https://www.japanjade-center.jp/archaeology10.html 【 日本翡翠勾玉の衰退は継体天皇の時代にはじまる】 より
草と白勾玉 日本翡翠の勾玉はおよそ1500年の休眠期を経て現代によみがえってきた。なぜいまという時代に、古代にも増して大量の勾玉が作られるようになったか、興味のつきないテーマです
2個の緑色勾玉 古代型勾玉のなかでとくに好ましく感じられるのは、頭と尾がほぼ同じ太さで円弧を描くギョロメ・タイプ。シャープでスタイリッシュな風貌が水中の龍・ミズチを連想させます
右向きの緑色勾玉 死者の魂を活性化するよう願って勾玉は墳墓に副葬されました。生前に偉大だった王たちは死後に守護者・神になって子孫・領民を守るよう期待されました左向きの緑色勾玉 古墳時代中期の皇后は手首に玉を巻いていたと『日本書紀』にあるので、古代の貴婦人たちはアマテラスと同じように勾玉付きブレスレットをしていたようです
[12]古墳時代の文明開化で勾玉は落ち目になる
世の風潮として古墳時代は、遺跡からの出土品がニュースになることはあっても、テレビの時代劇のテーマになることは考えも及ばない、遠くてはるかな昔の出来事と思われています。
しかしながら、勾玉文化の盛衰をさぐるべく古墳時代に入っていくと、名前程度しか知ることがなかった古代大和王朝の大王(天皇)たちのそれぞれが、魅惑的な人物としてよみがえってきます。『日本書紀』ではあちこちに儒教の衣がまぶされていますが、この儒教臭さを拭い去ると精一杯偉大であろうとした大王たちに出会えます。崇神にはじまり、応神、仁徳とつづき、雄略天皇のとき、古代からの大王たちの力の系譜はピークに達し、皇統はそれまでとは出自も感性も異質な継体天皇に引き継がれていきます。
縄文時代以降つづいてきた日本列島独自の日本翡翠への信仰はここにきていっきょにゆらぎ、流行が終焉していくときのあの凋落の素早さでもって衰退していきます。それは奈良時代の始まり(710年)から数えて約200年前の、聖徳太子の時代から数えるなら約100年前の出来事です。
雄略天皇(在位456-479)の没後、継体天皇が大和に王朝を建てるまでのおよそ40年間、政情不安定だった時期に、富山・新潟の県境地方での玉作りは、翡翠勾玉や石製模造品作りを含めて終了し、曽我の玉作り工房も終息します。墳墓の副葬品から緑色凝灰岩製の管玉がなくなり、石製模造品や子持ち勾玉を使った祭祀も行なわれなくなります。勾玉文化は継体天皇以降消滅への道を歩むことになります。
『倭の玉器』(河村好光、青木書店、2010年)という専門書には以下のようにあります。
「東国玉つくり集団はこの間に消滅する。関東では滑石単独製作遺跡がわずかに残るが、碧玉などの玉材を用いる玉つくりが復活することはなかった。糸魚川・宮崎海岸、南近江は、滑石単独遺跡も含めて途絶える。この結果、古墳副葬品から細長型碧玉管玉が6世紀に入って消え、その半ばまでに滑石玉つくり製品もほとんど姿を消す。」p272
「瑪瑙・碧玉・水晶勾玉は、ひきつづき出雲で製作されこの地から供給されている。……畿内と東国玉つくりの衰退は、出雲玉つくりに打撃とはならず、むしろ東国の玉に代わる出雲の玉をいっそう広げる契機となったと考えられる。事実、6世紀後半になると、片面穿孔碧玉管玉、瑪瑙・碧玉・水晶勾玉、水晶切子玉の組合わせが本州諸島の隅々に広がり、後期古墳に副葬される玉は、伝世品とみられるヒスイ勾玉、東海地域の蛇紋岩製勾玉などの少数品を除き、ほとんど出雲の玉で占められていく。」p273
「玉の供給源として倭国に独自の地位を占めた出雲も、7世紀後半になると玉つくりを確認できなくなる。」p276
[13]継体天皇と東アジア・グローバリズムの嵐
