https://note.com/kanatahiraku/m/m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む】より
俳人の杉山久子さんの俳句を不定期に一句ずつ鑑賞します。
【プロフィール】
山口市在住。「藍生」「いつき組」所属。山口新聞俳壇 選者。俳句甲子園地区予選審査員。
1997年 第三回藍生新人賞受賞
2006年 第二回芝不器男俳句新人賞受賞 他
句集『春の柩』『猫の句も借りたい』『鳥と歩く』『泉』
その他、著書に四国八十八箇所巡りのエッセイ『行かねばなるまい』など。
【作品・人物評】
”繊細にして逞しい” 坪内稔典氏(『春の柩』より)
"杉山久子さんの作品は、短く俳壇を通過する「彗星」ではなく、また太陽の光によって初めて耀く「月」のような衛星でもなく、正しく位置を保ちながら、自ら発光する「恒星」のように力強い"(『春の柩』より)
"杉山久子というのは不思議な生き物だ" 夏井いつき氏(『鳥と歩く』より)
https://note.com/kanatahiraku/n/n44bb68226e44?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年01月号】より
太箸をとればゆるりと猫のきて
(句集『猫の句も借りたい』所収)
季語が新年の「太箸」であるから、作者が食べようとしているのはきっとお節だろう。人間の食べ物で猫が食べることができるものは意外と少ないが、極端な味付けのないものなら、かまぼこなり海老の剥き身なり、重箱の中にご馳走がある。
猫は高いところが好きだが、室内を移動するには床を歩かなければならないから、脚の長いテーブルの上は勿論、座卓の上の料理を確認するのも難しいものだ。しかし、彼ら彼女らは重箱を開いた瞬間に、その音と匂いに立ち上がるだろう。ではなぜ、機は「太箸をとれば」なのか。
掲句の「ゆるりと」で作者と猫の関係がよく分かる。猫は作者のご相伴に預かれることをよくよく理解しているのだ。だから慌てることもない。盗もうと隙をうかがう必要もない。もしかしたら、ちょっと年老いた猫なのかもしれない。句をよく見れば、明確な切れがないことが分かる。「太箸や」とか「猫が来ぬ」とは書かず、正月のゆったりとしたときの流れが表現されている。「太箸をとればゆるりと猫のきて」そして作者と猫の時間が始まるのだ。
なお、鑑賞の第一回に猫の句を選んだのは、杉山久子氏が猫の句だけで句集を出版するほどの、猫俳人だからである。今後も猫の句を交えつつ、氏の秀句を紹介していきたい。
https://note.com/kanatahiraku/n/n50965319c7d7?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年02月号①】より
氷海に果てあり髪をたばねけり
(句集『春の柩』所収)
歳時記に掲載されている季語は日本の風土に根ざしたものであるが、例外がいくつかある。「氷海」もその一つ。厳冬期の北海道の気温でも、波の立つ海が凍りつくことはない。氷海は、氷山や氷塊が浮かんでいる海も意味するようだが、掲句では見渡す限り一面純白に凍りついた氷海であろう。とはいえ、作者が砕氷船に乗って北極海まで辿り着いたわけではあるまい。
台風や津波、煮え滾り爆発するマグマのような動的なものだけが、地球のエネルギーではない。氷海のように静止する冷たい世界もまた、莫大なエネルギーを秘めている。氷海の果てとはどんな場所か。氷の大地に亀裂が生じ、崩壊する場所だろう。その力が遠く作者の元まで微かな波動となって届いているのが、「あり」「けり」の二つの強い切れの響き合いに感じられるようである。
女性が冬に髪を束ねるならば、朝の化粧台での身支度かもしれないし、仕事や家事を始める前の準備かもしれない。あるいは単に気分転換か。だが、掲句の「けり」には何か決意めいたものが感じられはしないか。
