出雲王朝の謎を解く!

https://www.naturalspirit.co.jp/book/b637052.html 【出雲王朝の謎を解く!】より

隠されてきた出雲王国の秘密が明らかに! そして怨念の封印を開放する!

スサノオとされる人物のモデルは、徐福だった!徐福は、中国に逃れてきたユダヤ族の末裔

イズモ族はインドから来た!イズモ族が先住民が虐待!オオクニヌシ、コトシロヌシは洞窟で殺された!柿本人麻呂が仕込んだ『古事記』の暗号!

長年大企業で技術開発に携わり活躍していた著者による「日本列島祈りの旅」最新の活動記録!

著者は2000年にインディアンの長老から突然「聖なるパイプ」を拝領し、人々に「祈り」で奉仕するという役割を担うことになり、以後、セミナー、サロン、映画などで活動を続けています。

今回は、アイヌ民族、イズモ族、ヤマト族、先住民の関係を紐解きつつ、「祈り」「チャネリング」「文献」によって封印された歴史の謎を解き明かしていきます!

「戦争も含め、いま私たちが日常的に経験している様々な出来事は、一般的には偶然の産物と考えられていますが、地縛霊の影響も無視できないのではないでしょうか。地縛霊はネガティブな怨念を強く抱いていたからこそ成仏できなかったわけで、それが影響を及ぼして地上で起きる出来事は限りなくネガティブだと想像できます。つまり、いま私たちが経験している様々な不本意な現実の中に、地縛霊の怨念が反映されている可能性があるのです。」

「本書では、出雲王家の伝承に天外の意見を加味して、出雲王朝の成立からオオクニヌシ、コトシロヌシ殺害に至る経緯、さらには『古事記』編纂にいたる裏話を記しました(1~4章)。

それだけでも、一般読者にとって驚愕の事実だと思います。さらに、5章~8章は、一転してチャネリング情報に基づいてイズモ族の供養を実行した実録です。徐福たち渡来組とイズモ族の葛藤を祈る予定が、イズモ族と先住民の葛藤という、いままでどこでも語られたことのない新たなチャネリング情報が加わり、さらには土地の地縛霊まで飛び出してきました。

あまりにもぶっ飛んだ話なので、戸惑われたかもしれませんが、おそらくこれが、表の歴史では語られることがない、日本列島の深層的な構造だったと思います。」

「『日本列島祈りの旅』は、何千年というタイムスパンの中でこの日本列島に蓄積してきた民族間のわだかまりをほどき、霊界も含めて民族間の和解を計ることが目的です。」

(以上、本文より)

著者

天外伺朗 Shiroh Tenge

工学博士(東北大学)、名誉博士(エジンバラ大学)。1964年、東京工業大学電子工学科卒業後、42年間ソニーに勤務。上席常務を経て、ソニー・インテリジェンス・ダイナミクス 研究所(株)所長兼社長などを歴任。現在、「ホロトロピック・ネットワーク」を主宰、医療改革や教育改革に携わり、瞑想や断食を指導。また「天外塾」という企業経営者のためのセミナーを開いている。さらに2014年より「社員の幸せ、働きがい、社会貢献を大切にする企業」を発掘し、表彰するための「ホワイト企業大賞」も主宰している。著書に『日本列島祈りの旅1、2』『祈りの法則』(小社刊)、『「ティール時代」の子育ての秘密』『「人類の目覚め」へのガイドブック』『実存的変容』『ザ・メンタルモデル』(由佐美加子・共著)『自然経営』(武井浩三・共著)『幸福学×経営学』(小森谷浩志・前野隆司・共著)『人間性尊重型 大家族主義経営』(西泰宏・共著)『無分別智医療の時代へ』『「自己否定感」』『「融和力」』『「生後と悪」という幻想』(いずれも内外出版社刊)など多数。2021年の夏、これからの生き方や在り方、暮らし方をみんなで学ぶオンラインサロン「salon de TENGE」をスタートした。


https://omouhana.com/2023/11/23/%E3%80%8E%E5%87%BA%E9%9B%B2%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F%E3%80%8F%EF%BC%88%E5%A4%A9%E5%A4%96%E4%BC%BA%E6%9C%97%E6%B0%8F-%E8%91%97%EF%BC%89%E3%81%AB%E3%81%BF%E3%82%8B/ 【『出雲王朝の謎を解く!』(天外伺朗氏 著)にみる、五条桐彦的古代史考察】より

