西東三鬼『神戸・続神戸』

https://hisamoto-kizo.com/blog/?p=9576 【西東三鬼『神戸・続神戸』】より

歯科医で俳人、異色の作家、西東三鬼(1900 – 1962)の連作短編小説です。

昭和17年冬、「私」は単身東京から脱走し、夕方、神戸の坂道を歩いていました。

「バーで働いていそうな女」が歩いていて、「私は猟犬のように彼女を尾行」します。

そして、そのままバーに入り、1時間後にはその女からアパートを兼ねたホテルを教わるのです。それは、トーアロードの中途にある「奇妙なホテル」でした。

このホテルを舞台に、不思議なドラマが1話ずつ展開されます。

長期滞在客は、「白系ロシア女一人、トルコタタール夫婦一組、エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人」。

日本人は「私」のほかに中年の病院長一人、あとの10人はバーの女たちです。

まさに「戦時とも思えない神戸の、コスモポリタンが沈殿しているホテル」です。

ホテルの裏には銭湯があり、2,30人の客のうち日本人は、2,3人。

「脂肪太りの中国人、台湾人・・・コサック人。彼等のそれぞれ異る国語が、狭い銭湯にワーンと反響」します。

港にはドイツの巡洋艦と潜水艦が、脱出の航路をアメリカの潜水艦に監視されて出るに出られず、水兵たちはホテルの女目当てに坂道を登って来るのでした。

独特の文体で語られる物語は、奇想天外で、ハチャメチャで、悲しいのですが、戦時下、死と隣り合わせにある日常がそうさせるのでしょうか、どこか吹っ切れているのです。

空襲でホテルも焼けてしまい、「神戸」に登場する人物の大方は死んでしまいます。

一方、「私」は、「空襲をみすみすこのホテルで待つ気はな」く、明治初年に建てられた異人館に引っ越します。

そして、米軍占領下の戦後が「続神戸」で語られることになります。

https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a140/【西東 三鬼 さいとう さんき】より

西東 三鬼  明治33~昭和37 ジャンル: 俳人 出身:岡山県

PROFILE

兵庫県神戸市に居住。兵庫県ゆかりの作品に「神戸」「続神戸」「俳愚伝」がある。 明治33年(1900)岡山県津山生まれ。津山尋常小学校、津山中学校、青山学院中学部を経て大正10年(1921)日本歯科医学専門学校に入学。大正14年(1925)卒業後、シンガポールで歯科医院を開業するが、不況と大患のため昭和3年(1928)に帰国し、昭和8年(1933)共立病院歯科部長に就任する。患者のすすめで俳句に接し、本格的に俳句を作り始め、おりからの新興俳句の気運に乗ってユニークな作品を続々と発表する。昭和10年(1935)、懇請されて「京大俳句」に加入。昭和12年(1937)には「傘火」の選者となり、新しい俳句会のリーダー的存在となった。昭和15年(1940)、新興俳句運動の総合誌ともいわれる「天香」が創刊され、三鬼もこれに加盟した。しかし警察の監視が厳しくなり、三鬼も検挙されて起訴猶予処分を受けた。東京に絶望した三鬼は、昭和17年(1942)神戸の山本通三丁目に移り住んだ。戦時下の弾圧のため俳句から離れた生活を送るが、戦後は再び活動を開始。昭和22年(1947)現代俳句協会を設立。山口誓子、秋本不死男らと「天狼」を創刊した。昭和31年(1956)には角川書店の「俳句」編集長に就任する。翌32年退社し、俳句一筋の生活を送った。その後も旺盛な句作を続けたが、胃がんのため、昭和37年4月に逝去した。

《 略年譜 》

年 年齢 事項

1900 0 5月15日、岡山県苫田郡津山町に父敬止、母登勢の四男として生まれる。

1908 8 4月、津山男子尋常高等小学校尋常科に入学。

1914 14 心身ともに虚弱だったため、中学校受験を断念。4月、津山男子尋常高等小学校高等科に入学。

1915 15 健康を回復し、4月、津山中学校を受験。2番の成績で合格する。文学書を濫読。

1918 18 母登勢、スペイン風邪がもとで死去し、三鬼は東京の兄のもとに引き取られる。青山学院中学部に編入。

1920 20 青山学院中学部卒業。同高等部に進学。9月に同校を中退。

1921 21 4月、日本歯科医学専門学校入学。乗馬部に入部。

1925 25 3月、日本歯科医学専門学校卒業。上原重子と結婚。歯科医を開業するべく妻を伴いシンガポールに渡る。昼はゴルフ、夜は友人と交遊という生活を送り、歯科医院は開店休業状態だった。日本から古典文学書を取り寄せて読み耽る。

