古事記の鏡 1 天地初発の時(先天十七言霊)

https://sites.google.com/site/ametutinokagami/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%81%AE%E9%8F%A1%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%81%AE%E5%88%9D%E7%99%BA%E3%81%AE%E6%99%82%E5%85%88%E5%A4%A9%E5%8D%81%E4%B8%83%E8%A8%80%E9%9C%8A 【古事記の鏡 1 天地初発の時(先天十七言霊)】より


一、ア、天地初発の時(先天十七言霊)

二、タ、淤能碁呂島[おのごろしま](己れの心の締りの島)

三、カ、島々の生成(宇宙区分、十四島)

四、マ、神々の生成(三十二子音と神代文字言霊ン)

五、ハ、五十音の整理と活用(和久産巣日の神、建御雷の男の神)

六、ラ、神代文字の原理(八山津見の神)

七、ナ、黄泉国(よもつくに)

八、ヤ、言戸度(わた)し(伊耶那岐・美二神の離婚)

九、サ、禊祓(伊耶那岐の大神、御身[おほみま])

十、ワ、三貴子(天照らす大御神、月読の命、建速須佐の男の命)

 

古事記 を子事記、 意識という心の子現象の事を記したもの、また古事記は子四記で意識、心の四つの次元現象を記したものとして扱います。現代風に言えば精神現象学原理論となり、意識は端的には言葉となるので言霊論ともなっています。冒頭から奇異なことを書き出しましたが、古事記は世界史を解く鍵ともなっているので今後の展開が楽しみです。

古事記の冒頭は

『天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は』

でもって始まります。通常はこの事をもって古事記神話の始まりとしていますが、それも違います。神話の形をとった精神現象学でもありません。それどころかこの後に神名がずらずらとでてきます。しかしながらいわゆる伝えられてきた拝み頼みの神様ではありません。神様の読み方を序文にあるように自由に工夫することで、意識を現す用語となるのです。

冒頭のこの句は古事記の真の内容を記述した心のことを述べている神名とは関係なく見えますが、自分の心の中に分け入って探求してみると、人間の精神活動の事実に基づいていることに気付きます。

古事記の冒頭意訳をしてみましょう。冒頭天地を漢語によるテンチと読まず、和語のアメツチと読みます。更に、読みは同じでも一つ一つの言葉に切り離します。すると内容は違ってきますが、今度はそれを元通りにつなぎ合わせると天地の意味になります。こうすると四つに分けた言葉の意識が寄り合って一つの精神から出てきた言霊のようになります。

天地(あめつち)は四つの独立した言葉からなります。

(あ)吾の。私自分の。あたし。

(め)眼を。見るところ。目指す意識を

(つ)付けて、向けて。相手対象に付けて

(ち)知、智となす(べし)。自分の地に知と成す行為をする。

こうして対象を自分の意識で言語化して成ったものが自分の世界であり意識の天地となります。古事記はその顛末を神の名前を借りて記した意識の成長物語です。

天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、

わたしの意識(吾の眼)を対象に付(つ)けて智(ち)となす意識の働く初め(端芽、ハシメ)の時(十機、十の意識の様相機敏)、

高天(たかあま)の原(はら)に成りませる神の名(みな)は、(天はアマと読む。原注)

高天原という頭脳中枢に成り出てくる先天十七の意識実在と働きを、神の名前を借りて名付けます。

天の御中主(みなかぬし)の神。次に 意識の中心、主人公。先天の吾の間の中心を成す主人公。

高御産巣日(たかみむすび)の神。次に 意識の主観主体側。高見の見物意識をする主観と結ばれる意識。

神産巣日(かみむすび)の神。 意識の客観客体側。客体に加味されそれと結ばれる意識。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

身を隠しているということは実体が見えないことで、他の実在に依存することなく、それだけで一つの界層、或いは次元(ひとりがみ)を成している、という事です。

古事記を心の運用の原理教科書とするのですから、巻頭の言葉もそれに沿わねばなりません。天と地球の始まりとは違います。解釈は序文にもある通り自由に音訓を扱います。

このような調子で古事記全体を解いていくと、古事記は意識と言う子現象の成長を記した将来の天皇のための精神現象学の原理教科書となります。

古事記を心の原理教科書として読むには天地(あめつち) をテンチと読まず

あ (吾)の

め (眼)を

つ (付)けて

ち (智)と成す(地に成す)

と大和言葉で読むことから始まります。

天はアメと読み、宇宙大空のテン(天)のことではなく、

ア(吾)とは私、あたしのこと、先天の私の心

メ(眼)とは眼の付け所、意識のこと、

吾の眼(あめ)で私の意識のことです。

土・ツチは地球国土のことではなく、

ツ(付)くとは付ける客体対象に向う意識活動のこと、

チ(智、地)とは対象へ向う意識が智(ち)となり、ち(地)に結果を産む土壌、意識のことです。

ツチ、付く地、付いた智で意識の現象結果となったものを指します。

私の意識(あめ)を相手対象に向けて付け成ったもの(つち)がとりもなおさず私の意識となり各自の天地世界となります。

アメツチとは人の何でもない普通の意識行為、吾の眼を付けて成ったものを自分で確認して自身の天地世界としたものです。

古事記はその構成と経緯を無自覚の先天の次元から自覚した運用に至るまでを、言葉となる意識の先天原理から説き始め、アメツチによってその理想的な意識活用の道筋を示し教えようとするものです。

八千から一万年前に古代スメラミコトによって発見創造されました。またその原理を持って大和言葉を作り現在まで続いています。

先天原理

先天原理などと大層な表題を掲げましたが、内容は心とは意識とは何かどんな構造をしてどんな働きをしているのかを、心の運用原理教科書である古事記を通して知ることです。

先天も原理も予め備わっていて生まれつきそうあるものとして説明されています。知的に概念的には説明に説明を重ねていけば納得に近づいていき、そこから演繹帰納されたものが導き出されていき説明の用が足されることになるでしょう。

しかしそれは知的な解説にすぎません。解説は後天的な説明規範ですから何ら先天性を保証し得るものではありません。

どのような先天原理も説明されればなるほどと思うところが出てきます。説明は言葉でなされますが、説明される言葉が通用していることが前提です。先天原理を説明する言葉ですから厳密性が求められます。また寸分違わずの理解も求められています。

では説明したり理解したりする言葉の厳密性を保証するものはどこにあるのでしょうか。往々にして理解通用している言葉というだけのものが多いようです。ほとんどの場合は言葉の通念使用、社会共同性が一致しているだけのことのようです。

自分の頭で考えるということが金科玉条のように語られますが、言葉に言葉の先天原理を求めてはいません。

説明の言葉にその言葉の原理を問われていませんから、経験の違い勉学の相違の解釈が出てきて論争が起こります。原理を説明する言葉が勝手気ままに歩き回ることが起きてしまいます。

古事記の冒頭の神代の巻は心とは何かの原理ですから心の活動を表明する言葉の創造原理でもあります。原理を説明する言葉がその原理によって成り立っているという不思議なことが起きています。

日月神示の冒頭におもしろい言葉があります。「二二は晴れたり、日本晴れ。」というもので、二二に富士と当て字をしていますが、神示に天気予報が載るのもおかしなものです。実は「主客の不似(二二)は晴れたり、主と客の二本(日本)立ても合一され不二になって明瞭だ」ということで、心の運用とその原理が同一となっていることをいっています。しかし残念ながらこの神示は先天原理の内容を語りませんから、日月神示の前にあめつちの原理が置かれなくてはなりません。

古事記は残念ながら歴史的な事情により漢語でルビをふるように書かれてしまっていますから、漢字使用上の制約をこうむっています。しかし、漢語事情を全部取り込み大和語に翻訳し直すと、例えば天地をテンチと読まずアメツチと読むと、古代においてスメラミコト達の意図した心とは何かの原理教科書としての姿が自分の経験と共に浮かんできます。

その最大の特徴は、心を説明する原理が原理として構築されていることです。言葉をもって原理は説明されますが、説明の仕方が人の数だけある原理の説明ではなく、説明の仕方そのものが原理の運用となっていることです。つまり古事記通りの説明しかないということです。説明されるべきあめつちの原理が先天的にあるということになります。

説明の仕方、原理の見方は色々ありますが、それらの恣意的な解説を超えた説明すること見ることが、先天の原理と一致する場合にのみ、正しく補償された解説となります。

原理を説明することが原理の進行通りに行なわれることです。そのためには多少の理解は棚に上げて、自分の頭で考えるのではなく、覚え知った範囲で原理を真似ることでしょう

先天の、心の原理は古事記の冒頭の十七神でしめされています。

あめつちのア

天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、(意識する始めの時)

高天(たかあま)の原(はら)に (頭脳中枢に)

成りませる神の名(みな)は、 (形成される意識の先天実在と働きは、)

天地をテンチと読むとその意をくみ取るのに象徴比喩を用いるようになり、終いには十人十色の色付けになっていきます。

アメツチという大和の日本語で読みますと、四つの独立した意味を持った言葉になり、表現する人の意識の次元に合わせた創造表現になります。

古事記ではアに言霊神である高御産巣日が配当されていますが、これはアという言霊意識を持っている場合のことです。

ここ冒頭でのアメツチのアには天地の初めに当たって、言霊アの意識はありません。また発音されたアを指しません。潜在的なアの意識になる先天の意識でしょう。

これは現象以前の意識ですから、指し示すことも語ることもできません。

しかし次に出てくるのはア(吾)として出てくるので、出てきてしまったアを見てしまっている意識にはその成り出てくる内容の見当がつきます。潜在的なアならば無いこともありますが、先天的にはそこに成るものとしてあります。

言わば、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す時のアというだけのものですが、地球に引力があり重力があるので歩けるように、人の意識に吾(あ)の眼を付ける引力があるので相手の地に知として話しを持ち込み交流することができるようなものです。

アは何にでも向かい噛み付いたものがアになります。見ることも嗅ぐことも意識の噛み付いたものは皆アです。

ここでのアは先天の引力で、アとして何も規定されるものはありません。しかし、それがなければ言葉の創造も話し出すこともできないものです。

古事記はこの意識の引力から話を始めていきます。

古事記は冒頭から百神の名を借りて百回の神を通過することで、先天の吾の意識が後天の納得創造された吾の意識へと成り出る創造物語です。

単音アを納得するまでに百の循環を繰り返すというおそろしい意識の秘密が明かされます。言霊百神の言霊循環。

あめつちのメ

天地(あめつち)のメ

アといっても発音とされたアでもなく、ここにいる私の吾でもありません。同様に現象となった眼でもなく実在の芽でもありません。

幸いに我々は既に循環された高次化した吾(ア)の先天意識を持っています。アというだけでアとは何かの各人それぞれの意見を出すことができます。しかし意識の始まる冒頭では先天を扱いますので、吾のどのようなどんな意識かは問題になっていません。でもそれらの成り出る先天原型があるために種々の見解となることが分かりますので、それらの出所へ思いを寄せることができます.後段で明かされることですがそこには十七神の比喩呪示による解説が待っています。

