龍神信仰

https://www.tokaiedu.co.jp/kamome/contents.php?i=117 【第2回 海の民、倭人の龍神信仰】より

 「霊長類は、東南アジアで進化して西アジアやアフリカに広がったのではないか」という刺激的な仮説から始まった植島先生の講演。第2回は、海の民「倭人」によってもたらされた龍神信仰のお話です。

 ぼくはラオスが好きで、よくラオスに行きます。ラオスは東南アジアの最貧国ですが、物乞いがいないのでみなさんびっくりしますね。物乞いとか客引きとかお店への呼び込みとか、ほとんどないんです。みんなさらーっとした顔をしている(笑)。お店の前を通っても声をかけるわけでもなく、空港から降りても子どもたちが何かをねだるということもなく、非常に清潔感溢れているわけです。なぜなんだろうと思っていました。

この間ブータンに行っても同じ印象を受けました。スリランカとかブータンとかミャンマーとかラオスとかこれらの国に共通していることが一つだけあって。それらの国はいわゆる小乗仏教の国なんですね。宗教学では上座部仏教と言いますけれど。ブータンも世界で1、2位を争う貧しさですけれど、ここでも物乞いをする人とか道端で寝ている人とかほとんどいません。なぜそうなっているのかというと、社会全体のありかたとして僧院システムがそれらを吸収しているからです。それからブータンでは動物を殺すことが禁止されています。釣りも禁止です。釣りが好きな人は困りますが、魚はいっぱい見ることができます。安心して泳いでいる。もちろん動物を苛めることも禁止されています。 

 さっきも会場に来るまでの車の中で話していたのですが、そのへんにいる犬と目が合うと、どの犬もニコって笑うんですよ(笑)。猫たちも寄ってきますね。「ショッ」って言うと、「来い」という意味ですけれども、動物が寄ってくる。そういう姿を見ていると、ぼくの専門でもありますが、改めて宗教の役割、宗教の重要性というものを感じさせられるわけです。

 さて、日本の場合、かつて倭(わ)と呼ばれていたころから、海の民として広く知られていました。日本へ移動してきた人々は黒潮に乗ってやってきたわけですけれども、かつては江南(中国・揚子江以南の地域)や朝鮮半島なども含めて倭人は分布していました。日本の信仰もそうやって海を移動してやって来た人々によって作られました。例えば、熊野(和歌山県)の人々は黒潮にのって熊野灘にやってきた人々です。神武天皇もそうです。神武天皇は海神(わだつみの神)の娘、お母さんは海神の娘、玉依姫(たまよりひめ)だし、おばあちゃんも海神の娘です。神武天皇には海の匂いが濃厚につきまとっているわけです。これは民俗学者の折口信夫が指摘していて、「古事記や日本書紀にはやたら海の匂いが感じられる」とも書いています。

そもそも神武天皇自体が海の神の子孫であることはもっと強調すべきことかもしれません。ここで話すにはあまり適切な話ではないですが。第15代応神天皇まではその匂いがします。しかし応神天皇の後、その後の仁徳天皇からはその匂いがなくなる。それがいったいなぜなのかとても興味があります。

 例えば、室町時代の『塵添あい嚢鈔(じんてんあいのうしょう)』は百科事典のような書物ですが、それを読むと「尾籠」(びろう)という言葉の語源が書かれている。お年寄りの方は知っていると思いますが、「び」はしっぽ、「ろう」は竹かんむりに龍と書きます。例えば、お腹を壊してしまった話をするときに、「尾籠な話で申し訳ありませんが」というように使います。ちょっと下品な話、まずいことを話すときに尾籠と言うのですけども。この書物によると尾籠という言葉の語源は応神天皇のエピソードにあると書いてある。

