https://ooikomon.blogspot.com/ 【大井恒行の日日彼是】より」
小田島渚「撃たれたる記憶毛皮の全面に」(『羽化の街』)・・・
小田島渚第一句集『羽化の街』(現代俳句協会)、序は、高野ムツオ。栞は小林恭二「芋虫の咆哮」と穂村弘「幻視のリアリティー」。小林恭二は、
もう四十年以上前の話になるが、俳人の澤好摩さんのお宅によく転がりこんでいた。澤さん宅で希少な句集を読むのが何より愉しみだった。ある夜、澤さんが「もう残り少ないんけどといいながら処女句集をくれた。そのとき扉の部分に「小林恭二君 旅立ちのマストにこんな風鳴るとは」と揮毫してくれた。(中略)
今回、小田島渚さんの句集『羽化の街』を開くと劈頭、
荒東風に斧研がれ旅立つは今
という句が目に飛び込んできた。俳句に対する初々しい決意を表明した句で、処女句集の巻頭に相応しい。同時に野心的な俳人はいつの時代でも変わらぬ思いを抱くのだなと、妙に納得させられた。
とあった。そうです、小林恭二は、当時20歳代を中心とした、れっきとした俳句同人誌「未定」の同人でありました。発行所は確か澤好摩宅でした。また、穂村弘は、
(前略)日本語しか話せず海市さまよへり
不思議な句ですね。「芋虫」に「咆哮」があるのに、自分は「日本語しか話せず」、そのまま「海市」をさまよっている。目眩く不安感。でも、じゃあ、「海市」では何語が話せたらいいのでしょう。わからない。夢の中のような奇妙な思い込みと世界の崩壊感覚に魅了されました。と述べている。そして、高野ムツオは、 黄水仙こゑ嗄るるまで語り継ぐ
髪洗ふたび三月の雪が降る 五月鯉の目玉の中に津波まだ
などの大震災の悲劇をきっかけとした幻視は、作者の社会的批評眼の確かさを示し
微動だにせぬ寒卵割りて呑む 日輪のほどけし南瓜スープかな
子猫から子猫分裂したような
などは、作者の発想の柔軟さと詩性の豊かさを雄弁に物語っている。現代俳句はまたしても一人の新しい才能を得たのである。
と称揚している。2009年から2022年までの306句を収める。集名に因む句は、
白南風や軋む音して羽化の街 渚 である。著者「あとがき」の中には、
世界を言葉にしたがゆえに言葉の隙間からその多くがすり抜けてしまいます。それでも言葉と向き合うのは、有限の命を持つ者の無限に触れたいという欲望があるからかもしれません。
新人賞受賞を糧に、これからも俳句の高みを目指して邁進していきたいと思います。
とあった。ともあれ、愚性好みに偏するが、他のいくつかの句を挙げておきたい。
緑蔭やどのくちびるも開かれず なだれ込む軍靴夜明けの曼珠沙華
芋虫に咆哮といふ姿あり 白鳥は悲恋を喉に詰まらせて
ラムネ玉いつも誰かとゐて淋し 冬麗やならぶ椅子みな前を向く
遠足のひとりは誰も知らない子 もう住めぬ美しき村虫鳴けり
囀れり壁に塗り込められし鳥 舞ひ終へて影らかたまり夜の蛇藤
背中にも目のある巨人青嵐
小田島渚(おだしま・なぎさ) 1973年、宮城県仙台市生まれ。
撮影・中西ひろ美「とりあえず今晴れている寒の入」↑
【お知らせ】・・愚生のパソコンは、これより、1月9日(月)まで、新パソコンへのデータ移行などで、お迎えが来て、お泊りです。留守にいたします。下手極まりない愚生がパソコン操作になれるまで、ブログも、その他の執筆もお休みです。よろしくお願いいたします。大井恒行拝・・
