鯱の飛び跳ねてをり花の波

https://www.homemate-research-castle.com/useful/castle-faq/09/ 【しゃちほこは何のためにある?】より

A

火除けの守り神とされていました。

「しゃちほこ」(鯱/鯱鉾)とは、空想上の生き物である「シャチ」をかたどった装飾のこと。シャチは頭が龍(虎とも言われています)、胴体が魚で、背中に棘、口には牙が生えていると言われています。かつて日本の建築物は木造が中心で、火事は大敵でした。そのため、水を口から吐き出すと伝わるしゃちほこを飾ることで、火除けの守り神としたのです。

なお、しゃちほこは、「名古屋城」(愛知県名古屋市中区)の「金鯱」が有名。天守の頂で輝く金鯱は、名古屋のシンボルです。金色のしゃちほこは「大阪城」(大阪府大阪市中央区)、「岡山城」(岡山県岡山市北区)などでも見られますが、「丸岡城」(福井県坂井市)や「高知城」(高知県高知市)などでは金色でないしゃちほこが飾られています。


https://zatsuneta.com/archives/001826.html#google_vignette 【「鯱」(しゃち)の名前の由来】より

シャチは、クジラ目マイルカ科に属する哺乳類。体長は10mにもなり、非常に獰猛で、クジラも恐れるほど。そのため「海のギャング」とも呼ばれている。

シャチの背には大きな突起物があり、これを逆さの鉾ほこに見立てて、別名「サカマタ」(逆叉)という。「シャチ」の語源はこれに関係し、「サカタチ」(逆立)→「シャタチ」→「シャチ」になったとする説がある。他にも、「タチヲコ」(立尾魚)が訛って「シャチ」になったとする説もある。

漢字の「鯱」は、「虎のように猛々しい魚」という意味。また、想像上の動物である「シャチホコ」とも読む。シャチホコは、頭は虎に似ていて、背中に鋭いトゲを持っている。織田信長が安土城天守の装飾に使用したことで普及したといわれていて、江戸時代には「魚虎しゃちほこ」と表記していた。

リンク:Wikipedia


http://ac802tfk.blog.fc2.com/blog-entry-285.html 【宇都宮城 ~「悲運の名城」の実像に迫る~】より抜粋

宇都宮城

「下野国一之宮」・二荒山神社と並び、宇都宮発展の礎となった重要な場所。

その築城時期は定かではないようですが、平安後期、前九年の役の戦功によって下野国守護職と二荒山神社座主に任じられた武将・藤原宗円(ふじわらの そうえん)が、二荒山の近傍に居館を構えたのが始まりと言われています。

(宗円の先祖に当たる藤原秀郷(ふじわらの ひでさと)による創始という説あり)

この藤原宗円を祖とする宇都宮氏によって、これまた記録に残されてはいないものの

居館跡は中世城郭へと変貌。

戦国時代には関東一円に勢力を伸ばした北条氏、さらに宇都宮氏の家臣でありながら反旗を翻した壬生氏(みぶし)や皆川氏との間で宇都宮城も戦場となり、たびたび落城と奪還を繰り返すこととなりました。(これら敵対勢力の脅威を防ぐため、宇都宮氏は一時多気城(たげじょう)に拠点を移していました)

戦国末に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が天下を統一すると、天正18(1590)年にはここ宇都宮城に計20日間に亘って滞在。

その間奥州や関東の諸大名に対する所領の安堵・減封・改易等を定める宇都宮仕置が行われ、

宇都宮氏は所領と権威を保つこととなりました。

宇都宮城復元櫓の一つ、清明台(せいめいだい)

こうして下野国18万石の主として豊臣政権下でも安定の地位を得たかに見えた宇都宮氏でしたが、慶長2(1597)年に突如として改易(理由は諸説あり)平安以来22代・およそ500年に及んだ宇都宮統治の歴史は、予期せぬ形で幕を閉じることとなりました。

宇都宮氏改易後、蒲生秀行(がもう ひでゆき)を経て関ケ原合戦後に徳川氏の譜代家臣・奥平家昌(おくだいら いえまさ)が入封。

以後幕末に至るまで、宇都宮城は譜代大名たちによって維持されることとなりました。

元和5(1619)年、宇都宮15万5千石の主として入封した徳川家重臣・本多正純(ほんだ まさずみ)は、城と城下町の大規模な改修工事に着手。

近世城郭として宇都宮城の機能と規模を拡張するとともに、日光街道・奥州街道の整備、

城下町の町割り、周辺寺社の街道沿いへの再配置、城内に日光東照宮へ参詣する将軍の宿所としての機能を持つ御殿を築くなど、現在の宇都宮市の礎としての形態を整えました。

そんな大功を成した正純でしたが、この大改修工事があらぬ噂を呼び、正純謀反の風説が流布され、元和8(1622)年に正純は改易されることとなりました。

この事件は宇都宮城釣天井事件と呼ばれ、この城を語る上で欠かせない逸話となっています。(詳細は後述)