 応神天皇が宮殿の方へと部屋を出て行こうとするときに、お使いの女性、内侍(ないし)と言いますが、ちょっと早く障子を閉めてしまって尻尾が挟まった、という話なんですけれども、その時、応神天皇が「尾籠なり」と言ってその女性を怒るわけです。「尻尾がはさまっちゃったじゃないか、無礼者」という意味です。この話は室町時代では誰もが知っていた話でした。この「尾籠なり」という語は一語でそのすべてを表わしているわけですが、こちらとしては、それよりも応神天皇には尻尾があったということにびっくりするわけです。神武天皇から応神天皇までは龍の鱗(うろこ)があったり、尻尾があったり、角があったりとそういう風に表記されている文献も残されています。有名な『旧事本紀大成経(くじほんきだいせいきょう)』という大事件を起こした書物です。

 かつては日本の古典の中でも『古事記』『日本書紀』『旧事本紀』とで三大古典と言われていました。『古事記』『日本書紀』はいまだに同じ扱いですが、『旧事本紀』はもうほとんど禁書、偽書扱いで、まともに取り扱われることは少なくなりました。ましてや『旧事本紀大成経』となるとトンデモ本扱いになっています。

海から来る神々を迎える出雲大社の祭り「神迎神事」。神々を先導するのは龍蛇神。写真提供:出雲大社 そこに書かれてあるのは、初代の神武天皇から15代の応神天皇まで、それぞれ身体に鱗があったり、尻尾があったり、角があったりというように、まるで爬虫類とか両生類とか海に住んでいる生物の姿です。今回のテーマにそって言いますと、彼らは龍の子孫という性格を持って生まれてきているということです。もともと熊野にやって来た神武天皇が海の神様の子孫であることは先ほど述べたとおりですし、出雲大社(島根県出雲市)にも非常に古くからある大事なお祭りに龍蛇神の祭り、つまり、龍の姿をした神(セグロウミヘビ)が海からやって来るという祭りがあります。

 いま、僕はずっと伊勢神宮(三重県伊勢市)に関係するの仕事をしているのですが、もともとの伊勢神宮を作った人たちのも海からやって来た人たちで、海部とか磯部とか言われている人たちです。彼らも黒潮にのって的矢湾から上陸し、現在の磯部の地から北上して宮川、五十鈴川の河口近くに住みついていったとされています。的矢湾から奥に入ったところに伊雑宮(いざわのみや)という、伊勢神宮に次ぐ、第二、第三の別宮と言われているところがありますが、この伊雑宮を通って北上して、五十鈴川、そして宮川を遡っていったわけです。そして、的矢湾から入ったところの伊雑宮で先ほどの文献、『旧事本紀大成経』が見つかったのです。江戸時代になって、それによって伊雑宮こそが本当の伊勢神宮であるという訴えが起り、世の中がひっくり返るぐらいの大きな事件である「旧事本紀大成経事件」というのが起こりました。

ブータンの国旗 いずれにしても、神武天皇以降、この列島を支配してきた家系の中に龍神の色彩が強いということですが、これは日本だけでなくて、龍神信仰は世界中で、特にアジアでは本当に広く見られる信仰形態です。そういえば、ブータンの国旗にも龍が描かれていますね。ぼくらは仏教とかイスラム教とかそういうふうに大きな宗教でその国を見るけれども、本当にその国を支えている信仰形態は掘り下げていくと、そのような龍神であるとか、穀神であるとか、精霊信仰に戻っていくわけです。


https://www.tokaiedu.co.jp/kamome/contents.php?i=120 【第3回 龍神の居場所、龍穴】より

 古くから日本の聖地で祀られている水の神、龍神。前回は、龍神信仰が黒潮に乗って海からやってきた倭人によって日本にもたらされたことを解説しました。今回は、龍の神が住むといわれる「龍穴」についてのお話です。 

 日本列島でも海から川を遡って人々は移動していったわけです。川を遡って移動していって、水源近くの場所にその神の居場所を作っていくわけです。それが「室(むろ)」とか「岩屋」とか「岩戸」と言われている所です。「岩戸」とか「天岩戸(あまのいわと)」の「岩戸」という字を書きます。「室」というのは室生寺(奈良県宇陀市)の「むろ」、それから「御室(みむろ)の神事」という神事がありますが、御室の「むろ」も同じです。それから熊野と呼ばれる地域も和歌山県の牟婁(むろ)郡にありますね。どれも全部語源は一緒です。 