1928 28 チフスに罹り、歯科医院を廃業。借金の整理を兄に任せて帰国する。

1933 33 東京神田の共立病院歯科部長となる。患者に勧められて俳句を始める。筆名に「西東三鬼」を用いる。

1934 34 1月「走馬灯」同人となる。この年の夏、「馬酔木」句会に出席し、水原秋桜子、石田波郷を知る。句作に没頭。

1935 35 1月、「旗艦」が創刊され、同人となる。4月、「京大俳句」同人となる。

1938 38 歯科医を廃業して合資会社「紀屋」に入社。2月、胸部疾患に腰部カリエスを併発し、一時危篤状態になる。

1939 39 4月、俳句総合誌「天香」の発刊を企画し、創刊準備に入る。

1940 40 2月、「京大俳句」が京都府警察部に検挙され、「京大俳句」終刊。3月、第一句集『旗』刊行。4月「天香」創刊。8月、特高警察に検挙され,京都松原署に連行され、起訴猶予処分を受け帰京。

1942 42 合資会社「紀屋」を退社。「南方商会」を設立。12月、一人で東京を出て神戸の海員宿泊所、後にトーア・アパート・ホテル(神戸市中央区中山手通二丁目)に居住。二度と妻子のもとには帰らなかった。

1943 43 のちに「三鬼館」と呼ばれる神戸市生田区山本通四丁目の西洋館に移り住む。

1946 46 山口誓子の句集『激浪』の原稿を見て感激し、山口誓子中心の同人雑誌計画を練る。

1947 47 現代俳句協会を石田波郷,神田秀夫とともに設立する。

1948 48 1月、「天狼」(同人誌「青天」改題)を創刊。山口誓子の主宰同人誌となり、同人として参加。2月、兵庫県加古郡別府町(現:加古川市)に移住。第二句集『冬の桃』刊行。12月、大阪府寝屋川に転居。

1951 51 10月、第三句集『今日』刊行。

1952 52 6月、「断崖」創刊。主宰となる.

1956 56 9月、大阪府寝屋川から神奈川県葉山に転居。10月、角川書店に入社。「俳句」の編集長となる。

1957 57 「俳句」編集長を辞任し、角川書店を退社。

1960 60 6月11日、還暦祝賀会が催される。

1961 61 12月、俳人協会設立に参加。

1962 62 現代俳句協会退会。第四句集「変身」刊行。健康すぐれず、4月1日に死去。没後、第二回俳人協会賞が贈られた。

https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/book/b2457/ 【神戸・続神戸・俳愚伝】より

作品名 神戸・続神戸・俳愚伝  刊行年 1975 版元 出帆社

概要

第一話    奇妙なエジプト人の話

昭和十七年の冬、私は単身、東京の何もかもから脱走した。そしてある日の夕方、神戸の坂道を下りていた。街の背後の山へ吹き上げて来る海風は寒かったが、私は私自身の東京の歴史から解放されたことで、胸ふくらむ思いであった。その晩のうちに是非、手頃なアパートを探さねばならない。東京の経験では、バーに行けば必ずアパート住いの女がいる筈である。私は外套の襟を立てて、ゆっくり坂を下りて行った。その前を、どこの横町から出て来たのか、バーに働いていそうな女が寒そうに急いでいた。私は猟犬のように彼女を尾行した。彼女は果して三宮駅の近くのバーへはいったので、私もそのままバーへはいって行った。そして一時間の後には、アパートを兼ねたホテルを、その女から教わったのである。