第21代・雄略天皇から、第22代・清寧(せいねい)、第23代・顕宗(けんぞう)、第24代・仁賢(にんけん)とつづいた皇統は、第25代・武烈(ぶれつ)天皇のとき、跡継ぎなくて途絶の危機を迎えます。血筋をたどって探しだされたのが第26代・継体 (けいたい)天皇です。彼は応神天皇6世の孫とされ、出身は北陸・近江にあって、皇統も出身地も遠くからやってきた天皇です。物部氏などの要請で天皇に即位したものの、葛城氏など擁立に反対する豪族もいて、大和入りして都を磐余(いわれ)に構えるのに20年(他の説では7年)要したといいます。最終的には武烈天皇の妹・手白香(たしらか)皇女を皇后に迎え、天皇家に婿入りする形で都入りしました。『日本書紀』通りの年代であるなら、西暦507年に57歳で即位、82歳で崩御した、壮年になってから活躍した天皇です。
継体朝のきわだった特徴は、彼の治世に日本列島の東アジア・グローバル化が一気に進んだことにあります。それは古墳時代の意識革命風出来事で、以後、中国文化が価値基準となり、日本は大中華に対して小中華のごとくふるまうようになっていきます。
『日本書紀』の継体朝の記事の大部分は朝鮮半島、とくに百済との出来事が占めています。朝鮮半島の西側に位置する百済は、北を高句麗に、東側の新羅に押されて苦しい立場にあって、百済は大和王朝に対して、幾度も、いろいろな援助を求めてきます。その過程で、大和王朝は朝鮮半島南端にあった任那(みまな)四県を百済に割譲したり、新羅と結託した北九州・筑紫の豪族磐井の反乱に手を焼いたりします。
けれど文化的には、百済から五経博士を送られたことが大きなきっかけとなって、古墳時代の文明開化といった様相を呈していきます。五経は『易経』『詩経』『春秋(春秋時代の歴史書)』など、最重視されていた5種の学問。これらを導入することで、大和王朝は東アジア・グローバリズムの仲間入りができて、東の端の野蛮な国から脱却できました。葬送儀礼の整備、皇統記(帝紀)の編纂、物部氏・大伴氏などという「氏(うじ)」の名の成立、部民制による政治体制の合理化、身分階層の確立、などが実施されたといいます。
記紀の年代は明確さを欠いていますが、継体天皇の人物像は、越前・近江の出身であるがゆえに、若狭などに居住していた渡来民と親しく、若狭から山陰沿いに北部九州との豪族との交流もあり、皇位に就くまえに尾張氏の娘を娶っていたなど、壮年になるまでに財力・武力を蓄え、なおかつ東アジアの国際情勢に詳しかった統治者としての姿が浮かびます。
装飾品では雄略天皇の時代につづいて、大陸色の濃いきらびやかな冠や、鍍金・金銀細工の装身具、ガラス製ビーズなどが愛用されたことも特徴のひとつです。こうなると明治維新の時、忽然とはいってきた西欧文化がまばゆくて、旧来の価値観や文物が一気に色あせてしまったように、石製模造品や子持ち勾玉はとたんに土臭くなり、勾玉や管玉は野暮ったくなってしまったと、想像できます。葬送儀礼の整備に伴い、神道祭祀は儒教化し道教化していって、榊に稚拙な石製模造品を吊りさげて振りかざしたり、神懸かって踊ったりすることが、野蛮な行為に感じられるようになっていきました。
従来の大和王朝が朝鮮半島との交易のみを重視したのに対して、継体天皇は渡来民や北部九州勢力との親交、鉄製品の自給率の向上、加えて時代が変化していく時期だったということもあって、文化の移入を重視したといえます。それまでの天皇家の神道に対して保守的な立場にいなかったことも、日本列島が文明開化していく理由のひとつにあげられます。宗教的にはアマテラス信仰はこの天皇の時代に盛んになったという意見や、当初アマテラスは男神だったという意見があります。