川を遡って水源に達するという人々の移動、そして、水源から海に向かって川が流れていくというこの往復運動が、ぼくらの生命を根源から支えてきた運動ではないか、と考えられます。「室」とか「岩屋」とか「岩戸」と言われているところは日本中に分布していますが、では、それらを代表する言葉はいったい何かというと、ぼくは『日本の聖地ベスト100』(集英社新書)で書きましたが、それは「龍穴(りゅうけつ)」だと思うんですね。龍穴とか天岩戸とかどれも同じ意味で、龍神が住む場所という意味合いがあります。諏訪大社(長野県諏訪市)は龍神信仰の中心ですし、もちろん雨乞いでよく知られている室生寺もそうですし、室生寺は興福寺(奈良県奈良市)と繋がっていますから、興福寺もそうですね。京都の貴船神社(京都市左京区)もそうです。

 そういうところには水の神が祀られています。朝廷が室生寺に雨乞いを年に二十何回遣わしたとか、これは文献に残っていますが、古代では貴船神社と室生寺は雨乞いでよく知られたところでした。それは龍との連想関係でつながっているわけです。

 ちょっと映像で見ていただきたいと思います。4、5分ですが、室生寺の奥にひそんでいる龍穴を見ていただこうと思います。まず、学生たちをつれて歩いているシーンから始まります。最初に室生寺が映っていますが、それから、もともと室生寺が出来たきっかけとして、室生寺の奥に龍穴を訪ねるという流れになっています。そこまでの一連の流れを見ていただきましょう。 

室生寺 写真提供:宇陀市商工観光課 室生寺は日本で一番美しいお寺と言ってもよいと思います。最初に山門を入ると鐙坂(あぶみざか)といって季節を彩るシャクナゲや紅葉が美しく映える階段があります。赤い傘をさして歩いているのが学生たちです。鐙坂を上がると、すぐに龍穴神社の遥拝所があります。それから軍荼利(ぐんだり)明王の石仏があって、金堂の須弥壇(しゅみだん)があるわけなんですが、そこにぼくが一番好きな十一面観音菩薩像が置かれています。金堂を過ぎると、日本で一番小さな国宝の五重塔があり、そして奥ノ院への階段へと続きます。そこまでが前篇で、室生寺を後にして、すぐ近くにある室生龍穴神社に向かいます。歩いて10分くらいでしょうか。でも、そこには龍穴はありません。そこから山の奥に車で分け入ることになります。

室生の龍穴 写真提供:宇陀市商工観光課 車で10分くらいでしょうか、まず天岩戸という岩が二つに割れている箇所があって、しばらく進むと「龍穴」という小さな看板がでてきます。これが信じられない気持ちのいい場所で、マイナスイオンが溢れているというか、小さな滝があって、水の流れがあって、特別な気配を感じさせるところです。こちら側に簡素な拝所が設けてあり、川の対岸に岩の亀裂があって、注連縄が渡されている。そこが龍穴なんですね。周囲の岩場には火山の噴火によるものでしょうか、柱状節理のようなきめ細かい岩肌が見えています。

 龍穴と呼ばれている場所は、ほぼ100%聖地になっているというか、本来の聖地はことごとく龍穴がある場所と言ってもいいくらい。宮崎県高千穂町の天岩戸神社もそうだし、修験で有名な大峰山(奈良県南部)のてっぺんにもありますし、高野山(和歌山県高野町)にも龍穴があります。栃木県の日光にもありますし、木津川に沿って笠置寺(京都府笠置町)という寺があります。そこは、いまは千手窟(せんじゅくつ)と呼ばれていますが、かつては龍穴と呼ばれていました。