それは奇妙なホテルであった。

神戸の中央、山から海へ一直線に下りるトーアロード(その頃の外国語排斥から東亜道路と呼ばれていた)の中途に、芝居の建物のように朱色に塗られたそのホテルがあった。

私はその後、空襲が始まるまで、そのホテルの長期滞在客であったが、同宿の人々も、根が生えたようにそのホテルに居据わっていた。彼、あるいは彼女等の国籍は、日本が十二人、白系ロシヤ女一人、トルコタタール夫婦一組、エジプト男一人、台湾男一人、朝鮮女一人であった。十二人の日本人の中、男は私の他に中年の病院長が一人で、あとの十人はバーのマダムか、そこに働いている女であった。彼女等は、停泊中の、ドイツの潜水艦や貨物船の乗組員が持ち込んで来る、缶詰や黒パンを食って生きていた。しかし、そのホテルに下宿している女連は、ホテルの自分の部屋に男を連れ込む事は絶対にしなかった。そういう事は「だらしがない」といわれ、仲間の軽蔑を買うからである。

その頃の私は商人であった。しかし、同宿の人達は、外人までが(ドイツの水兵達も)私を「センセイ」と呼んでいた。(何故、彼等がそういう言葉で私を呼ぶようになったかについては、この物語の第何話かで明らかになる。)

彼女達は「センセイ」の部屋へ、種々雑多な身辺の問題を持ち込んで来たし、県庁の外事課に睨まれている外人達は、戦時の微妙な身分上の問題を持ち込んで来た。

私の商売は軍需会社に雑貨を納入するのであったが、極端な物資の不足から、商売はひどく閑散で、私はいつも貧乏していた。私は一日の大半を、トーアロードに面した、二階の部屋の窓に頬杖をついて、通行人を眺めて暮すのであった。

その窓の下には、三日に一度位、不思議な狂人が現われた。見たところ長身の普通のルンペンだが、彼は気に入りの場所に来ると、寒風が吹きまくっている時でも、身の廻りの物を全部脱ぎ捨て、六尺褌一本の姿となって腕を組み、天を仰いで棒立ちとなり、左の踵を軸にして、そのままの位置で小刻みに身体を廻転し始める。生きた独楽のように、グルグルグルグルと彼は廻転する。天を仰いだ彼の眼と、窓から見下ろす私の眼が合うと、彼は「今日は」と挨拶した。

私は彼に、何故そのようにグルグル廻転するかと訊いてみた。「こうすると乱れた心が静まるのです」と彼の答は大変物静かであった。寒くはないかと訊くと「熱いからだを冷ますのです」という。つまり彼は、私達もそうしたい事を唯一人実行しているのであった。彼は時々「あんたもここへ下りて来てやってみませんか」と礼儀正しく勧誘してくれたが、私はあいかわらず、窓に頬杖をついたままであった。

彼が二十分位も回転運動を試みて、静かに襤褸をまとって立ち去った後は、ヨハネの去った荒野の趣であった。それから二年後には、彼の気に入りの場所に、天から無数の火の玉が降り、数万の市民が裸にされて、キリキリ舞をしたのである。

下宿人のエジプト人マジット・エルバ氏は私の親友となった。彼は当時日本に在留する唯二人のエジプト人の一人であった。いわゆる敵性国人であったが、引き揚げなかった他の英米仏人達と同様に、旅行は許されなかったが、神戸市内では一応自由であった。彼はこの奇妙なホテルでの、最も奇妙な人物であった。商売は肉屋で、山の手の通りに清潔な店を持っていたが、もう商品はカラッポであった。彼はその店に独り住む事を好まず、わざわざホテルに滞在していた。年は幾つなのか、さっぱり見当がつかないが、多分四十歳そこそこであったろう。小麦色の彫りの深い顔には、いつも髪の剃り跡が青々としていた。恐ろしく胸の厚い男で、まるで桶の胴のようであった。こういう放浪者に似ず、英語も日本語も下手糞であった。日本滞留十年で、ヨーロッパ、アメリカ、南米と流浪の末、日本神戸に根の生えたエジプト種の強い蘆である。私は青春時代を、赤道直下の英領植民地で暮したので、彼のコスモポリタン気質はよく判った。彼のお国自慢は、名前のエルバに由来し、彼の説に従えば、彼は正しくナポレオンの追放された島の出生だというのである。彼は何度もこの話をしたが、その時の彼はナポレオンの落胤のような顔をした。