戸田氏の居城として幕末を迎えた宇都宮城。しかし慶応4(1868)年、新政府側に与した城に対し、大鳥圭介(おおとり けいすけ)、土方歳三(ひじかた としぞう)らが率いる

旧幕府軍が攻撃を敢行、一時城を奪取することに成功します。

間もなく新政府軍によって宇都宮城は奪還されますが、この一連の戦いによって城内の多数の施設、さらに宇都宮市街の8割に及ぶ範囲が焼失、城と城下町は多大な損失を受けました。

時代が明治となり軍部隊が下総国(現在の千葉県、および茨城県の一部)佐倉へ移転すると、城は民間へ払い下げとなり、城跡の公園化や建造物の破却が進行。

戦後には日本政府による戦災復興都市計画の策定によって、城跡は市街地化。残った水堀も1970年代初頭までに全て埋め立てられてしまいました。

かつて「関東7名城」の一角と謳われた名城も、現在その痕跡は地中から出土した物を除いて一切なし惜しい、実に惜しい。

今われわれが目にすることが出来るのは、発掘調査を基に、平成19(2007)年に

防災公園を兼ねた宇都宮城址公園として復元・整備されたもの。

資料を基に水堀や土塁(宇都宮城はほぼ石垣を用いない土塁のみの城でした)、

二基の櫓が復元され、今後「御成御殿」や二つの城門の復元計画が進められています。

しかし「防災公園」としての機能を重視した結果、城跡っぽくない水堀や土塁をぶち抜いたゲートが出現してしまっており、なかなかな残念キャッスルぶり。

それでいいのか、宇都宮市。

ともあれ、せっかくやって来た城跡。じっくり散策と参りましょう。

城の南側、有事の際の脱出口となり、城にとっての弱点ともなる裏口・搦手(からめて)から主要部分へ突入!宇都宮城は伊達氏など有力な外様大名に睨みを効かせる防衛拠点としての役割を帯びており、北に対して厚く、南に対して手薄な防衛線が引かれていました。

写真のあたりはかつて二の丸裏門という城門が置かれた場所で、戊辰戦争の際には城の弱点を突く形で旧幕府軍が侵入。城は一時旧幕軍の手に落ちることとなりました。

城域のほとんどを土塁で固めた宇都宮城ですが、一部の重要部分には石垣が用いられていました。これは二の丸と三の丸を結ぶ土橋(どばし、郭同士を繋いだ土の橋)を固めるために築かれた石垣を復元したもの。

一部だけの復元に止まってはいますが、かつての城の姿を偲ばせてくれます。

土塁上から見下ろした本丸跡は、まるでグラウンドのよう。やっぱりがっかりキャッスルである。

で、城の復元に当たって宇都宮市がどこに力を入れたかと言うと、城外の監視と防戦を司る櫓

現在宇都宮城公園には「清明台(せいめいだい)」と「富士見櫓」の二基の櫓が木造復元されており、こちらは本丸南西部の防備を担った、富士見櫓(ふじみやぐら)二層瓦葺きの櫓で、江戸時代の記録によると内部空間は三間(5.9m)×四間(7.9m)。現代のような高層建築が無かった時代、この櫓からは遠く富士山までもが望めたことでしょう。

屋根の頂部に聳える鯱(しゃちほこ)。

その下に載せられた鬼瓦には、城と城下町を整備した本多正純公を意識してか、本多氏の家紋である本多葵が彫り込まれています。

富士見櫓内部。

意外にも(?)この手の復元建築物にありがちな説明書の類は無く、城郭建築に忠実に則った復元が行われています。二階もしっかり再現されているようですが、安全上の理由からか見学は不可残念。

窓からは武家屋敷・・・ではなく、宇都宮市役所が見えています。

二基の櫓を繋ぐ土塀も、土塁側の手すりが目立つことを除けば、なかなかな再現度。

復元櫓二基目は、清明台(せいめいだい)本丸北西部、水堀に突き出るように構えられた櫓で、富士見櫓と同じく二層瓦葺き、内部は少し狭い

三間(5.9m)×三間半(6.9m)。

この部分の土塁は他より高く盛られていたようで、天守を持たなかった宇都宮城に於いては、

天守の代用としての役割を帯びていたと考えられています。

清明台内部。

数字通りやや狭めの造りとなっています。

城内側を簡素に、城外に対しては華美に見せた装飾も、「天守」を思わせる出で立ち。

清明台の傍には、本丸表側の出入り口であり、日光東照宮へ参る将軍も通った清水門の跡が、

線で示されています。

その周囲は駐車場となっており、往時を偲ばせる痕跡は0。城跡と呼ぶには余りにも残念な状況ですが、この清水門と対となる南側の「伊賀門」、将軍の日光参詣時の宿舎となっていた

「御成御殿(おなりごてん)」の復元が計画されているそう。

宇都宮城跡が期待通り観光の目玉となれるかは、宇都宮市の本気に掛かっている。


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