十七神が突然出てきましたが、これこそが古事記の先天精神原理で、神道の存在理由となるものです。

アとは、心とは、十七神の先天神の塊合一体であるということです。この時点での循環では個々の十七神はまだ出てきません。

百回繰り返すといわれたことと矛盾すると思われがちですが、ここでは循環の中の区分領域を通過しているからです。

そこにあるのは十七神をその実在と働きと関わり方、または有り方生き方成り方、吾の三態を分ける先天構造です。

吾という私は当初は上記の合一態ですが、アという先天の意識となったときには一つのア(吾)という意識の有り方となります。アはアの意識となり、アの成り出てきた世界がメ(吾の眼)となっていきます。

成り出たアはそこで次に示されるような意識の形をとるときに吾の眼としての形を取ります。吾の眼が実在方向への形に向うと実在の五次元世界を形成するようになり、その空間の形を気にするようになると、時間の成り方を示すようになります。(実在がつーっと付くと働きの四形態が成り出てきて、天地(あめつち)・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となすのツの段階に移動していきます。)

そこでアメツチのアという私は意識の五次元世界を形成しています。そして意識の実在の有り方が五つの次元に成ります。こうしてアの眼は意識の五次元を成り立たせてきます。

メ意識の五次元世界は次の通りです。

イの次元・ 後に言霊イとなり人の意思による創造原動韻次元世界となる。

エ の次元・後に言霊エとなり人の選択による行為の道徳按配次元となる。

ウ の次元・後に言霊ウとなり人の五感による欲望充足次元となる。

オ の次元・後に言霊オとなり人の概念による知識収集次元となる。

ア の次元・後に言霊アとなり人の感情による快不快の情感次元となる。

この五次元はそれぞれが独立して母音に配当されます。そして、意識と成った後は半母音、半分だけ意識の形に成ります。また五次元は数学物理の次元ではなく意識の次元で、ごちゃまぜにすることはあってもそれぞれは別の分野です。通常の話の中では知的な内容が突然感情へと移行するように見えても、概念と情感は別物としてあり、また他の次元へ容易に移行したり戻ったりもできます。上下する伊勢内宮の心柱はこの意識を模しました。

こうしてアメツチのメになります。人のメ(眼、次元意識)は五つに構成されました。

あめつちのツ

今度はアのメが客体へ向かい付くことになります。ツは付く、着く、衝くのツです。自動詞として主体的に付くのではありません。吾の眼ができると同時に吾の眼の付くという働きが起動します。付くというのは引き寄せられ向かわせられて吾の眼に応じて付かせられ、その結果自ら付いた形をとるのです。

何故人が注意を向けて付くことになるのか、その明確な答えはありません。地球に引力があって重力によって歩くことができるように、どんな事でも構わず注意を向けて意識を付けなくてはならなくさせられていることに反撥して、人は自分が選んだと称して吾の眼を付けて自分のものとしていきます。自主的に自分が選んだように見えても、無数の強制される引力に反発して自らが引き寄せられるものに結ばれていくのを、あたかも自己責任で選択しているように思わされているようなものです。

その結果を得るためには、是非とも吾の眼の選択をしてそれをもって差し向かい固定しなければなりません。その選択の仕方が五様、イウオエア次元、あります。しかしこの五者はちょっと見には勝手気ままに付くように思えますが、そう自由になるものではありません。イ次元は意思の世界で形には現れません。

向い付く行為は一見勝手な選択が行なわれているようです。あるいは自己主観や沈着な判断の結果のように取られています。

しかし、吾の眼の五次元世界を選択したときには既に付くその生き方は決められてしまっています。自由行動恣意行動自主行動のように見えて実は、先天の強制選択の内に自己を付けています。

例えば目前のリンゴがある場合。

まず所有しようとする思いがあります。これは食べようとすることであったり、ここに置いておこうとすることであったり、いつまでも見ていられるようにしておきたいであったりします。それらの所有の形態を取ろうとする以前の付く(吾の眼が付く)ところを見据えると、主体側からみると五感感覚からする所有欲望に付いてくることになります。ところがこの所有を手に入れる思いは実はそうさせる誘う引力圏内のことでしかありません。つまりあるものがあってあり続けることに関してだけについての関心事になっています。

つまり無数無限の提供を受けてあってあるものあり続けるものに関してだけに、所有したいという吾の眼は付きます。あるものに関する所有は以上のようですが、無くてもあるとする所有の形もあります。

ここに無いのにあるように見せるのは経験したことの概念知識などがそうです。リンゴを目前にしなくてもうんちくが語れます。この場合はあるものがあってあり続ける必要はなく、実物が無くても何らかの向かう先があったり、向かう先がここにあるものと表徴されるだけでいいことになります。記憶を元とする概念知識などが人間活動の重要な部分となっています。

その特徴は過去にあったものを寄せ集め構成していくものです。経験知識を向う先に付けたり向う先がこちらに付くように概念で語ります。既にあったものであるにも関わらず、自らが結びついた事で自らが創出したような思いにさせます。概念知識の特徴となっています。

現に無くても過去の概念知識であるように言えるように、今度は逆に、あるのは概念規範で概念規範を現実化しようとすることもあります。日常ではこれから起こす行動に関することが全てそうなります。

この特徴は現に無いものを規範の適用で実現しようとすることです。

以上は現に有るものに付く、過去にあったものに付く、これから有ろうとするものに付く三者の姿です。

更に第四態目の付く姿があります。これは上記三つのいずれかに一般性全体として抽象的に付く場合です。その姿は情緒感情の形を取って付き、抽象象徴の全体性となって結ばれます。

こうして付くのツとは付けて渡してそしてもらうことになります。

あめつちのチ

天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、意識する始めの時

高天(たかあま)の原(はら)に 頭脳中枢に

成りませる神の名(みな)は、 形成される先天実在は

アメツチのアから始まって相手側対象の地に着いて自身の智を付けて表明するところまできました。先天原理の実在と働きが全部出揃ってチに付き、いよいよ先天の構造が産まれる時がきました。

動きがあると動く主体側と動かされる客体側ができます。意識の原論である古事記は付いた先にある主体側をチといい、客体側をやはりチといいます。漢字を用いて表せば知と地で同じことの主客の表現です。

付いた先の地を知で表現し、知で表現されたものを地とします。こうして吾の眼が付いて知となったものを地といい、ここに各人の宇宙世界が産まれます。

吾の眼が付いて相手対象の地で知として確認されることで、確認される相手対象の地は知となって主体のものとなります。つまりその人の宇宙世界というものは地に比べて近しとなり、実質的に同一のものとなります。

かくして地にあるものは知となって同じものを現すことになります。

こうして吾の眼が付いて現象が産まれますが、この経過を神名をもって解説したのがやはり古事記です。吾の眼と現象が同一のものであることが述べられています。しかし一方地の方の客観世界もそれなりの独自性を持つことも忘れてはいません。

現象と意識が見事にのべられていますが、実は最初の神名の発展の道筋に沿ったものです。

短い文章ですが、吾の眼をつけることも同様です。勿論アメツチも循環します。

アメツチの構成

先天実在世界の主体側 ー 母音で現されます。

先天実在世界の客体側 ー 半母音で現されます。

先天の能動韻 ー イ段で現されます

先天の根元韻 ー イ・ヰ(ワ行のイ)で現されます

後天の元素 ー 子音で現されます

上記の全てが[ン]に載(宣)ります

これらの平面見取り図がアイウエオの五十音図となります。

冒頭の一句を心の宇宙,人の精神生命と取ること、ここから古事記は始まります。それによってふるごとの古事記ではなく、日々創造活動を遂行していく人の創造現象である「子(現象)」を明らかにする子事記(子現象を記す)となるのです。今風に言えば精神現象学です。しかも、読み解けば、心とは何かを明かした前人未到(古代スメラミコト達を除いて)の至高の原理論教科書となっています。

これが為に未来の人類に古事記は残され、それを取り巻く様々な文化や皇室や伝え習慣や神社、そして何よりも大和の日本語が変わることなく伝承されてきているのです。

古事記はこの後百神までが列記されますが、最初の五十神は意識の実在要素単位、後の半分は意識の運用要素となっています。鏡餅は百神の内半分の五十神を意識の運用上の鏡として下に置き、残り半分を意識の現象として照らし合わす計百(も)の道(ち)を象徴したものです。

これは精神生命の構成を分析したものとなっていて,心の正体を明かしたもの、ミソギと呼ばれる正しい意識の使い方となっています。分析の究極の根底にあ・め・つ・ち・吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)と成す・があります。

アメツチの客観性は人の生命現象に基づきます。物質の根源が元素に基づくように、精神生命も五十の精神元素に基づいています。スメラミコトはこのことの発見によってスメラミコトとなっているので、別に天から降りてきたわけではありません。

心の様相(先天の心)

ア・メ・ツ・チとことが進行し、アメツチの実在が成就してアメツチの働きでアメツチが天地(アメツチ)として成りました。そしてアメが意識と成り相手対象となり、相手対象をツチとして確認しました。

ここにアメツチ(天地)があり、アメは付いて地に成りそこに自身の知を了解してアメツチ(天地)となったものを受け取ります。こうして心のもととなる実在と働きとその関係ができ、そこにあるものを今あるとしました。

あめつちの原理が働き天地(あめつち)が成り、そして次にアメツチの働きでアメツチ自身が出来てくるという永劫回帰の言霊循環が構築されていきます。

ではアメツチの原理を動かす原動韻はなんでしょうか。吾の眼の実在を確認する動韻であり、眼を付ける動韻であり、地に知となす動韻であり、それらの循環を確認する動韻です。

最初であり最後の一撃を後押しするものです。

それが吾の眼を付けて知と成すべしという倫理道徳命令です。

心はいつもその要素実在と働きのもとで、両者の関係を結び、運用されるための原理からの目覚めである印象を得ます。それはひとたび原理から飛び出せば自らの姿を主張して、心象となり原始の現象形態をとります。

ついで心象はその形の物質化のために心象を物象化しようとします。こうして様々な形の後天現象を起こし、心の物質としての表象を求め物質に結びついてきます。

人はそれぞれの各時点で命令するのを好みまた命令されるのを好みます。

その最たる用立てを行うものが心のあめつちの表現となる言葉です。こうして吾の眼が付いて知となるあめつちの原理によって各人の心が出来ていきます。

さて、十人十色それぞれの心持ちがあるといわれますが、他と比較して言うのではなく、心そのものはどうなっているのでしょうか。

心は機能し始める時に現われます。これを言い直しますと、吾の眼(心)は付く(機能し始める)時に智・地と成ります。

何が現われるかといえば心が現われます。その現れは言葉であったり感情であったりその他であったりしますが、いずれにしろ現われた心以前の次元に心があったものが現われたことになります。

