https://pegasushaiku.exblog.jp/28419851/ 【災害に直面して 東 國人】より
九月八日夜半に、台風十五号が、千葉県を直撃した。猛烈な暴風雨に見舞われ、家を揺さぶる風の音に恐怖を感じるほどであった。今までの人生で一番の風の強さではなかったかと思う。
一夜明けて、風がおさまり外に出て、唖然とした。庭一面に瓦が散乱し、物置の屋根の一部が吹き飛び、雨戸の戸袋も飛び、アンテナはひしゃげていた。まるで、戦場のようだった。その日から、ブルーシートや土嚢袋を求めて、歩き回り、屋根にも何度も上がった。停電は何日も続き、固定電話の光回線が復旧したのは、ほぼ一ヶ月後であった。その間、私は俳句を忘れていた。作る気力を失っていた。
しかし、髙野ムツオ氏は東日本大震災に直面し、不安と恐怖にさらされながら、「俳句を作らなければ」という気持ちが湧いていた。と『語り継ぐいのちの俳句』の中で述べている。未曾有の大震災に見舞われながらも、すぐさまこの惨状を俳句に残そうと思ったという。その精神力というか、その俳人魂には感服させられる。
触角のきらめく少女地震の夜 髙野ムツオ 地震の闇百足となりて歩むべし
春光の泥ことごとく死者の声 みちのくの今年の桜すべて供花
これらの句は、実体験が凝結したもので、そこには被災した生々しい人間の肉声がある。
そこで、ふと頭をよぎったのが、原民喜という作家のことだ。彼は『夏の花』の執筆者で、原爆作家として有名である。彼は、広島で被爆した。便所に入っている時に、原子爆弾に遭遇し、奇跡的に無傷で生き延びた。そして、あの悲惨な被爆の惨状を徹底的にリアルに、何の感情も加えず、ただ淡々と『夏の花』に描ききった。彼も生かされた者の使命として、この惨状を描かねばという、強い信念のもと、作品を書いたと言っている。避難しながら、ノートに克明にその惨状を記録していたという。何という精神力か。その彼が残した原爆俳句がある。
夏の野に幻の破片きらめけり 原民喜 炎の樹雷雨の空に舞上がる
水をのみ死にゆく少女蟬の声 梯子にゐる屍もあり雲の峰
人の肩に爪立てて死す夏の月
私もこの災害を、何かの形で詠わねばならぬ、と強く感じている。
※俳句同人誌『ペガサス』6号(2019年12月刊行)より転載
http://knt73.blog.enjoy.jp/blog/2017/09/post-f061.html 【「防災の日」の俳句鑑賞 《震災・地震・津波》】より
9月1日は「防災の日」です。
防災の対策を確認して、「震災」・「地震」・「津波」の俳句を鑑賞しましょう。
俳句に親しんでいる方はご存知のことですが、俳句では「地震」は「ない」と読むのが普通です。
経験則から、「地震」は必ず「ある」と言えるでしょう。「大地震」は一定の周期で発生しています。「ダジャレ」を言って済ませるものではありません。
冒頭の写真はチュヌの主人が撮った神戸港震災メモリアルパークの写真で、最後に掲載した写真は「1.17希望の灯り」や皇后陛下の御歌「笑み交わしやがて涙のわきいづる復興なりし街を行きつつ」の歌碑などです。
「俳誌のsalon」の歳時記から下記のとおり抜粋・掲載させて頂きます。
(震災・阪神大震災)
倒・裂・破・崩・礫の街寒雀 (友岡子郷)
震災の瓦礫の傍の坪すみれ (佐藤いづみ)
虹立てば虹に祈りぬ震災地 (山田弘子)
乾パンの缶買ひ足せり震災忌 (木下節子)
震災の仮設住宅師走の灯 (三浦澄江)
(地震1)
地震に覚め夜半の余寒の中にあり (安原葉)
寒月の記憶となりて地震の朝 (稲畑汀子)
(地震2)
石蓴生ふ地震に崩れしままの波止 (朝妻力)
(注)「石蓴」(アオサ)は岩石に着生する海藻で春の季語です。
昼顔の茂りてゐたる地震のあと (藤原浩)
(地震3)
使ひゐる春の地震のあとの箸 (本橋愛子)
すは地震かとも屋根より雪落ちて (寒河江桑弓)
(地震4)
旅立ちの戸口に地震秋暑し (神田惣介)
地震に覚め孤独のつのる秋の夜 (塩千恵子)
(津波)
大津波跡の地獄絵凍返る (山崎里美)
大津波の爪あと深し春の凍 (小林久子)
9月5日は「盆の月」です。最後にチュヌの主人の一句を掲載させて頂きます。
震災の慰霊の園や盆の月 (薫風士)
https://blog.goo.ne.jp/uchikonotemae/e/6b0aa349a3e3dee6afa2fb8824cdc0b9 【「なゐ」 地震の古語・方言】より