『神戸・続神戸・俳愚伝』(講談社文芸文庫) 9?12P

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第二話   三人の娘さん達

神戸という街は、戦争中、流言のルツボであった。つまり、スパイの巣であった。県庁の外事課は、そのためやっきになっていたが、いわゆる敵性国、盟邦の、両方の人間が、日本の敗色濃い情報を流す。いくら官設ラジオが勝った勝ったと放送しても、ドイツやイタリーの軍艦や潜水艦が、外海に出航する路を完全に封じられていることは、水兵達が、いつまでも神戸にノソノソしている事実からみて、神戸の市民は皆知っていた。

そして、驚くべきことに流言、デマとして耳に入った情報が、大抵は真実であることが、次々にわかり、しかも、デマと思った情報の方が、控え目であった。

現に、私の親戚の、精神病院を経営していた医者は、米と砂糖を貰いに行く私に、声もひそめず、紀淡海峡には、アメリカの潜水艦が、一昼夜交替で見張っていることを告げた。昭和十九年のことである。そして、それは事実であることを、ドイツ潜水艦の士官からも聞いた。

私はすでに底をついた物資を、探し出して会社に納入するため、東京と神戸とを往復していた。超満員のデッキのステップに、数時間ぶらさがったこともある。

昭和十九年の夏のある日、和田辺水楼(前篇第八話に登場の「京大俳句」会員)が、山本通の私の家へ、綺麗な娘さんを連れて来て、私に預かってくれという。事情を聞くと、姫路駅の助役の娘だが、徴用免れのために、大阪鉄道局に勤めている。毎日、殺人列車で大阪まで通勤は大変だから、君の家は、ガンガラガンと空室だらけだし、丁度よろしい。預かって、ついでに大切にしてくれ――という。

高峰秀子によく似た娘さんが、荒涼としたわが家の家族になることに、私は勿論異存はないが、同棲者の波子は、神戸で私と邂逅するまでは、横浜から引きつづいて娼婦だったから、他のあらゆる女性に対しては、一様に反感を持っている。とても承諾はすまい、と思っていたら、キヨ子という、その娘さんは、大変頭がスマートで辺水楼と私の対談の間に、わけなく波子の好感を獲得してしまった。

キヨ子が寄宿するまでの、波子と私の生活は、索漠たるものであった。私には何の目的もなく、波子には、扶養せねばならぬ母と弟が、横浜にいた。少女時代から、働いて金を得た経験のある波子には、私との、神戸の生活の意味が、のみ込めなかった。「情にひかされないように」というのが、彼女の毎日の、ひそかなお題目であった。そのお題目の効果が、日ごとに薄れてゆくのを、彼女はいまいましがり、相手の私を憎んだ。

長い長い、暗い暗い夜であった。

キヨ子は、そういう生活を一変させた。化物屋敷のような洋館に陰性の波子と、陽性のキヨ子が、新しいバランスと諧調を示した。波子は、もしかすると、私と美貌のキヨ子とが、結びつくことによって、自分の脱出の機会を作ろうと考えたのかも知れない。

しかし、例え波子が望んだとしても、そういう事は起り得ない。キヨ子には許婚の青年がいたのだ。

神戸高商からの志願学徒兵。霞ケ浦、刈谷と航空隊を経て、少尉になっていた。

キヨ子は明るい性格で、派手好みの、一見フラッパアのようでいて、この少尉に対する愛情の深さは、一通りではなかった。

すでに特攻隊が設けられていたから、文字通り、明日をも知れぬ命であった。許婚の二人が、遠く離れていてたえまなく燃え上っていたのは、当然といえよう。

キヨ子は、毎土曜日毎に、航空少尉の任地へ、霞ケ浦、刈谷、鹿屋と歴訪した。茨城県、愛知県、鹿児島県への、娘一人の旅であった。旅先での若い二人が、どのような休日を過したかはわからないが、神戸に帰り着いたキヨ子は、苛烈な列車の旅疲れもあって、いつもゲッソリ痩せていた。

そういうキヨ子を、身心ともに浮草のような波子が、優しくいたわった。あらゆる情熱を失った波子には、キヨ子の一途な恋愛が、ただただ羨しく、貴重に思えたのであろう。

九州鹿屋で中尉に昇進した青年は、沖縄へ出動したまま、遂に帰らなかった。

中尉の両親、兄妹は、神戸に住んでいたので、キヨ子は、公報が発表されてから、毎日のように、その家を訪れた。万一、無人島にでも漂着してはいないか、そういう夢をよくみると、私に話した。表情は微笑しながら、眼からポロポロ涙の粒が落ちた。