僕は一冊の本を、とても興味深く拝読しました。

その本とは、2023年11月16日に出版された、「天外伺朗」(てんげしろう)先生のご著書、『出雲王朝の謎を解く!』です。

天外伺朗氏の御略歴に関しては、著書の巻末や販売サイトの紹介欄に詳しく記されていますが、かのソニー全盛期において重役を務め、CDや初代AIBOの開発に携われた方であると言えば、その凄さが一番伝わりやすいかと思います。

僕の聞いている話では、氏はソニーを退社して以降、アメリカに単身乗り込み、ネイティブの世界に傾倒されていったということです。

著書には、2000年8月に、インデイアンの長老から突然「聖なるパイプ」を拝領し、インディアン社会では長老のひとりに列せられ、「祈り人」つまリシャーマンとしての人生も歩むことになった、と記されています。

現在では経営塾などのセミナー活動を行いつつ、古代から降り積もった報われぬ魂の鎮魂の旅、「日本列島祈りの旅」を継続して実施されているとのことです。

天外伺朗氏のご紹介としては僕の拙い知識で誠に恐縮ですが、至らぬ点はご了承ください。

さて、当書では、その「日本列島祈りの旅」の出雲編の経緯や、それによる出来事が記されていました。

前半部分では、大元出版の主要な書籍の中から重要な項目を適切に引用され、古代出雲王朝時代の状況をわかりやすく解説されております。またその中で、僕の『人麿古事記と安万侶書紀』もページを割いて引用・紹介いただいてあったことには、何よりも驚かされました。

ありがとうございます、と陳腐な言葉しか思い浮かばぬ自分が、情けなく思われて仕方ありません。

『出雲王朝の謎を解く!』の内容は、大元出版による富家の伝承をしっかりと支持しつつ、しかしこれまでにない話として、チャネリングで得られた情報を元にした、伝承をも凌駕するような内容が、とても理解しやすく、脳裏に溶け込むように綴られていました。

僕は、いわゆるスピ系の話は苦手です。当然、不確定要素を古代史の考察に含めることには慎重にならざるを得ないのですが、その僕でも抵抗なくスッと入り込めたのは、天外伺朗氏のお人柄をにじませる文章によるものであろうと、深く感じ入りました。おかげで、チャネリングやパイプセレモニーといった、「日本列島祈りの旅」での情景を、リアルにイメージすることができました。

当書の中で、氏が、古代の氏族同士の関係を血脈ではなく、宗教観のあり方で考察されている点に、僕は深く興味を持ちました。

確かに血は婚姻・習合する過程で、どの血筋が優位なのか分かりにくくなってしまいます。磯城王家の立場も、出雲族なのかスサノオ族(秦族)なのか、血で考えるとどうしても矛盾が生じてしまいます。東出雲王家・富家が銅鐸祭祀を止め、銅剣祭祀に変えたことが、磯城王家との不和の一端であったというのが今ひとつピンと来ていませんでしたが、天外氏の考察を読み、なるほどそうか、と思い至ったものでした。

人を結ぶのも、殺すのも、その根底に宗教観があることは、今も昔も変わりません。

この学びは、今後の僕の旅の考察を、さらに深みに導くこととなるでしょう。

しかしここで、『出雲王朝の謎を解く!』の内容の一部に、僕は違った方向からの考察を記さなければなりません。僕は大元出版の末席に名を置かせていただいてる身でもあり、出雲王家の尊厳のため、一言お許しをいただきたい。

