https://blog.miraikan.jst.go.jp/articles/20210902post-433.html 【人と自然が共生する世界、どうすればつくれる?】より 遠藤 幸子
みなさんは、勉強、スポーツ、お仕事、趣味などで達成したい目標はありますか?
実は、世界の国々が一緒になって、たてている目標があります。人類が将来もずっと地球で暮らし続けられることを目指すもので、例えば、SDGs(持続可能な開発目標)は、2030年までに「持続可能でよりよい世界」にしようと、国連に加盟している193か国がともに掲げている目標です。
このようなよりよい社会を目指した国際目標はいろいろありますが、今回注目したいのは、2050年までに「自然と共生する世界」を実現するという目標です1。私たちの生活はあらゆる面で自然からの恵みに支えられていますが、私たちはその自然を壊したり、自然の回復力を上回る形で利用を続けてきてしまいました。この自然破壊を止め、むしろ自然を再生していくことが、将来もずっと続いていく、持続可能な社会をつくるうえで求められています。それも、これからの10年がこの目標を達成するうえで非常に重要であるとのこと!
この「自然と共生する世界」とは、いったいどんな世界なのでしょうか。そして、私たちは、自然とどんな付き合い方をすることで、この目標を達成することができるのでしょうか。
オンラインイベント「令和3年(第15回)みどりの学術賞 受賞記念イベント 武内先生と考えよう!自然も人も大切にできる社会のつくりかた」では、令和3年(第15回)みどりの学術賞受賞者である武内和彦先生にご出演いただき、自然と人とが共生できる社会についてのお話とその取り組みについて伺いました。
イベント当日の様子
日本の里山・里海は、自然と人とが共生してきた場所
「みなさんは、「自然」というとどんな景色を思い浮かべますか?」
イベントの開始前に、視聴者のみなさんにこのような質問をしました。すると、Youtubeのチャット欄には「子どもたちが水遊びしている川」との書き込みが! 「自然」といっても、身近にある川や森、人の手が入っていない原生林など、さまざまな風景が思い浮かびますよね。
生き物調査の様子 (写真提供: 佐渡市)
その身近な自然のひとつに、里山や里海があります。武内先生は、このような「日本の自然は、人によって持続的に使われてきたという歴史がある」と言います。どういうことかというと、里山や里海では、その土地で収穫されたものをそこで消費する地産地消の仕組みがありました。その土地の自然と人とが持続的に共存していける仕組みが自然と成り立っていたのです。
その後、経済成長が始まり、地域や国境を超えた交流が行われるようになりました(グローバル化)。そして、人は都市に集まり、農村地域では高齢化が進むようになりました。生産地(農村)と消費地(都市)とが分かれてしまい、食べ物は、自分たちの地域で作らなくても、海外から安いものを大量に輸入することができるようになったのです。
この変化に対して、武内先生は「このような社会が本当に持続可能な(ずっと続いていける)社会に繋がるのかというと、私は繋がらないと思います」と言います。そして、里山のような、「人と自然が持続的に共生できる仕組みを、現代社会のなかでどう活かしていくかを課題とし、これまで研究に取り組まれてきた」とのことでした。
日本から発信: 世界の人たちとともに
「人と技術・情報の交流のグローバル化はあっていいが、自然と人間が良好な関係をつくる社会、自然共生社会をつくろう」
「日本だけでなく、世界の人たちと一緒にそれぞれの地域でやっていきたい」
このような思いが実践されている、「SATOYAMAイニシアティブ」という取り組みをご紹介いただきました。
SATOYAMAイニシアティブとは、日本の里山のような環境で、人と自然のよりよい関係を再構築していくことで、将来もずっと続く自然と人とが共生できる社会をつくる国際的な取り組みです2。これは、2010年10月に愛知県名古屋市で開催された生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)という国際会議で提唱されました。この「SATOYAMA」、当初英語として広めることは大変だったそうですが、今では国際共通語になっているのだとか。
