https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12739022688.html 【俳人・飴山實 広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第15回】能登と飴山實】より
能登は旧国名。能登半島のほぼ全域を含み、一時越中に属したこともあるが、江戸時代は加賀前田藩百万石の領地であった。日本海側の外浦、半島の東南の内浦に分れ、金沢の方から順に口能登、中能登、奥能登の三能登と言われる。半島は山が海岸に迫り(能登金剛他)、耕作地は乏しく、千枚田等棚田が多い。塩田と共に、能登人の粘り強く不屈な精神がそこに窺える。海女も含め漁業が盛んで、輪島塗や能登上布、また間垣(風垣)、波の花、輪島の朝市が知られる。越中の国司・歌人大伴家持が訪ねたり、高句麗、渤海の使節が日本海を渡って再三渡来した地でもある。
★うつくしきあぎととあへり能登時雨 飴山 實
〜『少長集』に収録。自解に「能登への俳句仲間と吟行の半ばこまかな時雨にあい、『能登時雨』の言葉が浮かんだ。その帰りの駅のプラットホームで色の白い若い女性が荷を負って歩いて来た。その折の属目のような、幻視の様なつくりものの様な句。『能登時雨』という言葉が浮かばなかったら生まれない句だった」と述懐する。
「ひたすら『あぎと』に読み手の気持ちが収斂されゆく句。笠か傘で全貌は見えない。あぎと(あご)を述べることで夢幻的な美しい句となった。端正な詩塊の持ち主ゆえ、能登時雨という造語的座五も許される」(坂内文應)
「何とも言えぬ色香、品のある艶めかしさ。景も一幅の日本画を思わせるような美しさがある」(日下野由季)
★神々の椿こぼるる能登の海 前田普羅 ★夜光虫乏しく燃えて能登荒磯 高野素十
★田を削り雪しろ海へまつしぐら 岸田稚魚
※「雪しろ」=山などに積もった雪が解けて、川や、野原に水があふれること。また雪しろによって川や海が濁ることを「雪濁り」と言う。
★塩田に百日筋目つけ通し 沢木欣一
※社会性俳句として喧伝された沢木欣一の歴史的な句。能登の揚浜式塩田の重労働を描く。無季。
★足袋あぶる能登の七尾の駅火鉢 細見綾子 ★能登の海春田昃れば照りにけり 清崎敏郎
★ひぐらしや塗り重ねゆく輪島椀 大島民郎
★海鼠腸(このわた)や能登にとと楽てふことば 棚山波朗
※「とと楽」=能登地方の言葉で、女性がよく働き夫は楽をするという意味。反対に金沢を中心とした加賀地方では夫がよく働き妻が楽をするという意味で「かか楽」と言う。
★暁闇の冷えを纏ひて神鵜翔つ(氣多大社) 能村研三
★能登沖に波の背開き鰤起し 宮田 勝
【飴山實さん】
昭和元(1926)年、石川県小松市生まれ。金沢の旧制四高時代に俳句を始める。戦後の同21年、沢木欣一、細見綾子の「風」の創刊に参加。同人に金子兜太、原子公平、安東次男等がいた。家業が醤油製造業であり、醸造学を学ぶべく、京都大学農学部農芸化学科に入学。在学中、橋本多佳子、右城暮石、加藤楸邨、西東三鬼、山本健吉等多くの俳人等と目見え、同23(1948)年、「楕円律」の創刊に参加した。その後、しばらく俳句から遠ざかるも同29年に再開。「風」賞受賞後、同34年、沢木欣一の「中村草田男の『長子』等の持つ青春のナイーブな開花が示される」との序文、金子兜太の「飴山という本質的な抒情詩人の今後を見守りたい」との跋文の第一句集『おりいぶ』を上梓した。その後、芝不器男研究を通じて作風が変化し、「俳句」誌上で原子公平と戦後俳句について論争を行った。単純で淡白な句で俳壇の注目を集め、同54(1979)年の「俳句」誌上での川崎展宏、宇佐美魚目との鼎談では、昭和の新興俳句に否定的な見解を示し、俳句界の常識―俳句は進化する―という史観を否定した。その後、『辛酉小雪』『次の花』等珠玉の句集を刊行した。平成5(1993)年から8年間朝日俳壇選者、門人に長谷川櫂がいる。同12(2000)年3月16日逝去。享年73歳。酢酸菌研究の権威で日本農芸化学会功績賞、中国文化賞を受賞している。句集は他に『花神コレクション俳句 飴山實』『花浴び』『飴山實全句集』、評論に『芝不器男伝』『季語の散歩道』、編纂の書には『芝不器男』『麦車 芝不器男句集』がある。
「動詞の使い方への神経の細やかな上質さと動きというものの微妙さ、面白さを大切にする。端正で視像鮮やかな点はたわむれに『昭和の蕪村』と呼んでみたい」(大岡 信)
「社会性俳句、前衛俳句への疑問が芝不器男研究を通じて単純に平明にしかも質感を大切にした作風となった」(秋篠光広)