津髙里永子「掻き傷の赤さ目出度し松の内」(『句解』)・・
津髙里永子(俳句)・荒川健一(写真)『句解(KUDOKI)』(発行・現代俳句協会、発売・彩流社)、序は、山折哲雄「『口説き』ならぬ『句解』ー序にかえて」。その中に、
(前略)世間を見渡すと、この寸法直しはいろんな場所ですこしずつ「縄張り」を広げているようだ。短歌の俳句化への流れ、というのもその一つ。三十一文字化である。要するにそれは下七七の切り捨て御免の勢いといってもいい。現代短歌が字余り俳句のような美容整形をうけるようになってきた。(中略)
もう一つ、この『句解』には、見られる通り写真家の荒川健一氏の得も言われぬ大量の作品が登場する。
ページを繰っていくと、その見開き両面の両翼に津髙ハイクが一句ずつ載せられ、それがいつしか写真像と微妙に響き合い、ただならぬ不協和音を奏ではじめる。おそらく大地から噴きあがる土俗のエネルギーのようなものの作用なのだろう。一口にいうと、カメラの肉眼がハイクの裸身を射抜き、その反動で不穏な抵抗にあっているのかもしれない。まことに得難い出会いであり、組み合わせだったのではないだろうか。とあった。また、津髙里永子の「あとがき」には、この風変りな写真集は、第二句集『寸法直し』制作のときにお世話になった装丁家の中山銀士氏に示唆されて実現した試みです。以前見せていただいた荒川健一(写真)&大畑等(俳句)コラボレーション作品『句景』(二〇二一年発行)の斬新さと、私が仲間たちと始めた、手書き俳句とモノクロ作品からなる同人誌(『墨(BOKU)』二〇ニ一年創刊)作りの面白さに目覚めて(?)いたので、あまり深く考えず、白黒写真でやっても面白そうね、と中山さんにひとこと発してしまったのがはじまりです。
とあった。ところで、その大畑等(1950年、和歌山県新宮市生まれ、2016年1月10日急逝、享年65。)は、現俳協千葉県会長を務め、現俳協の今後を背負うに嘱望された人であった。人望のあつかったことを思い出した。ところで、「あとがき」のもう一人・荒川健一「二匹目の泥鰌?」には、
(前略)三〇〇頁を越える本書には、カメラマンを目指して写真を撮り始めた一九六八年撮影の写真から、昨年撮影したデジタル画像までが含まれており、津髙さんがお声をかけて下さったお陰で、計らずも私にとって、モノクロ写真の自分史となりました。
ともあった。ともあれ、以下に、句のみなるが、いくつかを挙げておきたい。写真を見るだけでも堪能できるので、興味をお持ちの方は、是非、直接、本書にあたられたい。
建国日富士には煙突よく似合ふ 里永子
伊勢まゐり白き儒艮(ジュゴン)に会うてから 弁当の飯凍てちまふ椅子持つて来い
根元竹折れてゐる涅槃かな 活動の起点目高の目の高さ
真鶴の三羽ゆふぐれ二羽ひぐれ 垂れてひらかず涅槃図の孔雀の尾
童顔の放哉(ほうさい)がゐる月夜の白湯
羅(うすもの)を脱ぎて草臥(くたびれ)儲けなり
大根の花あきらめずしたがはず 敬老の日の腰高きオートバイ
薄紅葉あやまるときは手をついて 涅槃会のころの引越さわぎかな
津髙里永子(つたか・りえこ) 1956年、兵庫県西宮市生まれ。