継体朝を契機に、百済経由の中国文化が、明治維新や大正デモクラシーに比肩できるほどの勢いで大和の都に流入してきました。帰化人とその子弟、子孫たちが官僚や有力豪族の部下となって働き、養蚕業・農業・土木建築・医薬、などの産業の先端をになう時代が到来しました。本格的に文字を書いて読んで考える時代の幕開けでもあって、「文化人」が誕生し、「舶来品信仰」が強調されて、百済伝来のモノでなければクダラナイと思われるようになりました。
古代史研究家としても超有能だった松本清張は、『天皇と豪族・清張通史4』に、「6、7世紀ごろの畿内における帰化人系統の比率はどうかというと、『新選姓氏録』などの研究から推定してみて、だいたい20パーセントから25パーセントとなろう」p69と書いています。都大路を異国の衣服で着飾った人々が行き交い、異国の言語が飛び交う、艶やかで派手で賑々しい異文化を乗せて、東アジア・グローバリズムの大波が列島を浸し、旧来の日本文化は急速に古めかしく田舎臭いものになっていきました。
[14]古墳時代の意識革命が勾玉文化の打撃になった
これまで勾玉の衰退は、仏教の伝来によって旧来の神道が圧迫されたからだとか、飛鳥時代に貴族の服装が中国化されたからだとか、大化改新にともなう薄葬令によって玉類を墓に副葬できなくなったからだ、といわれてきましたが、大きな曲がり角は、この古墳時代の意識革命にあったようです。
原初の神道は巫女や霊媒に降りた神の託宣を遵守する信仰でした。鹿の肩甲骨を焼いでできる裂け目に神の意図を読む太占(ふとまに)へと神託を受ける方法が変わっていき、政治(まつりごと)は神を祭って指針を仰ぐ方法ではなく、人間が合理的判断のもとに統治する方法となり、神は祭りあげられ、願い事を奏上するだけで返答を乞わない「祈りの信仰」に変わってきました。
権力者たちが文字の読み書きを学んだのも、近代的自我の発達をうながす原因のひとつになりました。書かれた文字や数字によって、情報を収集、整理できるようになると、理知的な態度が評価されるようになり、損得勘定も精度を高めていきます。
継体朝に至るまで古墳時代を通じて、勾玉は祖霊のパワーを招くパワーオブジェクトとして機能してきました。それゆえに祭祀権の象徴となりえたのですが、朝廷による中央集権化が進み、各地の豪族の力がそがれるにしたがって、勾玉を介しての祖霊たちとの結びつきも弱まっていきました。
日本翡翠製勾玉の終焉は、朝鮮半島から鉄を輸入する必要がなくなり、交易品としての需要が減ったことが大きな原因のようです。先に紹介したように、継体天皇の時代に糸魚川・越中宮崎海岸地方での日本翡翠勾玉製作は終了しました。出雲での瑪瑙・碧玉・水晶勾玉はひきつづき製作され、聖徳太子の時代あたりまでは、古墳に副葬されたり、社会的階層をあまり問わずに愛用されました。大和朝廷が翡翠勾玉の専売制をやめた後、北陸地方の勢力のなかには、日本翡翠製品を独自に製作販売していこうとするものがいなかった、ということのようです。
『日本書紀』には、第35代・皇極天皇(天智・天武の母、在位642-645)の条に、以下のようにあります。
「この月、国内の巫女たちが、木の枝葉を折りとって木綿をかけ、大臣が橋を渡る時をうかがって、競って神がかったお告げのことばをのべた。その巫女が非常に多かったので、よく聞き分けられなかった。老人たちは、『時勢が変わろうとする前兆だ』といった。」p150(『日本書紀(下)』宇治谷孟、講談社学術文庫、1988)
継体天皇より120ー30年後の記事ですが、ここでは大臣(蘇我蝦夷)は、旧来の神懸かりや占いによる神託に重きをおいていません。各地の巫女が大臣に直訴しようと、勾玉や肩巾(ひれ、呪術用スカーフ)を掲げて踊っても、いっこうにありがた味がなく、かえって田舎臭くしかみえません。
神々のお告げを信じて異論をとなえず、お告げに従って祭り事(政治)を行なう「惟神 (かむながら)の道」は雄略・継体朝を期に近代的自我に道を譲っていったようです。このあと日本列島の古代史から勾玉が消滅していく過程は以下のように進んでいきます。