ここにある現われた心以前にある心が、どのように出てくるのかを示したのが古事記の冒頭です。仏教では空とか色とかでしか言っていません。古事記はその過程を百もの異なった精神意識として説明してくれています。このように超奇跡的な人間の意識活動を書き残したというのは人類史上まれなことでしょう。

その現われた心と、それを宣(の)せてきた心の働く締まりの島(領域)があり、そこで原理に従って動かされ、自ら動き出てきます。現われるものが出てくる先天の原理の領域と、その領域から押し出す原理と、押し出されるものが領域を選択(自覚的無自覚的に)し、主体的な形をとって出てます。

要するに、心の様相は心の現われる経過場面によります。ほんの刹那の一瞬であっても古事記によれば百の異なった経過次元があります。というのは産まれる元から現象への次元は異なりますが、前承して新たに産まれたものがそれぞれ新しい次元を形成していくからです。

その大本の原理が「天地(あめつち)・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす」です。その原動韻は成すべしという道徳命令です。

それは百の次元で語られた後に完成しますが、十四の意識の領域に分かれ次々に進行していきます。この十四をトヨと読ませ豊なる漢字を配当してきました。単なる豊かさということではありません。大倭豊秋津島というように、十四の意識の原理が明らかに続くことによって成り立った大いなる国というように用いられています。

それが人であり、その原理で成り立った国が大和の日本です。

十四場面と五次元

事は単純で、見聞き成すのに吾ということから始まるというだけですが、説明は常に複雑になってしまいます。それは言葉が前承する重層上昇言霊循環のせいです。前を受け五層の次元世界と接して前進する言霊による循環によります。

あ・め・つ・ちという流れの一語一語で起きてきます。そしてそれがあめつちという言い終わる時に全部がまとまったアメツチになっていなければなりません。

前承する重層的な上昇言霊循環のその原理の説明は次のようです。

現象言葉となるアメツチという全体そして各一語一語は、

前場面を受け継ぐ十四の場面を通過して確認創造され、

吾の原理、その現象化、運用、確認、了解して次への橋渡しとなり、

各場面にはあめつちの原理に導かれたそれぞれの百要素(百の神名が与えられている)があって、

場面の最初は十七の要素が一つの全体となっていますが、それが五つの次元原理で構成されています。

百神が出てくる古事記を読んで、各場面での構成要素を繰り返して百神目に来た時に冒頭アメツチのアを了解するという構成です。その一連の流れは十四の領域を通過します。

心の十四場面

十四は意識の表出に関しては一から十四までの心の領域を通過することに相当し、古事記では十四の島・心の締り領域・産みとして記されています。一方意識の原理構造としては最初の五島で、島と言うのは心のしまりのことです。この心の十四の場面を渡りとおすには一瞬のこともあれば一生のこともあります。国産みは最初にうち立てた吾に組んで(ク)似せる(二)ことを持って智となすことです。

先天原理 〇~⑤

まず先天の五領域です。

天地(あめつち)とは、吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)となす(べし)、のことです。始めに何も無いが全てが有る、がきます。

それはそのように在るということで、有るに至る物事が含まれていません。在るをもたらす条件の先在がありません。

無意識界、科学の世界ならば在るものを在るものと関連付けるのですが、ここでは意識、心と結ばれます。

そこで単にアメツチというだけでは十分ではありません。在るものを在るもの足らしめるものが必要となります。

しかし在るもの以前に在るもの足らしめるものが在るというのは、おかしなものです。

そこでの解決策は、在るものが同時に有らしめるものを含んでいるか、その両者が循環しているとか同時に進行しているとかになります。

物質科学の世界ならば、半分飲み干した酒はまだ半分満たされているというトンチが成り立つでしょうが、意識の世界はそのように固定されていません。

そこで古事記はどうなっているのかとみると、「天地の初発の時(あめつちのはじめのとき)」と記しています。

初発(はじめ)はそのままの通りで、端(はし)の芽(め)、意識の産まれようとしている端の眼のことで、産まれてしまったあるいは現象してしまった意識のことではありません。

つまり在ったものでも在るものでもなく、生まれ出ようとしているもののことです。

それは産まれ出ようとする先端、(は)、に産まれ出るものとして準備万端整った姿で用意され、(し)、万端へと成る意識、(め)のエネルギーの充溢しつつ静まりかえったものです。

ですのでここではまだその在りさまも生きさまも成りさまも現われてはいません。

吾の眼を付ける初発の時に、あってあらしめられあらわれる芽の全体が用意されているのです。未だに有って在るものではありませんから、よくいわれる条件とか可能性とか物質的な潜在性とかでもありません。

物質科学の世界ならそのように見ていき、予兆や予見となりますが、心、意識を扱う場合にはその予兆予見も見えません。確かに様子をうかがうというように兆しを得ることがありますが、それは何らかの物理的な感知できる現象の性で、そのことによって、先天と物理現象を結ぶ別の次元世界がある糸口となります。

実際古事記では先天から現象として確認できるものへの意識の過程を多くの通過すべき領域として述べています。(意識の確認までは十四領域あり、今ここで述べている五種の先天領域を除いて九種の経過領域があり、古事記冒頭の先天を現わす十七神を除いて八十三神による説明が待っていてそれを通過した後に国、組んで似る、が現れます。恐るべき思いも寄らない人類至高の意識宝物です。

物理的な潜在性ならば作用反作用でその先の姿が見えていますが、意思の発現となる心の現れでは上から下へ落ちるような心の現われ方だけではありません。

そこでは端の芽(はしめ)に現われるものが現われてきます。それはまだ現われてはいませんが先天にあるものです。

古事記は先天を十七神で現わします。創造神がいたり八百万の神がいるわけではありません。仏教では空と色の二語を使用するだけですが、古事記は心の実在と働きとその関係構造を冒頭の十七神で完璧に表示しています。

心の先天原理を〇~⑤次元領域に配分し、立ち上がり、立ち上げ先、有り様、生き様、成り様を十七神で説明します。

その特徴は全体(十七神)が一つの原理だが、それぞれが独自で独立していると共に、全体を五態の領域に形成していることで、意識活動の五次元性を構成しています。この五態の各神は独立して突出できるがそれぞれが全体を秘めていて、自在に己の次元と他の領域を行き来できる運用活力を持っています。俗な言葉使いをすれば、心は平気でコロコロ心変りをするということです。

意識の五次元性を十七の神名を用いて原理として説明するのは大変なことです。

〇から⑤と書いたり、十七だったり、五次元にしたりして思い付きの数をいい加減に当てはめているみたいです。前もって規定できないので先天というのに、独自だが全体を秘めているとか支離滅裂の印象を与えそうです。

取り敢えず心の五つの先天原理を書いておきます。

〇(無)心の斎き立つ原理の受け入れ

心のよって立ちそれに向う時の原理。何も無いが何か全部ある。(あめつちの原理・吾の眼を付けて智と成す。精神の禊ぎの入口)

① 心の空間の出生の原理

心の産まれるときの原理。立ち上がるものがあり立ち上がり立ち上がる動きがある。(主人公の原理) 天の御中主。言霊ウの母音世界。五感感覚からする欲望世界。

② 心の空間の対自の原理

心が相手対象を見つめるときの原理。立ち上がる時処位が相手側に出来てしまい見届け設置される。対自対他主客の出現。(次元世界のあらかじめの原理) 高御産巣日。神産巣日。言霊アとワの母音半母音世界。感情感覚からする情緒世界。

③ 心の時の流れの原理

相手対象と心が時の流れの中に占める時の原理。時の流れの有り様が今此処の内に出来る。(過去から未来への原理、四神) 宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)。天の常立(とこたち)。国の常立(とこたち)。豊雲野(とよくも)。言霊ヲとオ、言霊エとヱの母音半母音世界。過去知識からする経験知識と、上記をもつてする選択の智慧。

④ 心の生きざまの原理

流れの中での生き方の八神の原理。時の流れの中で実在有り様と結ばれる事で時を作ることで空間の変化を作る。(生き様をつくす原理) 宇比地邇(うひぢに)の神。妹須比智邇(いもすひぢに)。角杙(つのぐひ)。妹活杙(いくぐひ)。意富斗能地(おほとのぢ)。妹大斗乃弁(おほとのべ)。於母陀流(おもだる)。妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)。言霊チイキミシリヒニの父韻世界。意思の世界。

⑤ 心の成り様の原理

主客をいざないつつ結ばれる原理。主客をいざ出陣と向き合わせ有り様と生き様が結ばれ現象として成り出る成り様の源律動韻を司る。(主客が形を現す原理) 伊耶那岐(いざなぎ)。妹伊耶那美(み)。言霊イヰの親韻世界。先天意志の律動世界。多様性を確定する原動因。

⑥~⑭の領域

続いて残りの九場面です。

ですがそのまま続けることができません。というのもここに大いなる断絶というか接続というか、そういうものがあるからです。つまり原理と実体は有るけれどそれらを機能させるもの、人間主体、主体人間の言葉の働き、意識の領域がまだ無いからです。

そこで続けるためには己の心の領域を確立することが必要です。

これは直接の意識の領域ではなく、無自覚な機能ですので十四場面には入りません。

古事記の場面は、おのころ島、おのれの心のしまり、をさします。

ところがここを通過し得たとしても、通常の思惟活動はできますが古事記の要求する高みには登れません。せいぜい科学的な思考を体得するか宗教的な悟りを得るくらいでしょう。悟りを得るというだけでも大したものですが、古事記の高みは悟りが前提とさえなっていくでしょう。無自覚から自覚へそして自覚の自証から他証へと進みます。

古事記の場面では黄泉の国の章です。黄泉の国とは死者の国の話ではありません。

おのころ島。おのれのこころの締まりが設定される。

その後心がまだ通過しなくてはならない領域。

⑥ 先天からイメージへ

⑦ イメージから物象へ

⑧ 物象から明らかな現象へ

意識の現象世界が出来上がる。その後現象を検証する。

⑨ 初歩先天の意識規範

⑩ 意識規範の主体側

⑪ 大いに通用する意識規範

⑫ 表現規範

黄泉の国。現象が客観世界へと堕す。

⑬ 自証をたしなめ自覚へ、禊ぎ。

⑭ 禊が終わって現象の確定、禊ぎされた意識

以上が日常会話の中ではゼロコンマ何秒で循環します。詳しくは本文の中で述べられますが、古事記とは恐ろしい書物です。

そろそろ本文に入ります。

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冒頭の逐語訳 先天十七神

手元にアイウエオ五十音図表を用意してください。

ーーー

天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は。

天地の。

あめつちのと読み、テンチと漢語読みで読むと古事記の真意を失う。太安麻侶は千三百年前に古事記を天地をもって書き表したが、千三百年間は間違った読み方が蔓延することを願った。というのも赤ん坊に三角関数の数式を教えても無駄なように、社会全体が天地の意義を受け入れるだけの経済社会要因を成すまでは多方面で仮の姿を宗教や道徳、道として用意してあったからだ。古事記はアメツチで始まりアメツチで終わりあめつちを繰り返す。

