平山郁夫が描いた世界

https://hirayama-museum.or.jp/hirayama/world.html 【平山郁夫が描いた世界】より抜粋

平山郁夫が描く作品は、時代とともに変化してきました。

作品のテーマの変遷とそこに込められた意味や背景をご説明いたします。

瀬戸内の風景と人びと1959年頃まで

平山郁夫は中学3年生のときに広島市内で原爆投下を体験しました。広島の惨状を目の当たりにし九死に一生を得た平山は、平和の祈りを込めて絵を描きたいと思うようになります。東京美術学校(現・東京藝術大学)での卒業制作のテーマを考えるときに、知人は「君は被爆体験をテーマにすればいいのではないか」と言いましたが、当時のことを思うだけで悪夢にさいなまれる日々でした。そのときに思い起こすのが、被爆後にお世話になっていた清水南山(しみず・なんざん)という伯父の言葉でした。東京美術学校の工芸の教授であった清水南山は、「芸術とは美しいものを表現すること」と常に平山に伝えていました。仏教では、蓮の花は泥水に咲くと言われます。争いごとが多い世の中でも、染まらずに清く生きることの例えです。平山の作品には、平和の祈りが通奏低音のように流れています。

東京藝術大学大学美術館蔵

卒業制作は三人の姉妹を主題にした。卒業制作のテーマを田舎の姉妹にしたのは、自分なりの考えがあった。清水の大伯父は自然に学べと言っていたが、それは美しい感動を造形化するということにほかならない。

ところが、自分にとって美しいことというと、春風駘蕩とした瀬戸内海の思い出しかないのだ。島を出てから眼にしたのは広島の惨状であり、焼け野原になった都会の荒涼とした風景である。素直に描けるのはやはり、赤銅色に焼けた漁師のおじさんや農家のおばさんの明るい表情、静かな島のたたずまい、潮の香りだった。(平山郁夫)

平山郁夫美術館蔵

子供の頃遊んだ町角や路地が、瀬戸田町のいたる処にあったが、少しずつ町の様子が変わっている。

広いと思った道路や路地も、成人すると狭く、細い。路地の板塀に魚の生簀やざるがポツンとあったのを思い出す。路地の突き当たりに海が見え、海がいつも私を呼んでいた。(平山郁夫)

できるだけ平面的に、細かいところを省略して、色彩も単純に描こうとした習作である。

睦荘アパート時代に、近所の部屋に住む少女をスケッチしたが、絵の少女は45、6年経ても、永久に10歳の顔で思い出される。(平山郁夫)

瀬戸内海を木造機帆船が、焼玉エンジンを響かせて航行する光景は、子供心に格好が良く見えた。きりっとした船の線が颯爽としていた。陸に上がっても、海に浮かんでも子供たちの夢を運んでいた。(平山郁夫)

瀬戸田町北町海岸にずらりと繋留された木造漁船は、波に揺られ船体を左右に微妙に振りながら、美しい波紋の影を見せていた。

漁船の並びが大きなリズムを作り、独特の詩情と美しさを見せてくれた。(平山郁夫)

仏教の教えと道1959年から1979年頃まで

東京美術学校を卒業し、東京藝術大学の前田青邨教室の副手となった平山郁夫は、東北地方への取材旅行に学生を引率しますが、道中で凄まじい吐き気とめまいに襲われます。医者からは、通常の半分しか白血球がなく原爆症だと言われたのでした。画家としての道を歩み始めたところなのに、このまま死んでいくわけにはいかない。一点でよい、自分の気持ちを注ぎ込んだ作品を描きたいと三蔵法師・玄奘を描いた作品が《仏教伝来》であり、平山はここから画家としてのスタートを切ることになります。

広島で被爆した私は、放射能症で苦しんだ。平和を祈る作品を一枚でも描きたい願いが「仏教伝来」を描いた。17年にわたる、インドへの求法の旅に出た唐僧、玄奘三蔵の生命(いのち)がけの姿を、私の画家としての出発点とした。(平山郁夫)

入寂の釈迦を悲しんでいる。弟子たちが悲しみに沈んでいる。悲しみを抑え、静寂な中を鳥たちは驚き飛び交っている。

クリスチャンの岳父の死に際し、涅槃を幻想的に描いた。(平山郁夫)