天外伺朗氏が信頼を置くチャネラーの神託によれば、出雲族は、アイヌや島根の先住民に対して虐殺を行なったと啓示があった、とされています。

これまで全国47都道府県の聖地を旅してきた僕の、最近の考察では、これは少々ニュアンスが違っていると思われるのです。

『出雲王朝の謎を解く!』の中でも、クナ族(ドラヴィダ族)の大移動の経路が図として記されていましたが、僕もGoogleマップでそれをなぞってみました。

その距離は実に、9,500kmを超えるものでした。アーリア族の侵略を受けた彼らは、数千人の規模で、異民族との衝突を避けるため人がほとんど住まない北回りの安全なルートを選んで移動した、と富家に伝えられます。

ゴビ砂漠を渡り、アムール川上流に達すると、そこで筏を作り数千kmの川下りをして、そのまま間宮海峡を経て樺太に着き、さらには北海道を経て津軽半島に上陸した、とあります。

天外氏は、この移動期間はおそらく100年は優に越えていたであろうと推察されています。旅をしながらの出産と乳幼児の育児は大変であり、ちょっとずつ住みながら移動したと考えるのが自然であると。また、羅針盤もなしに速度の出ない筏を漕いで海を渡るということはかなりの冒険で、荒れ狂う渡海で、かなりの数の命が失われたのではないかと推察されています。

移動を諦め、その土地に定住していった者たちもいたでしょう。天外氏が書かれるように、いったい何人が津軽までたどり着いたのか、また、出雲までたどり着けたのか、僕には全く想像できません。

そのような状態で、果たして原住民と争い、彼らは虐殺を行うことができたでしょうか。後の出雲王家は「言向け」によって近隣の勢力を統治しましたが、当初のクナ族は、先住民に対して言向けることしかできなかったと思われます。

しかし僕は、クナ族の状況はそれほど悲惨ではなかったと考えています。それはインドの製鉄民族を出雲の斐伊川に導いた存在があったのではないかと、思い始めているからです。

上図の紫の☆の部分ですが、そこは「ウラジオストク」です。ここで日本産の黒曜石の石器が見つかっています。つまり石器時代の日本には、良質の黒曜石が埋蔵されている場所を見抜き、加工し、ウラジオストクにまで輸出した勢力があったとみることができます。

その一族は斐伊川に良質な砂鉄があることも知っており、同時にインドには製鉄技術に長けた民族がいることを知っていたとしたらどうでしょうか。彼らはブリヤート人を通じてクナ族に情報を流し、住みやすい地盤を整え、大移動を影ながらエスコートしていたのではないでしょうか。

では、この勢力とは、どこの一族か。

僕はこれを、国生み神話において淡路島の次に造られた四国、そこを基盤とした勢力であろうと考えます。そしてこれが、出雲王国時代が母系社会であり、姫巫女が王よりも崇敬されていた時代において、大いなる母系とされた一族ではないかと考えます。

この内容は、大元出版とは関係のない、あくまで僕個人の考えであり主張です。が、調べていけば調べるほど、その根拠となりうるような状況を、僕は目の当たりにしてきました。

これは完全に僕個人の考察ですので、富家伝承をベースに考察した「八雲ニ散ル花」シリーズとは別に、「常世ニ降ル花」として現在進行形で書き続けています。

この四国に始まる勢力は、当初は一つの王国であったと思われますが、調べていくうちに二つの勢力があるように感じられてきました。ちょうど出雲王家が東西に別れたように、です。

その勢力圏を大雑把に囲ってみましたが、ブルーの勢力圏を「越智族」、バイオレットの勢力圏を「阿波族」と便宜上名付けています。あるいは一つの阿波王国が、「越智王家」と「忌部王家」に分かれたのかもしれません。