[1]仏教が伝来し、死後の世界が極楽浄土に変貌したことで、神道の呪力が弱まり、勾玉文化の魅力も色あせていった。
[2]大化改新に出された「薄葬令」によって、大規模な墳墓を築造できなくなり、副葬品も規制された。
[3]古来からの「玉(たま」への信仰は、仏教伝説の如意宝珠や、道教的な不老不死の霊薬としての「玉(ぎょく)」と同一視されるようになった。『万葉集』では勾玉をよんだ歌が見当たらない。記紀でも「玉(たま)」と「玉(ぎょく)」は混同されていて、ニギハヤヒの十種の神宝や日向三代の例など、本来は勾玉であるはずなのに、形状の知れない玉(ぎょく)の扱いを受けている箇所が多々ある。
[4]勾玉関連書籍で、最後の勾玉活用法として例にあげられる仏塔の礎石への埋納や観音像の宝冠への荘厳は、勾玉信仰のゆえというよりも、すでに不用品だったものを供出したような雰囲気がある。
[5]勾玉文化が衰退したあとで、出雲のみは、国造が交替するごとに朝廷に詣でる「出雲神賀詞奏上」という行事を開始して、天皇に水晶・赤メノウ・碧玉の勾玉を献上した。
[15]仏教伝来で死後の世界は豪華絢爛な天国に変わった
継体天皇の次世代・欽明天皇の552年に百済から仏教が公伝しました。受容するか否かで一悶着あって、最後は崇仏派の蘇我氏が排仏派代表の物部氏を武力で倒して、仏教は日本列島に根付いていきました。聖徳太子(574-622)が摂政をつとめた推古天皇の時代のことです。
勾玉文化に仏教があたえた影響について、資料を探したり考えたりしてくると、仏教の信仰ゆえに勾玉が抑圧されたという考え方は、論理の整合性に欠けるところがあるように思えてきます。
大乗仏教は原始仏教とインドの土着信仰が融合して誕生した宗教なので、キリスト教やイスラム教など排他的な一神教と違って、他を排除しない傾向があります。たとえば観音はインドでシバ神と融合して両性具有者になり、中国では道教と習合して女神に転じて、日本では猫までが化身とされて招き猫になったように、他を包みこんで信仰を広めていくのが特徴です。
勾玉文化の視点からみるなら、仏教の伝来は勾玉の衰退に拍車をかけることになったけれど、それによって、勾玉が強制的に遺棄されたり、旧来の信仰であった神道が排除されたり、抑圧・弾圧されはしませんでした。神道は国の主宰者であり神主の頂点に立つ天皇の存在理由だったので、神道を捨てて仏教徒になるという二者択一は、この国では持ちえようがなかったのです。
けれどそれまで死者を冷遇してきた神道に対して、仏教は田舎の水田のド真ん中にショッピングセンターが建設されるのと同じほど賑々しく派手だったので、聖徳太子ならずとも、世間虚仮仏道真実(世間はうざったい、仏教のみが真実だ)という気分にならざるを得ませんでした。
古い時代の神道では死者は山奥の死者たちの村や洞窟の奥の地下世界で、地味に静かに暮らして、時が経つと子孫の家に生まれ変わってきたようです。(中世の山岳信仰の発達とともに各地に観音霊場が開かれていったのは、こうした山奥の死者たちの村を観音菩薩に救済してもらうためでした。)それに対して仏教の浄土思想は、たとえそれがなんの保証もない口約束であっても、死後に待っているのは絢爛豪華で一切の苦しみがなく、願望は願うはなからかなえられていくという極楽でした。この教えは仏像と経典、音楽のような読経、極彩色の絵巻がパックになっていたので、抜群の説得力がありました。