キリスト教の聖母マリアの受胎の象徴は鳩である。仏教の摩耶夫人は、象が受胎の表徴となっている。

濃群青の空間に、象を配し、地上に摩耶夫人を描き、文学的に発想した。(平山郁夫)

天竺への道を、玄奘や法顕のように多くの求法僧が目指した。求法僧の中には、道に迷ったり、病に倒れたり、あるいは盗賊に襲われたり、多くの旅人と同様に、途中で倒れ、目的を成就できなかった人も多い。

この図は、求法を終えて、中国へ東に向って帰る砂漠を行く集団の僧たちであるが、天竺への求法の旅を果たした僧たちがたどったその姿を象徴的に描いたものである。(平山郁夫)

昭和52年に、恩師である前田青邨先生が逝去された。鎌倉に長く住まわれ制作をした青邨先生は、円覚寺の朝比奈館長と親交があった。円覚寺境内に佇む青邨先生を来迎する図を描いた。(平山郁夫)

シルクロード1966年頃から

仏教の世界を描く中で、平山郁夫は仏教及び日本文化の源流であるシルクロードへの憧れを強く持つようになりました。また、《仏教伝来》で描いた三蔵法師・玄奘のインドへの旅の追体験を願うようになります。

平山は、1966年に東京藝術大学の学術調査団の一員としてトルコ・カッパドキア地方の洞窟修道院の壁画模写事業に参加します。これが平山のシルクロード人生の始まりでした。

シルクロードは古代の商品が行き交った道。運ばれたのは物質だけではなく、思想や人の心、宗教や文化が、ラクダの背に積まれた品物と一緒に伝わりました。

戦争が始まるとこうした交易は途絶えてしまいます。平和だからこそ人びとが行き交うことができるのです。平山にとってラクダのキャラバンは平和のシンボルでもあります。

アフガニスタンのバーミアンの遺跡も、玄奘三蔵ゆかりの地である。断崖に石窟の僧院が作られ、正面に向かって右側に38メートル、左側に55メートルの大仏が大きな龕の中に立っている(当時)。

バーミアンの日没も素晴らしい。岩壁は逆光になって黒い塊となる。連山は赤く日に染まり、かすんでいく。谷間のポプラや緑の原が、静かに闇の帳に閉ざされていく。海抜2600メートルのバーミアンの夜は、空気が澄み、満天の星が降るように瞬いている。(平山郁夫)

古代のシルクロードの華やかなりしころを想い、大勢の人々を描いた。アフガニスタン、ウズベキスタン、カザフスタンやアラビアを旅行し、熱気に溢れる市場の集まりを描いた。この光景は、今も変わらない。(平山郁夫)

アレッポ(シリア)は中東の物資の集散地として知られている。ここのバザールは国際的に名高い。家畜市場を訪れた。各地から集まってきた人々は羊や山羊や牛を連れている。多い時は一万頭以上集まるという。アラブ風の布を頭にかぶり、黒や焦げ茶色のだぶついたコートをまとった大群衆と数千頭の家畜の群れは壮観である。その中に背広姿の仲買商人が行く。制服姿の警官もいる。なかには拳銃を腰にしている人もいる。商談がこじれて撃ち合いになることもあるという。全財産をかけた商談だけに殺気立つこともあるのだろう。騒音と熱気が立ち込めている。人や動物などの体臭が入り混じり、それに加えて、羊の料理からも強い特有の臭気が漂う。「群畜穹閭」は、このような雰囲気を再現しようとした作品である。(平山郁夫)

絲綢之路天空

西域の砂漠を行くラクダ隊である。背景は天山山脈の支脈である火焔山の一端である。古代には、キャラバンで文化や物資が運ばれ、東西を往来した。キャラバン(隊商)は、一隊が本格的な単位は五百頭と云われる。(平山郁夫)

アジア大陸とヨーロッパ大陸の接点にあるイスタンブールは、まさにシルクロード文明の十字路である。東ローマ帝国のキリスト教寺院を、オスマン帝国が征服しイスラム教寺院に改造した寺もあり、歴史を感じさせる。

月光に映えるブルーモスクはシルクロードの夢を伝える。(平山郁夫)