荒川健一(あらかわ・けんいち)1948年、神奈川県横浜市生まれ。
★閑話休題・・津髙里永子「木枯を聴く耳ことば聴かぬ耳」(「ちょっと立ちどまって」2022.12)・・
「ちょっと立ちどまって」2022・12は森澤程と二人による、一ヶ月に一度の葉書通信。それぞれ5句ずつの発表である。
奥山に忘れ物あり六林男の忌 森澤 程
仰向けに置きて冬日の散蓮華 津髙里永子
芽夢野うのき「赤き実を啄む少女の息は青空」↑
武馬久仁裕「国境の石に彫られた花一つ」(『八月、サハリン島』)・・
武馬久仁裕『八月、サハリン島』(私家版・しまうまプリント)、文庫版、32ページ、オールカラー、限定50部(2023年1月1日発行)。武馬久仁裕は2018年夏、サハリン(樺太)を訪ねた。 サハリンの夏の扉を軽く押す 久仁裕
「2018年/八月一〇日/午前九時/豊原に着いた」とあり、次ページに、「レーニン像の向うは、ユジノサハリンスク。旧豊原(とよはら)駅」とあった。
真っ黒のレーニン像の胸のうち
そして、「真新しいロシア正教会。見学し、売店で紙のコインを十枚ほど、お土産に買った」と。 金色の周囲隈なく不安定
また、「19世紀の独房が復元されて、博物館の庭にあった。覗けば手枷足枷。露暦1890年7月11日、チェーホフは、『罪囚の孤島』サハリン島に上陸した」とあった。
チェーホフの愛した女囚の名はソフィア、
あるいは、「王子製紙(冨士製紙)落合工場跡。大正13年3月4日、伊藤凍魚・山本一掬らは工場倶楽部で句会をし、その後、俳誌『氷下魚(かんかい)』創刊。樺太俳句が始まった。一掬の句は昭和8年のものであった」。俳誌「氷下魚」は原石鼎門下の伊藤凍魚らが始めたという。
立ちならぶ煙突五本風光る 一掬
ななかまど稚葉(わかば)もみぢのうつくしや 凍魚
凍港や旧露の街はありとのみ 誓子
えぞにうの花しろじろとと雨の中 一魯
山口誓子の句は、大正15年作(句集『凍港』昭和7年所収)。山口誓子全集第5巻には、「大泊の港は冬に凍った。…海が氷で覆はれると砕氷船が入ってくる」と書かれている。
ともあれ、集中より、武馬久仁裕の句をいくつか挙げておこう。
琥珀海岸取るに足りない男おり
あれはなにと蝦夷丹生をさすしろいゆび
夏草の野田(チェーホフ)駅までとわずか
驟雨去りユジノサハリンスク疎し
秋風にウオトカ揺れるころとなり
武馬久仁裕(ぶま・くにひろ) 1948年、愛知県生まれ。
撮影・中西ひろ美「かんじんなところにじみて雪の恋」↑
重富蒼子「蹴飛ばした夢が靴底に張り付いていた」(第5回口語俳句作品大賞)・・
第5回口語俳句作品大賞(主催・口語俳句振興会、後援・文學の森)の発表が、「原点」NO.11(口語俳句振興会会報、2022・12・26)で行われている。作品大賞に重富蒼子「蹴飛ばした夢」、奨励賞に小林万年青「起点」、久光良一「月の輪郭」、瀬戸優理子「もやしのひげ」が受賞している。選考委員は、秋尾敏・田中陽・前田弘・谷口慎也・安西篤・長井寛・植田次男・金澤ひろあき・飯田史郎・萩山栄一・岸本マチ子・大井恒行の12名。以下に各賞の一人一句を挙げておこう。
隠し事があるから湖は輝いている 重富蒼子
虚構を綺麗に絞りだされたマヨネーズ 小林万年青