こうして、氏神や産土(うぶすな)神関連の、誕生・成人式・結婚式など、生きている間の神事は神道で行なうが、神道的に手薄だった死者の祭りは仏教に任せるという、日本独自の宗教の住み分けができていきました。また仏教の仏は日本に伝来した当初から金ピカな像に宿っていたので、この人形を疑似大王として扱うための疑似宮殿が必要となり、世話係の尼僧や僧が選ばれました。ちなみに日本で最初の出家は3名の尼僧で、彼女たちは仏教版采女(うねめ)でした。
仏が寺院に常駐するようになって、神道の側でも神々が暮らす神殿が建てられ、当時の宮殿を模して拝殿がたされるようになりました。神道は日本固有の信仰で有史以前から信仰されてきたように思われていますが、神殿に居ます神々を拝殿から拝むようになったのは仏教の伝来以降と新しいのです。
「官社とされた神社に対する、国家による社殿造営の命がはじめて正史に現われるのは、天武10年(681)のことだ。『日本書紀』のこの年正月19日の条に[畿内および諸国に詔して、天社(あまつやしろ)地社(くにつやしろ)の神の宮を修理(おさめつく)らしむ]とある。」(p93『原始の神社を求めて』)
と、そんなふうです。
[16]続・仏教伝来で死後の世界は豪華絢爛な天国に変わった
こうした歴史の運行のなかで、日本翡翠の研究書には、翡翠勾玉の最後の姿として以下の2つの記事が紹介されています。勾玉を墳墓に副葬する習慣が寺院への寄付に変わったとする意見もありますが、こうした勾玉活用法は家庭にあった不用品の供出とみえなくありません。
「593年。奈良県明日香村の飛鳥寺(法興寺)では、塔の心礎に仏舎利を納める儀式が挙行された。仏舎利荘厳具のほかに、勾玉・管玉・金環・銀環など、参列者たちの装身具類があわせて埋納された。飛鳥寺の建設は588年に始まり596年に完成。」(『日本全史』)
飛鳥寺は蘇我馬子発願による、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院です。東洋にはブッダの遺骨「仏舎利」を信仰する風潮があって、仏塔はブッダの遺骨を崇拝するために建てられてきました。仏塔はブッダの象徴的な身体です。日本では仏塔は五重塔などに形をかえていくのですが、塔の中心となる柱の底に仏舎利(白メノウなどで象徴する)とそれを飾る(荘厳する)幾らかの金銀財宝が埋められることがありました。飛鳥寺の場合は、そこに3つの勾玉があり、ひとつは翡翠製とされています。
飛鳥寺の建設から50年ほどして、蘇我家は馬子から蝦夷(えみし)を経て入鹿(いるか)の代になり、乙巳(いっし)の変で彼は誅殺され、「6つから良い土地もらえる大化の改新」が始まります。大化2年には薄葬令がだされ、社会的身分別に墳墓も大きさや築造工事の日数が規制され、墳墓への玉製品の副葬もままならなくなります(薄葬令は持統朝との意見もあります)。明治大正時代に着物から背広にフォーマルウエアが変わっていったように、聖徳太子の時代あたりから、中国式服装が公式の衣服になっていきます。天武天皇の息子世代の墓とされる高松塚古墳(8世紀初頭前後)の壁画には、当時の宮廷の人物たちが色鮮やかに描かれていましたが、中国風の衣服で着飾った彼女たちの髪や胸に勾玉はありませんでした。
「8世紀中頃に作られた東大寺三月堂(法華堂)の本尊・不空羂索観音の頭を飾る宝冠には硬玉ヒスイ、琥珀、水晶、真珠などで作った2万数千個の玉がちりばめられており、その宝冠に8個の硬玉ヒスイの勾玉が垂下してあるのは名高いことである。」(p111『日本神話の考古学』森浩一)
とはいってもそこに飾られた勾玉や真珠、天然石ビーズの類いは、信仰心一義に荘厳したのではなく、善男善女が持ちよった供出品であるようにみえます。勾玉文化は継体朝で流行が終わり、聖徳太子の時代に衰微していったので、そこから眺めるなら8世紀中頃はおよそ150年後になります。このあと検討する『万葉集』がそうであるように、この時代には勾玉は忘れられていました。
[17]万葉集には勾玉を歌った歌がない?