この二勢力は、出雲王家のみならず、海部、物部、豊の各王家に后を出している痕跡が見え、あるいはヒボコ家、宗像家などにも后を出している可能性もあります。あるいは畏れ多くも申し上げるなら、サイノカミ信仰の女神である「幸姫」は、ここの人ではなかったでしょうか。

つまり各王家に后を出すことで、裏からこの国を支えてきた古代母系勢力が四国にあった、というのが僕の主張です。

ではこの四国の勢力は何処からやって来たのか。

僕は当初、それはユダヤではないだろうか、と考えていました。というのも、四国ではユダヤ伝承がよく知られているからです。

しかし四国の聖地を訪ね歩くほどに、それに違和感を感じるようになりました。表面上は確かにユダヤの気配を感じなくもないのですが、奥深いところは全く別の、祭祀の気配があるのです。「沼川姫や溝杙姫という名は渡来系ではなく縄文系だ」と指摘された、富士林雅樹先生の言葉もずっと脳裏に突き刺さっていました。

僕は、三島家や越家もこの四国から移住した勢力ではないかと考え、その根拠を「常世ニ降ル花」シリーズでは追っています。

ここで、『出雲王朝の謎を解く!』後半に書かれた内容に、僕は刮目しました

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イズモ族が来る前にここにいた先住民とは、いったいどういう人たちでしょうか、という私(※天外氏)の質問にAさん(※チャネラーの方)は以下のように答えてくれました。

出雲王家の伝承では、インド中央部にいたドラヴィダ族が、アーリア人の侵攻で逃げ出して樺太・北海道を経て出雲に住み着いたといっておりますが、このとき来たのはシュメールを統一したサルゴン族であり、アーリア人の侵攻ではなく、天変地異で逃げ出したらしい、とのことです。

さらにそれより1000年以上前に、同じドラヴィダ族がインドを離れエジプト、メソポタミアなど多くの地に散ったけれど、その一部が日本に来たのではないか、といっておられました。

つまり、本章で扱ったイズモ族と先住民の戦いは、同じドラヴィダ族同士ではなかったか、という推論です。

おそらく、その1000年の間に鉄器が開発され、イズモ族(サルゴン族)は強かったのでしょう。

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クナ族よりも先にインドを離れたドラヴィダ族がいた。これが史実であるかどうかの確認をしなければなりませんが、もし、このドラヴィダ族が海を渡って淡路島にたどり着いていたとしたら、そしてさらに移住して、四国に大きな勢力を持ったとしたら、腑に落ちる点も増えてきます。この後、彼らが勢力を広げていった話が、国生み神話となっているのかも知れません。

和国で鉄が生み出されるまでは、良質な黒曜石が生活に欠かせない刃物でした。

阿波国と良質な黒曜石が採れた神津島、姫島、隠岐島などとの間には繋がりがあり、四国の勢力が優秀な採石民族であった可能性が推察されます。

その彼らは、自分たちと先祖を同じにする一族で、世界でも有数の、鋼鉄に近い良質の鉄を生産する技術を持った者たちがいることを知っていたのではないでしょうか。

そして彼らは、インドを去らなければならないクナ族を出雲に導いたのではないか、というのが今の僕の見解です。そしてこの見解に、争いが生まれる要素は見当たりません。

島根は、本土側と半島側では、微妙な古代の風土・宗教の違いが見受けられます。当初は、隠岐島で黒曜石を採石していた四国勢が島根半島側に住み、斐伊川のある本土側をクナ族に譲ったのではないでしょうか。国引き神話は、後に半島側もクナ族の土地として治めるようにオミヅヌ王が言向けた話のような気がしています。

そうなると、『出雲王朝の謎を解く!』で語られる島根半島の加賀の潜戸での虐殺の話は、少なくともクナ族が行なったものではなく、大国主や事代主に咎が及ぶものではないように思われます。