絲綢の路、シルクロードは、言葉の持つ美しい響きとは異なり、厳しい道である。

中国からウズベキスタンやアフガニスタン、パキスタンへと国境を越えて行くあたりは4千メートル級の山々が連なる。酸素が薄く、息をふうふうしながら歩いた。だがそのぶん歩き終えた気持ちは清々しく、それなりの達成感も得られる。薬師寺の《大唐西域壁画》を描き終えた私は、程度こそあれ、そのような気持ちだった。荒涼とした岩山を行くラクダのキャラバンに、薬師寺以後、さらに大きな目標を定め、歩もうとする自分の決意を重ねあわせて描いた。やり終えた達成感と、新たな目標に向かって歩き始めるという清新な気持ちの両方を込めたのだ。(平山郁夫)

「過酷な自然環境に耐えながら、生活を切り開いてきた大陸の文化とは違い、日本人は古代から自然と調和するように生きてきました。自然の借景を活かし、建物と風景が一体となるような日本人の造形感覚は、西洋の幾何学的な見方とは明らかに異なったものです。シルクロードの乾燥した砂漠地帯を旅して帰ってくると、私は無性に日本の潤沢な緑が描きたくなります。」

平山郁夫は、人びとの交流の積み重ねである道や歴史文化遺産を好んで描きました。

天かける白い橋瀬戸内しまなみ海道

聖武天皇は752年東大寺の大仏殿を建立、開眼の大供養が行われた。

大勢の僧侶が集まり、法要が盛大に行われた。その宝物の一部が正倉院に伝えられている。伎楽面を付けて踊った様子が記録されているが、想像して描いた。(平山郁夫)

人が移動し、物が動くところに道が生まれる。経済的、政治的な理由で開かれた道を宗教者が通り、歌人がたどって文化が伝わる。古い道は日本の歴史、土地の性格を教えてくれる。

熊野路は、信仰の道ともいえよう。(平山郁夫)

朝陽を浴びた朱塗りの神殿が、満潮となった厳島神社を海面に浮かび上がらせている。

光輝く太陽に、朱の柱や欄干が海面に朱色をきらきらと映している。人工と自然の絶妙の美しさの一瞬である。(平山郁夫)

昭和24年、1949年に学校の授業の一環で奈良を訪ねた。生まれて初めてのことで、奈良の地を踏んだ瞬間、私はそこに古代の美がしっかりと生き続けていることを感じとった。法隆寺や薬師寺が目の前にあることが奇跡であるようにも思った。私の目指す日本画は、この古代の美に通じるものであり、朝鮮・中国を通じて遠く西方の文明とも深く結びついている。そのことに私は強い励ましを受けるのを感じた。

平成12年、2000年の作品、「天かける白い橋 瀬戸内しまなみ海道」に描いた橋は、しまなみ海道の中で最後に完成した来島海峡大橋である。来島海峡の潮流は速く、瀬戸内海の難所として知られる。世界最長の吊橋と言われる来島海峡大橋の完成で、今、私達は鳥のように難なく海をわたることができるようになった。流れの速い海峡の上に懸かる、白くて長い橋。まさに、古代からの人々の夢を乗せ、長く待たれた希望の橋である。(平山郁夫)

時移り、人変われど、日本の文化を育んだこの町は、私たちにとって永遠の都であると思う。世界が認めた「文化」としての京の町は日本民族が永い年月をかけて造りあげた芸術作品といえよう。私たちはこの町を誇りをもって次の世代に無事伝えなければならない。

私は京の町に限りない感謝と愛を込めて筆を執った。自分の生きた時代の京都を自分の手で描き残す。私はこのたびの作品を総称して「平成洛中洛外図」とした。(平山郁夫)

文化財赤十字~平和の祈り1979年頃から

平山郁夫は、日本文化の源流をたどる取材を続けるなか、散逸や崩壊の危機に瀕する文化財を目の当たりにします。早急な保護・救済活動の必要性を痛切に感じた平山は、戦場で傷ついた人を敵・味方の区別なく救う赤十字社の理念に倣い、文化財にも同様な保護・救済を行う運動を提唱し実践しました。

中国、アフガニスタン、カンボジアをはじめ世界各国で保護活動を実施し、現在も活動は受け継がれ、国際的な広がりを見せています。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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