日本翡翠や勾玉の歴史を、①縄文時代は考古学的出土品を中心に、②神話時代は『古事記』を中心に、③崇神天皇以後の古墳時代は『日本書紀』を中心に眺めてきました。『万葉集』を置きざりにしてきたわけで、興味あらたに『万葉集』に向かうと、ここでは勾玉文化はすっかりと忘れられていて、「勾玉」という単語すら目にできなくてうろたえてしまいます。
『万葉集』全巻を確認するにはあまりに時間が足りず、ちょっと近道しようと折口信夫 (しのぶ)の『万葉集辞典』(折口信夫全集・第6巻、中央公論社、1966)を開くと、 「勾玉」や勾玉の古語である「八尺瓊(やさかに)」の見出しがありません。『万葉集事典』(中西進、講談社文庫、1985)というのを購入して、初句索引を調べてもこれらの語句を見つけられません。『万葉集』にはどうやら勾玉を読みこんだ歌がないようです。
『万葉集』で出会う玉は道教・仏教的な宝玉(ほうぎょく)の表現ばかりです。万葉集編纂の時代・奈良時代後期の日本人には、かむながら(随神・惟神)の道の物実(ものざね)だった勾玉の記憶と、風聞に聞く中国大陸の伝説の玉がひとつになって判別しにくくなっています。
周知のように中国大陸には7千年以上昔から、ネフライト(軟玉翡翠)を最高の宝物(玉・ぎょく)としてきた歴史があります。漢代あたりまでヘキ・ソウなど特殊な玉器は王侯貴族以外には禁制の品でした。隋・唐代になって玉製品の宗教性が薄れて、貴族たちの嗜好品・工芸品へと変わっていくようですが、これらは最高の威信財であるがゆえに、交易品に選ばれはしませんでした。東夷(とうい・東の蛮族)の国・日本列島に伝わりようがなかったのです。また、ネフライトは道教的神仙術では、不老不死の霊薬としてもてはやされました。その一方で仏教伝説として、あらゆる願望を意のままにかなえる「如意宝珠」が中国に伝わりました。
かくして当時の日本人は玉製品の実物に触れる機会を得ずに、玉(ぎょく)を至高の宝物(ほうもつ)として思い描き、そのイメージと、古来からの玉(たま)の記憶とが結びあわさって、『万葉集』やそれ以降の時代の昔話に語られる玉(たま)ができていきました。仏教経典にでてくる金剛はダイアモンドの漢訳ですが、ダイアモンドが何であるかを知らなかったがゆえに、金剛を浄土の超金属と思いなした仏教伝説に似ています。
この時代は、大化の改新の主役だった天智天皇(626-671,在位668-671)と、壬申の乱を経て中央集権国家を誕生させた天武天皇(631-686,在位673-686)からおよそ100年経っています。両天皇の治世に日本文化の中国化は一段と拍車がかかり、律令制国家への基礎固めがなされ、相反して勾玉文化が消滅していきました。100年という年月は約3世代に相当します。旧来の文化が新しい文化の下層に塗りこめられて忘れられていくのに、十分な長さでした。
[18]続・万葉集には勾玉を歌った歌がない?
『万葉集』にはヌナカワの地名を織り込んだ歌が一首あって、日本翡翠の関連図書では、翡翠の歌として紹介されていますが、既述してきたような視点で再度「ヌナカワの底なる玉」を思いなすと、従来とは異なる解釈も生まれてきそうです。
この歌は『万葉集』でも古層に属するとのことなので、作者は北陸・越(こし)のヌナカワ(姫川)でかつて宝玉が採れたことを伝え聞いていて、それを神仙思想の霊薬と同一視していたように思えます。正倉院御物に残る翡翠勾玉を知っていたかもしれないし、あるいはここでのヌナカワは「ヌ(宝石)の河」の意味で、天の川を指しているだけのことかもしれません。これらの歌は現代という時代の深刻なテーマとなっている「老い」を哀しむ歌です。
「ヌナカワの底なる玉」は、『万葉集(三)』(中西進、講談社文庫、1981)には以下のようにあって、長歌+反歌に、類似のもう一首を加え、3つでひとまとまりの構図になっています。
3245 天橋(あまはし)も長くがも 高山の高くもがも 月読の持てる変若水(おちみず) い取りきて 君に奉(まつ)りて 変若(おち)しめむはも
3246(上の歌の反歌) 天(あめ)なるや 月日の如く わが思える君が 日にけに老ゆらく惜しも
3247 沼名川の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君の 老ゆらくおしも
参考資料の解釈とはいくらか異なりますが、錬金・練丹術的には以下のようになります。3245の歌は、「天への橋がいかに長かろうと、高山がいかに高かろうと、月へと昇って、不老不死の水をとってきて、君に捧げ、老いていくのを止めることができたら、どんなにかいいことだろう」という意味です。