アメツチとは、

吾(ア)の

眼(メ)を

付(ツ)けて

智(チ)となす、

を呪示する言葉。

意識を付けてそうなったもの(理解納得)がその人の天地世界、意識を明かす吾の眼を付けるという先天後天に共通の大原則。古事記の本性はあめつち意識の循環を百の仮の神名をもって説明、呪示したものてす。

吾とはア。先天の私、私の心。五十音図は心の平面図

眼とはメ。意識の発出したもの

付けとはツ。付けて渡し貰う

智とはチ。実践智恵となって現象へ

ーーー

初発の。

端眼、ハシメ、 何だか分からない意識の出ようとする端緒で、古事記は意識の先天から始まる。意識の発芽だが、発芽してしまう以前の状態。何でも神様が作るのとは違う。古事記は当面は意識の瞬時を百の神名をもって原理として説明した至高の書です。神という名を借りただけのものです。

意識の端芽が無いところには天地世界は産まれず、虚空の客観世界と呼ばれるものが、吾の眼の端芽として控えています。

古事記で言う初発は、すでに意識の初めであるそのまた芽の芽生えの,先天の機知のあるときのことで、宇宙の初めではなく、常に今此処・イマココ・での意識の初めです。

天地の初発(はじめ)の

初発には二つあって、一つは聖書やその他の神話にあるように「神は天と地を創造された」といい、無いものからの創造と、一つは古事記に独特の初めから初めがあるというものです。

先天の天地に初めがあるということは矛盾するように見えますが、ここに後天の吾の眼(私の意識)が係わるからです。

先天の天地は無限ですから中心は無くどの座標軸、点をとっても中心となることができ、そこに係わる事のできるのが吾の眼(アメ)である私の意識です。吾の眼は何時でもどこでも、吾の眼を付けさえすれば中心であることを主張できます。

こうして初めができます。

言霊循環

無いはずの初めが始めからあるということによって、始めが初めとなることができ、ここに言霊循環と呼ばれる動き出す意識の循環ができます。

生命意識の動きが循環にあるように、古事記の冒頭百神もそのように読まなければなりません。冒頭に神名が百出てきますが、これは一神一神を併置羅列したのではありません。

低位から高位へ、全体から個別へ等々へ向かう循環として出てきます。他とは違う単なる個別神ではありません。例えば最初の神(御中主)は後進の神へと変身変態するように、百回繰り返されて三貴子になるようにです。

また相手に伝わる言葉も百の経過を経た後伝わるようにです。(古事記の冒頭百神は直接にこのこと、言語の発生、を示しています。かくして百神の循環を経た言葉も創造された後天現象のまま先天の地位になります)

吾(ア)というだけの意識が花を咲かし実をつけ種になるようにです。古事記は子事記です。

ーーー

時。

十機、トキ、 十の機微機敏の集まり、意識による十の要素のそれぞれの表現が時となる。父韻参照。

五十音図の横イ段。吾の眼を付けて智に成すときに時が始まる。古代スメラミコトの大発見が現代まで維持されている。いわゆる客観世界の時とは黄泉の国のこと。

十(ト)の機(キ)、と読み下します。十の機微機敏の集まりですが、時は進んだり遅れたり飛んだり跳ねたりします。意識による十の要素のそれぞれの表現が時となるからです。

五十音図の横イ段。

過去現在未来の時間や長さではなく、現在の時を形成して意識となって現れる機敏機智が十あるということです。

時は色々な顔をしますが、元々は十の機(トキ)のそれぞれのあるいは複合された現れです。

時とは十ある機敏のうちいずれかの現れのことを指します。後述されます。

時は十(ト)機(キ)のことですが、あめつちの宇宙世界に係わるや否や係わり方の世界が現れる機敏が十あるということです。天地という実在に対する、働きという存在が十あると言うことです。

過去現在未来という時計のような考えには、時を全体として感じることと意志の上で得ることとの二者が欠けています。

『天地の初発の時、』

吾(ア)の 眼(メ)を 付(ツ)けて 智(チ)となす 意識の端芽(ハシメ)の 十(ト)の機(キ)が働く時、と読み下します。

ここまでで時空の係わりの内時間の係わりが明らかになりました。その係わりの内容は次々に出てくる冒頭十七の神名の内後半十神がヒントです。

古事記以外の神話あるいはそれを受け入れる思考では、無いものから始まるため、事物の実相は解釈によります。古事記では本源に事物の実相を先天として受け入れますから、精神生命の現象もそれに則ったものとなります。

物事の現象の変化が時の変化で、物事の実相の流れが十の相を持っているのが時の流れです。

言葉の魂である「ことだま」では魂の実相が解釈により、言葉が魂である「コトタマ」ではそのものズバリを指す相違がでてきます。

ですので次は空間の登場です。

。。。。。

高天原。(タカアマハラ・天はアマと読む。原注)

タとカの吾の間を収める場。ここには原注があって、タカ、アマ、ハラと読むように指定されていますが、タカ、マ、ハラと読まれることが多そうです。

人の意識の特徴は、タの意識(全体意識)かカの意識(過去意識)かのどちらかで始まるという違いを持っています。 タとカの吾(ア)の主体で始まる意識の居間(マ)に羅列して集合している言葉の待ち合い処が高天原と名付けられました。後述。

人の意識にとっては、たかアマのはらと言う頭脳中枢のことです。

その言葉としての表れの元が五十音図。この時点ではまだ整っているものは無く、先天にしか存在しない。五十音図は意識の次元に応じて展開し複数個ある。初発の何も無い意識にはそれにふさわしい白紙の五十音図がある。言霊循環の妙。

ここはまだ初めです。精神意識の初めの段階での対比すべき特徴といえば、タではまだ詳細は不明なままだが明るい全体観を持つことと、カの方では個別的な経験的な内容を持った個別性という、違いがあります。そしてそれらの違いのあるまま吾の眼、私の意識となって進展していくことです。

つまり、私の意識である吾(ア)の眼(メ)は、一方では、精神意識は「タ」か「カ」で始まる吾の間(アマ、天、私の意識の居間)の心を開けることで、私の意識の準備の整った居間(区画の整った五十音図を象徴する)が産まれます。

他方では、先天の高みにある吾の間(アマ、天)で、先天の働きを収めている吾(ア)の間(マ)が十あります。

漢語表現での天つまり、天地が「あめ」つちなのにたいして,高天原がたか「あま」なのは,吾の意識の先天構造内の活動のことか活動の場のこと(時間と空間)かによります。

原 (言の葉の羅列場所、五十音図のこと)

言の葉(ハ)の羅(ラ)列列挙される場所

原はこの十の意識運動を開始しようとする言語空間で、私の吾(ア)の意識が「タ」となって産まれるか、「カ」となって産まれるか、タで始まる意識か、カで始まる意識の脳髄で言えば頭脳中枢の言語野ということになります。

頭脳の生理機能のことは古事記とは関係ありませんから、ここでは原は機能の現れとなる平面図である五十音図のことです。つまり異なった音図が意識の原図をしめる頭脳の機能の中にあるということです。

これは後にアワギハラ(原)を通して複数の五十音図となるものです。

同様に、先天に用意されている吾の間の原、働く場であり、吾の働きの起きる頭脳中枢の言語空間です。頭脳中枢が働きますがその働き方は言葉によるものです。書いたり話したりする以前でも言葉の構成発声を目指して物凄い勢いで高天原を駆けめぐっています。

原は言の葉(ハ)の羅(ラ)列列挙される場所で、当面前五十音図を指しましたが、実は意識の次元に対応した複数の五十音図があります。と同時に初めの音図が幾重にも重なる柱(御柱)の礎石ともなります。

『天地の初発の時、高天原に』

吾(ア)の眼(メ)を付(ツ)けて智(チ)と成す端(ハ)し芽(メ)の十(ト)の機(キ)の活動するとき、た(タ)とか(カ)の吾(ア)の間(マ)の言の葉(ハ)の羅(ラ)列列挙される場所に

私の意識を相手対象に付けて意識の地に智恵を形成する十の意識の初動がある時、私の全体観か個別意識かが具現現象化を用意している言語野に

かくして時空の整った先天のあめつち(天地)に時空の整った吾の眼(天)が載ることができます。当然続いて起ることは行為とその結果です。古事記が「子」事記、意識の子現象の事を記したものと言われるゆえんです。

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▲▲▲ここまで▲▲▲

成りませる神の名(みな)は

成るは特別な言い方で、成ることで時空働きが成り、時空働きが成ることで時空働きとなります。それはまた成りは言葉の鳴りです。

頭脳中枢に鳴(ナ)り響く言葉(神)の実(み)の名は。

先天の五十音図の時処位働きの形式内容が整え明かせられる。

意識に加え、更に加味(カミ)された諸々の力に名が 与えられる。

先天世界後天世界共に同じ名前から出発する。つまり主客の別がない。

鳴りませる

頭脳中枢で成っているのは言葉です。成るは鳴るの隠喩です。実際の会話の言葉は時間がかかりますが、その時でも頭脳内では猛烈な勢いで言葉が形成されています。

タとカの吾の間の五十音図の原で、吾の眼を付けて智となす意識の初めの十の機の働きにより鳴り響くことで成り出てるのは、現象具現化する子音という意識の創造現象です。

但し、物事は先天から始まりますので、子音、子現象の創成には先天の存在を置かねばなりません。

そこで、「なりませる」の「なる」は現象創造の後天子(こ)現象創造については「成る」ですが、先天の働きについては「鳴る」で、これは鳴り響くことを止めません。谷神は死なずと古代中国に伝わり、母音のことです。

また、「なる」のは吾の眼が付いて智になるのですから、「なる」という働きもあります。父韻です。

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加味。

主体と客体意識によって加味、加実(カミ)される時処位(実体)と働きの諸力のこと。

それら実体働きの加味された諸力を神という。

古事記の神とは我等の使用している言霊日本語のこと。

神は最初からいるのではなく、成り出てくるのです。

ーーー

名。

存在を明示するのに使用される言葉の単元。

五十音図を飛び交いその時処位働きが組まれて明きらかに澄み浮かび上がってきたもの

名が成り出て力を持つと神になる。

ーーー

天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は。

意識の運用の初まりのとき、頭脳中枢に成(鳴)り出てくる言葉の単元は。(以下五十音図に対応した五十神と働きに対応した五十神が続く。言霊百神前半。)

やはり始まりをどうするかが問題でした。始まりを設定するやそのまた始まりを考慮しだします。古事記はどうしたかと言いますと、始まりを成す方法を取りました。その最初が吾の眼を付けて智に成すで、第二が御中主の神で、第三が造化三神で、ついで言霊五十神、言霊百神という何重もの始まりを設けています。