現在では「地震」という漢字は「じしん」と読むのが一般的ですが、さて、古語ではどうだったのでしょうか。1100年代成立の国語辞典『色葉字類抄』に「地震 陰陽部災異部 ヂシン」とあるので、少なくとも平安時代末期には「じしん」と呼ばれていたようです(『日本国語大辞典』第九巻、小学館、1974年、533頁)。ただし、鎌倉時代、1270年頃に成立した辞書『名語記』巻四には「地動をなゐとなづけたり、心如何、答、なゐは地震とかけり、にはわりの反、庭破の義なり」とあります。つまり、平安時代末期以降、「地震」という漢字がすべて「じしん」と読まれていたわけではなく、「なゐ」が地震の古語であったことがわかります。「には」「わり」が転訛して「なゐ」になったと解説しています。「庭」つまり大地が「破」れることが「なゐ(地震)」だという語源説も提示されています。この鎌倉時代の「なゐ」という言葉ですが、使われている時代はかなり古くまで遡ります。たとえば『日本書紀』推古天皇7年4月(岩崎本訓)「則ち四方に令ちて地震(ナヰ)の神を祭ら俾む」とあります。この『日本書紀』の成立は奈良時代、720年であり、漢文体ですが、岩崎本は平安時代中期、900~1000年代に筆写されたもので、漢文体に和訓が記されており、平安時代の訓を知るのに貴重な史料といえます。現在、京都国立博物館に所蔵され、国宝に指定されています。平安時代中期には「地震」を「なゐ」と読んでいたことは確かであり、『栄花物語』花山たづぬる中納言に「今年いかなるにか、大風吹き、なゐなどさへふりていとけうとましき事のみあれば」とあり、やはり「なゐ」が出てきます。この『栄花物語』の「なゐ」に対応する動詞は「ふり(ふる)」となっています。「降る」なのか「震る」なのか考えると、やはり「震る」と考えるのが適当だと思います。同様の用例は先に挙げた『日本書紀』推古天皇7年4月(岩崎本訓)に「地動(ナヰフリ)て舎屋悉に破れぬ」とあります。これらは平安時代中期から後期の訓であり、『日本書紀』成立当時の訓だったどうか検討の余地はありますが、「地震」の訓に「なゐ」以外の例が多く見られるわけではなく、「なゐ」が古くからの訓であったと推測できます。実際に『日本書紀』武烈即位前「臣の子の八符(やふ)の柴垣 下とよみ 那為が揺り来ば 破れむ柴垣」とあります。これは『書紀』の本文であり、先に挙げた岩崎本の訓のように後世に付せられた読み方ではありません。ここに「那為(なゐ)」とあり、つまり奈良時代初期以前には使われていた言葉だったことがわかります。ただしこの文では「那為(なゐ)」が「揺り」とあり、先ほどの「震(ふ)る」と同様に動詞が付いてきます。「なゐ」プラス「震る」「揺る」となると、「なゐ」そのものが地震を表す言葉ではあるのですが、原初的には地盤、大地といった意味の古語だと考える説もあります。「地」の古語が「な」であり、それに「ゐ(居)」が加わったという説です。これは『日本国語大辞典』第十五巻、129頁に紹介されています。地盤、大地を表す言葉が転じて、大地が震動すること、つまり地震の意味にもなったというのです。
さて「なゐ」は奈良時代初期以前からの地震を表す古語でありますが、日本各地の方言でも「なゐ(い)」は残っています。同じく『日本国語大辞典』第十五巻、129頁にはその方言が伝えられている場所が列挙されています。「ない」の方言は、仙台、常陸鹿島、上総・安房、甲斐、山梨県北巨摩郡、富山県射水郡、島根県鹿足郡蔵木、広島県高田郡、山口県柳井、徳島県祖谷、愛媛県上浮穴久万、土佐幡多郡、熊本県、宮崎県西臼杵郡椎葉、鹿児島県喜界島、沖縄県宮古島が挙げられており、「ない」が訛った方言「なえ」は、盛岡、仙台、秋田県、京都、山口県、肥後菊池郡、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、種子島が挙げられています。また「なや」は広島県御調郡重井、高知県、熊本県宇土郡、大分県東国東郡、そして「ねえ」が沖縄県に見られると紹介されています。以上、地震を意味する方言「ない」、「なえ」、「なや」、「ねえ」の分布を見てみると、東北地方や中四国、九州には多く見られますが、関東地方、東海地方、近畿地方に極端に少ない傾向が見られます。京都に「なえ」の事例があるのが例外ではありますが、大まかな傾向として、日本列島の中央部には少なく、東北地方や中四国、九州に多いという、方言周圏論があてはまりそうな事例だといえます。「ない」が奈良時代以前からの古語であるため、その分布傾向に周圏性が見られるのも不思議ではないと思います。
このように、地震の古語「なゐ」について調べてみると、現代の方言の地域差も見えてきて興味深いのですが、地震の歴史を追求する場合には「地震」という漢字と「なゐ」という訓があることや、「なゐ」についてもそれが地震を表しているのか、それとも単に地盤、大地を指しているのか、意味の取り方によって解釈が変わってくる可能性があります。歴史地震を調べるために古い史料を読み込む際には、誤った解釈をしないよう、念入りな検証が必要になってくると強く感じさせられます。
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