https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=2&r=6 【勝道上人】より
勝道上人(しょうどうしょうにん)とはどのような人物か
下野(しもつけ)に生まれ下野に骨を埋めた勝道上人は、日本における山岳仏教(さんがくぶっきょう)の先がけであったといわれ、日光1200年の信仰と文化の原点を築いた僧です。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=2&r=7 【勝道上人の略年表】より
天平(てんぴょう)7年
(735年) 芳賀郡(はがぐん)高岡(たかおか)〔現在の真岡市(もおかし)〕の下野国府(しもつけこくふ)の役人の家に生まれます。
天平宝字(てんぴょうほうじ)
5年(761年) 僧になる勉強をするため、下野薬師寺(しもつけやくしじ)に入ります。
天平神護(てんぴょうじんご)
2年(766年) 二荒山(ふたらさん)を開く根拠地として四本竜寺(しほんりゅうじ)を建てます。
延暦(えんりゃく)元年
(782年) 3度目の試みで男体山(なんたいさん)(二荒山)の頂上をきわめることができました。
延暦3年
(784年) 現在の中禅寺湖畔(ちゅうぜんじこはん)に神宮寺(じんぐうじ)(現在の中禅寺)を開きます。
弘仁(こうにん)7年
(816年) 三社権現(さんしゃごんげん)の社(やしろ)を建立(こんりゅう)します。
弘仁8年
(817年) 82歳で死亡します。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=2&r=8 【勝道上人は、どのようにして僧になったのか】より
下野の生んだ名僧、勝道上人は天平(てんぴょう)7年(735年)、現在の真岡市(もおかし)南高岡(みなみたかおか)で生まれたと伝えられています。
父は下野国府(しもつけこくふ)の役人、若田高藤(わかたたかふじ)で、母は国府に神主としてつとめていた吉田主典(よしださかん)の娘、明寿(みょうじゅ)と言われています。
母の実家で誕生した上人は、幼名を藤糸丸(ふじいとまる)といいました。
この誕生の地にはのちに仏生寺(ぶっしょうじ)が建てられました。
仏生寺は、八溝山地(やみぞさんち)の西斜面にあたる錫杖ヶ峰(しゃくじょうがみね)のふもとにあり、山門の両脇には、樹齢約700年の大ケヤキがそびえています。
勝道上人は、幼い頃から神童と呼ばれ、若い頃には、栃木市(とちぎし)北西の出流山(いずるさん)の岩くつに入り、3年間、仏の道を修行しました。
その後、さらに3年間、山深くわけいって苦行を重ねた後、下野薬師寺(しもつけやくしじ)に行き、鑑真和上(がんじんわじょう)の弟子に仏教の教えを受け、僧の資格をさずかりました。
https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=2&r=9 【勝道上人は、どのようにして日光を開山したのか】より
31歳になった上人は、下野薬師寺(しもつけやくしじ)を出て、大剣ヶ峰(だいけんがみね)〔横根山(よこねやま)〕に登り、そこでの1年間の修行の後、北方にそびえる男体山(なんたいさん)をめざし、精進岳(しょうじんだけ)にたどりつきました。
下山して大谷川(だいやがわ)を渡り、対岸の二荒山(ふたらさん)ろく〔現在の日光山(にっこうさん)内〕に行こうとしましたが、谷深く流れの激しいこの川を渡ることができませんでした。
このとき、神仏に祈り、神の助けで川を渡ったという伝説があります。その伝説の橋が山菅橋(やますげばし)で、今の神橋(しんきょう)です。
大谷川を渡った上人は、そこに、四本竜寺(しほんりゅうじ)を建てました。
その寺が、日光山で最も古い寺で輪王寺(りんのうじ)の起こりであると言われています。
その後、上人は山の霊の力を身に付け、自分の信仰を完全なものにしようと考え、僧としてだれも登ったことのない男体山の登頂をめざしましたが、原始林にはばまれ、失敗に終わりました。
782年の春、上人は、3度目の登頂をめざしました。
神々に祈り、決死の覚悟で山頂をめざした上人は、とうとう男体山の頂上に登りつくことができたと伝えられています。
上人は、その後、中禅寺湖(ちゅうぜんじこ)のほとりに、神宮寺(じんぐうじ)を建てて、自作の「立木観音(たちきかんのん)」を本尊(ほんぞん)にまつったり、二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)を建てたりしました。
今日の日光の基礎をつくった勝道上人は、弘仁(こうにん)8年(817年)に82歳で亡くなったと伝えられていますが、今でも日光開山の祖として、人々に尊ばれています。
https://www.rinnoji.or.jp/activity/2215-2/ 【日光山と勝道上人】より
輪王寺 総務部長 鈴 木 常 元
「日光山は今を去ること1250余年前、勝道上人(しょうどうしょうにん)によって開山された」と、伝えられている
上人については様々な研究がなされているが、なにしろ奈良~平安時代の人である。有力な資料が少なく、「実在しなかった」という説まである。
では、もし上人が実在しなかったとしたら、日光山は現在のような聖地であっただろうか?