ところがそれら幾重もの始まりが、各意識の領域を通過しながら循環しつつ言霊百神という一連の過程に治まったものとなっています。

さて、高天原には次のような区別があります。まず先天の生命を構成している根源の内容によって、母音、半母音、父韻、子音、親韻があります。

実際の現象となって現れてしまうと、韻・インは音・オンとなり、ん音によって運ばれることができるようになります。母音はアイウエオ、半母音はワ㐄ウヱヲ、父韻はキシチニヒミイリ、子音は三十二音、親韻はイと㐄です。

ここまで冒頭を細かくどころか再三に渡って繰り返してきました。人間精神がそのような構造ですから当然です。次からは百神がずらずらと出てきますが、先天に続くアメツチの構造を百の神名で言い表したものです。

意識の動きですから、自分を相手に検証できます。

ーーー

まずは意識の始めに有るものです。

淡路の穂の狭別の島。アワ路、音図の始めアから終わりのワへ導く狭く分かれた領域。

天の御中主(みなかぬし)の神。

吾眼の実中を縫う主。精神宇宙の真ん中にいる主人公、真ん中で主人公となる意識。

現在即有で主客同一。五感感覚、欲望による実在単元の総称。

宇宙意識の吾の間の中心となる主、宇宙は無限大なのでどこでもが中心となりえる。自分中心。まず、意識にもたらす先天の主、先天の欲望言霊ウ、後天の欲望言霊う。

対象客体意識の出る以前の意識で五十音図表全体が浮かび上がる。

ア行のウとワ行のウは実質的に同一。いまここに有るウと有り続けるウは同じ。

何が何だか分からない無自覚な意識の生まれ出ようとする始まり。

最初の神です。つまり有るを意識する最初の意識です。

心の宇宙(天)の真ん中(御中)にいる主人公(主)である神(意識)。

古事記は眼前する宇宙の未発達な知識と想像を表したものではなく、従って宇宙の創造主を天の御中主としたものではありません。心とは何かの構造と動きを示した完璧な精神現象学の原理論ですので、そこで語るのは神の名を借りた心の説明です。

百神の構造区分

ここから百神がずらずらと出てきますが単なる並置ではないので,まずその事について述べておきましょう。

意識は循環しているので,循環するだけ同じ神様名が出てきます。とはいっても神名が繰り返されるのではなく、循環して次元の異なった神として変身上昇した止揚された神として出てきます。

重要なことは意識の各次元各段階の隠喩としての神様がいるとしても、そこが最初の始まりではないということです。御中主は最初の神ですがそれの最初を語る時には次元が変わります。(昆虫の変態のように)

つまり、あめつち・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成すという定理が御中主の前に立ちます。ということは御中主はこの後に出てくる百神の始めに立っています。

循環上昇の構造は、意識の実在要素神五十と、意識の運用神五十の計百神が一つの全体となって、あめつち(吾の眼を付けて智となす)から始まって、例えば『か』という言葉を発声し理解に至るまでの運行に、百神が費やされます。

と同時に途中で出てくる神々は全て前段を背負っています。

意識の実在要素神五十の内訳は、例えば『か』を発音しその実在を確認するのに

零(0・あめつち)先天(天の御中主からイザナミ) ⇒ 後天(大事忍男からオオゲツヒメ・そしてン音のカグツチ) ⇒ 先天(0)零(カグツチ)

となって、先天から始まり止揚された先天まで循環します。

ついで、意識の運用神が三貴子までとなります。

生命意識の構造区分は国生み(島生み、意識の領域を産むこと)で全面的にとりあげます。

天地の初発の時、高天原に成りませる神の名は、意識の初めて働く時、頭脳中枢に最初に昇る心の要素は、と記した通り心の初めの出来事です。

それが天の御中主ですが、意識の始めにこの神名が現れることではありません。

ここで注意しなくてはならないのは、現にある意識の分析のはじめではなく、言ってみれば色不異空空不異色色即是空空即是色としての意識のことです。吾の眼を付けた時に始まる心の動きで、現にある意識という具体性をまだ持たないが後にそれらを表す先天の要素となる意識です。

色即是空では現にある意識と空の対比を揚げていますが、零(0・あめつち)の次元が欠けている、頭脳中枢で吾の眼が初めて動き出す時のことですので、吾の眼の色としての具体性を得る以前、主体としての吾の形成以前のことになります。

先天の吾の目覚めのようなものですので主体の意識の自覚も無く、従って客対相手側への意識もありません。そこにあるのは相手対象への意識ではなく、自分自身の意識でも無く、何も存在しない宇宙世界に何かが始まろうとする中心の主のようなもので、自分も相手対象もひっくるめた主人公観覚(ぬしかんかく)です。

例えば覚醒時とか瞬間的に見聞きしたものとか、突然に肩を叩かれ振り向いた瞬間の始めに得られる、後にそれらの全体を支配する意識となる主観覚です。

意識のレベルでいえば欲望の次元です。欲望には何々への欲望というように対象がありますが、繰り返しますがここでは「初発の時」のことです。有りて有るものへの欲望には欲望があるという以外に詳細はありません。

五十音図のあ行とわ行のウが同一です。そのわけは主体側あ行と客体側わ行には初発のときには両者の違いは無いからです。

意識の始まりはこのように、自分の意識である以前の分けの分からない曖昧模糊としたものから始まります。

そんなことはない、眼を開ければ机の上にあるりんごはりんごと理解できるじゃないかということですが、ではあなたの意識が表明したリンゴという言葉はどこからきているのでしょうか。古事記はあめつちの初発の時を問うています。

さらに有るものが何であるか確定する以前に有るものを有るとし、それを有らしめたいとする先天の欲望があります。見開いた眼はリンゴを見たいのか鉛筆を見たいのかはたまた机全体を見たいのか定かではありません。

あるものをあるとする意識とあるものをあらしめたいという意識の欲望が先天的にまずあります。

天の御中主は心の初めだとはいっても例を揚げた通り、主体意識として働いてはいません。ありてあるものの主(ぬし)というだけで、主客の別はありません。

また主として中心になりますが、宇宙の中心の一点に留まることもありません。主の意識が働くところはどこでもが宇宙の中心になれます。机上のりんごどころか埃が中心になることもできます。(伊勢のヤサカの鏡の裏面にはこのようなことが書いてあるらしい)

人間の自我意識に取れば、これから自我として育つこととなる芽(主)です。中心となる芽ですのでどこでも此処が何時でも今が主です。

空即是色では空色の対比ですが、御中主はそれ以前のことで色眼鏡はありません。

何故、天の御中主の神は言霊ウなのか。

それはそう決まっていると古代のスメラミコト達の聖人が認めたからです。そしてその一翼を担う事をこの私も確認したからです。科学的な知見ならば自分の習い覚えた経験知識を元にして解釈理解を進めるでしょう。客観事象の事実の積み重ねが内容の理解に導かれるでしょう。しかし心の構造と働きを理解しようとする心のどこに言霊ウがありますか。どの赤ちゃんの頭の中にも心臓の中にも言霊ウは見つかりません。また他の人の脳を解剖するわけにもいきません。古事記は天地の初発の時高天原に成りませる神の名はで始まり、とんでもない事を言い始めます。通常の解釈では理解できません。つまりはこれは人間の心の先天構造を謎々で書き表したもので、ご丁寧にも神名と言霊の名を別々の書物に記しました。古事記には神名と言霊名を結ぶ記述はありません。

しかし皇室の御賢所には五十の神名を五十の言霊で書き表した書物があるそうです。

次に

ここでの次にというのは前段を包含したうえでの、循環の上位段階ですが、それはそれで各々独自存在を名乗ります。

リンゴの種の成長を次々に見るには、発芽して若芽を出して苗木になって大きくなって花が咲いて実がついてまた地に落ちてと、見た目形態の違いを追って次々としますが、では一日ごとの違い毎時の違いなどには次々にとは、時々刻々と成長しているとはいえ、言いません。

古事記の百神の次に次にとは何を指しているものでしょうか。

それはアメツチの初発の時とあるように、意識の動き初めの瞬時の時のことです。

そうです、古事記は意識の一瞬の出来事を百コマの神名を借りて説明したものです。古代のスメラミコトがやった超スーパーマンの仕業です。その偉業を残すためと世界文明の発達のため天皇が創られたようなものです。

冒頭十七神の「次に」とその後の「次に」の違い。

吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成すあめつちの吾の内実は冒頭十七神全体です。つまり人の精神生命の全体です。その構成は以下のようです。

○天の御中主の神。 現行欲望の主客。それに言霊ウと名付けた。

○高御産巣日(たかみむすび)の神。 全体感情の主体側。それに言霊アと名付けた。

○神産巣日(かみむすび)の神。 全体感情の客体側。それに言霊ワと名付けた。

○宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。 過去知識の客体側。それに言霊ヲと名付けた。

○天の常立(とこたち)の神。 過去知識の主体側。それに言霊オと名付けた。

○国の常立(とこたち)の神。 未来選択の主体側。それに言霊エと名付けた。

○豊雲野(とよくも)の神。 未来選択の客体側。それに言霊ヱと名付けた。

以上は精神生命の実在空間への意識で意識の四つの次元を示している。

以下は時間意識の働き。

●宇比地邇(うひぢに)の神。 現に有りて有る働きの主体側。それに言霊チと名付けた。欲望の実在に対応。

●妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 現に有りて有り続ける働きの客体側。それに言霊イと名付けた。欲望の持続に対応。

●角杙(つのぐひ)の神。 過去に有りて有り続ける働き。それに言霊キと名付けた。主体側知識の実在に対応。

●妹活杙(いくぐひ)の神。 過去に有りて有る働き。それに言霊ミと名付けた。客体側知識の持続に対応。

●意富斗能地(おほとのぢ)の神。 未来に有りて有る働き。それに言霊シと名付けた。主体側選択実在に対応。

●妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。 未来に有りて有り続ける働き。それに言霊リと名付けた。客体側選択持続に対応。

●於母陀流(おもだる)の神。 全体に有りて有る働き。それに言霊ヒと名付けた。主体側全体実在に対応。

●妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 全体に有りて有り続ける働き。それに言霊ニと名付けた。客体側全体持続に対応。

●伊耶那岐(いざなぎ)の神。 意志に有りて有る働きの主体側。それに言霊イと名付けた。主体側意志実在に対応。

●妹伊耶那美(み)の神。 意志に有りて有り続ける働きの客体側。それに言霊ヰと名付けた。客体側意志持続に対応。

ヤタの鏡にあるへブル語らしきものは上記のことを指しているようです。

通常は物質に対する意識、気を精神としていますが、古事記では上記の通りです。

あめつちの吾は上記の全体を先天萌芽で保持しています。

以上が「高天原に成りませる神」精神生命の先天十七神、です。先天と呼ばれからには説明も規定もできず、具現化していないので意識には捕らえられないものを言うはずですが、古代スメラミコト・太安麻侶のお蔭で表記の秘密を読み取ることができます。詳細は各神の項目を参照。