「海外に行くとですね、スウェーデンで、ここがスウェーデンでの里山ですって逆に説明をされたり、あるいはオーストリアの里山ですっていうふうに説明を受けたりすることがしばしばあります」とのこと。そして「世界にも、日本の里山のような、人と自然とのよい関係がはぐくまれている場所はある」と武内先生は言います。 そういった海外の土地も「SATOYAMA」と総称することに関して武内先生は、「世界には(その土地それぞれの)里山的環境の呼び方がある。世界中でSATOYAMAって呼んでくれっていうよりも、むしろそれぞれの固有の名称を大事にしながら、再生をはかっていくことが大切」という想いがあったそうです。現在、世界にある里山的景観、里海的景観に対しては、「社会生態学的生産ランドスケープ・シースケープ(Socio-Ecological Production Landscapes and Seascapes)」という言葉が使われているとのことでした。
お話を聞いていて、日本の里山の見方が少し変わった方もいらっしゃったかもしれません。私たちの身近なところに、人と自然が共生していくヒントがあったのです。
私のものでも、公のものでもなく、
“わたしたちのもの”として守っていく自然と文化
ただ、里山のように人と自然が寄り添い暮らしていた場所において高齢化が進むなど、土地の管理が難しくなってきていると武内先生は指摘されました。そこで重要な役割を果たすのが、「コモンズ(共有地)」という考え方だそう。
これまで、里山などでは、農業は農業、林業は林業などそれらにかかわる人達が独立して活動してきたとのこと。その境界を取り払い、地域で暮らす人たちがその土地の自然を「わたしたちのもの」として適正に手を入れ守っていくというのが、「コモンズ」という考え方だそうです。 例えば、阿蘇山には広大な草原がありますが、これらは火入れによって維持されています。それが、農家の方の高齢化によって、火入れを農家だけでやっていくのが難しくなったそう。そのような状況でしたが今は、火入れの時期になるとボランティアの人がやってきて、みんなで火入れをするというかたちで維持されているとのこと。まさに、「コモンズ」として、阿蘇山の草原が維持されているという事例のご紹介がありました。
「現代版の自然共生社会」をつくる
ここまでのお話を聞いていて、これから目指す「自然と共生する社会(自然共生社会)」は、昔の暮らしに戻ることではないことがわかります。
人と自然がお互いに関係を持ちながら、農林水産業を中心として維持されてきた里山や里海といった景観。このような環境を大事にしていくために、「これらの地で育まれてきた知恵を集めて、世界の人とともにそれらの知恵を今後の地域づくりに活かしていくこと」。人と自然が関わりながら維持されてきた土地を、みんなの共有地として管理しようという「コモンズという考え方」。そして「伝統的な知恵と近代的な知識を組み合わせることによってこれからの時代にも里山的な社会が通用する仕組みをつくっていくこと」、この3つが重要であると武内先生はいいます。
https://note.com/mitsukage/n/n9e301867bec3 【俳句や詩歌にとって持続可能性とは 『地球の生物多様性詩歌集』公募に寄せて】より
◆地球・ウイルス・人間
新型コロナウイルス感染症の流行が続いている。本誌が刊行される約一年前の三月二十四日、安倍前総理は、二〇二〇年夏に開催予定だった東京五輪の一年延期を発表し、「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証しとして、完全な形で東京オリンピック・パラリンピックを開催する」と宣言した。またその後を受けた菅総理もほぼ同じ言葉を繰り返した。
ウイルスから人類に仕掛けられた戦争のように、それに「打ち勝つ」という人の意識は、自分達だけがただ生き延びることを今生の目的とするならば、至極妥当であろう。しかし、地球という資源の限られた惑星に共生する生物の一種であると想像を転換すれば、その言葉がいかに人間中心主義に囚われた世界認識であるかが露呈するだろう。コロナ禍のさ中、世界三十カ国以上で出版され読まれたエッセイ集の中で、イタリア人小説家は次のように述べていた。