叱る人がもういないから自分で叱る 久光良一
だとしてもひとりを選ぶ実むらさき 瀬戸優理子
他に、入賞はならなかったが、愚生が二位に推した摂津華氏「にせもの」と五位に推した小枝恵美子「星の話」の各一句を以下に紹介しておこう。
ぞろぞろと諸手 万歳も降参も 摂津華氏
蝶ふたつ糸のからまる気配して 小枝恵美子
★閑話休題・・第5回口語俳句作品大賞顕彰/記念(誌上)俳句大会 作品募集案内・・
◆作品募集要領◆
・未発表作品 3句
・出句料 1000円(作品に同封、または郵便振替00870-8-11023 口語俳句協会(口座名にて)
・出句は用紙に、3句と住所・氏名・電話・所属誌があれば所属誌を記す。
・選者 大会選考委員と同じ
・投句先 422-8013 静岡市駿河区馬渕2-1-10-703 萩山栄一方
口語俳句振興会事務局 電話FAX 054-281-3388
・投句締切 2023年1月20日(金)
・誌上講演 「”世界”へ向かう俳句」 木村聡雄(日本大学教授)
「俳句に何が可能か」 大井恒行(「豈」同人)
・応募作品の内2句は誌上掲載されます。
・大会の模様は講演ほか「原点」NO,12に特集します。
主催 口語俳句振興会 / 後援 現代俳句協会
芽夢野うのき「ひのもとの元旦日和愛日和」↑
大井恒行「愛ありせばかくも深く兎跳ぶ」(2023年元旦)・・
喪中につき、皆さまへの祝辞は叶いませんが、昨年中は、いろいろお世話になりました。
本年もよろしくお願いいたします。
愛ありせばかくも深く兎跳ぶ 恒行
2023年1月1日
撮影・中西ひろ美「あらたまの一滴となり飛び散らん」↑
三橋敏雄「待遠しき俳句は我や四季の国」(『三橋敏雄の百句』より)・・
池田澄子『三橋敏雄の百句』(ふらんす堂)、巻末の「待遠しき俳句は我ー三橋敏雄」の中に、敏雄の俳句との関わり方は、よい趣味、というものではなかった。よい趣味として程よい俳句に出会っていたなら深入りはしなかった筈。戦場の先輩から誘われて出会ったそれは、芸術の神の采配によってか、風流韻事には遠かった。それは俳句の中心にあるめでたいものではなかった。
後日、敏雄は、僕は少数派というところに思いがゆく人間、と言っていらした。まさに少数派との出会い、そして共感であった。(中略)
話が大きく逸れるが、その高屋窓秋が句集『花の悲歌』纏める折、窓秋は、句稿を持って、国立から遠路、小田原の敏雄を訪ね、意見をも求められたのだった。敏雄は大先輩の信頼に応えるべく、一句一句丁寧に感想を述べたという。意見の異なる場合も、お互い率直に思いを述べ合われたそうだ。
雪月花美神の罪は深かりき 窓秋
は、その段階では「美神の罪は重かりき」だったのだそうだ。「罪深い」という言葉もあって、「重い」よりも「深い」がよいのではにないかと敏雄は言ったのだそうだ。窓秋は、でもここには「折笠美秋」の「美」と、高柳重信の「重」が入っているのですよと、かなり主張なさったけれど、敏雄は譲らなかったそうだ。(中略)窓秋と、かなりの時間をかけて感想を述べ合い、話が終わって小田原駅の改札口までお見送りした。
深くお辞儀をして、ほぼ放心状態で顔を上げ。扨て帰ろうと体の向きを変えながら、いつものように帽子を被ろうとした。ない!