「飴山俳句の歩みは、いわば、現代俳句から現代発句へという反時代的道筋である」(丸谷才一)
「戦後俳壇をリードした人々に、正面切って挑戦した、ただひとりでただ一句に没入する孤絶のわざの俳人である」(目崎徳衛)
「戦後俳句の俊英として、社会性俳句の影響を受けながらも志向した『思想として働きかける抒情』が次第に純粋俳句としての在り方を求めるに至った」(倉橋羊村)
「純正詩への志は、繊細で美しい詞芸の磨きと併せて、物のものらしさへの静謐な洞察を深めている」(友岡子郷)
✦花吹雪寸鉄帯びず父となる ✦授乳後の胸拭きてをり麦青し
✦剛き詩が欲しや鉄器に冬の薔薇 ✦基地で無数の春泥の畦ぶち切られ(伊丹基地)
✦小鳥死に枯野よく透く籠のこる ✦柚子風呂に妻をりて音小止みなし
✦花の芯すでに苺のかたちなす ✦枝打ちの枝が湧きては落ちてくる
✦手にのせて火だねのごとし一位の実 ✦比良ばかり雪をのせたり初諸子
✦法隆寺白雨やみたる雫かな ✦あをあをとこの世の雨の箒草
✦裏白を剪り山中に音を足す ✦湯豆腐のかけらの影のあたゝかし
✦年酒して獅子身中の虫酔はす ✦この峡の水を醸して桃の花(愛媛県松野町・芝不器男生家)
✦法隆寺からの小溝か芹の花 ✦昼の酒濁世の蛙聞きながら
✦大雨のあと浜木綿に次の花 ✦骨だけの障子が川を流れだす
✦青竹に空ゆすらるゝ大暑かな ✦山ふたつむかうから熊の肉とどく
✦ひとの田の鳴子引きゆく山女釣 ✦放生のきのふの亀があるきをり
✦あかんぼにはや踏青の靴履かす ✦残生やひと日は花を鋤きこんで
「日本語の『新しい』と言う言葉には、新奇と新鮮と言う二つの意味がある。大事なのは目新しい素材を求める新奇でなく新鮮の方だ」と長谷川櫂らとの最後の句会で述べた遺言ともいえる言葉が、いくつもの俳句遍歴を重ねて来た飴山の最終的な到達点であろう。しなやかな感受性と確固たる定型観から紡ぎ出される作品は読者の心に染み入り、懐かしい豊かさを与えてくれる。 その句風の存在感が年ごとに大きくなる俳人である。(「青垣」45号加筆再編成)
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12738904039.html 【俳人・西東三鬼 広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第13回】神戸と西東三鬼】より
神戸は兵庫県の南東部にあり、古くから大輪田泊での対宋・対明貿易や海運が盛んで、西国街道が通じ灘五郎等酒造業も名高い。幕末に開港した日本を代表する国際的な港湾都市で、阪神工業地帯の一翼を担う県庁所在地である。
山沿いには、開港当時の外国人居留地の名残の異人館が多数残り、後述の「三鬼館」のある北野町山本通周辺は、昭和55年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、観光コースとなった。西には、源氏物語のゆかりの須磨浦がある。平成7年1月の阪神・淡路大震災で市内全域が壊滅的な被害を受けたが、その後急速に復興を遂げた。
★露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す 西東三鬼
〜第二句集『夜の桃』に収録。自註で「ワシコフは私の隣人。氏の庭園は私の家の二階から丸見えである。商売は不明。年齢は五十六、七。赤ら顔の肥満した白系露人で細君に先立たれ独り暮らしである」と記す。
「この句には巧まざるユーモアがある。ワシコフという舌を噛みそうな固有名詞も効果的だ。三鬼のユーモアは、彼の無表情に胚胎する。だが、直叙的で、俳句的イロニックな把握はない」(山本健吉)
「ワシコフの奇矯な振る舞いを二階の窓から無表情で見下ろしている三鬼。この句はストレートに状況を述べており、それだから可笑しくも哀しい」(清水哲男)
「シンガポール時代に体験した祖国喪失者としての認識がこの白系露人に同情する」(田中亜美)
★六甲を低しとぞ凧あそぶなる 阿波野青畝 ★白梅や天没地没虚空没 永田耕衣(大震災)
★どちらから吹くも春風風見鶏 後藤比奈夫 ★初がすみうしろは灘の縹色 赤尾兜子
★地下室にワイン眠らせ夏館 山尾玉藻 ★鮊子(いかなご)の海に淡路の横たはる 三村純也
★妻来たる一泊二日石蕗の花 小川軽舟
