Facebook相田 公弘さん投稿記事 「捨の修行①」 坂村真民
年をとると、どうして駄目になるのか。これだけはじぶんが年をとらねば わからぬことである。どんな英雄でも、年をとって駄目になり、 その栄光の歴史を、晩年で汚している。
そのわけは一言でいえば、自分を捨てきれないからである。
捨てるということが、どんなに大事であるか、 そしてどんなに難しいことであるか、
かつての柔軟な魂を喪失し、頑固さだけが残り、 一切の判断が齟齬(そご)してゆくのである。
「捨の修行②」
仏典も聖書も捨を言う。 だから究極はここにこなくてはならぬ。でも、ここにくることの何と至難なことであろう。大変な行を積んだ人でも、その行からきた 名声地位を捨てきらずに駄目になってゆく。
(中略)
人間は修行を怠ると一ぺんに駄目になる。 捨にも修行が大事である。
Facebook新垣 玄龍さん投稿記事
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。
道元
https://ja.empatheme.org/emp-0451/ 【自己をならふというは自己をわするるなり①[心身脱落は「じぶんを忘れよ」ではない]】より
大和和尚との対話から。正法眼蔵の核心について。
立考:「自己を忘るるなり」ということばがありますね。
大和:はい。道元禅師のことば。『正法眼蔵』のはじめのほうに出てきます。
立:仏道のエッセンスは自己の究明だと言っていますね。
大:そのとおりです。
立:自己の究明だ、と言いつつも、それ以上のことを言っているように思えます。
大:はい、それもそのとおりです。
立:字句の解説はたくさんありますが、なかなか、イメージできないですよね。
大:そのような体験をすること、それを想像できるようになることが、エッセンスです。
立:「心身脱落」ということばもあります。
大:ひと言だけが「ひとり歩き」すると、かえってわかりにくくなります。
立:ここのところですね。番号をつけてみました。
『正法眼蔵』現成公案
Unlearn your “self”.(じぶんを忘れよ)
大:仏道とは何か?①は、ひと言で言い切っています。
立:それを受けて、②は、自己をならうとは何か?それは自己を忘れることだ、と。
大:自己を忘れるとはどういうことか?③と④で説明します。
立:自己を忘れる、とはじぶんを投げ入れるようにして、周囲にとろけるといった、かんじでしょうか。
大:はい。それが道元禅師の実感するセンスですね。
立:それをひと言にしたのが「身心しんじん脱落だつらく」ですね?身心脱落の身心は、じぶん。
大:じぶんを忘れるとは、じぶんだけのことではありません。じぶんが包まれている共感の宇宙によって明らかにされることです。
立:自己、他己ということばがでてきます。
大:すべての存在、物事が、みんなおなじように、自己という存在。じぶん以外のすべての自己が他己です。
立:自己も他己も、すべてを包みこんでいる。またそれが、自己・他己の中にも感じられる、この宇宙に照らして。
大:はい。宇宙というのは銀河系とか太陽系のことじゃなくて、すべてのものごと、万象森羅です。
立:じぶんを投げ入れて、宇宙に包まれている感覚。そういうかんじでしょうか?
大:身心脱落こそ。でも、実は、それだけではダメなのです。
立:あれ?身心脱落がすべてなのでは?
https://ja.empatheme.org/emp-0452/ 【自己をならふというは自己をわするるなり②[脱落す
Learn to unlearn your “self”(じぶんを忘れる、を身につける)】より
立:「自己を忘れる=身心しんじん脱落だつらく」だけではないのですね?
大:身心脱落と表裏一体の、等しく、大切なことがあります。
立:ああ、それが脱落だつらく身心しんじんですね。
大:そうです。身心脱落するじぶん自身を、たしかめること。脱落身心であることです。
立:どうやって確かめるかというと、脱落する体験そのものによって、ですよね。
大:そうです。「身心脱落 AND 脱落身心」です。
立:なるほど、身心脱落が前工程とすると、脱落身心は、後工程ですね。
大:わかりやすく言えばそうですが、そのふたつは、一緒のこと(一如)です。
立:じぶんを忘れた、というだけではない。そのことを、確かめること。
大:確かめられるように、じぶんを忘れるのです。
立:自覚することですか。
大:そうです。証がないと修めたことになりません。
立:なるほど。だから「修証しゅしょう一如いちにょ」というのですね。
大:はい。イコール(=)の等価記号です。体験と自覚は切り離せないのです。
立:ひとつのことだけれども、ふたつの側面で言っておいて、実はひとつなんだよ、と。
大:はい。道元禅師は、ものごとを逆転させるイマジネーションを明快な論理に集約します。
立:なるほど。でも、それをしくみとして捉えるには、まずステップの順にいくしかないですよね。
大:そうですね。だから、「身心脱落⇄脱落身心」と言ったのでしょう。
立:修=身心脱落(じぶんを忘れる)。そして、証=脱落身心(そのことを自覚する)。
大:証=自覚することによって、はじめて修=行為になるのです。だから「修=証」です。
立:やりっぱなしはダメですよ、というのとはちがいますか?
大:もちろん、それも含まれます。まずは。
立:証がないということは、実感のない行為ということになるわけですよね?