鞄の中にも、ズボンの後ポケットにも無い。 (中略)
脱線ついでに記せば『花の悲歌』カバーの装幀、小さな芥子の花の絵は、糸大八、出版の労は大井恒行だった。
とあった。その挿画の打ち合わせのための場所に、渋谷区松濤美術館を指定されたのは高屋窓秋。糸大八が渋谷駅近くにお住まいだったこともあるが、当時の松濤美術館2Fは、絵画を見ながら、お茶が飲めるソファーが置かれていた。窓秋お気に入りの美術館であった。その窓秋最後の単独句集となった『花の悲歌』(弘栄堂書店・1993年5月)の刊行は、ひとえに三橋敏雄の慫慂による。「窓秋さんは句を持っておられる。大井君が出したいと言えば、きっと出すと思うよ」と言われたのである。装幀は、先般、本年5月19日、77歳で亡くなられた亜鈴、こと書肆山田の大泉史世。遅れること約3ヵ月後の8月10日、愚生の妻・救仁郷由美子、享年72。思えば。俳号の救仁郷由美子の誕生は、池田澄子のひと言による。救仁郷の前は大井ゆみこの名で「琴座」同人。永田耕衣死去によって終刊した「琴座」から、「豈」への加入を勧めていただいたのも池田澄子。愚生も妻も同じ同人誌に居ることには躊躇があった。「名前を変えれば分からないわよ、『豈』に入れば・・」と言っていただいたのだ。さまざまな俳縁のお蔭で、愚生の成り行き人生もここまでくることが出来た、と言ってもいい。本書の結び近く、池田澄子は、
新興俳句に始まり、戦火想望俳句を書き極め、昭和十五年の、新興俳句無季俳句弾圧事件を近く見て、最も近く親しく学ぶ対象であった俳人たちが、投獄され或いは執筆禁止を受け迫害を受ける様を傍で見た。
俳句の上での反対勢力からではなく、軍国主義の国家によって成功に至らないまま前途を閉ざされた無季新興俳句と、その作者たち、そして戦争という理不尽なものに殺された人間の無念を、敏雄は忘れない。愚直に謙虚に一生そのことに拘り続けた。(中略)
一途な少年は、そのまま一生を一途に生きた。常に新しく、しかし、過去に出会った人、過去に観たモノ、コトを忘れずに生きて、書いた。
更には、各句集は、全く方法を異にしている。『まぼろしの鱶』が現代俳句協会賞を受けた時、敏雄は満足していなかった。僕の俳句はこれだけではない、と思ったのだそうだ。自身の作品が何かに到達してそれを纏めたら、敏雄はもはや其処に居ない。その方法で書きさえすれば、心配なく一応の評価は得られる書き方に到達したとき、その翌日、其処に敏雄は居ない。
と記している。ここで澄子鑑賞句の一例を挙げておこう。
むささびや大きくなりし夜の山 『靑の中』
(前略)高尾山薬王院への参道に敏雄の句碑が建立されている。その句碑開眼除幕式の日には、六曲一双、十二句染筆の披露もあった。その句碑がこれ。昭和二十一年二十六歳のこの句。
高尾山にはムササビが生息していて「ムササビの木」という大木があり句碑はそのすぐ近くにある。建立は大山隆玄貫主である。「大」「山」、そして「むささび」が詠み込まれているという見事な挨拶の句を敏雄は選んだ。(後略)
ともあれ、以下に、本書中より、句のみなるがいくつかを挙げておきたい(あまりに、人口に膾炙した句ははずしたかも・・・)。
鉄条網これの前後に血ながれたり 月夜から生まれし影を愛しけり
新聞紙すっくと立ちて飛ぶ場末 はつなつのひとさしゆびをもちゐんか
一日(いちにち)の日負けのひふを抱き合ふ 桃採の梯子を誰も降りて来ず
高ぞらの誰もさはらぬ春の枝 死に消えてひろごる君や夏の空
あけたての戸道の減りや秋の風 木練柿滴滴たり矣(い)われも亦
大年の黄の夕焼を窓の幸(さち) 信ずれば平時の空や去年今年
土は土に隠れて深し冬日向 われ思はざるときも我あり籠枕
三橋敏雄(みつはし・としお)1930・11・8~2001・12・1、東京八王子生れ。
池田澄子(いけだ・すみこ)1936年、鎌倉生まれ、新潟育ち。
芽夢野うのき「ゆきずりの山茶花にくる白き夕暮れ」↑
佐孝石画「冬木という眩しい肺が立っている」(『青草』)・・
佐孝石画第一句集『青草』(俳句同人誌「狼」編集室)、「序に代えて」は金子兜太、跋文は、松本勇二「眩しい肺」、石川青狼「佐孝石画句集『青草』」。金子兜太はその中で、