神戸時代を描く小説『神戸・続神戸』は、戦時中の、自身の周りの多様な民族の人達が登場し、その泣き笑いの日々を通して、戦時中の港町神戸の持つ国際的な混沌とした現実が、妖しく浮かび上がる傑作である。エジプト人がホラを吹き、ドイツ水兵が恋をする戦時下の神戸、奇妙な国際ホテル。新潮文庫版(2019年)では森見登美彦が解説を執筆。
【西東三鬼】
明治33(1900)年生れ、本名斎藤敬直(けいちょく)。父は代々藩の漢学者の家系で、小学校長、郡視学を歴任した。6歳で父を、18歳で母を亡くし、日本郵船勤務の長兄の庇護のもと、青山学院中学部を経て大正14(1925)年、日本歯科医学専門学校を卒業。同年結婚して、長兄在勤のシンガポールで歯科診療所を開院し、ゴルフや中近東の友人との交遊等、自由な暮しを送っていたが、日貨排斥不況とチフス罹病で帰国。自営ののち就任した神田共立病院歯科部長時代(33歳)に俳句を始めた。
新興俳句勃興期でもあり、寝食を忘れて句作に没頭。昭和10(1935)年には同人誌「扉」創刊、平畑静塔の勧めで「京大俳句」にも加入し、戦争等をテーマにした無季俳句に傾注した。同15(1940)年2月には、静塔、仁智栄坊、井上白文地等、5月には、三谷昭、石橋辰之助、渡辺白泉等が、治安維持法違反で検挙されたいわゆる「京大俳句事件」の時も、「天香」を創刊し、第一句集『旗』を上梓したが、8月31日に、自身も検挙され、句作執筆禁止を条件に起訴猶予となる。
その二年後の昭和17年、妻子を捨て東京を出奔。単身神戸に移り、当初はトーア・ホテル(中山手通二丁目)、その後空襲を避け、山本通四丁目の西洋館に移る。この館は、空襲を受けず、戦後は静塔、橋本美代子、山本健吉、永田耕衣等も訪ね、「三鬼館」と呼ばれた。
(↑写真は萌黄館=北野 神戸観光局=)
同22(1947)年、石田波郷、神田秀夫と「現代俳句協会」を創設。山口誓子の「天狼」創刊同人(編集長)として活躍し、同23年には第二句集『夜の桃』、同27年には、第三句集『今日』と旺盛な創作活動に加え、「断崖」を創刊し主宰となった。同31(1956)年、「俳句」編集長就任のため、上京。俳人協会設立にも参加したが、第四句集『変身』上梓後の同37(1962)年4月1日、胃癌にて逝去。享年62歳。
死後『変身』は第二回俳人協会賞を受賞。同46年には、『西東三鬼全句集』が刊行され、平成13年、出身地津山で、西東三鬼賞が創設された。俳号の西東は本名の斎藤、三鬼は「サンキュー」を捩り、ユーモアとペーソスに溢れる俳人として、忌日も三鬼忌として定着している。
大胆にしてモダンな俳人、「鬼才」三鬼。自句自解を付す文庫版全句集は2017年に角川書店から刊行された。
「伝統に抵抗するとともに、伝統に抵抗する自分にも抵抗する。時には自分の育てた後輩にも抵抗する」(山口誓子)
「いつの間にか濃密な幻想世界へ引き込む三鬼。俳句の世界からはみ出し、そのはみ出し様において日本の俳句をより広く、刺激的なものにした型破りな作家だった」(五木寛之)
「初期から特定の師につこうとせず、爾来何事も特定の師系に拘束されない俳人として貫徹した」(直弟子の三橋敏雄)
「日本のハードボイルド小説の名作『神戸・続神戸』、三鬼は俳壇という静かな池に闖入したやんちゃ坊主であり、池全体に新しい活力を与えた」(小林恭二)
✦水枕ガバリと寒い海がある ✦白馬を少女瀆れて下りにけむ
✦算術の少年しのび泣けり夏 ✦緑陰に三人の老婆わらへりき
✦葡萄あまししづかに友の死をしかる(篠原鳳作逝去)
✦昇降機しづかに雷の夜を昇る(治安維持法違反と曲解の句)
✦湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ ✦おそるべき君等の乳房夏来る
✦枯蓮のうごく時きてみなうごく ✦まくなぎの阿鼻叫喚をふりかぶる
✦赤き火事哄笑せしが今日黒し ✦限りなく降る雪何をもたらすや
✦広島や卵食ふ時口ひらく ✦穴掘りの脳天が見え雪ちらつく
✦炎天の犬捕り低く唄ひ出す ✦暗く暑く大群集と花火待つ
✦中年や遠くみのれる夜の桃 ✦父のごとき夏雲立てり津山なり
✦秋の暮大魚の骨を海が引く ✦春を病み松の根つ子も見あきたり(辞世)
俳句スタートは33歳で、一歳下の既に名をなしていた誓子、草田男、草城等の「ホトトギス」の俊英を凌ぐために、新素材・戦争想望等の新興俳句に意欲的に取り組んだ。17文字の魔術師と言われ、自由奔放に見えるも、戦後は人間の悲しみを徐々に浮かび上がらせる俳句群。それ故に永遠に我々を引き付け、虜にするのではあるまいか。(「青垣」33号 加筆再編成)
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