 龍穴と呼ばれている場所は、龍神、そして雨の神様を祀っているところになるのですが、龍穴と呼ばれている所の地勢がわかってくると聖地の非常に古い形が見えてくるのではないかと思っています。

関東から木津川に行かれた方はあまりいないと思うのですが、京都と奈良の境を流れている川です。この木津川に沿って水の神様を祀る聖地が点在しています。笠置寺もその一つです。浄瑠璃寺もそうだし、海住山寺や、現光寺や、観音寺など、いっぱいあるんですが、それらのお寺の多くには十一面観音菩薩が飾ってある。十一面観音は、この木津川のほとりとか奈良盆地や琵琶湖の東岸などにいっぱいあるのですが、それらをずっと探して歩いたのが随筆家の白洲正子さんで、彼女は『十一面観音巡礼』というすばらしい本を書いています。この十一面観音と水の神の分布がなぜ重なるのか非常に興味深いところです。

 木津川に沿ってずっとそういう分布があるのですが、一つずつ回って歩くとけっこう大変なんです。かなり高い拝観料をとられたりして。ところが、なんとこの間、京都国立博物館が、「南山城(みなみやましろ)の展古寺巡礼」という、十一面観音も含めて木津川の仏像たちが一斉に集められた展覧会をやってくれました。

 ちなみに「龍とはいったい何なのか」ということですが、龍というのは日本では神話学的に蛇と一緒にされてしまうのですが、想像上の動物ですね。昔の百科事典によると、龍とは眼は鬼、耳は牛、鱗(うろこ)は魚、爪は鷹、手のひらは虎、角は鹿、とこう書かれています。これらがあわさったのが龍の姿だそうです。


https://www.tokaiedu.co.jp/kamome/contents.php?i=122 【第4回 龍神を祖先にもつ人々】より

 前回は、水の神・龍神の住む場所といわれる“龍穴”は、そのほとんどが“聖地”と呼ばれる場所になってるというお話でした。今回は、龍神信仰を日本に根づかせた「龍神を祖先に持つといわれる人々」について考察します。

さて、日本列島の神話というのはほとんど南方から海を渡って龍神信仰を運んできた人々によって作られたのですが、日本列島に点在する聖地というのもその影響を強く受けてきたと思われます。

 来週、対馬(長崎県)に行くのですが、対馬も龍神信仰の中心地の一つです。その前に福岡県宗像市の宗像大社にも出かけることになっています。「宗像」とは「胸に鱗がある」という意味ですね。たとえば、「宗像」もそうですが、「緒方」の家紋を見ると三角形ですよね。三角形が繋がっている形で一見したところ鱗のようになっている。 緒方とか宗像といわれている人たちは海の民というか、龍と密接につながっている家系ではないかと思います。本当に鱗があったかどうかはわかりませんが、海に入るとサメとかに襲われて危険なことがたくさんありますね、その魔除けのために三角形の鱗の刺青をしたんだと言われています。それが家紋になったんですね。

 日本の聖地を辿っていくと、そうやって日本列島を移動した民が日本の文化のイニシアティブをとってきたことがわかってくる。彼らを抜きにしては日本の文化は語れないと思います。イギリスの脚本家、エレイン・モーガンが論じたように、もともと人間は海からやってきたということは明らかで、だから水中出産とかが適しているとされたのです。手に水かきがあったり、潜水反射、つまり、水にもぐると心拍数が減り、酸素消費量も減るという現象が見られたり、体毛の喪失、皮下脂肪の保持、涙を流すという現象など、人間は海や水と親縁性が高い生き物であるということを示しています。

 前にお話した(第3回参照)室生寺(奈良県宇陀市)の奥の龍穴、長谷寺(奈良県桜井市)の奥の瀧蔵などを含む一角はゴールデントライアングルを形成しています。ぼくは日本列島をいやというほど回りましたけども、これほどすばらしいところはなかなかないと思われます。とりわけ先ほど映像で見ていただいた室生寺のシーンだけでも日本のお寺の中でトップだと思いますし、その奥の龍穴まで行くと本当に豊かな自然と、それからなんていいますか、水飛沫、水が一斉に舞うようなそんな一場面に出会うことができると思います。この後、ランドスケープデザイナーの花村周寛氏が映像で見せてくれると思いますが、彼のインスタレーション(注1)を見た時にもまったく同じような感覚を得ました。ただ居るだけでこんなに気持ちよい場所があるのかと。