この道は夕焼けに毀されている
これは夏の焼けるような夕焼け。しかも他の何ものもなくて、道が一本ぐっとあるという。「赤々と日はつれなくも秋の風」(芭蕉)、佐孝はこの句と同じ受け止め方ここに書いたと思う。
映像としては、道が毀れるくらい激しい夕焼け、それだけなんだ。しかしその激しさだな、それを「毀されている」と書けたというのは、佐孝の若さだ。激しい孤独もあるわけで、これから人生の境目の第二段階に踏み込もうとしている感じがある。
と記している。また、松本勇二は、
(前略)俳句には言い切ること。断定が必要だ。ここに挙げた句群にはきっぱり断定されている切れ味がある。
と言い、石川青狼は、
(前略)佐孝の青臭さが好きと言ったが、青臭い意の、未熟であるということではなく、青草のような芳しいにおいがする青春性が根底にあるのだ。(中略)
この句集の最大のテーマは自己の生き方で自問自答の中で、もがき苦しみ叫んでいる直情を臆することなく叩きつけている青臭さと、何よりもそれを支えている家族への並々ならぬ愛である。
と述べる。また、著者「あとがき」には、
初句集です。一句一句を恋文のように金子先生の元へ投句していた日々は、いつしか遠くへ過ぎ去ってしまいました。これまでの句をまとめてみると、あらためて、いかに不自然なテンションで作っていたのだろうと、赤面する思いもします。しかし、これから終生、俳句という文学形式を愛し続けるために、これまでの俳句をまとめ、Reスタートしたいと考えました。(中略)
句集名『青草』は息子二人の名から取りました。彼らもまだ青い草であり、この青さを胸に抱く仲間として、季節を経て次のステージへ歩みを進めていけたらと思っております。
とあった。佐孝石画のことで思い出すのは、、記憶に間違いがなければ、以前、愚生が現俳協の新人賞の選考委員をしていた時、彼の作品を授賞作に推し(もちろん、作品は無記名)、その場で、それが決まったことを知らせた顕彰部長からの電話で、彼が既発表作が一句混じっていたということで、辞退されたことである(当時、未発表作の規定あり)。じつに無念に思ったこと。その余のことは、記憶に無い。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが、いくつかの句を挙げておこう。
少年期白梅というか歯軋りというか 石画
春星はおそらく与え合う距離だ わたくしも言問いの粒春の雨
冬野という閉め忘れた窓があります 息継ぎの足りぬ雲から雪になる
白鳥来るいろんな沼を縫い合わせ 音階の高みに枝の枯れゆくや
雪が降る嗚咽のように啞のように 夜のポストつぎつぎ谺が投函される
鴉去る私が鴉になったあと
佐孝石画(さこう・せっかく) 1970年、福井県生まれ。
★閑話休題・・松林尚志「虎ふぐでジュゴンでありし兜太逝く」(「海原」NO,45より)・・
佐孝石画つながりで「海原」no、45。安西篤の石画『青草 seiso』書評「庄倒する青春性」には、
(前略)佐孝は一句を成そうとする時、かなりの力技でもがき苦しむはずだが、その果ての天与のように、体からほとばしる言葉が授かるのではないか。その力感が、松本のいう「断定」に結びつくのかもしれない。(中略)
冬木という圧倒的な居留守かな
冬木の疎林を、圧倒的な居留守とは、作者ならではの若々しい不信の抗議。「居留守」を「圧倒的」とまで詠むのは、作者の内面の燃えあればこそといえよう。
とあった。本紙本誌本号には、別に、「追悼 松林尚志」のページが組まれ、彼の『現代秀句 昭和二十年代以降の精鋭たち』より「金子兜太の俳句ー鑑賞と批評」が特集されている。山中葛子による彼の最後の句集『山法師』20句抄もある。
愚生は縁あって、「俳句」(2023年2月号・1月25日発売)誌に、松林尚志追悼「静謐にして熱く」を寄稿させていただいた。改めて生前のご厚誼に感謝し、ご冥福をお祈りする。
松林尚志(まつばやし・しょうし)、1930年、長野県生まれ、本年10月16日、胆管癌のため死去。享年92。
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