俳句を読み、考えることで見えてくる「モノの見方」

ミヒャエル・エンデ@Michael_Ende_jp

私たちのドイツ語でSinnという言葉には、奇妙なことにニ重の意味がありますね。複数のSinne(感覚)と単数のSinn(意味)。そして、「感覚」を通じて語りかけてくる「意味」、それが芸術なのです。 『闇の考古学』


https://yumenavi.info/vue/lecture.html?gnkcd=g012757 【俳句を読み、考えることで見えてくる「モノの見方」】より

俳句を読み、考えることで見えてくる「モノの見方」

「俳句」の誕生

じつは、「俳句」という言葉ができたのは明治時代です。それまでは俳諧連歌というより長い形式の文芸であり、その冒頭の「五・七・五」が独立性を強めたのが俳句です。さらにいうと、現代の俳句の基礎ができたのは、1920~30年頃です。アメリカではディズニーが、ヨーロッパではシュルレアリスムが生まれ、日本でも震災後に交通網が整備され、自動車が普及し始めるなど、文化や生活が激変した時代。小説と同様に、その影響を受けた俳句にもさまざまな筋道や可能性が議論された末、その後に続く現代俳句の見取り図が確立されました。

「写生」がつくる現代俳句の基礎

俳句には抒情的な句や「五・七・五」に縛られない非定型の句など、さまざまなタイプがありますが、現代俳句の基礎のひとつに「写生」があります。写生は、正岡子規が19世紀末に理論的に注目した考え方で、小説や日記、新聞記事と同じく、事実や情景を淡々と書き、そこから読み手に共感させる手法です。子規が注目した与謝蕪村を例にとりましょう。「春の海 ひねもすのたり のたりかな」には、「春の海があり、一日中ゆったりとのどかである」ということしか書かれていません。前提となる文脈や文学的知識がなくても創作・共感できるため、俳句は写生によって一般大衆にも親しまれる文芸になったのです。

俳句=モノの見方

また、俳句は書き手だけでなく、読み手の想像力によって補われる文芸でもあります。そのため、ある俳句について研究するには、その作品がどのようにつくられ、その後どんな人たちが、どのように読み、語ってきたのかを知ることも重要です。こうした作業を通して見えてくるのは、俳句とは「モノの見方そのもの」であるということです。俳句をどのように読むかが「今」を映し出すと同時に、自分が無意識に前提としている「今」のモノの見方を炙り出してくれるのです。しかも、短時間で多くの作品に触れられるという意味で、「モノの見方を問う」ことの本質により近づきやすい点も、俳句のもつ重要な特性なのです。


Facebook宮井陸郎 シャンタンさん投稿記事

意識をあなたの内側、中心へ移行させる時がやってきました。

今、あなたが自分の意識を内側へ内側へと向わせることによって、あなたという種子が元なるひとつの場所へ帰っていきます。

津留晃一

「自他一体」、いまさらといった感のあるこの言葉ですが、真の一体感の獲得はそうたやすいものではないようです。誰もがそうありたいと願いながら、そうなれないところに、この人間ゲームの面白さがあります。あくまでも分離して見えてしまうこの肉体眼を持ちながら、なおかつそれがひとつのものとして認識できる力を身につけるのがこの三次元人生ゲームであるといえるでしょう。

実は他人とは、もうひとつのあなたの目なのです。あなた自身の内宇宙をのぞき込むための潜望鏡のことを我々は他人と呼んでしまいました。

自分以外の別の人であるという意味の言葉を当ててしまいました。

今日から「他の人と見えているものは、広大な真の自分を発見する為の望遠鏡であり、顕微鏡である」という言葉に変えてしまいましょう。

彼と話をしている時、「自分の自動操縦リモコン潜望鏡(彼)が、自分のために今、観察報告をしてくれているのだ」そんな気持ちを心に止めながら会話してみて下さい。

真のあなたであるハイヤーセルフは、自分であると誤解できる潜望鏡的自我を作り出し、自分自身を知るための観察を始めました。この初期目的を思い出して下さい。

あなたは、この世界で成果を上げる為に存在しているわけではありません。

「成果を生み出すのだ」と思い込まされてきたにすぎません。

私の分離感の根っこはここにありました。

「この世界に何らかの成果を残して死んでいく。自分の生きた証を、その痕跡をこの世に留めてみたい」これが人間型ゲシュタルトが発するごくノーマルな思考です。

自分を取るに足らないちっぽけな存在である、と誤解させられた自我にとっては、当然の願望であるといえるでしょう。

成果を上げようとするあなたの思いに呼応して、ちっぽけなあなたに協力する他人が現れ、それを阻もうとする敵という他人も現れます。

味方も敵も「成果を上げよう」とするあなたの思いによって、あなたがこのゲームに生み出す

創造物です。

成果を上げるといっても、それは特別な事をいっているわけではありません。彼のために食事を作らねばという思いもそうです。それも成果を上げようとする思いです。

「何日までにこの本を読み終えねば」というのもやはりそうです。

観察が目的である人には「しなければならない」という発想は起こりません。

成果を上げたいという思いがあなたの意識を今ここから引き離し、その先のゴールへ意識を向かわせます。

今そこにいる他人との関わりのチャンスを棒に振ってしまいます。

今ここにある変容のチャンスを取り逃がします。他からあなたが分離します。

原始時代から我々が進んできた方向は、自我を確立するという方向でした。

自我が非力な自分の力によってやっと成果を生み出すという喜びを得、ハイヤーセルフはそれを観察してそんな自分を発見してきました。

力のない者が自らの力で、成果を生み出すことの素晴らしさを堪能してきました。

そしてハイヤーセルフのその発見と引き替えに、自我はより強化され硬くなってきました。

自我は成長し続けました。それは他との分離の課程でもありました。

成長しきった果実はやがて大地に落下します。

大地というまたひとつの場所に戻って行きます。

大地から生まれた一本であった幹は、成長とともに枝分かれし、分離していきました。

そして自我(個体)という果実を結ばせました。成長した我々の自我は熟れすぎた果物として

やがて種子を内包したまま大地に落ちます。

我々の意識は成熟したこの果物自身から、その核である種子へと移行されなければなりません。

もうあなたは充分に成熟しました。そして成熟したあなたはそこに止まる事は出来ません。

次なる神の種子へとその意識をあなたの中心へ移行させる時がやってきました。

今、あなたが自分の意識を内側へ内側へと向わせることによって、あなたという種子が必ずまた大地という元なるひとつの場所へ帰っていきます。

あなたの見ている世界、それはあなた自身です。それ以上でも、それ以下でもありません。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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