上人の存在の虚実に係わらず、日光山は今、聖地として、ここに、ある。日光の山は、間違いなく何者(たち)かの手によって開かれたのだ。いつか、どこかの誰かによって開かれることになっていたのだ。
日光山には、聖なる山々に抱かれるように、『日光の社寺』として世界遺産に登録されている多くの堂塔社殿が、今も、在(あ)る。しかし、より重要なことは、旧跡が残っているということではなく、今も日光山には、信仰の地として、祈りと修行の場として、遙か昔の人たちの思いが消えることなく生きているということ、息づいているということ、血が通っているということである。それは、古(いにしえ)の人たちの思いが生きているということである。
時の流れは無始無終。勝道上人以前の遙か遙か昔より、日光の山々には神仏が御座(おわ)した。人々はそれを知っていた。それに気づいていた。だから、いつの時代であったとしても、どこからか誰かが日光山にやって来て、補陀洛山(男体山)の頂を目指したはずなのである。数多(あまた)の人々が、幾度拒まれたとしても、必ず次の誰かが、次の「勝道上人」が現れる。そして、「勝道上人」は山を開く。更にその思いは、民衆の信仰の底力によって後世に伝えられる。それは次代へ次代へと受け継がれて行く。
私たちは、日光山を開いた人(たち)のことを、畏敬の念を込めて「勝道上人(しょうどうしょうにん)」と呼ぶ。勝道上人は、誰の中にも、いる。今の時代であれば、名も無いあなたの中にも、名も無い私の中にも、勝道上人は、いる。勝道上人は、間違いなく、存在する。間違いなく、存在した。
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勝道上人は、日光山を開山するまでに、山から山へと何年も歩き修業していました。会沢の小曽戸(おそど)村あたりに来て、金剛童子(こんごうどうじ)を祀ったり、瀧尾権現(たきのおごんげん)を祀ったり、井戸を掘ったりして、修業したこともあったそうです。そして、ここから出流山に行って修業したとのことです。
後世になって、井戸の南の平らなところを田んぼにするために掘り返したら、火を焚いて修業した跡が出てきたこともあったそうです。
勝道上人が小曽戸村あたりで修業してから何十年か経った頃のこと、ひとりの坊様がこの地を通りかかった時のことです。坊様は、ずいぶん歩いて喉がかわいたので、田中坪と西山坪で飲み水をもらった時のことです。
とてもまずくてまったく飲むことが出来ませんでした。しかたなく、歩きつづけ、杉野坪あたりまで来て、ある家に立ち寄り、水をいただきたいとお願いしました。
その家には、井戸がありませんでした。けれども、疲れた様子の坊様に水を飲ませてやりたいと、勝道上人の掘った井戸まで急いで汲みに行き坊様に飲ませました。
坊様は、水をうまそうに飲みました。そして、「うまい水じゃ。しかし、少し時間がかかったようだが、どこの水じゃの」とたずねたので、家には井戸が無いので、いつももらい水をしていることを話しました。
すると坊様は、「遠くまで行ってくれて持ってきてくれた水のお礼じゃ。水を出してあげましょう」と、坊様は持っていた杖(つえ)でドーンと地面をつつきました。すると不思議、水がこんこんと湧き出してきたのです。こうして、この家のまわりの家では、水に困ることが無くなったということです。
この坊様は、弘法大師だったと言い伝えられています。
※勝道上人は、下野が生んだ名僧で、日光開山の祖と云われている。芳賀郡高岡(真岡市)下野国府の役人の家に生まれ、出流山などで修業。後、下野薬師寺で得度し勝道と号した。五年間修業の後、二荒山山頂を目指して日光に入った。七六六年、四本龍寺を建て、日光山を開いた。勝道上人の井戸は、小さくなったが今も残っているとのこと。
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