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学ぶ会で紹介いただいた今日の特選ねずブロです。
古事記は、我々の宇宙(あるいは時空間)をどのように理解しているのか。
古事記は1300年前の書ですが、実はそのことを知ると、その時代の日本人の感覚というか、知恵や知識の深さに、本当に驚かされます。
いまの日本では、世界中の様々な古代の知恵が紹介されますが、古事記の知恵はそれらを包含してなお余りある深さを持っているように思います。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3821.html 【古事記に描かれた隠身(かくりみ)の凄みと君が代】より
古事記は、我々の宇宙(あるいは時空間)をどのように理解しているのか。
古事記は1300年前の書ですが、実はそのことを知ると、その時代の日本人の感覚というか、知恵や知識の深さに、本当に驚かされます。
いまの日本では、世界中の様々な古代の知恵が紹介されますが、古事記の知恵はそれらを包含してなお余りある深さを持っているように思います。
まず古事記の宇宙観(あるいは時空間についての概念)ですが、ひとことでいうと、
「我々の住む時空間は、神界も人間界も、そのすべては神々の胎内にある」というものです。
このことは、古事記の冒頭に出てきます。
冒頭の古事記は、初めの何もない時空間に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が成られたとあります。
次いで高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)がお成りになられます。
高御産巣日、神産巣日という言葉は、高次元の結び、神々との結びを意味しますので、天之御中主之神は、高次元にお成りになりまして、神々との結びを行われたとわかります。
ただし高御産巣日神も神産巣日神も、それぞれが神様です。
すこしややこしいのですが、現象としては天之御中主之神が現れて後、高次元の結び、神との結びが行われるわけです。
しかしそれはただの現象ではなくて、それ自体が神だ、と古事記は解釈しているわけです。
このようなことは、ただ神様を人格化して考えるとかえってわかりにくくなります。
神様は、存在だけではなくて、行動や行為やはたらきのすべてが神なのだというのが、古事記の観念です。
その立場で、古事記はここまでの三柱の神様を「共(とも)に独神(ひとりかみ)でお成りになられました」と書いています。
「独」という漢字は、もともと「単独」を意味します。そこから「独神」というのは、「単独の神様だ」とわかります。
三柱の神様は三柱おわすのであって、一緒にしてはならない。
要するに上に述べましたように、高みでの結びも、神の結びも、それぞれが独立した神々であるということです。
問題はその次です。
古事記は、この三柱の神様が「隠身也(かくりみなり)」と書いているのです。
1 三柱の神々がお成りになられた。
2 それぞれの神々は、独立した神様だ。
と、ここまでは良いと思います。
ところがこれに続けて古事記は、その三柱の神様が
3 「隠身也(かくりみなり)」と書いているのです。
この「隠身也(かくりみなり)」は、普通「身を隠すなり=身をお隠しになられました」と訳されます。
しかしそうであるとすると、ここはたいへんに誤解を招きやすくなります。
なぜなら天地の創成期に三柱の神様が成られたわけですが、それが時空間に、人の形をした存在が成られたというようにイメージすると、その創生の神々は、身を隠した・・ですから、いなくなってしまうのです。
何もない無に、神々が成られて、そのままどこかに隠れてしまった、というのなら、その後に起こることのすべても存在しないわけですから、我々も存在しないということになってしまいます。
本当にそうなのでしょうか。
実は「隠身」というのは、身を隠したということではなくて、「大切に胎内に入れた」ということを意味します。
どうしてかというと、まず「隠」という漢字の旧字は「隱」です。
この字は大切な心臓を手で覆い、その手の上からさらに道具でこれを覆い、それをさらに手で覆っている象形文字です。
つまり「隠」は、大切に大切に保護したことを意味する漢字です。
だから訓読みが「かくす」なのです。
続く「身」という字は、もともと「目」のように見える部分の中にある二本の横線が胎児です。
上のチョンが頭部、下の二本の棒が足です。
つまり「身」という字は、妊娠している女性を意味する漢字です。
ということは「隠身」が何を意味しているかというと、創生の三柱の神々が、それぞれ順にすべてを胎内に置いたということです。
ひらたくいうなら、最初に無から天之御中主之神が生まれ、その存在の一切のすべてを(天之御中主之神の)胎内に入れた。
次に高御産巣日神が、その天之御中主之神の胎内に成って、その存在のすべてを(高御産巣日神の)胎内に入れた。