 まあ、そんなことが色々あるんですが、日本の天皇が即位する「大嘗祭」というのがありますけれど、大嘗祭は「真床襲衾」(まどこおふすま)という儀礼が中心ですが、龍の神様が人間の女性と婚姻を結んで、新たに(象徴的に)天皇が生まれ出るというものです。

海の幸と倭人

 さて、最初に少し触れましたが(第2回参照)、倭人は海の民だったというところを少しまとめたいと思います。倭人というのは、もともとの日本人を指していたと考えがちですが、そう簡単ではなくて、倭人というのは揚子江沿岸から朝鮮半島、さらには東シナ海に至るまでを縦横無尽に動いた海の民を指していったわけです。『後漢書』にもでてきますが、もっとも漁撈技術に卓越した人たちとされる倭人は、この海を支配してあらゆる地域の活動をリードしたのではと言われています。それなのに、以前は、倭人というと「弥生時代の人々」と言われてきました。いまは縄文後期まで活躍した人々だということがわかってきている。つまり倭人はむしろ縄文人であり、縄文人は海の民であった、ということになります。

考古学者・酒詰仲男の『日本縄文石器時代食料総説』(土曜会)には次のような記述があります。

「日本各地の縄文遺跡から出土した貝は353種類、魚は71種類、エビやカニなどの節足動物は8種類、ウニは3種類、カメなど爬虫類は8種類、鳥は35種類、哺乳類は70種類などとすこぶる多い。この傾向は8世紀を主とした出土木簡や、平安時代の『延喜式』の諸国の贄(にえ)や調(ちょう)の内容にもうかがえるばかりか、その後も日本人の食生活の基層的嗜好としてつづいていて、現代の日本人の食文化にも脈々とうけつがれている」

 つまり日本人は倭人と言われている人たちの後裔であるわけですが、もともと縄文人は海産物を食べていたということですね。教科書では縄文人は狩猟採集民族と言われて、ドングリを拾ったり、獣を槍でやっつけたりして暮らしていたみたいなことを学校でならいましたけれど、縄文人は主に海産物を食べて暮らしていたということです。

 この日本近海で活躍した縄文人と呼ばれる人たちの食生活がいまでも一番我々の基層的な食生活となっていることはとっても重要じゃないかと思いますね。もしぼくらが野獣とか動物を狩っていた狩猟採集民族だとすると、日本人のイメージは随分と違ったものになってしまうのではないかと思います。最近、和食が世界的なブームになっていますが、世界中の人がマグロなんか食べなければいいのにと思います (笑) 。

注1:インスタレーション

 特定の場所を装置やオブジェ、映像、音楽などの要素で変化させ、場所や空間全体を「作品」として鑑賞者に体験させる現代美術の手法の一つ。花村氏は高さ50mの吹き抜けの空間に霧とシャボン玉を舞わせ、幻想的な空間を創り出した。

※次回はいよいよ最終回。龍や蛇を神とする信仰が農耕民族に伝えられた道筋をたどります。

クリックすると拡大表示になります※この記事は、2014年6月7日に栃木県・那須の二期倶楽部「観季館」で開催された「山のシューレ」(主催:NPO法人アート・ビオトープ)の基調講演の内容を掲載したものです。「山のシューレ」は自然に耳を傾け、人々が創り上げてきたさまざまな物事について学び、領域を超えて語り合い思想を深め合う“山の学校”で、毎年夏に開催されています。

◇山のシューレ http://www.schuleimberg.com/

◇NPO法人アート・ビオトープ http://www.artbiotop.jp/

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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