その後の次々は「更に神をみたまひき」とありますから、具現化した後天の神々です。

先天の十七神は当初から独立して存在しながら次々と現れるという二重に規定された神です。吾の眼を付けるという主体行為のお蔭です。「付ける」という根幹から発して同じ根幹に戻りそこから「次に」いきます。十七神が一つの全体をなしているからです。神道では心柱と呼ばれ後段に出てきます。

一方後天の神々は一つ一つ独立していますが、独立するには後天の全神を通過しないとできないという成立の仕方をします。

古事記はそれぞれ神名を使って最小の説明表記で示していますが、その筆運びは厳密です。ここでは解説が交じるため前後したり、言霊循環の予備知識が挿入されたりしています。

神名に言霊が配当されている件について。

古事記は精神現象学の原理論で精神の子現象創造を明かした子事記です。後天子現象は名を付けられて初めて確認できるようになり、そのため古事記は同時に言霊学の原理論ともなっています。

言葉の発音発声は無数に有りますが、心を表す精神生命を表す発声は五十しかありません。物質の元素数が極限られていながらこの世の物質文明があるようなものです。

また精神元素数が限られているため温故知新のような通常の学問態度が役立ちません。科学の新知識や経験知識は無力に近いです。イマココで循環創造されていく心に対して、イマココを自覚しなくてはなりません。

神名に対しても同様です。一つには宗教信仰の対象になってしまうのと、他方では神名を言霊の呪示された解説名としていけば、その内容やそれに付随して顕われる人類文明に参加する機会を与えられる事になるでしょう。

では五十神に言霊をどのように名付けたのでしょうか。古事記には直接の記載はありませんが、『「天の御中主の神」という神名に、宮中賢所秘蔵の言霊原理の記録は「言霊ウ」と名付けたのであります。』ということがあります。それの研究者たちの異議が無いこととと、その結果による事物の見方に不明が無く実相が現れるという事と、自分なりの適応に感心してしまうことによります。

しかしこれらは成った後つまり言霊として名付けられた後での確認です。確かに例え五十神といえども、無数にある発音発声の中から心を表す適当な音を配当するのは困難なことです。

これを完遂した為にスメラミコトとなったと思われるほどです。

詳細は分かりませんが、心が音であり音が心であるものを探したと思われます。しかし心は直接には音で現せませんから、仲介となる音韻の世界が同じく感じられる身体の同調の仲介を通して求められたことでしょう。脳内意識の身体への外在化を精神レベルによって分類したことでしょう。顔の表情では感覚なのか感情なのか分かりません。そこで身体の共感レベルは腹に反映するところにまで降りて行ったことと思われます。(泣沢女の神のハラバイ=腹映え)

こうして成ったのが母音世界です。上記及び、 https://sites.google.com/site/ametutinokagami/ya-1/fu-mu-yinnitsuishi 参照。

精神生命の根源要素は五十の言霊元素からなります。五十の元素というからには五十の独立した元素の集まりのように思われますが、その各々がまた五十の要素で構成されていて、それ自身で循環した構造を成しています。御中主はそれ自体で独立した一神ですが、自らが五十神を通過した時に自身を現します。ですので御中主とは何かということは、この後の四十九神を解説して初めて御中主となります。他の神々も同様の構造です。

 

天の御中主の神。次に

天の御中主は言霊ウという実在です。他の神々と同様それ自体で独立していますが、それが動いたり歩いたり何かを産んだりはできません。机上の本が自分でページをめくることはできないようにです。現に有りて有るだけです。

実在がそれだけで完全であるのに「次に」とはどういうことでしょうか。本ならば次に次にとページをめくられて次の実在ぺーじを現すことでしょう。天の御中主ではそういうわけにはいきません。「次に」はありません。しかし「次」があります。

「あめつち」の意識の精神宇宙に何かが起きる兆しが産まれました、と書くと、「あめつち」でなくとも御中主と書いても同じことと思えます。それどころかどのような固有名詞を当てはめても同じととれます。そうです、「次に」というのは「次に」の動きを持ち来らす「次に」という神のような動かす動因、韻を指しています。本のページがめくれるのもこの「次に」という動因、韻のお蔭です。

古事記はこの動因を先天実在神を載せた後で十神で声明してくれます。上記先天十七神の●部分。

この十神の分は父韻と呼ばれ働きを示すところです。

天の御中主の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の神。次に神産巣日(かみむすび)の神。

造化三神です。言霊はそれぞれウ、ア、ワです。

中国に渡って老子の「道は一を生じ一は二を生じ二は三を生じ三は(で)万物を生ず」になりました。一は天の御中主の神、二は高御産巣日(たかみむすび)の神、三は神産巣日(かみむすび)の神ですが、二回目の三は三神全員のことです。冒頭部を数霊で述べたものでそれをわざわざまた文章に直しても仕方ないことです。

高御産巣日(たかみむすび)の神。次に、神産巣日(かみむすび)の神。

高御産巣日(たかみむすび)の神と神産巣日(かみむすび)の神は漢語表記は違いますが、注意してくださいタを除いて同じ読みです。それ自体が精神意識を扱う上でのヒントになっています。また高天原の高を呼び起こす、タの吾の間とカの吾の間に対応しています。

意識においてこのような関係にあるのは、意識が物事に対応するときの主客の関係です。

見るものを見る主体(主体宇宙)と見られものを見られる客体(客体宇宙)では主体側の見る行為以外は同一です。見たものを見た主体(主体宇宙)と見られたものを見られた客体(客体宇宙)では主体側の見た行為以外は同一です。考えるものを考える主体(主体宇宙)と考えられたものを考えられた客体(客体宇宙)では主体側の考える行為以外は同一です。等々。

両者は心の何を現しているのでしょうか。

両者の読みが同一ですから、同一でありながらタの一言が多いものです。心の先天宇宙内での主体側と客体側を示しています。タの一言が多いことで主体性による動態の変化があることを現し、タが無いことで動態の変化を受けいれることを現します(ムスビ)。

意識の先天実在を示していますが、それ自身で動きはありません。本のページが自分ではめくれないのと同じことです。つまり、創造はできないので創造主とはなりません。そのためには創造の動因、父韻、が必要です。

ただしひとたび現れたならば動くことも無く消えることも無くなります。天の御中主の神は言霊ウとして、高御産巣日(たかみむすび)の神は言霊アとして、神産巣日(かみむすび)の神は言霊ワとしてあり続けます。母音の特徴です。母音は一旦発声されたら同じ音が続きます。

言霊母音の特徴

言霊ウの宇宙世界あめつち・・現在を獲得したい。欲望を獲得する構造と同じ。おっぱいが飲みたい、お金が欲しい、大臣になりたい。五感に采配される。自分の欲望だけの自己主張。

言霊アの宇宙世界あめつち・・自我を前面に出す。喜怒哀楽の感情を表現する。感嘆にうたれる。宗教芸術活動が出てくる。自分だけ納得している自己主張。

言霊オの宇宙世界あめつち・・過去を振り返る。学問知識、原因結果の世界とそれらの記憶運用。知識に乗っ取られた自己主張。

言霊エの宇宙世界あめつち・・未来を覗き見る。自己主張の選択整理按配。戸惑いながら選ぶ現象。

言霊イの宇宙世界あめつち・・力動に支えられ、上記四例にイザと力動を与える人間意志の世界。

高御産巣日(たかみむすび)の神。神産巣日(かみむすぴ)の神。

言霊ア、ワ。 広い宇宙の一点に何か分からないが、自我の先天となる吾の意識、ある事の始まりの兆しとも呼ぶべきものが生れます。それに対し太安万侶は天の御中主の神という神名を付けました。言霊ウです。次にそれが何であるか、の問いかけが人の心に生じる途端に、言霊ウの宇宙は言霊アとワの両宇宙に分かれました。安万呂はその両宇宙に高御産巣日の神、神産巣日の神の名を付しました。言霊ウの宇宙が言霊アとワの両宇宙に分かれる事は、意識の対象として、即ち現象として捉え得る事ではありません。飽くまで心の中の実在の活動であり、意識によってではなく人の内観・直観によってのみ捉える事が出来る事でありますので、これを宇宙剖判と申します。剖判の剖は「分れる」であり、判は「分る」です。分れるから分る、分かれなければ分らない。分るとはこういう事であり、それが同じであることを言葉が示しています。日本語の妙であります。

人は自分に対するものを見聞きした時、自らの存在、即ち自我を意識します。その現象は言霊ウの宇宙から言霊アとワの宇宙が剖判した事の一つの説明になります。それとは逆に、自我を意識している自分から、その自分に対立して存在するものがなくなることによって、自意識が次第に消えて行ってしまう。自意識が消えてしまうと、仰いで見入っていた空が自分を呑み込んでしまったのか、自分が空になってしまったのか、全く何だか分らない状態、即ち「天地の初発の時」の言霊ウになってしまう。それは言霊ウから言霊アとワが剖判する消息を、逆に言霊アとワとの対立から、対立が消えて初めの対立のない、禅でいう一枚の言霊ウに戻って行く事で証明するという事が出来ます。

言霊半母音の特徴

言霊半母音の宇宙世界あめつち・・吾(あ)の眼(め)を付(つ)けて智(ち)と成す客観の方向に局限された純粋の客体。

主体と客体、自と他、吾と汝、見るものと見られるもの、吾の眼を付けるものと吾の眼を付けられたもの、等々の関係。

神。天御中主 ・ 心の宇宙の主 ・ 潜在の火

ヒ ・ 陽霊 ・ 主の火

スヒ ・ 巣洲零

産巣日。ムスビ ・ 蒸す結び火

ミムスビ ・ 実を蒸し結び火

カミムスビ ・ 火噛み加味蒸す結び火 ・ 客体の火。日、火を付けられるもの。

タカミムスビ ・ 田鷹高見噛み加味蒸す結び火 ・ 主体の火。火を付けるもの。(鷹、天空から獲物を狙うように)

そして現象の火

心の何かが動き出す兆しが現れました。意識の中心に意識の主が目覚めました。何かはっきりしないものの霊(ヒ)の輝きがあります。そこで更に目覚めてくると、そこに何かがあるような潮の満ち引きで現れる中州のような、大事なもの(雛、日名)を育てる巣のような、それが主の形なのか形の納まる形式なのかはっきりしません。そうこうするうちに、陽に蒸されて固まるように産まれる意識の形が出来てきているようなものがあります。塊は何かの意識の塊のようで、または意識が創った実のある塊のようなものです。そうなってくるとますます火を見るような明らかなものとなり、意識が作った実であるのか実であるものを意識しているのか、両者の噛み合い噛み結び合いで、意識している実の塊と実の塊を意識しているのとの分かれ目がますますはっきりしてきます。するととうとう天高くから獲物を目掛けて降下する鷹のように、産まれて蒸し上がった火の塊に突進します。

分かれるから分かる

こうしてとうとう意識するものと意識されるものとの違いが分かるようになります。ところで違いが分かるようになっている自分に気がつくと、気がついた自分を気付かされる産まれて蒸し上がった火のような塊に突き動かされていたことに気付きます。この塊は後に「タ」として整然たる田(意識の田)になります。