次に神産巣日神が高御産巣日神の胎内になって、その存在のすべてを(神産巣日神)の胎内に入れた、ということを古事記は書いているわけです。
つまり創生の三神は、三重に我々の住む時空間を大切に保護してくださっているわけです。
そして胎児は、母体の中にあって、母体の一部となっています。ということは、我々の住む時空間は、すべてが三神の胎内にある。もっというなら、我々は神々の一部である、ということです。
そしてそれは、特定の誰かひとりが神々の一部になっているということではなくて、我々の住む宇宙が、その宇宙を構成しているすべてが、神の中にある、ということです。
さらに古事記は、続く宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかひひこちのかみ)も、次に成られた天之常立神(あめのとこたちのかみ)も、創生の三神と同様に、「独神」で成られて「隠身也」と書いています。
つまりこの二神もまた、高御産巣日神の胎内にて宇摩志阿斯訶備比古遅神が成られて、その存在のすべてを(宇摩志阿斯訶備比古遅神)の胎内に入れ。
続けて宇摩志阿斯訶備比古遅神の胎内に天之常立神が成られて、その存在のすべてを(天之常立神)の胎内に入れた、というわけです。
ここまでで、実に神々は五重に我々の住む世界(時空間)を保護してくださっているとわかります。
そしてここまでの五柱の神々が「別天神(ことあまつかみ)」であると古事記は書いています。
「別天神」というのは、別な天の神様ということですが、我々の住む時空間がいわば胎児であり、五柱の神々はその外側にお成りになられている母体のような存在です。
胎児から見れば、まさに別天神(ことあまつかみ)です。
至極もっともな記述です。
続く二柱の神、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、豊雲野神(とよくものかみ)も、同様に「独神成坐而、隠身也」と古事記は書いています。
この二柱の神は、天之常立神の胎内にお成りになられて、我々が知覚しうる時空間の中で、それぞれにお成りになられてその存在のすべてを胎内に入れられたわけです。
古事記はここまでの記述で、「独神」と「隠身」という語を、都合三回繰り返して用いています。
漢文は基本的に短い文の中で同じ言葉を繰り返して用いないというのが原則です。
従って、古事記が、その書き出しの冒頭で、この二つの語を、三度も繰り返して述べているのは、このことがとても重要な概念であるということを示しています。
つまり、我々のいる時空間は、神々の胎内にあって、我々の住む世界の神々も、空も雲も海も陸も、すべての物体も概念も、そのことごとくが神々の中にあり、神々の一部なのです。
ですから我々みんながうれしいことは、神々もうれしい。
我々みんなが悲しいことは、神々も悲しい。
みんなではなく、個人だけが自己の健康の域を越えて利得を狙うならば、それは神々にとっても癌細胞でしかないということです。
古事記はこうした記述のあと、五組の男女神を登場させています。
その最後に、「いざなう男」である「イザナキ」、いざなう女である「イザナミ」の二柱の神がお成になったと書いています。
大和言葉で、「キ」は男、「ミ」は女を意味します。
ですから、「おきな(翁)、おみな(嫗)」といいます。
このイザナキ大神とイザナミ大神から生まれるのが、天照大御神です。
そしてその天照大御神からの直系のお血筋が、125代続く天皇です。
その天皇が、天照大御神様からの万世一系のお血筋として、我が国の最高権威となり、民衆を「おほみたから」としてくださっています。
そして我が国において、最高権力者は、天皇の下にあって、天皇の「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らせることを使命とする政治責任者です。
責任者ですから、当然に、政治責任を負います。
なぜなら権力と責任は、常にセットでなければならないものだからです。
ところが人類の歴史を、我が国以外の諸国でみてみると、歴史を通じて国家最高の存在は、常に政治権力者でした。
その政治権力者が、国家最高の存在として君臨し、政治権力を駆使して国を統治するというのが、世界の歴史です。
つまり・・国家最高の政治権力者よりも上位の存在が、残念ながらありません。
ということは国家最高責任者に対しては、誰も「責任を求めることができない」ということです。
そうであれば、それは国家最高権力者であって、同時に国家最高の無責任者だということになります。
諸外国における国家体制の最大の誤りがそこにあります。
つまり、国会最高の無責任者を、国会最高権力者にしてしまっているのです。
権力だけあって、一切の責任を負うことがないのなら、その後はやりたい放題です。
ひとり、この世の贅を極め、人を支配し、人の命や心を蹂躙します。
当然です。いくらそれをしても、一切責任を負う必要がないのです。