もし氷海の果てで起こるできごとが、一人の人間の意思に作用するとしたら面白い。ある気象学者はこんな問いをしている。一頭の蝶の羽ばたきが遥かに離れた場所に竜巻を起こし得るだろうか、と。いわゆるバタフライ・エフェクトだ。掲句では、この逆転現象が起きているのかもしれない。
https://note.com/kanatahiraku/n/ne57b3c7e8fec?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年02月号②】より
鳥雲に帽子ケースの中真青
(『俳句新空間 BLOG俳句空間媒体誌 No.17』所収)
「鳥雲に」は仲春の季語「鳥雲に入る」の傍題である。この季語が一句の上五にあれば、避寒の地に別れを告げ、子を産み育てるため、遥か北方の故郷をめざして真っ白な雲に吸い込まれる鳥の群れが、読者の心の空に現れる。大きな景である。私たちが北の地における彼らのこまやかな営みを見ることはない。私たちが空の高きに見るのは、いつも旅立ちだけである。
帽子の収納場所は様々だ。帽子専用のハンガーに掛けっぱなしにしておく人もいるだろうし、クローゼットの棚の上に重ね置く人もいるだろう。筒状の箱のような帽子ケースを必要とするなら、型崩れを防ぐ必要のある、ツバ広のキャペリンや、こんもりと丸い山高帽、しっかりとしたフェルトの中折帽がある。冬帽子はコートやブーツと同様に、北風や雪から人々を守るもの。では、その役目を終えるのはいつだろう。春一番が吹き抜けた頃か、雪どけの頃か。
今、帽子ケースの蓋を開ければ、ルネ・マグリットのごとき作者の鮮やかな俳句の奇術をもって、吸い込まれそうな青空が出現する。その空の中にそっと帽子を入れ、蓋をかぶせるとき、帽子は旅立つのである。渡り鳥のように。
https://note.com/kanatahiraku/n/nd8314e333e7c?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年02月号③】より
きさらぎの猫の眼浅葱萌黄色
(句集『猫の句も借りたい』所収)
句の後半にきて、猫に詳しい俳人たちはおや、と思う。
「猫の眼浅葱萌黄色(あさぎもえぎいろ)」とは、左右の目の色が異なるいわゆるオッドアイだが、和語でも「金目銀目(きんめぎんめ)」という言葉があるのだから、12音から6音に節約できるのではないかと。そうすれば、もっと多くのことが言える。
しかし猫の虹彩には青、緑、黄、橙など様々な色合いがあり、オッドアイの組み合わせにも幅がある。「浅葱」「萌黄」と書くことで、掲句は写生句になった。作者は春の季語の中でも「きさらぎ」によって時季を限定し、かつ、見たものをありのままに写生したのである。句中に3つ鏤められた「ぎ」の音がこれらの要素をよく繋いでいる。
オッドアイの猫は古来より縁起の良いものとされてきたが、聴覚障害を持っていることが多い。作者によれば、この猫には「道後温泉で出会った」とある。陰暦にしたがうのか、現在の新暦の2月と捉えるかで異なるものの、いずれにしても如月は冬と春の重なった季節だ。人間のように暖房もなければ衣更着(きさらぎ)=重ね着もできない野良猫にとって、冬は死の陰に怯える最も過酷な季節である。ようやく春を迎えようとする猫の眼に、旅人は植物の萌える色を見た。
https://note.com/kanatahiraku/n/n5ce8c6c77dd8?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年03月号】より
ラブホテルある日土筆にかこまるゝ
(句集『泉』所収)
春も深まって、気がつけば土筆に包囲されているラブホテル。なんら実害はない。誰も気にしていないし、気づかない。俳人以外は。
人の男女の仲が進展していく上で、ラブホテルという場所には年中多くの「ある日」が持ち込まれているのだろう。何も恥ずかしいことはない。土筆は土筆で、タケノコやサツマイモなどと同じく地下茎を水平に張り巡らし、ときがくればそれぞれの場所から地面を破って現れ、胞子を播く。しかし土筆の場合は春という季節に限られる。動植物から見れば明確な繁殖期を持たず365日続いている人間の奔放な性の営みが、土筆によって白日に晒されたとも言えるのではないか。とはいえ、その暴露で読者が笑ったとしても、春めいた明るい笑いになるに違いない。