(後略)

『神戸・続神戸・俳愚伝』(講談社文芸文庫)114?117P

https://syosaism.com/kobe-haiguden/ 【西東三鬼「神戸・続神戸・俳愚伝」戦時社会のはみ出し者たちを描く】より

西東三鬼「神戸・続神戸・俳愚伝」あらすじと感想と考察

終戦記念日が近いということで、西東三鬼の「神戸・続神戸・俳愚伝」を読みました。

直接的に戦争を描いたものではありませんが、太平洋戦争中の日常生活を描いた人間ドラマで、戦争中にも市民にはいろいろな物語があったことを教えてくれます。

小林恭二さんの「『神戸』は村上春樹の初期作品の魁となるべき小説である」という解説を読み終えてから、本作に入るのがお勧め。

「神戸・続神戸・俳愚伝」は、俳人・西東三鬼が書いた3つの作品を収録しています。

『神戸』は俳句雑誌『俳句』(角川書店)昭和29年9月号から昭和31年6月号にかけて連載された小説で、続編となる『続神戸』は、俳句同人誌『天狼』昭和34年8月号から12月号にかけて連載されました。

また、『俳愚伝』は、『俳句』昭和34年4月号から昭和35年3月号にかけて連載されています。

なお、単行本は、1975年(昭和50年)に出帆社から刊行されています。

【神戸】/奇妙なエジプト人の話/波子という女/勇敢なる水兵と台湾人/黒パンと死/月下氷人/ドイツ・シェパード/自動車旅行/トリメの紳士/鱧の湯びき/猫きちがいのコキュ///【続神戸】/マダムのこと/三人の娘さん達/再び俳句へ/サイレンを鳴らす話/流々転々///【俳愚伝】/わが投句時代/「新俳話会」結成の前後/わが俳句開眼/無季俳句の時代/「天香」の創刊まで/俳句弾圧はじまる/新興俳句は死刑か/真夏の夜の悪夢/弾圧家族/連盟分裂す///(解説)『神戸の頃の三鬼』小林恭二

なれそめ

僕は西東三鬼という俳人が好きです。

三鬼の俳句を初めて知ったのは、おそらく何かの歳時記の中でだと思います。

僕は夏の俳句を読むのが特に好きなのですが、夏の季語の例句の中には「おそるべき君等の乳房夏来る」「算術の少年しのび泣けり夏」 などといった西東三鬼の作品が、たくさん含まれていました。

俳句って、もっと「侘び・寂び」の世界のものだと思っていたけれど、こんなにモダンでドラマチックな表現も許されるんだと、三鬼の作品を読んだときに思ったものです。

その後、僕は西東三鬼の作品をたくさん読むようになり、それをきっかけとして、俳句の世界の歴史のことも知りたいと思うようにもなりました。

『神戸・続神戸・俳愚伝』は、俳人・西東三鬼を深く知るために必読の自伝的短編小説集だと思います。

あらすじ

“東京の何もかも”から脱出した“私”は、神戸のトーアロードにある朱色のハキダメホテルの住人となった。

第二次世界大戦下の激動の時代に、神戸に実在した雑多な人種が集まる“国際ホテル”と、山手の異人館「三鬼館」での何とも不思議なペーソス溢れる人間模様を描く「神戸」「続神戸」。

自ら身を投じた昭和俳句の動静を綴る「俳愚伝」。

コスモポリタン三鬼のダンディズムと詩情漂う自伝的作品三篇。

(背表紙の紹介文より)

本の壺

心に残ったせりふ、気になったシーン、好きな登場人物など、本の「壺」だと感じた部分を、3つだけご紹介します。

彼女は仰向けてあったが、幼い弟を右手に抱きしめていた。

私はまだ燃え盛る街の、路上に垂れた電線を飛び越え飛び越え、彼女の家へ走った。彼女の路地の前の空地は、スリバチ形の防火池になっていた。その池のコンクリートの縁に、隙間もなく溺死体が並べてあった。(神戸「自動車旅行」)