君(きみ)は豪族・貴族などの領主、あるいは夫かもしれません。歌の読み手は社会的身分の高い男性の妻、または側近の者なんでしょう。天の橋は天に通じる橋。たとえば夕日が水平線まで伸びる光の筋を海に宿すと、落日の光跡は変性意識下では天橋立(あまのはしだて)に変わります。月に不老不死の霊薬があるという伝説は道教の月の女神・嫦娥 (じょうが)由来のものでしょう。インドではシヴァ神が所有する不老不死の霊薬・ソーマは月に蓄えられています。「変若水(おちみず)」は若返りの泉の水。後世の日本では熊野信仰や若狭の辰砂と結び付いたようです。
「変若水い取りきて」は原文では「越水伊取来而」となっていて、万葉がなでたまたま 「おち」に「越」の字を当てただけかも知れませんが、奈良に都があった時代には、遠く離れた越(えつ、現代の石川・富山・新潟地方)は辺境の土地。万葉集の主要編集者・大伴家持が「おおいなる鄙(ひな)」とよんだほどです。大陸に近く、都とは異なる文化圏があって、錬金・練丹術的に神秘的な土地柄と想像されていたようです。その例証のひとつに富山では薬学が発達して、越中富山の薬売りが日本中を行商してまわるようになります。越を舞台に練丹術的な若返りの水伝説があったかもしれません。
3246の歌は3245の反歌で、月日の移ろいは天の定めなんだから仕方がないであろうが、私の大切な方が老いていくのは忍び得ない、という意味です。
3247は、ヌナカワの底にあるという玉(宝石)はお金を出せば買えるものだろうか、探しに行けば拾えるものだろうか、このうえなく立派なわが君が老いていくのが惜しくてならない、というような意味。作者は大切な主人がいつまでも若々しくあるよう願っています。 沼名川はヌナカワで奴奈川地方の川、新潟県糸魚川地方の姫川を指すとされています。ヌナカワの底にある玉は翡翠で、この歌が読まれた時代には、翡翠がなんであるのか忘れられていて、道教的な不老不死の霊薬、鉱物薬である「玉(たま)」と同一視されているようです。
古代から中世にかけて中国では、玉(ぎょく)は不老不死の霊薬、精力回復の回春剤と信じられていて、もっとも高品位の玉であるネフライト(軟玉翡翠)やアクチノライト(緑色系角閃石)を煎じたり、粉末を服用すれば、いつまでも精力が衰えないと信じられていました。そのためアクチノライトは陽起石という、鉱物にしては珍しくポルノチックな和名がついています。ネフライトとアクチノライトは同一鉱物で、アクチノライトの結晶微粒子がごく細かいものをネフライトとよんでいます。
古代の日本人は中国の伝説の玉(ぎょく)を知っていても、現物を知らなかったので、ヌナカワ(姫川)にネフライトやアクチノライトが転がっていても、それが玉(ぎょく)であることに気付けませんでした。
[19]出雲神賀詞奏上が勾玉文化最後の輝きだった
既述したように6世紀前半の継体天皇の時代に、日本翡翠の勾玉製作は終了し、朝鮮半島にも運ばれなくなり、7世紀後半の天武天皇の時代に出雲での水晶やメノウを使用した勾玉製作も行なわれなくなります。それが奈良時代が始まった8世紀前半の716年に宮廷行事として勾玉の献上が突如復活してきます。世の中的には都大路を往復しても、もはや勾玉で胸元を飾る人を見つけられようがない時代の出来事です。
この事件は出雲神賀詞奏上として知られています。出雲の国の首長で出雲大社の司祭だった出雲国造(役職名で、くにのみやっこ、と読む)が新任するごとに朝廷に挨拶に出向き、朝廷の繁栄を祈願し、恭順を誓うための行事です。
出雲神賀詞奏上は712年の『古事記』完成と、720年の『日本書紀』編纂のほぼ中間716年に始まります。それまで出雲東部の意宇に住んでいた出雲国造果安が、西部の杵築(きずき)に転居して、出雲大社の祭主となり、上京したのが最初です。神賀詞奏上は百数十名の神職を動員し、白馬1頭、白鳥2羽、水晶・赤メノウ・碧玉の勾玉計68個、などなど、多数の献上品を整える大行事でした。『延喜式』に残る神賀詞には、白水晶のように天皇の髪が白くなるまで長寿であられますように、赤メノウのように、天皇のお顔があかあかと輝くほどご壮健であられますように、碧玉の色合いをした大河の淵のように平らかに国が治まりますように、などと綴られています。