掲句の土筆は人間と対比することで自然の代表としてしか感じられず、清潔とさえ言えるが、土筆そのものは作家によってはいくらでも性的なモチーフとして使われそうなものだ。「つくしんぼ」「筆の花」など、必要以上の可笑しみや色気のある傍題を使わなかったのもさることながら、一本ではなく、無数の土筆を一つの建物と対比させて客観性を演出したことが見事に成功している。下五「かこまるゝ」は文語の連体形であるから、上五の「ラブホテル」に還り、土筆の繁茂は限りない。ある種の大景句なのだ。
https://note.com/kanatahiraku/n/n84142f7685a1?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年04月号】より
彗星のちかづいてくるヒヤシンス
(句集『鳥と歩く』所収)
彗星は大きな離心率をもち、太陽に従順な惑星たちを横切って放埒な楕円、あるいは放物線を描く。我々の太陽系を一度しか過ぎらないものもあり、何十年、何百年の周期で幾度も訪れるものもある。掲句は後者だろう。近づくという言葉を使うのだから、作者は彗星の訪れを予期しているはずだ。喜んでいるのか、もしくは恐れているのか。
彗星とヒヤシンスの球根は、姿もどこか類似しており、いずれも時間をかけて美しさを顕わにする期待感がある。彗星は冷たい宇宙空間を進み、太陽系に近づいてくるとガスや塵が太陽の光を反射し、夜空に光の尾を曳く。地上にある室内のヒヤシンスの球根は水の中で白い根を伸ばす。
両者は互いが互いの比喩となり、無機質な氷岩塊のはずの彗星に瑞々しい生命力が感じられ、ヒヤシンスの根は光輝くようである。取り合わせの効果は明白である。
しかし掲句には切れがなく、言葉の比重は明らかに下五に傾いている。二つの名詞をつなぐ「ちかづいてくる」という七音の装置を起動し、一句一章の句として読んだとき、あたかも彗星を呼びよせるこの神秘的な「ヒヤシンス」の正体は何かを考えさせられる。そうだ、ヒヤシンスと類似しているものは彗星ではないのだ。
突如、暗黒に浮かぶ青い球根が目に浮かんだ。地球という巨大な球根が根を生やし、やがて宇宙に花が咲く。
https://note.com/kanatahiraku/n/n1c09b06a09f8?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年05月号】より
日輪や切れてはげしき蜥蜴の尾
(句集『泉』所収)
上五に打ち込まれた掲句の切れ字「や」の効果はすこし複雑である。蜥蜴の尾を昼の光にさらけ出すために上五で背景を作るならば、「太陽や」「白日や」とできるところ、あえて二次元的な「日輪や」が選ばれているからだ。
「や」の性質上、主格として「日輪が切れて」とも読める。蜥蜴の尾が切れるのは生物の営みにおける自然現象だが、日輪が切れるなら超常現象である。太陽が外縁で盛んに波立つように見える、いわゆるプロミネンス(紅炎)の映像を凝視すれば、輪が今にも引きちぎれそうではないか。まるでSFのスケールだ。
二つのイメージが被さることで、掲句は蜥蜴の尾が切れる自切の現場を見たことのない読者に対し、切れた後もそんなに動くものなのかと関心を引き寄せる一方、自切を見たことがある読者にはまったく新しい景色を見せてくれる。
自切した蜥蜴の尾が動くのは、敵に注目され、本体が逃げる隙を作らなければならないからである。昆虫のガガンボの脚も取れやすいが、決して残された脚が独りでに飛び跳ねたりしないのは、蜥蜴とガガンボにおける、天敵たる捕食者の性質の違いだろう。
では日輪が自ずから切れるとき、一体何から逃れるのだろうか。
https://note.com/kanatahiraku/n/nf6fd1fa383de?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年06月号①】より
深き深き森を抜けきて黒ビール