ウイルスは、細菌に菌類、原生動物と並び、環境破壊が生んだ多くの難民の一部だ。自己中心的な世界観を少しでも脇に置くことができれば、新しい微生物が人間を探すのではなく、僕らのほうが彼らを巣から引っ張り出しているのがわかるはずだ。
増え続ける食糧需要が、手を出さずにおけばよかった動物を食べる方向に無数の人々を導く。たとえばアフリカ東部では、絶滅が危惧される野生動物の肉の消費量が増えており、そのなかにはコウモリもいる。同地域のコウモリは不運なことにエボラウイルスの貯蔵タンクでもある。
コウモリとゴリラ──エボラはゴリラから簡単に人間へ伝染する──の接触は、木になる果実の過剰な豊作が原因とみなされている。豊作の原因は、ますます頻繁になっている豪雨と干ばつの激しく交互する異常気象で、異常気象の原因は温暖化による気象変動で、さらにその原因は……。
頭がくらくらする話だ。原因と結果の致命的連鎖。しかしほかにいくらでもあるこの手の連鎖は、以前に増して多くのひとが考えるべき喫緊の課題となっている。なぜならそれらの連鎖の果てには、また新たな、今回のウイルスよりも恐ろしい感染症のパンデミックが待っているかもしれないからだ。そして連鎖のきっかけとなった遠因には必ずなんらかのかたちで人間がおり、僕らのあらゆる行動が関係しているからだ。
(パオロジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』早川書房)
◆直面する持続可能性の危機
二〇一六年、気候変動対策の国際枠組み「パリ協定」は、長期目標として気温上昇を産業革命前に比べて二度未満に抑えることを目指し(これまで既に約一度地球を温暖化させたと推定される)、可能なら一・五度に抑えるという努力目標を掲げた。しかし、国際的な専門家らによる機関、国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が二〇一八年に公表した「一・五度特別報告書」によると、近年にみられる進行速度で続けば、二〇三〇年から二〇五二年の間に一・五℃に達する可能性が高い。世界の潮流に押されるように、菅総理は昨年十月の所信表明演説で、二〇五〇年までの温室効果ガス実質排出ゼロをめざすと宣言した。Youtubeで「グレタ・トゥーンベリ」を検索すれば、スウェーデン出身の十八歳の環境活動家の次のような切実な訴えを視聴することができる。
もしあなたが現在の世界最先端とされている科学的知識に耳を傾ければ、気候と生態系の危機は、システムの変革なしでは解決できないことがわかります。/それはもはや「意見」ではありません。/「事実」です。/気候危機は、より大きな持続可能性の危機の一部に過ぎません。/長い間、私たちは自然から距離を置き、唯一の故郷である地球を酷使してきました。明日のことなどお構いなしに生きてきました。/現在のCO2排出量では、一・五度以下に気温上昇を止めるために、残された排出可能なCO2の量は七年後には完全に消えてしまいます。/二〇三〇年や二〇五〇年の目標を達成するずっと前に、手遅れになります。
(グレタ・トゥーンベリ「Hope」日本語字幕 Fridays For Future Japan)
一・五度という目標を決めたところで、「システムの変革」が無ければ、達成への実現性は危うい。このようなグレタの地球の危機に警鐘を鳴らす言動に対して、インターネットの一部の匿名者からは、冷笑的なコメントが投稿されている。グレタが依拠しているのは科学的「事実」で、近い将来に環境被害が彼ら自身にふりかかり、その冷笑が凍りついてしまうかもしれないにも関わらず。若年者にこれまでの自分の常識を否定される屈辱感か、そもそも現実を受け入れられないのだろうか。なお人類活動と地球温暖化の相関関係についての否定論(「太陽活動説」「氷河期到来説」等)もある。しかし、国立環境研究所地球環境研究センター副センター長の江守正多氏によれば、それらの論は科学的精査によって既に否定されており、「主に人間活動の影響で温暖化が起きているということは、科学者の大部分、少なくともほぼすべての気候科学者の間で合意されている」という。
◆SDGsという広告的戦略と生物多様性