分かれる以前を経過して分れるから分る、分かれなければ分らないのですが、この段階ではまだ現象として分かる分からないということではありません。

次いで後に現象が起こります。

造化三神

初め心の宇宙から言霊ウが芽生え、それが剖判して言霊アとワの精神宇宙に分かれます。そしてその言霊ア(主体)と言霊ワ(客体)の感応同交によって人間に関する一切の出来事(現象)が生れ出て来ます。人間の一切の行為の元はこの言霊ウ、アワの三言霊から始まります。これが人間の心の重要な法則でありますので、言霊ウ・ア・ワ即ち天の御中主の神、高御産巣日の神、神産巣日の神の三神を造化三神と呼ぶのであります。

この三つを経過してから全ての現象が出てくるのですが、それ自身が活動して産むのではありません。現象を生ずる母体を提供するだけで、活動をし促すのは父韻と呼ばれるものです。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

同じ言葉がこの後も繰り返されます。つまり冒頭の七神が三・二・二で区切られることを示しています。精神意識上のことで、配偶神や系譜を持たないことではありません。系譜を意識の目覚めと取れば、厳密に意識の目覚めは古事記の通りに行なわれます。ただし創造する神神としてでなく実在を展開する母胎を提供する神としてです。

最初の三神は現有神として、二番目の二神は過去が現有となる記憶神として、そして最後の二神は現有が未来に選択されるだろう神としてそれぞれの母胎を提供していきます。

独神(ひとりがみ)に成りまして

独神は永遠の昔から独りでいることではなく、成った後に単独にあるいは単独に成ることです。つまり一旦産まれたからには死は無いということです。人の死も神の死も同様で、物理生物的な単体としては破壊崩壊無化しますが、意識に昇った死は不滅です。

また独りとは他に比べるものが無いということですから、それだけでそれ自身の世界を構成しています。それだけのことなら他の神々と同様ですがここでは精神生命のことを話していますから、先天意識の階層の独自性をいっています。言霊はそれぞれウアワで独自であると同時にそれが持ち来らす世界である欲望次元の言霊ウは感情次元の言霊アとは違うことを指しています。

それにもか係わらず、一二を生ずるとか次にとかはどのように可能になるのでしょうかというと、先天構造の最後を示すイザナギによります。

身(み)を隠したまひき

身・実を隠すのですから残るのは、影、気、先天等です。ここまででは現象の話はしていませんので、影もありません。感覚、感情、意識でさえ捕らえられないものです。意識でさえ捕らえられないものなのによくも文章になるなと感心してしまいますが、これも日本語という言語規範が先天的にあるお蔭です。

神様たちが易々と解説されたり性格が描写されたりはしません。そもそも現象界に身を示すことは無いのです。空即是色以前の直覚世界での先天性を感じ取ることです。

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

この文を読むと、前には独神で無かったが後で一人になったようにみれます。または最初から独神として成り出てきたようにみえます。

心はアメツチから出てきたものです。それは先天世界と呼ばれるゼロ次元からの贈り物です。

自分のものとして成りましたが自分が創ったものではなく、自分の想い考えで成ったものですが自分が創ったものではありません。

心が働き始めるや否やゼロ次元として現れ、各自に剖判の種を先天の過程のままで蒔きます。

ーー

高御産巣日(た、かみむすび)の神。次に

た(意識に与えられる全体感覚 )を相互に噛み結び合う主体側。

現在全体有の主体側、剖判した御中主。感情感覚による実在単元の主体側意識の総称。

五十音図表が産まれ出ようとする主体側。ア行。言霊ア。

ーーー

次に。

前承して循環する言葉の初め。古事記は初めの一語を発するまでに百回の循環を繰り返すことを書いたもの。

次に次にと並列併置しているのではなく、前神々を承っている。一々百回の循環を経て一語が成り立つ。

ーーー

神産巣日(かみむすび)の神。

噛み結び合う客体側。

現在全体有の客体側、感情感覚による実在単元の客体側意識の総称。二神で表裏一体(主体側と客体側)でありかつそれぞれ独自な存在、読みが同じ、他噛み結び、噛み結び付かれる、ワタシ。五十音図表から産まれ出ようとする客体側。ワ行。言霊ワ。

ーーー

この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)に成りまして、身(み)を隠したまひき。

上記三神で一人神であり、また三神それぞれは独自なものであり先天の存在、三者一体となって意識に昇るが実体は見えない。欲望(実中)とその主体と客体、独自なものでありかつ三者一体は循環として現われる。

全編を通して現われる。

後に同じ言い回しで二回(三、二、二神)くりかえされる。意識次元の相違をうたっている。(う、あわ、をお、えヱ、の4次元。今、現在、過去、未来)

次元世界の違いを示唆している。

道は一を生じ一は二を生じ二は三を生じ三は万物を生ずる。

次元が変わります。

次に国稚(わか)く。

国。クニ。土地国土のことではない、神産巣日に組(ク)んで似(二)せる。

意識の国の組み合わせが若い、組(ク)で似(ニ)せられるものが一般的抽象的で未熟、神は上記三者しかいないが過去意識の出発点であり、実践意識の出発点でもある。万物を生ず。

ーーー

浮かべる脂(あぶら)の如くして水母(くらげ)なす漂(ただよ)へる時、葦芽(あしかび)のごと萌(も)え謄(あが)る物に、

描写された情景が眼に浮ぶようですが実は何を言っているのでしょうか。

漂える記憶の出どころを指します。

脂。吾無螺、あぶら。勝手に浮遊して場所を横取りする油のように、その様子は私意識の有るようで無いようなものが、意識を形にする以前の状態で羅列浮遊している時に。

海月くらげ、暗気(くらげ)の意、まだはっきりした意識、明瞭な言葉にならない。時空の次元が未だ無い。

漂よえる、規定されていない形にならない暗気全体が。

葦芽、あしかび、吾四火日(霊)。私の意識の四次元のそれぞれがポッと明らかな意識となって言葉を造ろうと出てくる物(記憶、想い出)に。実在次元が未だ無い。

ここでは過去意識、概念、記憶、知識の誕生を指示している。

ーーー

因りて成りませる神の名とは。

そういった次元にない時空から成りてくる、それでいて出て来るものに意識を囚われる神の名(言葉の状態)とは。

前記が先天の位置を占めていることでそれにより吾の意識が付く拠り所(あめつちのア、メ、ツ)、記憶を与えられる、その拠り所となっている、自ら鳴り名乗り出る神の名とは。記憶された言葉の総体とは。

ーーー

宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。次に、

過去有の客体側。

うまし、あ、し、か、び、ひ、こ、じ。記憶が出てくる時のように、

(うまし)霊妙でうまい具合に、(あ)私(吾)の、(し)四次元言霊世界で、(か)火がパッと、(び)明るく輝き、(ひ)その時その日の思い経験知識を、(こ)子を産む時のように、(ぢ)出してくる客体側実態の地(貯蔵庫)。

主体側ではないけれど先天の実態を提供する、客体側に記憶(の貯蔵所、地)、がまづある。

言霊は主体の働き掛けに応じてワ行の半母音が反応します。ですので主体側母音あ行の言霊オの天の常立がまず説明に来るように思えます。

しかし記憶の特性として記憶を自覚的主体的に扱うことはできません。出てくる記憶は意思して出てくるものではありません。前段にもあるように暗気の中から勝手に燃え上がってくるものです。意識は主客無し・主客に剖判・客体の前在、このように進展してきます。

ヒコジは比凝地、記憶の地に凝り固まったものに比して。見えない記憶が出てくる以前に記憶の実態が先天的にある。

オ段の客体側。言霊ヲ。

ーーー

天の常立(とこたち)の神。

吾の眼が分割して恒常に成立する主体側の神

言霊オ。

天の常立(とこたち)の神とは記憶で相手対象を分けた吾の眼が恒常に(常)成立する(立)実在(神)といった意味であります。記憶は自分のものとして出てきますが、そのようなものとして出てくるからで、記憶、知識、概念等は本来自分のものではなく、ウマシアシカビヒコジのものです。それをあたかも自分のものとして押し出してくるのが、天の常立ちの力です。宇摩志阿斯訶備比古遅の神が記憶そのものの世界(言霊ヲ)であるとするならば、天の常立の神・言霊オとは記憶し、また種々の記憶の関連を調べる主体となる世界という事が出来ます。またこの世界から物事を客体として考える学問が成立して来ます。

記憶が出てくるには記憶されたものが用意されていなければなりません。ところがタカミムスビ・カミムスビとウマシアシカビ・アメノトコタチでは主客の位置が正反対です。何故でしょう。

高御産巣日が自らの主体を神産巣日に見出すと同時に神産巣日は客体となり、その全客体を記憶として燃え上がらすことができます。それは恒常的にそこに控えているからです。客体としてカミムスビを通過するからです。前にカミムスビが恒常的にいるお陰です。

常立。

常立と名の付く神が続けて出てきます。次の国の常立は天の常立と一字違いでしかないのに対ではありません。また、別天神五神に入れられていません。何か本質的な違いがあるようです。高御産巣日と神産巣日のような関係にあるのでしょうか。

両者の常立にはどのような原理的な違いを持つ共通性があるのでしょうか。

常(トコ)。恒常。十子(十の子現象)。

立(タチ)。建ち。立ち。断ち。絶ち。経ち。太刀。

表記は異なりますがそれぞれの共通性が異質な神の共通項です。

ここは次の国の常立と共通です。

。。。。。

この二柱の神もみな独神に成りまして、身を隠したまひき。

上(かみ)の件(くだり)の五柱の神は別天(ことあま)つ神。

次に成りませる神の名は、

国の常立(とこたち)の神。次に

豊雲野(とよくも)の神。

この二柱の神も、独神に成りまして、身を隠したまひき。

国の常立(とこたち)の神。言霊エ。

豊雲野(とよくも)の神。言霊ヱ

トコタチ(常立)を時間の流れで見ると分かり易い。常立二神の天のと国のの違いを見てみます。

天の常立--吾の眼、天の眼、を常世の過去世から断ち切り恒常的に現在世へ向かう。過去を断ち切り現在に立てる。太刀(タチ)。

国の常立ーー組んで似(くに)せた常世の現在世を建ちあげ恒常的に未来世へ向かう。現在を断ち切り未来に立てる。剣(ツルギ)。

両者共次の次元世へ向かうため、それぞれの次元で手にする十子(十の子現象世界)を全部持っていかねばならない。それらの内どれを選択するかはまだ後段に属する。

天も国も現在の吾の眼を立てるのに次元の切り分けをしてそれぞれ自己主張をしていく。

十子立ち(トコタチ・常立)