だからオジをマシンガンで肉片になるまで射殺しても、誰もその責任を追求できず、当の本人は、平和の使者のような顔をして世界の要人と会い、適当なその場限りの約束をして、すべて反故にして、平然としています。
大なり小なり、人類社会が築いた社会の姿の典型がそこにあります。
我が国はそうではなく、政治上の最高権力者は、当然に責任を負う立場として国家の体制が築かれてきました。
それが可能であったのは、日本に天皇という存在があったからこそです。
だから中世の人は、こんな歌を詠みました。
我が君は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔のむすまで
この歌は西暦905年に奏上された古今和歌集第七の賀歌の343番に「題知らず」として掲載された歌です。
初句が「我が君は」になっています。
つまりこれは「天皇」を意味しています。
要するに天皇という存在のおかげで我が国の民が「おほみたから」とされる幸せを得ているのだから、その天皇が、未来永劫、我が国の頂点にあってほしいという願いを込めたお祝いの歌として詠まれているわけです。
ところが、12世紀初めに一般向けに編集された和漢朗詠集の流布本から、どういうわけか、この歌の歌い出しが「君が代は」に変化しました。
そして「君が代」は、以後、一般庶民の婚礼の儀の際の賀歌として、有名な「高砂」と並んで、定番の歌謡となっていきました。
実はここに我が国の庶民の幸せがあります。
もともと天皇を称える歌であった歌が、一般庶民に流布し、誰もが「おほみたから」であるという幸せの中で、男である「き」と、女である「み」が結ばれる。
そして子が生まれ、孫が生まれ、一族が繁栄していく。
その喜びの歌として、いつしか「我が君は」が「君が代は」に置き換えられていったからです。
それは、日本に天皇という、政治の最高権力よりも上位の国家最高権威があるからこそできたことです。 日本人は、幸せです。お読みいただき、ありがとうございました。
http://makotono-arigatougozaimasu.net/2535html.html【真のありがとうございます】 より
神さまの全体像を掴むというのが一番大事。だから、本当の神さまの地図がいるの。
真の神さまというのは、唯一無二、絶対。一つ。真の神さまの真実のすがたと、虚のすがたと、両方ある。
真実のすがたは、もう言葉で表現できないものすごい世界。虚の世界でも、やっぱり無限に素晴らしい。
だから、すべてが神さま。神さまの現れ。神さまの残像。どれをとっても、無限に無限に素晴らしい。
まず、この虚の世界、虚の世界の神さまの捉え方。古事記の本に書かれているような捉え方が一番わかりやすい捉え方。
まず、神さまという言葉を5つの意味に捉える。
隠身(かくりみ)の神、仮凝身(かごりみ)の神、輝身(かがりみ)の神、翔身(かけりみ)の神、限身(かぎりみ)の神。
全部これは、虚の世界。隠身(かくりみ)というのは、一番奥で姿を現してない、隠れているという意味。
これは天之御中主神から色んなこの隠身(かくりみ)の神さまが一杯いる。
次に、仮凝身(かごりみ)、かごるというのは、創造するという意味。創り出す働き。
これはもう、イザナギの神さま、イザナミの神さまが出てきた時に、創造神としての働きが出てくる。それももう、両方に分身が一杯いる。
まずゼロ、無が相対の両極に分かれる。その組み合わせによって、色んなものが生み出される。最初は、相対の両極に全部振り分けないとダメ。それを螺旋構造で組み合わせるの。
そうすると、色んな表現が無限に一杯生まれてくる。そのプラスの極が、天照大御神という光源にあたるの。
ツキヨミノミコトというのは、その光を受けて、闇を照らす働き。闇とか地球というのは、太陰の働きが、受ける働きをするの。
だから天之御中主から出発して、隠身(かくりみ)の神さまがたくさん出てきて、次にイザナギ・イザナミの神さま、仮凝身(かごりみ)の神さまが出てきて、
その分身が、簡単に言うと、八・八(はっぱ)六十四神になっているのだけど、
その働きが組み合わさって、色んな表現が生まれて、それで、プラスの極が天照大御神様。
ツキヨミノミコトもスサノオノミコトも三神が一体の神さま。
その分身が、八百万の神さまという神通自在の宇宙を駆け巡るような神さま、それが無限神、無限に無限に出てくるの。
これもプラスだけではない。プラスの神さまとマイナスの神さま、両方あるの。
虚の世界は、全部そう、プラスが出たら、必ずマイナスの支えがいるから。
正神界の神さまが出てきたら、邪神界の神さまってあるの。プラスとマイナスが、必ず両方セットで出てくるの。
このイザナギの神さまとイザナミの神さまのやり取りでも、古事記に詳しく書かれているけど、プラスの働きとマイナスの働きの両方が、必ず出てくるの。それで、八百万の神さまという無限神が一杯あって、その神さまがまた、この神通自在の自由自在なすがたを限定して形に現れて、物質化するような姿をとるの。