二〇一五年、国連加盟の一九三カ国すべてが賛同した国際目標がSDGs(Sustainable Development Goals)(持続可能な開発目標)だ。SDGsは、十七の目標(ヴィジョン)と一六九のターゲット(達成を目指す年や数値など具体的な到達目標)から成る。カラフルなアイコンが印象的で、最近企業活動など様々な場面で目にする[図1]。なお、このアイコンを作ったのはスウェーデンのデザイナーで、各アイコンの標語の日本語化を手がけたのは博報堂のコピーライターだ。SDGsは市民向けのコミュニケーション戦略であり、ヴィジュアルや惹句によって印象づけ、ターゲットをある一定方向へ動かそうとする意味において広告的である。
このSDGsが画期的なのは、全ての国連加盟国が互いの利害関係を越えて未来のかたちを合意したものである点と、経済・社会・環境の三側面を調和させることを目的としたものである点だという。また〝持続可能な開発〟の定義は「現在および将来の世代の人類の繁栄が依存している地球の生命維持システムを保護しつつ、現在の世代の欲求を満足させるような開発」という。(参考 蟹江憲史『SDGs(持続可能な開発目標)』中公新書)SDGsの目標は二〇三〇年の達成を目指す。既に時限のストップウォッチは押されている。
持続可能な未来に向けて明るい希望のようにも見えるこのSDGsに対して「アリバイ作り」「大衆のアヘン」であると批判的な意見もある。斎藤幸平は『人新世の「資本論」』(集英社新書)で、世界が資本主義の仕組みで回っている限り、資本は増殖を止めず、無限の略奪(先進国が発展途上国から、そして地球の自然から)を繰り返し、危機的状況は進行し続けるという。斎藤は、その破滅の道から脱し持続可能な未来社会のために、市民レベルの「コモン(公的領域)」を立ち上げ、ポスト資本主義世界への変革を提案している。SDGsのような企業、国家レベルの目標を立て、進めるのは―「エコ」な気分の消費で終らないのであれば―いい。しかし、それを資本や政治の「アリバイ」にせず、市民個人個人(特に物質的に豊かな人々こそ)が、地球の危機を知り、意識変革をして行動につなげてゆく必要があるだろう。
地球の持続可能性において「生物多様性」も大きなキーワードである。一九九三年に国連環境開発会議で発行した「生物多様性条約」は、その目的として「1、生物の多様性の保全」「2、生物の多様性の持続可能な利用」「3、遺伝資源の利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分」を挙げている。また高橋進『生物多様性を問いなおす』(ちくま新書)によると、生物多様性保全には次の二つのアプローチがある。
種や遺伝子を医薬品や食料品などの生物資源として直接的に利用することから生じる価値「生物資源保全アプローチ」と、大気や水の浄化、水循環や土壌生産力などの改善など人類の生存基盤となるような生態系からの間接的な価値「生命保持機構保全」アプローチである。そのような考えは人類が生き延びるために現実的である半面、私にはこのようなアプローチや、生物多様性条約もまた、人間中心主義的思想の産物であるように思える。
高橋は、これらでは計れない「倫理的な価値」を加える考えもあるとし、人間は自然の支配者ではなく一員であるべきだとして次のように続ける。
自然界は、多くの生物種によって構成された生態系の方が健全である(略)生物学における「共生(symbiosis)」では、二種以上の生物種がお互いに利益を受けながら、いわば助け合いの中で生活している関係を示す「相利共生」と、片方だけが利益を受ける「片利共生」とがある。これまで人間は、一方的に自然界から恩恵を受ける「片利共生」ではなかっただろうか。人間が一方的に享受してきた恩恵を自然界にも還元する「相利共生」の関係にまで高めることを目指す必要がある。
(前掲書『生物多様性を問いなおす』)
◆俳句と持続可能性
