俳句 生きることを詠う

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_443090.html【俳句 生きることを詠う】

講師俳人 「歴路」主宰 向田 貴子

俳句は生きることを確認し、自分自身の存在を証明するやさしい詩です。季節の言葉と定型のきまりを句座形式にて学びます。初めての方でも人生をいかに楽しむかを和気あいあいと俳句を通して探求できます。

[投句]当日3句(うち兼題1、自由1、席題1)


https://ameblo.jp/kmomoji1010/entry-12112056285.html 【生きる技としての俳句】より 

フランス語であれ、英語であれ、日本語以外の言語で作られた短詩を、それがいくら俳句の音数律や句切れや季語などを尊重したものであっても、俳句として認めるかどうかは、意見の別れるところだろう。おそらく大半の日本人は、外国人が日本語以外の言語で俳句を真似て作った短詩が「俳句」と呼ばれることに抵抗を覚えるのではないだろうか。

外国語による俳句的短詩の実践を「俳句」と呼ぶことは、外国語による解説書を読んだだけで自己流で座禅を組むことを「禅」と呼ぶことと同じほど、その本質から遠ざかっている、という批判もあるだろう。

しかし、ここではそういう文学的経験の正当性に関する議論には立ち入らない。ただ、俳句あるいは俳諧の何がそれほどまでに外国人を惹きつけるのかだけを、昨日紹介した本に拠って、フランスの場合に限って、瞥見しておきたい。

まず、同書が出版物としてどのジャンルに属しているかが一つの手がかりになる。同書は、Le Livre de Poche の中の « spiritualités » というカテゴリーの中に括られている。つまり、文芸書としてよりも、広い意味での宗教的・精神的体験に関する書籍の一つとして出版されているのである。フランス語での俳句に関する出版物は、優に数十冊はあり、その大半は文芸書として出版されているが、その場合でも、俳句の精神を説明するのに禅をはじめとして宗教的要素に重きを置くのが一般的傾向である。

つまり、俳句の中に、自分の生活を新しい眼差しで見直すことを可能にしてくれるものが、さらには、生き方を変えてくれるものが見出だせるというところが強調されることが多い。あるいは、俳句の実作によって自分の生活が変わったことが実際の経験として語られ、その中でも文学的経験のいわば精神的効用が特に重視されている。

俳句の短さがその実作を誰の手にも届くところにあるものにしていることも俳句の魅力の大きな部分を占めていることは、日本語の場合と変わらない。もちろん、それは、俳句が簡単に作れるということを意味しないことは、少しでも自分で実践してみればわかることだ。それでも、俳句のサークルなどに属して、自作を合評してもらうことで、様々なことに気づかされ、句作に上達し、それが自分の普段の暮らし方まで変えていくことがある。そのような例が同書の序文にもいくつか紹介されている。

フランス語による haïku の実作者たちの多くは、最終的に日本語で俳句を作ることを目指しているわけではない。芭蕉や蕪村や子規などに学びつつ、あくまでフランス語の中で、俳句的精神あるいは俳諧的精神を実践しようとしている。その実践の内実がどのような言葉で分節化されているかを示している一例として、同書の序文の小見出しを順に列挙してみよう。

L’esprit haïku : une invitation à plus de vie

La voie des haïkistes

Saisir les instants précieux

S’ouvrir pleinement au réel

Exprimer son monde intérieur

Faire taire l’intellect

Se détacher

Aimer le trivial

Vivre dans la simplicité

S’incliner devant la nature

Accepter l’impermanence

Épurer

Atteindre l’équilibre

Partager

最後の節 « partager » で、筆者は、「分かち合う」ということは、単にある同好会の合評の席で互いの作品を批評し合うという次元にとどまるものではないと考えている。

互いの俳句に耳を傾けることで、言葉を聴くことそのことが訓練され、言葉を包む沈黙の豊かさにより注意深く敏感になる。言葉がそこから生まれて来る黙せる自然を共に前にして、より謙虚になる。自分の中の無駄なものを削ぎ落とそうとする。ものへの執着から離れようとする。そして、その分だけ、より生き生きと各瞬間を生きられるようになる。

そのような俳句的精神に基づいた社会を筆者は夢見ている。私もその夢を共有したいと思う。

12月15日にも一度予告しましたように、こちらの拙ブログへの投稿は本日をもって最終回といたします。これまでご贔屓をいただいた読者の皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。記事の投稿は、もう一つの拙ブログで継続いたします。

皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。


Facebook田中 宏明さん投稿記事 ·

誰もが意気揚々と溌剌に生きたいと思っています 充実した人生を送りたいと思っています

Facebookやインスタを見ると自分以外の人はみんな人生を謳歌しているかのように見えます^ ^

でもそれはただそう見せているだけで誰もが日常の中をウンザリしながら生きています

それは嘘よ!実際わたしの知っている成功者は本当に充実した毎日を送っているわと思われる方もいるかもしれません^ ^

でもどんな人にも悩みの種はあるのです それは健康かもしれないし 人間関係かもしれません 小さな頃からの トラウマだったり 人には言えない性癖かもしれません

それは外側からは決して見えないのです むしろ自分はこんなにも 充実しているんだと

わざわざ人にアピールしたい衝動の裏にあるのはそれと同じくらいの虚しさがあるからです

じゃあお前はどうなんだと言われたら僕にも虚しさがあると思います

今は無いだけで健康や人間関係で悩む時も来ると思います きっとトラウマもあって 人には言えない性癖もあるかもしれません^ ^

だからもし僕にこうありたい自分がいたとしたらそんな自分や自分を取り巻く状況にウンザリしていたと思います

わかりますか?どんな場合でもウンザリするには理想が必要なんです^ ^

今現れている自分がどんな自分であってもそんな自分でもいいと受け入れることが出来れば

誰かの賞賛や評価で自分を確認する必要は無くなります あなたの理想は他人の目にどう写るかのためにあります^ ^

誰もいない 無人島で理想を描く 人はいません どんな人も 全力で今を生きることに 集中しているはずです

これはあくまで僕の感覚ですが自分の中から他人がいなくなればなるほどどんどんと生きやすくなって行きます

ただ自分の世界を生きるだけでただそれだけで人は幸せに生きられるように出来ているのだとわかります^ ^

僕たちの世界にはたくさんの他人がいるように見えます そしてその人たちに自分がどう写っているかが気になります

なぜならあなたも 人を無意識に比較したり 優劣で判断しているからです

侮られたり 低い人に見られたく ないわけです

でも皮肉なことにみんな自分が人にどう写っているか ばかり考えているので実は他人の事なんか全然興味がないのです(笑)

それでも多くの人が他人の目に縛られて生きています

まさかそれが自分の思い込みだとは気づかずに^ ^

幸せに生きるためにはただ自分を生きればいいだけです

高学歴や高収入地位や名誉やフォロワー数は全く関係ありません^ ^

だから今すぐ誰もが簡単に幸せになれます

幸せとはどんな状況であってもそれに抗わず受け入れている、という心の状態のことを指します

他人の目を生きるのではなく自分の心を生きましょう^ ^それが安らかに生きる秘訣です^ ^

今日も暑くなりそうですな✨後、前回の投稿でたくさんの温かいコメントありがとうございました

読んでるだけで元気がでて来ました^ ^本当にいい人ばかりに囲まれて幸せです

では皆さまも良い一日を✨🌈😆らぶ💓

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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