神戸空襲の夜、三鬼は、自分がかつて暮らしていたホテルの住人たちの安否を求めてさまよいます。

「そこまで来る路上で、すでに私は多くの焼死体を見たのだが、少しも焼けたところのない、溺死体の姿は、周囲がまだ燃え盛っているだけに、むごたらしくて正視できなかったが、もしやと思って池の縁を廻っているうちに、見覚えのある夏服を着た、溺死体を発見した」。

「彼女は仰向けてあったが、幼い弟を右手に抱きしめていた。左手には私の同棲者波子のお古の、ハンドバッグがからみついていた」。

戦時中の神戸で行き場のない有象無象の謎の人間たちが集まった奇妙なホテルで、三鬼は多くの出会いと別れを体験しました。

私はうで卵を食うために、初めて口を開く。

私は路傍の石に腰かけ、うで卵を取り出し、ゆっくりと皮をむく。不意にツルリとなめらかな肌が現れる。白熱一閃、街中の人間の皮膚がズルリとむけた街の一角、暗い暗い夜、風の中で、私はうで卵を食うために、初めて口を開く。「広島や卵食う時口開く」―という句が頭の中に現れる。(続神戸「サイレンを鳴らす話」)

仕事の途中に立ち寄った広島市で、三鬼は遅い食事を取ります。

「荒れはてた広島の駅から、一人夜の街の方に出た」三鬼は、真っ暗な路上に腰をかけて、ゆで卵を食べます。

「去年の夏、この腰かけている石は火になった。信じ難い程の大量殺人があった。生き残った人々は列をなして、ぞろりぞろり、ぞろりぞろり、腕から皮膚をぶら下げて歩いた。その引きずった足音が、今も向うから近づく。ぞろりぞろり、ぞろりぞろりと」。

そうしてできた作品が、歴史的な名作とも呼ばれることになる問題作品「広島や卵食う時口開く」でした。

私は骨の髄まで自由主義者で、肉体的にカーキ色を嫌悪していた。

その句会に、ある時、私は「煙草捨て唾吐き暑き砲手となる」という句を提出した。私は骨の髄まで自由主義者で、肉体的にカーキ色を嫌悪していた。(俳愚伝「わが俳句開眼」)

『俳愚伝』は『神戸』や『続神戸』のような人間ドラマとは違って、戦前から戦後にかけての俳壇で起こった事件を綴ったもので、特に、自由を重んじる三鬼の姿勢は、戦時中の日本において重大な事件を引き起こすことになります。

表題の作品は、本物の砲手であった細谷源二から「こんなたるんだ砲手は日本の兵隊にはいない」と激しく糾弾されますが、「スペインの兵隊ならいいか」と訊き返した三鬼に、源二も「それならかまわない」と真面目に答えたそうです。

日野草城の「ミヤコホテル」論争が生じるなど、自由な表現が許されるはずの俳句界においてさえ、戦争は「表現の自由」に大きく暗い影を落とし始めていたのです。

読書感想こらむ

西東三鬼の『神戸』『続神戸』を読む前に、僕は小林恭二の解説を読みました。

そこには「『神戸』は色川武大の『怪しい来客簿』や村上春樹の初期作品の魁となるべき小説である」という文章がありました。

「当時の神戸でしか生きられなかった、戦時社会のはみ出し者たち」が場末のホテルを舞台に集まり、「彼らのほとんどは悲劇的最期」を遂げます。

そして、「日本帝国により自己の文業をすべて否定された揚句、職業を棄て、家族を棄て、神戸に流れて」きていた「作者である三鬼がここに登場する誰よりも苛烈な運命の中を生きていた」ことで、物語は新しい形の日本文学を呈することになったのです。

1950年代に描かれた1940年代の物語ですが、三鬼らしいモダンな視点が、やがて登場してくる村上春樹の『風の歌を聴け』(神戸が舞台だった)へと繋がっていたとしても、全然不思議ではないような気もします。

国際都市・神戸だからこそ成立したドラマが、そこにはあったのかもしれませんね。

まとめ

俳人・西東三鬼が書いた私小説的短編連作集。

三鬼を取り巻く「筋書きのない人間ドラマ」が切なく悲しい。

俳句に賭けた元・歯科医師の物語。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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