さて、本論の半分以上を俳句や詩歌と関係のない話題を連ねてきたが、最後に、これまでの持続可能性や生物多様性という社会的な課題と、季節や自然を詠う文芸でもある俳句や詩歌がいかに関わりうるかについて考えてみたい。現代俳句においても典型的な俳句の形である有季定型を定着させた高浜虚子は、『俳句とはどんなものか』(角川ソフィア文庫)で次の様に断言する。「俳句はこの時候の変化につれて起ってくるいろいろの現象を諷う文学であります」。時候の変化とはつまり、春夏秋冬の四季の循環であろう。虚子が生きたのは一八七四~一九五九年。世界のCO2排出量が増え始めたのは産業革命(一七六〇~一八四〇年頃)以後で、さらにそのグラフの角度が急激に上がるのは第二次世界大戦後だ。虚子がいう時候の変化は毎年定常的に繰り返す変化だろうが、今我々世代の人類が直面しているのは、放っておいたら不可逆的となってしまう変化だ。異常気象やコロナ禍、さらには原発被害も含め、人間の生命活動に端を発する、循環的な季節の変化を享受できない「非俳句的」状況が実際に起こり始めている。
また虚子は前掲書で次のようにもいう。「私共は常に、自然の、偉大で創造的で変化に富んでいることに驚嘆するのであります。その自然に比べると人間の頭は小さくて単調なものであります。(略)変化のある新しいことを見出すのには自然を十分に観察し研究する必要がある、この自然の観察研究からくる句作法を私共は写生と呼んでいるのであります」。
虚子のこのような人間を低めて自然を高めそこに驚き賛嘆する姿勢は、「生物多様性」の理念にも合致するだろう。そしてこれは、季語を必須とする有季の俳句作家の根底にある理念であろう。
この虚子が俳句の創始者と呼んだ松尾芭蕉(一六四四~一六九四年)が生きたのは、もちろん産業革命以前だ。紀行文『笈の小文』の有名な一節を引く。
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像、花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
「四時」とは四季であり、虚子の言う「時候の変化」であろう。そして「造化」とは、中国の古典『荘子』大宗師篇で最初に使われた言葉で、そこでの使われ方は「万物の生死の変化を無限にくりかえさせる偉大な自然の働きのこと」(参考 森三樹三郎『無の思想』講談社学術文庫)である。山本健吉は「芭蕉は造化を、造物主によって作り出された森羅万象という意味においてより、森羅万象が無限に生滅変転して行く、その推移の意味に傾いている」(山本健吉『いのちとかたち―日本美の源を探る―』新潮社)という。芭蕉、そして虚子の俳句観は、世界が形を変えつつも「持続可能」であることが前提とされている。
ただしかし、花や月のような風雅の美から外れるものを「夷狄」(野蛮人)や「鳥獣」と分別して排除することは、本来的な全的な造化と矛盾しないだろうか。また虚子の「観察研究」という姿勢にも、自然をあくまで対象化して人間中心の視点を離れないところに、同様の違和感を覚えてしまう。
俳句には自然や造化が根本思想にある一面、俳人を、四季絶対化や風雅至上主義の思考停止サイクルに誘う危うい一面もあるのではないだろうか。世界環境が悪化し四季が壊れ生物が絶滅していくのに目をつむり、歳時記上の季語に縋って句を量産していてはあまりにも悲しい。
前掲の書で山本健吉は、日本人の芸術観の底にある日本人の自然観、思想として次のようにいう。
すべてのものに精霊のようなものを考え、日本ではそれは八百万の神々と言われる。すべての生き物をはじめ、山、川、森、海はもとより、風にも雨にも雷にも、竈にも厨にも屋根にも、石にも武器にも衣類にも装飾にも調度品にも、すべて「いのち」の所在を考える。(略)世界を人間中心に考えない。人間も含めて、万物を等しく生きたものとして「縁」すなわち相関連する道理において、その共存を考えるのである。(前掲書『いのちとかたち』)
前進を止めない文明社会の中にいて、このようなアニミズム精神の復興を説くのは、虚しいことだろうか? 否、現在を生きながら資本主義システムの限界をうすうす感じ取っている若者は多い。そして、何より世界最短の自然文学、俳句がある。俳句はその根本に「生物多様性」の思想を宿した文学であり、森羅万象に「いのち」の所在を見、万物の共生を志向し一句が立ち上がる時、真に豊かで持続可能な人類文明の精神的支柱の詩となりうるのではないだろうか。地球の持続可能性に対して、俳句や詩歌にしかできない関わり方が、言葉が、あるはずだ。
現在公募中の『地球の生物多様性詩歌集―生態系への友愛を共有するために』へのご参加をお待ちしております。
花にあそぶ虻(あぶ)な喰(くら)ひそ友雀 芭蕉
0コメント