あるいは四国勢が採石のために島根に来た時に、先住のインドネシア系原住民と争ったのであれば、ドラヴィダ族による虐殺があった、となるのかも知れないので、「日本列島祈りの旅」の儀式で現れた心優しい大国主と事代主は、これを詫びたのかもしれません。

徐福が連れて来た海童たちが労働を強いられ、それにより王と副王を殺害したという告白は、確かにそのような状況はあったのかもしれませんが、だから自分たちを許して和解してほしいと出雲族の子孫に懇願するというのであれば、彼らの霊はまず自分たちの子孫に対して、出雲の歴史と出雲大社の在り方を本来の正しい形に戻すように説得すべきであると、僕は考えます。

富家伝承を研究する人たちの中には、こうした疑惑に囚われ、やがて出雲から離れていく方々も少なくありません。

しかし、路傍の花を愛で、虫の音を愛しみ、春の芽吹きを「出づ芽」と賞賛した麗しく偉大な我が国の先祖への崇敬は、僕は1ミリも揺るがないのです。

古代へのアプローチは、いろいろな方法があり、また明確な証拠が出て来にくいため、確定的な論証が難しいものです。

僕は素人でもあるので、細やかで具体的な年代測定や発掘物による論証能力に弱い部分があるのを認めます。

また、神の声が聞こえたり、視えたりする才能もありません。

しかし古代史考察に、何でもありの飛び道具を用いるべきではないと考える僕は、到達が困難な場所であっても、必ずその場所を訪ねてきました。風土に触れ、古来より残る名称や地元の話・伝承を学び、郷土の味を堪能し、土地の風を五感の全てで感じてきました。そうすることで古代史学素人の僕に、ようやく考察が降りて来ます。それはまるで当時の情景が目に浮かぶような体験であり、作家がよく言う、「物語が降りて来た」という状況に似ているのかも知れません。いわばそれが、五条桐彦流のチャネリングです。

そうではあるのですが、今回のこの『出雲王朝の謎を解く!』の中で、全くアプローチの違う天外氏が綴る柔らかな文章の中に、僕の考察に深く突き刺さるものが溢れていたことに、ただただ驚かされました。最後に、出雲王家への崇敬の意を更に深めてくれたこの本は、僕にとっては宝箱のような一冊であったことを、天外伺朗先生へ敬意と感謝を込め、申し添えさせていただきます。


https://wajinden.com/blog/2014/03/30/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82/ 【神話と邪馬台国(2)「古代出雲王朝との関係」】より

日本の記録には登場しない「ヤマタイコク」。

古事記や日本書紀はあえて記憶から抹消したのか、そもそも記憶がなかったのか。もしくは全く違ったイメージで描いているのか。

神話と「ヤマタイコク」の接点を探してみようと思う。

今回は第2回目「古代出雲王朝との関係」。(神話と邪馬台国(第1回)「天照大御神は卑弥呼か?」)

出雲といえば、出雲大社。そしてそこに祀られる大国主(オオクニヌシ)。

毎年10月にはすべての神様が集まり、会議を開くという。まさに神々のふるさとと言うべき出雲。

古事記の神話では、その1/3の記述が出雲の話だ。キーワードを挙げるとすると、スサノオ、ヤマタノオロチ、黄泉の国、因幡の白兎、大国主、国譲りなど、誰もが一度は耳にする話ばかりだ。

戦後の歴史学は皇国史観に利用された神話を神経質すぎるくらいに排除してきたが、近年こうした神話を見直そうという気運もあり、考古学的な遺跡もいくつか発見されている。奇しくも、2012年に「古事記撰上1300年」、2013年に出雲大社と伊勢神宮の遷宮が重なり(伊勢は20年の式年遷宮、出雲は70~80年の不定期)話題を集めたばかりだ。

