんじ)』に起源を持つと言われるが、こちらは紀元前二世紀頃なので、『尸子(しし)』の方が早い。これについては以下を参照されたい:『宇宙観5000年史』(中村士、岡村定矩著、東京大学出版会、2011年)。

さて、『尸子(しし)』によれば、「宇」と「宙」には、それぞれ以下のような意味がある。

宇=天地四方上下=空間

宙=往古来今(過去、現在、未来)=時間

つまり、あらゆる空間と時間を包括するものとして宇宙があるのだ(図1)。

図1 「宇」と「宙」の意味。「宇宙」は空間と時間を組み合わせると「空時」になる。また、この後で述べるが、「世界」に対応する。

賢治は「時空」を大切にした

私たち科学者は空間と時間をまとめて「時空」と表現する。じつは、この言葉に従うと、「時」=「宙」、「空」=「宇」の関係から、「宙宇」になる(図2)。「時空」は「宇宙」ではないのだ。

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図2 図1で示したように「宇宙」は空間と時間を組み合わせると「空時」になる。逆に、「時空」にしたい場合は「宙宇」となる。

賢治はアインシュタインの相対性理論も勉強していたので、「時空」という言葉に慣れ親しんでいた。そこで敢えて「宙宇」にしたのだ。そう考えれば、「宙宇は絶えずわれらに依って変化する」に疑問はない。

「世界」は「時空」

私たちはよく「世界」という言葉を使う。席後はなんだろうか?

もともとはインドのサンスクリット語が起源の言葉だが、中国で漢語に訳されたとき、「世界」になった。そして、それが日本に伝わったものである。

「世界」という言葉を分解してみると、次のような対応関係がある。

世=時間

界=空間

つまり、「世界」=「時空」である(図1)。世界は宇宙より相対論的だったのだ! ちなみに賢治は作品の中で「世界」を20回以上も使っている。

力丸光雄の「χへの手紙」

2019年9月末に神田神保町で洋々社の刊行した『宮沢賢治』全十七巻がセットで売られていた。早速、買い求め、自宅で最初から読み始めた。すると、“宙宇=時空”の関係を指摘した記事を見つけた。『宮沢賢治 第6号』(1986年)にある力丸光雄(元岩手医科大学教授)の「χへの手紙」だ。

賢治の作品にはどうしても理解できない部分があると感じている人が少なくありません。わたしは、それは賢治が宙宇(時空)の旅行者(トラベラー)だったからではないかと思ってます。  (22頁)

私が気づくようなことは、先人の方々が既に気がついていた。

勉強あるのみ。つくづくそう思う

ご利益のある一枚の色紙

最後に色紙を一枚(図3)。花巻の林風舎で買い求めたものだ。

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図3 花巻の林風舎で買い求めた色紙。書斎の壁に掛けて、毎日眺めている。


https://note.com/astro_dialog/n/ne7bd7e6855f6 【宮沢賢治の宇宙(60) 時間のない頃って、いつですか?】より

「雲の信号」

宮沢賢治の『春と修羅』に「雲の信号」という短い心象スケッチがある。

あゝいゝな せいせいするな 風が吹くし 農具はぴかぴか光つてゐるし 山はぼんやり

岩頸(がんけい)だつて岩鐘(がんしょう)だつて みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ そのとき雲の信号は もう青白い春の 禁慾のそら高く掲げられてゐた 山はぼんやり

きつと四本杉には 今夜は雁もおりてくる (『【新】校本 宮澤賢治全集』第二巻、筑摩書房、1995年、30 頁)

12行の短い詩だが、興味深い言葉が出てくる。「時間のないころ」である。

私たちはひとつの宇宙に住んでいる。宇は時間であり、宙は空間である。つまり、私たちは「時間のあるころ」に住んでいる。「時間のないころ」とは、いつのことを指しているのだろうか?

岩頸と岩鐘

「時間のないころ」を考える前に、岩頸や岩鐘について説明しておこう。岩頸も岩鐘も地球科学の専門用語であり、普通の人なら知らないだろう。賢治は大の鉱物好きだったので、岩石の性質や地形の成り立ちについては詳しかった。岩頸と岩鐘を辞典で調べると以下の説明がある。

岩頸(火山岩頸) 火山噴出物の地表への通路を満たして生じた火成岩が、火山体が侵食された結果円柱状に露出したもの。 (『広辞苑』第七版、2018 年)

岩鐘 地中から噴出した溶岩が地上に出て。円錐形または鐘状に凝結したもの。鐘状火山。トロイデ。 (『精選版 日本国語大辞典』) https://kotobank.jp/word/岩鐘-2026065

火山噴出物の残骸だが、出来上がった形状は釣鐘型になる。シルエットは「おむすび型」になるので、比較的目立つ山になる。賢治は中学時代、親友の藤原健次郎と南昌山によく登った。この南昌山が岩頸である(図1)。

図1 南昌山。(上)クローズアップ、(下)遠景。 (上)https://ja.wikipedia.org/wiki/南昌山#/media/ファイル:南昌山_IMG_9394.jpg (下)畑英利

時間のないころ

次は「時間のないころ」である。この解釈は宇宙(時間と空間)の誕生がどうなっているかに依存する。宇宙の誕生はまだよく理解されていないが、ひとつの解釈として「無」からの宇宙誕生説が提案されている。ミクロの世界ではすべての物理量が揺らいでいるので、「無」も揺らいでいると考える。すると、「無」で粒子の生成が行われうる。正と負のエネルギーを持つ粒子がペアで生成される現象なので、対生成(ついせいせい)と呼ばれる。これらの粒子は生まれても、すぐに消滅していく(対消滅)が、ある有限の確率で正のエネルギーを持った粒子(領域)が残り、それが宇宙の誕生となる。宇宙が誕生する前には時間も空間もない。時間も空間も宇宙の誕生によって生じたものである。

「無」からの宇宙誕生説を採用すると、「時間のないころ」は宇宙が誕生する前のことになる。

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図2 宇宙の誕生と進化のシナリオにおける「時間のないころ」。 https://map.gsfc.nasa.gov/media/060915/060915_1600.png

時間のない頃の夢を見ているのは岩頸と岩鐘

賢治の「雲の信号」では、時間のない頃の夢を見ているのは岩頸と岩鐘である。岩頸と岩鐘は地球の火山活動で生まれたものだ。したがって、岩頸と岩鐘にとって「時間のないころ」は「地球のないころ」と捉えてよさそうだ。

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図3 宇宙の誕生と進化のシナリオにおける「地球のないころ」。 https://map.gsfc.nasa.gov/media/060915/060915_1600.png

賢治がそう考えたかどうかは不明だが、心象スケッチの中に「時間のないころ」という言葉を残したのはすごいことだ。

ところで、地球はいつまであるのだろう? なんだか、心許ない。そう思うのは私だけだろうか。

追記:「時間のないころ」の説明については以下の本を参照されたい。

『宮沢賢治と宇宙』(谷口義明、大森聡一、放送大学教育振興会、2024年、第6章)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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