(句集『泉』所収)
ビールの歴史は長い。紀元前数千年前、農耕の始まった頃よりビールは人類の文明と共にあった。いま人類と書いたが、主にはメソポタミアやエジプトであり、この地域は降水量が少ないため森林はない。掲句の森が単なる心象風景ではないとしたら、中世から近代にかけて消失した、ヨーロッパの広大な森を想起させる。そうだとしたら、ヨーロッパの歴史について語ることが、そのまま句の世界を語ることに繋がるだろう。
かつて「深き深き森」には妖精が住まい、多神教のケルト人たちがドルイドと呼ばれる僧の元で畏敬の念をもって自然を崇拝し、輪廻転生と魂の存在を信じていた。やがて彼らはローマ帝国に支配され、一神教で人間中心主義のキリスト教の布教により北へ放逐された。さらにはゲルマン人を中心とする民族移動時代、産業革命に伴う伐採を経て、森は千数百年をかけて切り拓かれていった。こうして現代のヨーロッパは陽光に晒された明るい土地になったのである。
民族の入れ替わり、都市の勃興、交易や戦争の繰り返しの歴史の中でも、一時期のイスラムの支配を除けばアルコールは愛され続けた。酩酊による享楽を伴うも、中世の修道院や都市を中心に醸造された上面発酵の「エール」は薬でもあったし、腐りにくい保存飲料として、特に大航海時代に活用された。
時代は下がり、科学的な殺菌手法が確立すると、低温で下面発酵のラガーが生まれた(今、ビールと言えば大抵はラガーのことである)。「ビール」という季語は、これらエールとラガーのどちらも含む。「黒ビール」はどちらにも存在し、発芽した麦芽の成長を止めるために施す、焙燥または焙煎の温度が高いためである。いずれにせよビールは製造過程で麦芽を殺しているわけだが、黒ビールでは焦がしているのだ。ビールの進化と共に、多くの民族の苦難の歴史や、失われた森の深さが、黒のイメージにつながっていく。グラスに溢れるほど泡立ち、耳を澄ませば気泡の弾ける音が聞こえる。
掲句に、仮にドイツの古い地名でもひとつ持ち出せば、それらしい句になっただろうが、浅薄に思われる。固有名詞に頼らず、「深き深き森」という抽象的な言葉を、「黒ビール」という季語に結びつけることなしに、これほど大きな時空は獲得できなかった。
この黒ビール、人類の歴史の上にある一杯ではないだろうか。
https://note.com/kanatahiraku/n/n16e97163bf38?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年06月号②】より
珈琲におぼるゝ蟻の光かな
(句集『泉』所収)
蟻はさまざまな俳句で溺れてきた。まず、これまで詠まれてきた溺れっぷりをいくつか見ていきたい。
ほとけの水に溺るゝ蟻を出してやりぬ 林原耒井
おそらく墓石の手前にある窪みの水受けに溜まった水だろう。他の水ならば救わなかったのかもしれないが、正に仏心か。
閼伽桶あかおけに溺るゝ蟻を吾れ見たり 森田峠
「閼伽桶」は仏に供える水の器である。殺生を禁じる仏教の観念から見ると、仏のために蟻が溺れているような矛盾を錯覚する。
打水や溺るる蟻と急ぐ蟻 高柳克弘
水のかかった蟻と免れた蟻を対比することで、蟻が餌を運ぶときなど巣全体に関わることには協力するにもかかわらず、個々の蟻同士の危機には無関心であることが示されている。
以上、進むにつれてより客観的になる順で並べた。このように、どの句も俳句の勘所を押さえ、哀れとは言わずに哀れを表現している。蟻は小さくて弱くて、働き者でけなげな生き物だからである。どこか人間に似ているから、愛着も湧く。
珈琲におぼるゝ蟻の光かな
先掲の句にもそれぞれの魅力があるが、掲句はすこし違い、世の無情とは距離を置いている。
珈琲という液体も、蟻の身体も、どちらも黒に近い色であるから、ほとんど溶け込んでしまう。それでも作者が気づいたのは、もがく蟻が光ったからだ。掲句で描出されているのは蟻の哀れでもなければ、蟻の生態でもなく、蟻の溺れる様子の美しさなのである。「蟻の光りけり」と発見にできるところを、「蟻の光かな」と押さえているのも沈着だ。