次いでトヨクモノ

奇妙な当て漢字ですが、豊雲野の神にも共通して十が入っています。

豊(トヨ)・・十四。十と四別々、時間と空間次元、です。

雲(クモ)・・組む。いよいよ時空が組まれます。

野(ノ)・・領域、分野、五十音図の地。組まれた時空次元が五十音図に投影されます。

豊雲野の神・・十と四を組む領域の実体。時、イちいきみしりひにゐ(十)、空、アウエオ(四) が組まれる。空間にイがないのはイは意思の世界で実態がないため。

ここでまた主客の位置が変わります。トヨクモノは出番をクニノトコタチに譲ります、譲らずにおれません。未来形を創る組んで似せる主体行為が登場しなくてはならないからです。この逆転は天の常立の吾の眼(天)を国の常立の組んで似せて現象となるためのものです。

次いで時間意識が明かされます。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

○ 要約。別天(ことあま)つ神・・先天実在現有神。

五柱の神は別天(ことあま)つ神。

一 、天の御中主の神。感覚と共に現に有る主客同一。現在しかない。

二 、高御産巣日(たかみむすび)の神。感情の主体と共に現に有る。有ると現在になる。

三 、神産巣日(かみむすび)の神。感情の客体と共に現に有る。有ると現在になる。

(この三柱の神は、みな独神。感覚と感情はそれぞれ異なった意識の階層をなしていて、この三者があって初めて自他の進展が可能となる。)

四 、宇摩志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。記憶の客体と共に現に有る。過去から現在になる。

五、 天の常立(とこたち)の神。記憶の主体と共に現にある。過去から現在になる。

(この二柱の神は、みな独神。記憶の意識階層が加わることで意識実体の現有が現れる。)

○ 神世七代・・実働神によって立ち上げられる選択実在神(1-2)と実働神そのものの現れ(3-7)

上の件の国之常立神より下、伊耶那美神より前を、併せて神世七代と称ふ。

一 国の常立(とこたち)の神。選択の主体と共に未来に立てる。現在が未来になる。

二 豊雲野(とよくも)の神。選択の客体と共に未来に立てられる。現在が未来になる。

(この二柱の神は、みな独神。この二者は選択按配の実体として意識の媒体内にのみ実在している。)

。。。。。

父韻。時間意識(空間意識を前承した後の)。

次に成りませる神の名は、

(1) 宇比地邇(うひぢに)の神。次に

(2) 妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に

(3) 角杙(つのぐひ)の神。次に

(4) 妹活杙(いくぐひ)の神。次に

(5) 意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に

(6) 妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に

(7) 於母陀流(おもだる)の神。次に

(8) 妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。

次に

親韻。

(9) 伊耶那岐(いざなぎ)の神。次に

(10) 妹伊耶那美(み)の神。

ここからはまた別の先天意識の階層が加わります。父韻といいます。

前記の実在、有り様、に対して、働き、生き様です。

次いで、主体の成り様が次の段落、オノコロ島、にきます。

数詞の八に関する古事記神道の事柄は全てここから、ウヒヂニからアヤカシコネまでの八神、から来ています。

父韻

・あめつち・吾の眼が付いて智になるときの話です。何故どのように吾の眼が付くと智が地に成るのでしょうか。それを解き明かしたのが父韻八神です。つまり子現象の成り方を記した子事記である古事記の核心をつく部分です。

人の生命意識が発動されると人はそこに自分の片割れを見出します。腹が減ったなと思えば空腹な自分を、この人は何を言っているのかと疑問を持つ時にはそれを掻き寄せている自分を、明日からまた仕事だと気を張っている時には道徳的な選択をしている自分を、等々と立てて自己意識の子現象を創造しています。

普段は別にそんなことを意識しなくても自然と行なわれていきます。古代のスメラミコトはここに現象を起こす意識の動韻を八つ見つけました。父韻はそれ自体は姿を現しませんので、動韻といっても原因や動因とは違って形がありません。動因ではなく動韻というべきでしょう。

父韻自体が他者の何者かによって動かされます(御中主と連携)。と同時に主客が開陳され(高御産巣日、神産巣日と連携)、言霊ウ・アワ・ヲオ・エヱの四次元(世)への選択意志が働きます。ここに父韻が現れます。父韻は見えないとはいっても働く韻ですから、何らかしらの実体の上に載っかからねばなりません。それがウアオエイの五次元世界です。そこでまず出来るのが、自分の立ち位置を示す領域です。

自分の立ち位置が出来ると今度はそこから自分の領域や締まりを作り出します。まず自分のものとしての四次元(世)を見立てて、自分のものとしての父韻の働きを起こします。こうして己の心の締まりをつけます。前段では父韻が他者の何者かによって動かされましたが、ここからは自分としての父韻の働きになります。いずれにしても父韻の内容は同じです。

理解し易いようにするため父韻という働きを現すために自分の立ち位置に、この世の実体の全体を現すウアオエイの五次元世界を一本の杭か柱を立てましょう。すると今度はその柱の廻りに父韻がまといつき働く姿を現してきます。

= = == = = = = = = == = = = == = = =

直訳八父韻。

【宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ

直訳・・『宇は地に比べて近い。』

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。ヤ行。

直訳・・『須らく・ぜひともしなければならないことは智に比べて近い。』

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

直訳・・『触覚を出して杭(喰い)とする。』

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

直訳・・『行くこと、行った所を喰いとす』

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

直訳・・『大いなる(意富)量り(斗)のはたらき(能)の地。』

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

直訳・・『大いなる量り(大斗)のわきまえ(乃弁)。』

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

直訳・・『 於母 (おも)はおもて、表面。、 陀流 (だる)は足るで充足、完成すること。心の表面に言葉が完成する。 』

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

直訳・・『阿夜・ああ。感嘆するほど賢い音(ね、音声)。』

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今此処との関係

【宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ

今こことの関係・・『今ここに現在有りて有るものを有るとする動韻。言霊ウの意識。』

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。ヤ行。

今こことの関係・・『今ここに現在有りて有り続けるものを有り続けるとする動韻。言霊ウの意識。』

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

今こことの関係・・『過去にあったものを今ここに開陳する動韻。言霊オの意識。』

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

今こことの関係・・『過去にあったものを今ここで実が結ばれようとする動韻。言霊ヲの意識。』

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

今こことの関係・・『今ここにあるものを未来に鎮めようとする動韻。言霊エの意識。』

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

今こことの関係・・『今ここにあるものを未来に広めようとする動韻。言霊ヱの意識。』

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

今こことの関係・・『今ここにある全体を表面に出そうとする動韻。 言霊アの意識。』

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

今こことの関係・・『今ここにある全体を中心に煮詰めようとする動韻。言霊ワの意識。』

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今の時間の流れ。

【宇比地邇(うひぢに)の神。 言霊チ

今の時間の流れ・・『今ここに現在そのまま有りて有るとする動韻。今ここに有るか無いかを現象させる動韻。』

例。欲望欲求を持つこと。五感感覚に見入る聞き入る等。

【妹須比智邇(いもすひぢに)の神。 言霊イ。ヤ行。

今の時間の流れ・・『今ここに現在有りて有り続けるものを有り続けるとする動韻。今ここに有るものを有り続けさせる動韻。』

例。持ってしまった五感感覚。

角杙(つのぐひ)の神。言霊キ

今の時間の流れ・・『過去にあったものを今ここに開陳する動韻。過去にあったものを今ここにかき集める動韻。』

例。学問、知識。

妹活杙(いくぐひ)の神。言霊ミ

今の時間の流れ・・『過去にあったものを今ここで実が結ばれようとする動韻。過去にあったものを今ここに実が成ったとする動韻。』

意富斗能地(おほとのぢ)の神。言霊シ

今の時間の流れ・・『今ここから未来に向かい収まり鎮まる動韻。今ここに有るものを未来に収め鎮めようとする動韻。』

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。言霊リ

今の時間の流れ・・『未来に今ここを受け取らせ拡張伸張させる動韻。今ここに有るものが未来から来て流布されているようにする動韻。』

於母陀流(おもだる)の神。言霊ヒ

今の時間の流れ・・『 今ここの全体を開き表面に開花する動韻。今ここの全体から始まろうとする動韻。 』

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。言霊ニ

今の時間の流れ・・『今ここの全体を受け取り中心部に収束する動韻。今ここの全体が煮詰まろうとする動韻。』

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意訳と解説。

宇比地邇(うひぢに)の神。次に 今有るか無いかを現象させる力動韻

妹須比智邇(いもすひぢに)の神。次に 今有るか無いかの現象を持続させる力動韻

角杙(つのぐひ)の神。次に 今から過去の現象に結び付られようとする力動韻

妹活杙(いくぐひ)の神。次に 過去の現象を今に結び付けようとする力動韻

意富斗能地(おほとのぢ)の神。次に 今から未来に向いそこで収まり静まる力動韻

妹大斗乃弁(おほとのべ)の神。次に 未来に今を受け取らせ拡張伸張させる力動韻

於母陀流(おもだる)の神。次に 今全体を開き表面に開花する力動韻

妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)の神。 今全体を受けとり中心部に収束する力動韻

今現在という一点は父韻からすると八方向から見ることができ、次いで意識に昇ることと意識に昇ったことの二方向が付け加わります。人の立っているこの一点が十人十色に分かれるのは父韻のお蔭です。

一点というのは常に以下の構図の全体がまとめられたものです。

一、今現在有る

二、今現在有り続ける

三、今現在は過去からきた

四、過去からきた今現在に結び付く

五、今現在は未来へ行く

六、今現在は未来へ結び付く

七、今現在は過去現在未来が統合されている

八、統合された今現在は煮詰まる

そして。

九、意識に昇る

十、意識に昇ったものと成る

父韻はそれぞれ実体に結ばれなければ現れませんから、それぞれが言霊の性質を持った世界と結ばれます。

一、今現在有る。言霊ウ世界と結ばれる。主客同一。神名を宇比地邇(うひぢに)という。

二、今現在有り続ける。言霊ウ世界と結ばれる。主客同一。神名を妹須比智邇(いもすひぢに)という。

三、今現在は過去からきた。言霊ヲ世界と結ばれる。客体側。神名を角杙(つのぐひ)という。

四、過去からきた今現在に結び付く。言霊オ世界と結ばれる。主体側。神名を妹活杙(いくぐひ)という。

五、今現在は未来へ行く。言霊エ世界と結ばれる。主体側。神名を意富斗能地(おほとのぢ)という。

六、今現在は未来へ結び付く。言霊ヱ世界と結ばれる。客体側。神名を妹大斗乃弁(おほとのべ)という。

七、今現在は過去現在未来が統合されている。言霊ア世界と結ばれる。主体側。神名を於母陀流(おもだる)という。

八、統合された今現在は煮詰まる。言霊ワ世界と結ばれる。客体側。神名を妹阿夜訶志古泥(あやかしこね)という。

九、意識に昇る。言霊イ世界と結ばれる。主体側。神名を伊耶那岐(いざなぎ)の神という。

十、意識に昇ったものと成る。言霊㐄世界と結ばれる。客体側。神名を妹伊耶那美(み)という。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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