伝説の初代天皇・神武天皇に、王朝が永久に栄えることを願って、櫛明玉命(くしあかるだまのみこと)が勾玉をささげたという神話がここでは再演されます。朝廷側にとっては日本列島の土地の神々・国つ神を、天から降臨した外来の神が征服した歴史の再確認になりました。
なぜ716年という年代にこうした儀式が始まったかについて、少し毛色のかわった歴史学者、鳥越憲三郎の説と古代史の台風のような梅原猛説では、以下のようになります。
[1]『古事記』で大国主命は、出雲に自分が隠居するための巨大な神殿を出雲に作るよう要請して国譲りする。
[2]けれど実際には出雲の杵築に勇壮な神殿はない。おそらくは藤原不比等の音頭取りで、朝廷は急いで神社を建築して、出雲国造果安を祭主にすえた。歴史書の掲載が最初にあって、それに合致するよう環境整備したのが出雲大社建立ということになります。
[3]出雲側にとって、朝廷の特別扱いに迎合すべく、お礼として神賀詞奏上をするようになった。
神道は悠久の昔から信仰されていて、神社は超古代からあるという思いこみのもとでは、出雲大社のように太古からあるはずの神社とて、そこに社殿が建設されてから、1300年ほどしか経っていないとする説は、なじみにくいものであるけれど、この説には歴史的な整合性があります。
出雲神賀詞奏上は大和朝廷の権力が衰退していく平安時代末期までつづきました。けれど、世代交代ごとに1度だけのイベントは、朝廷にとってさほど意義あることではなかったようで、勾玉ブーム再燃の呼び水にはなりませんでした。やがて神賀詞奏上中断とともに出雲の玉作部もなくなり、ついには勾玉文化そのものが日本の歴史から失われていきました。それが復活するのは江戸時代に国学ブームが起きてからで、日本翡翠の勾玉が再度製作されるようになったのは、戦後の高度成長時代以降のことで、復古趣味や郷土の民芸品としてではなく、古代のスピリットを備えた物実(ものざね・パワーオブジェクト)としての勾玉の再誕は、ニューエイジの風潮のなかで、古代が新しい意味をまとってよみがえってからのことです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0020afed7394a33d8fff5b847e732f7f15fd1031 【じつは残酷な「日本古代史」 古事記・日本書紀に描かれた雄略天皇の「ウラの顔」とは?】より
歴史人 ヤマトタケル(東京都立図書館)
古事記・日本書紀(記・紀)においては、兄の手足をもぎ取るなど、ヤマトタケルの残酷な所業も記されている。タケルというのは「猛々しい」の意と考えられるのだが、同じくタケルと称されたワカタケル(雄略天皇)についても、荒々しい「殺し」の様子が描かれているのだ。どういうことか、みていこう。(「歴史人」2024年4月号から一部を抜粋・再編集しています)
■だまし討ちや残酷な殺害は責められるべきものではない
さて、タケルと称されたのはヤマトタケルだけではない。注目すべきは、タケルの名がついた天皇がいることだ。すなわち、記紀にはワカタケルという名の天皇が登場する。ワカタケルとは、雄略天皇のことである。
この雄略天皇は、記では「大長谷若建命(おおはつせのわかたけるのみこと)」、紀では「大泊瀬幼武天皇(おおはつせのすめらみこと)」と表記される。ちなみにワカタケルは、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文にも「獲加支鹵大王(わかたけるのおおきみ)」と表記されている。
記・紀ではこのワカタケルが即位する前に、兄クロヒコ(黒日子王/坂合黒彦皇子)やシロヒコ(白日子王/八釣白彥皇子)や、父を殺したマヨワ(目弱王/眉輪王)、ツブラ(都夫良意冨美/円大臣)、イチベノオシハ(市辺忍歯王/市辺押磐皇子)を残酷な方法で殺害している。
記において、ワカタケルは最初に登場した際にはヤマトタケルと同様にオグナであったと記されており、父が殺されたのに立とうしない兄達の襟首をつかんで、刀を抜いて打ち殺している。
その場面は、ヤマトタケルがクマソタケル兄弟の兄の衣の衿をつかんで殺害する場面とも共通しており、少年ワカタケルの荒々しい気性を描いている。
古代においては、だまし討ちや残酷な殺害は、必ずしも倫理的に責められるべきものではなかった。それを肯定するつもりはないが、古代の歴史を考える際には、古代人の価値観に向き合う努力が必要なのである。
監修・文/森田喜久男
歴史人2024年4月号「古事記と日本書紀」より
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