これは、限身(かぎりみ)という。限定を加えるわけ。自由を、自由に限定を加えて形に現れるの。だから、この世の全て、あの世の全て、みんな形がある。これ、限身(かぎりみ)のすがた。これも神さまのすがた。
それで、奥に神通自在な働きがある。これも全部、翔身(かけりみ)のすがた。これも神さま。それで、全体を統一してくれている。天照大御神を中心に働くこの働きも、輝く大きい働きの神さまの働き。これも、全部神さま。
だから、創造神も神さま。一番奥の一番隠れてわからない働きも、神さま。虚の世界の全部、神さま。
奥から末端まで全部、神さま。それは、真の神さまの愛を、全徳を、虚の世界へ残像として足跡として、現したすがたの世界。
真の神さまがなかったら、絶対虚の世界は生まれない。残像も何もない。
だから、根本は真の神さまがあって、虚の世界が生まれているの。虚の世界も真の神さまの映し、模型。だから、素晴らしいものもあるわけ。
神さまって、みんな呼ぶけど、本当は全部神さま。ありとあらゆるもの全部、神さま。全部神さまの愛の現れ。
だから、今の自分にとって、宇宙全部、全てが神さまの愛の現れとして、自分を愛してくれている。必要なものを与えてくれている。
遠いところの星からも、光が届いている。身近なこの空気からも、空気にも分子があって原子があって、
みんな喜び勇んで飛び回って、光を与えてくる。この与え方も、単なる物だけではない。
一霊四魂(いちれいしこん)・一元四体(いちげんしたい)という、この八つの要素を持って、全ての要素から必要なものを与えてくる。虚の世界ですらそうなの。
ありとあらゆるところから、神さまの愛が降り注いでいる。これを感じ取るのが、ありがとうございます。
ありがとうございますで、全てから神さまの愛を、これは無限の種類があるの。無限の段階があるの。全部受け取ったらいいの。
全てから、ありがとうございますで、神さまの愛を、愛のこの残像を受けたらいいの。
マイナスの言葉さえ使わなかったら、受け取れる。マイナスの言葉は、やっぱり拒絶するの。受け取らないという拒絶。
拒絶しても拒絶しても、なおかつ与えてくるの。目に見えないところでは、与えてもらっている。
拒絶するのは、ほんの表面の一部。気付かないところで与えてもらっている。
でも、拒絶するのをやめたら、神さまの愛がよくわかり始めるの。先ず、虚の世界から、全ての全てから、
どれだけ大きい愛を与え続けてもらっているか。想像を絶するものがある。これを順番に片っ端から、受け続けて行けばいいの。
虚の世界でも、虚の世界の天照大御神様の愛の大きさって、無限に無限に大きい。太陽のようなものではないの。
そんなちっぽけなものではないの。太陽を無限に集めたような、大きい愛の光体。光源になっている。
虚の世界の極でもすごい。虚の世界の闇もすごい。ブラックホールの全ての光を吸い込むぐらいの大きい闇もあるの。両方あっていいの。
虚の世界ですら、神さまの愛のすごさって、言葉で表現できないくらい無限にすごい。
そこから真実の世界に入ったら、本当の天照大御神様の表現ですら、虚の世界全体の無限倍。
愛がものすごい、無限に大きい愛。虚の世界の全体と比較して、真の神さまの世界の一個の天照大御神様の表現を対比させてみたら、
一個の天照大御神さまの表現ですら、虚の世界を遥かに超えているの。そういう真の神さまの世界の一個の天照大御神様、
それがまた無限にあって、それを束ねる一段上の大きい天照大御神様があって、更にそれが無限にあってという風に、
入れ子構造で奥へ奥へ大きくなるにつれて、どれだけすごい神さまの愛のすがたかって。言葉で本当は表現できない。
それが絶対の中心に向かって、ずっと続いている。
だから、真の神さまのすごさは、愛のすごさは、単なる言葉ではないの。
本当のありがとうございます、真のありがとうございますで神さまに融け入って、初めて実感させてもらう。
自分を神さまの中へ、融け入らせるというのは、自分を与え尽すだけ。ありがとうございますを捧げ尽くして、自分を与え尽すだけなの。
このありがとうございますが、曲者なの。単なる感謝ではないの。受け取るだけではないの。
もし受け取るという感謝だったら、真の感謝になったら、全部から真の神さまの愛を全部受け取るの。
全部受け取って、受け取った分を、ありがとうございますで真の神さまへ、全体へ捧げ尽くす。その時に循環交流が起こるの。
それを一回一回するって、遅いよね。これが無限のスピードになってくる。すごいよね。中身がどれだけ濃いものになるか。
スピード化すればするほど、中が充実したすがたをとってくる。
こういう神さまにみんな、生かされて愛されて、みんな一体化して、一つに包まれているわけ。
本当に自由自在な心を、意識を、与えてもらって、全ての立場に立てるし、全てを感じ取れるし、どれだけ幸せかわからない。
ただこれは、言葉で、言葉通りに感じるようになっているから、言葉を選んで駆使することによって、みんな違うの。
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