出雲王朝の存在を示す遺跡

島根県出雲地方の遺跡 荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡、西谷墳墓群、出雲大社の位置

1980年台から1990年台にかけての遺跡調査で、出雲周辺から大量の銅剣・銅鐸が出土した。(荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡 :荒神谷遺跡からは358本の銅剣、16本の銅矛、加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸)

特に荒神谷遺跡の銅剣(358本)はそれまでの日本全国の出土総数を上回るものであった。

また、出雲市大津町では弥生時代後期(2世紀末から3世紀)のものと思われる墳丘27基が確認されている。(西谷墳墓群)これは弥生時代に出雲を支配した王たちが存在したことを裏付けるといってもよいだろう。

つまり魏志倭人伝に登場する「ヤマタイコク」よりも少し前の時代から、卑弥呼が亡くなったとされる時代に出雲にも有力な王国(もしくは有力な国)があったことになる。

葬られた王朝―古代出雲の謎を解く (新潮文庫)

葬られた王朝―古代出雲の謎を解く (新潮文庫)

著者梅原 猛

神話の流れと編纂者の意図

神話では、「天岩戸⇒スサノオのヤマタノオロチ退治⇒大国主の国造り⇒大国主の国譲り⇒天孫降臨⇒神武の東征」とすすむのだが、おおまかには追放されたスサノオ(アマテラスの弟)が出雲でヤマタノオロチ(越国のことか)を退治(三種の神器の剣を得る)して、その子孫である大国主が国造りをして、天孫に國を譲り、その天孫の孫の神武が東征(先祖は西から)をしてヤマトに入るというはなしである。

この話から見えてくる主張は、現在の政権(ヤマト王朝)は血縁の関係があった王権から平和的に政権を譲ってもらった(奪ったのではない)という事か。つまり前政権を否定する立場ではないということだろう。

出雲と神話の関係

上記の図は神話と現在の政権(ヤマト王朝)などの関係を簡易に示したものであるが、赤囲いの「アマテラス、ヤマタイコク、ヤマト王朝」が同一もしくは連続性のあるものだとすれば、出雲の神話からヤマト王朝への流れが簡潔に説明ができる。もちろん古事記などには「ヤマタイコク」「ヒミコ」は登場しないが、アマテラスや神功皇后のような「女王」を連想させるような女性が登場する。ここに編纂者の何らかの意図(創作)が感じられなくもない。

広く信仰を集める大国主の神話と伝説

大国主(オオクニヌシ)といえば、出雲大社の祭神であり、現在では縁結びの神としても知られるが、もとは国造りの神、農業神として広く信仰を集めていたようだ。

大国主は国を譲る際に、「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて祀って欲しいという条件をだしたとされる。

ちなみに、大国主を祀る主な神社は下記のようである。

出雲大社(島根県出雲市)

大前神社(栃木県真岡市)

大國魂神社(東京都府中市)

氷川神社(埼玉県さいたま市)須佐之男命、稲田姫命との三柱

大神神社(奈良県桜井市)

出雲大神宮(京都府亀岡市)

気多大社(石川県羽咋市)

気多本宮(石川県七尾市)

八桙神社(徳島県阿南市)

など

日本で最古の神社のひとつとされる大神神社(別称:三輪神社)の祭神は大物主神(おおものぬし)であり、これは大国主の和魂とされる。(幸魂奇魂:さきみたまくしみたま)一部に大国主と一緒に国づくりをした協力者という説もあり。

古事記には崇神天皇の時代に、「崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れて、意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御魂を祀らせれば、収まるであろう」という記述がある。