掲句がここまで写生に集中できる理由の一つには、例には挙げなかったが、草田男や不死男ら先人の蟻の名句があるからだろう。もはや、仏のような言葉を用いずとも、写生すれば読者の心に自ずと感情の機微が生まれる。その拠り所が「蟻」という季語には備わっているにちがいない。
https://note.com/kanatahiraku/n/n0d568009ccd1?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年07月号①】より
人の恋かたしろぐさのつめたさに
(句集『鳥と歩く』所収)
「人の恋」という、突き放した言葉が目に飛び込んでくる。友の恋でも肉親の恋でもない。「他人の恋」という意味だろう。しかし、つづく中七下五の平仮名はやさしい。さほど親しくはない誰かの恋愛に思うところがあって、作者にできることはないのかもしれない。
「片白草」という植物の季語は「半夏生(はんげしょう)」の傍題であるが、葉が半分白くなるために半化粧と掛けた名前でもあるから、恋する人は女性のように思える。ドクダミ科なので十薬と同じく独特の臭気を放っている一方、解毒や解熱作用のある生薬にもなる。傷つければ強く臭う。作者がこの白に冷たさを感じたのは、天から毒が降るという謂われから、井戸に蓋をするなどの様々な物忌みが行われる時季である。恋の行方も自ずと知れよう。
叶わぬ恋なのか、道ならぬ恋なのか、すでに失恋しているのか。いずれにせよ、その上で俳句としてわざわざ書くことが、作者がこの「人の恋」に寄り添っていると言えるのではないだろうか。言葉に反して温かい句だ。
片白草には花弁がなく、葉が白くなるのは花弁の代わりに昆虫を誘引するためであり、いずれ緑に戻る。中には戻りきらないものもある。
https://note.com/kanatahiraku/n/n0f1d5e998a37?magazine_key=m9a3069401b84 【杉山久子の俳句を読む 23年08月号】より
香水や仏蘭西フランス映画わかるふり
(句集『泉』所収)
句の中の香水をつけているのが作者なのか、他の人なのかで読みが分かれる句だ。
他の人の香水の場合、たとえば偶然フランス映画の話をする人たちの中に混ざってしまい、人がつけている香水の香りに気持ちがふわふわして、「わかるふり」をしてごまかしたと読める。
作者が香水をつけているなら、普段は見ないフランス映画を一人で見てみたところ全く理解できず、誰にともなく分かるふりをしてみた、と読んだ方が面白い。いずれにせよ愛すべき作者である。
掲句に対する共感、『そうそう、なんとなく格好付けてしまうときってあるよね』という浅いものではないだろう。たとえ、外国の映画に字幕や吹き替えがあり、言葉としては分かっても、馴染みのない文化や風俗をそう簡単に理解できるものではない。でも、理解できたなら人生はもっと豊かになるかもしれない……そう多くの人がなんとなく思って生きているからこそ、この句に親しみがもてるのではないか。
技巧にも注目したい。もしクラシック音楽の話題なら、巨匠の名前くらいは誰でも知っているので、つい分かるふりをしてしまうかもしれないが、フランス映画では、なかなか出てこない。分かるふりができそうで、できないぎりぎりのラインだ。
このおかしみの源泉は、フランス映画が分かる人よりも、フランス映画が分からないのに分かるふりをする人の方がよっぽど少ない、という奇妙な現実から生じるものだろう。本来なら『別に分かるふりしなくても』という真っ当な疑問が、上五の季語の力で知らぬ間に解消されているという構造だ。しかし、打ち消しあってプラスマイナスゼロにはならないのが俳句である。常に掛け算、ときに乗算となる。
また、「香水」と「仏蘭西映画」は比較的言葉の距離が近いが、このような取り合わせ方で双方が生きることに驚かされる。勿論、表記が「フランス映画」ではなく「仏蘭西映画」なのもわかるふりの内であろう。けだし、杉山久子ワールドと言えまいか。
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