この天皇の御代に、役病多に起こりて、人民死にて盡きむとしき。

ここに天皇愁ひ歎きたまひて神床に坐しし夜、大物主神、御夢に顕はれて曰りたまひしく、

「こは我が御心ぞ。故、意富多多泥古をもちて、我が御前を祭らしめたまはば、神の気起こらず、國安らかに平らぎなむ。」

とのりたまひき。

そこで、天皇は意富多多泥古(大物主の子か?)を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。

さらに続いて、古事記では垂仁天皇の時代にも出雲の祟が起きる。垂仁天皇の子であるホムチワケは言葉を発することができない。困り果てた天皇は、占い師に占ってもらう。そして、それが「出雲の大神のたたり」であることを知り、「大国主を祀って大御食を奉った」。するうとホムチワケは話すことができるようになり、それを喜んだ天皇は「神の宮」(出雲大社か?)を修繕させた、とある。

日本書紀では斉明天皇の時代にも、出雲のたたりがあったので、「神の宮」を修繕させたという記述がある。

現在に広く伝わる大国主の信仰は、菅原道真が天満宮に祀られるように「おそれ」によるものなのかもしれない。道真のように「無実の罪」であったり、非業の死を遂げた者が「たたる」と考えれていたからで、大国主の場合も平和的な「国譲り」ではなかった可能性もある。

48メートルの巨大神殿が出雲にそびえ建つ!!

古代出雲大社が現在の本殿高さ24mを大きく超える48mあった口遊(くちずさみ)という平安時代中期に編纂された児童向けの書に「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という言葉があり、これは日本で最も高い建物の順番であり、1位が出雲大社、2位が奈良の東大寺大仏殿、3位が京の平安京大極殿だという。奈良大仏殿が46メートルあるので、それより高かったというのである。

出雲社の口伝では、上古(飛鳥時代)では32丈(96m)、中古(平安時代)では16丈(48m)あったと伝えられている。ちなみに平安時代のものと思われる平面図も残っている。

日本の神社 創刊号 (出雲大社) 分冊百科本誌は、日本各地の神社を、毎号1社ずつ取り上げてその魅力を徹底解説するマガジンシリーズ。創刊号は出雲大社(島根県・出雲市)。オオクニヌシを祀る、日本を代表する神社です。

しかし、学者の間では「これは歌の類で、子供が口ずさみやすい、語呂がよい言葉の組み合わせだ」などと片付けられていたが、2000年に地下室を造成していた出雲大社で、径1mの柱を3本束ねた巨大な柱跡が発見された。まさに大国主が国譲りの条件とした大宮殿そのものではないか。都から遠い出雲に、大宮殿を長期間、維持しつづける負担を考えると、その「おそれ」は相当なものであると想像される。

それが「おそれ」でないとすれば、すでに日本全国に浸透していた大国主信仰による権威を逆に利用しようとしたのかもしれない。(あの大国主でさえヤマト王権に従ったのだと)

今も生きる出雲王朝の記憶

これらの考古学的な成果や神話の内容から「出雲こそ邪馬台国だ」とする研究者もでてきた。仮に「出雲王朝=ヤマタイコク」だとすると、古い事記や日本書紀は「神代」のはなしだとしながらも、ヤマト朝廷の前政権の存在を暗に明示していたといえる。(出雲邪馬台国説をとる場合、女王の存在が記紀にはないのが弱点である)畿内にあった(ヤマタイコクとヤマト政権が連続する)と仮定すると、神話のあらすじとほぼ合致する。

いずれにしろ、当時の人々にとって出雲にはヤマト政権が無視、抹消できないほどの「大いなる記憶」が残っていたにちがいない。その「大いなる記憶」の大部分は失われてしまったようだが、今日にも確かに残っている。古代、ヤマト政権は地方の豪族などを「国造」としたが、出雲の国造には天孫の一族が派遣され、「国造(こくぞう)」となり、この家系は現代まで続き、出雲大社の宮司として「大国主」を祀り、出雲国造家として存在するのである。


https://denden-560316.hatenablog.com/entry/20101223/1293111775 【葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」梅原猛 新潮社】より

 梅原先生のものはとても分かりやすくて、しかも独創的ですから面白く読みました。しかし私に古代史の素養がないもので何度も読み返して、結局、読み通すのに半年近くかかりました。

 この本は寝る前に読む本と決めて枕元において、10分、15分のわずかな時間をあててきました。少し読んで、次読むときはまた前に戻ってという感じです。

 大和王朝ができる前に日本列島には大きな出雲地方を中心に強大な出雲王朝があったという仮設を立てられました。古事記、日本書記、播磨国風土記に書かれている、出雲神話のスサノウやオオクニヌシはこの王朝の系譜であるということです。

 先生自身が40年前に書かれた「神々の流竄(るざん)」では「出雲神話は大和に伝わった神話を出雲に仮託したもの」という説を立てられましたが、その後、出雲地方に銅剣、銅鐸、銅矛がたくさん出土したことで考えを改めたという。

 この本は、古事記、日本書記にかかれてある「神話」と出雲周辺の遺跡を突き合わせることで、壮大な仮説を展開されている。そしてこの本を読んで鎌足、不比等を始祖とする藤原一族が大きな力を持った「仕掛け」もなるほどと思った。

 古事記は、スサノウを開祖とする出雲王朝がアマテラスを開祖とするヤマト王朝に、オオクニヌシの時代に「国譲り」をした、と書いてある。二人の神は姉と弟でもある。朝鮮半島から来たという共通点だろう。

 スサノウ(「韓」の国から来た)のヤマタノオロチ退治は、越という国に支配されていた出雲の解放である。オオクニヌシはスクナヒコと協力して出雲を豊かにし、さらに彼は越を征服して大きな国にした。日本列島の1/3ぐらいを支配していたという。ヤマト当たりもその勢力圏である。

 その古事記や日本書記を読み解きながら、その仮説を裏付ける遺跡をチェックしている。

 さらに「神話」をあらわす、古事記、日本書記の意味をも明らかにしている。それは藤原不比等が政治的に天皇の陰に隠れて実質的に権力を握っていく姿が見えてくる。

 なるほどなあ、と感心した。


https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/54134602 【柿本人麻呂と出雲王朝(3)九州年号について】より

継体天皇像

古田武彦氏らの「柿本人麻呂=九州王朝説」を支える理論的支柱の一つが、いわゆる「九州年号」である。「九州年号」と呼ばれる大和王朝の記録とは異なる年号が記された文献が九州を中心に発見されていることから、古田氏はこれを「九州王朝」の実在を証明する証拠とした。

古田氏が「九州年号」へ目を付けた点はすばらしいが、古田氏の説は「出雲王朝」を考慮に入れないため幾つかの点で間違った結論を導き出している。まず問題は「九州年号」が継体天皇の統治期間から始まっていることから、古田氏が継体天皇を九州王朝の出自としている点だ。

確かに古田氏の主張のように九州の日向を発祥地とする神武天皇から第25代の武烈天皇までと、継体天皇の間には王朝あるいは血脈の断絶がある。ただし出雲族の富氏の伝承によれば継体天皇は「九州王朝」の出身ではなく、「出雲王朝」の血を引く出雲族から出た天皇であった。それに不満を持つ九州の勢力が新羅と組んで反乱を起こしたのが、九州の筑紫を舞台とした磐井の乱である。

九州の日向を発祥地とする神武天皇は、出雲族を始めとする各地の豪族と政略結婚を重ねながら大和地方に政権を打ち立てた。しかし武烈天皇は適任の後継者を得られなかったため、これまでの神武の血統とは異なる出雲族の系統から継体天皇・安閑天皇・宣化天皇の三代を出した。その後に三代にわたる出雲族の天皇の治世は比較的短期間で終わり、代わって物部氏や蘇我氏らが台頭してくるのだ。

つまり「九州年号」は「出雲王朝」の役割を考慮に入れると、柿本人麻呂と「九州年号」の関係についても再考する余地が多分にあるのだ。しかし、その作業は紙面と時間を費やすことになりそうなので、続きはまた少し時間をおいて発表させていただきたい。

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