大:ええ。やりっぱなし以前に、しかるべき行為になっていない。
立:すこし、まとめてみました。
『正法眼蔵』現成公案
・(A) 身心脱落とは? なりきって、じぶんを忘れること。周りの世界の中に自己投出。
・(B) 脱落身心とは? そのじぶんを、ふりかえって自覚すること。そのじぶんになること。
・(C) 修証一如とは? (A)=(B)。 (B)によって(A)が支えられる。証のない修はない。
https://ja.empatheme.org/emp-0453/ 【自己をならふというは自己をわするるなり③ [忘れるとは、相手の存在をイメージする共感的な想像力]】より
Unlearn to learn your “self”(じぶんを忘れるを身につけてこそ、学べる)
立:自己を忘るるなりを、もう少し、かみくだいてみたいです。
大:忘れるとは、じぶんがなくなることではありません。なくしてしまうことはできません。
立:自分自分と思っている、その縛り自体を、いったん、ゆるめなさい、というかんじですかね。
大:そうです。自己という概念を解きほぐすことです。
立:でもそれは、じぶんがとろけてなくなっていたかのような、夢中か無心の体験がいるわけですね。
大:そうです。概念を解きほぐすといって、頭で考えるのではないのです。
立:考えてみると、人間の脳にも、マイナスという概念がありません。
大:うまいことを言いますね。そう。忘れる、消し去る、という機能はありませんね。
立:消し去るわけにはいかない。そもそも、消し去るべきものが脳の中にあるわけではないですから。
大:忘れていたかのような状態。後からふりかえると、忘れていたんだ、と思えるような状態。そこにしむけることはできる。それが学びです。
立:脳は、何度も繰り返したもの、重みづけたもの、結びつけたものが優位になるようにできています。
大:そうですね。キャンセルボタンや、削除キーのような、ものはないかわりに。
立:忘れるというスイッチはないのだけれど、忘れるという状態にみちびくことはできる、と。
大:大切なことを学ぶということは、じぶんを忘れている、ふるまいやおこないによるものです。
立:ということは、じぶんはいくらでも変われるということになりますね?
大:もちろんです。あなたが言うところの「じバリア」をはずすこと、やわらげることが第一歩。
立:人間は、じぶん中心に考えるのがデフォルトだとすると、時々、そのじぶんをゆるめる必要がありますね。
大:できれば、毎日一回、静穏のひと時に、じぶんをふりかえる小さなルーティンを持つことです。
立:じぶんを忘れるぞ!というふうに考えることではないのですね。
大:自己とは何か?などという、まずじぶんから、あらかじめ決まった存在である、といったイメージを薄めること。
立:野山を歩いていて夢中になっていたり、何かを無心でつくっていることも、じぶんを忘れる体験ですよね。
大:そのとおりです。ただし、それをふりかえることが、もっと大切です。
立:忘れていたことに気づくこと。気づく体験を、忘れる体験にあわせる、というかんじでしょうか。
大:そうですね。自己を究明していくと、その究明している自己という課題に行きついてしまうのですね。
Empathemian 『ゆだねる』
立:だから、忘れて、忘れていたことを思い出す。忘れているじぶんに、なろうとする習慣をつくるわけですね。
大:仏道では、それが修行です。
立:私たちは、日常生活の中で、修養すること。ゆだねることですね。
https://ja.empatheme.org/emp-0454/ 【自己をならふというは自己をわするるなり④ [相手を思う心と親切なふるまい]】より
Practice Empatheme.(エンパシームでプラクティス)
立:だれにでもできる修養。日常的なコンテクストに置いて考えてみましょう。
大:ええ。そもそも仏道とは「安らかに生きるプラクティス」を日常にみちびくものです。
立:たとえば、先入観を捨てよ、とか、固定観念に囚われるな、とよく言います。
大:自分を忘れて、というのは、自分の心だとか、考えだとか、そういうところから出発すると必ず頓挫します。
立:それはじぶんが世界のおかげて存在する、つまり、縁よっていることを想像することだというのですね。
大:山があるじゃないか。川があるじゃないか。それをそれとしてみることが、忘れることです。
立:忘れよう、忘れようと気張ることではないのですね。
大:それ自体、じぶん中心とちっとも変わりませんから。
立:もっと端的に、自然に親しむこと、というふうに思ったらわかりやすいかもしれません。
大:ええ、現に、正法眼蔵には、親しむということばがたくさん出てきます。
立:そういえば、「山河の親切」ということばがありました。
大:自然はじぶんに親切です。
立:そういうことに気づくことが、親身になることでしょうか。自力=他力、というか。
大:そもそも、自己とは、他者・世界との関係においてしか、意味をなさない存在です。
立:じぶんとは、自己と他己との関係においてなんだ、を思い出すことだ、と。
大:そうです。縁起(つながり)があるから、存在になる(と思える)わけです。
立:身心を脱落させる、というのは、そのような次元で捉え直す、ということですね。
大:そうです。単に、忘れる話ではないのです。忘れるというより、「忘れる」を思い出す、が半分。
『正法眼蔵』現成公案
立:親しくふるまうことでいいんですね。親身になる、相手を思いやる状態は、英語でいうと、empathicです。
大:なるほど。あなたがなぜ、そのような小さな修養を実践するコンセプトに、エンパシームという命名をしたかわかりました。
立:共感的な想像力を引き出すための作法であり、技術であり、心の素だからです。
大:一瞬一瞬の、エンパシーが引き出される時・場を捉える。それを人間も機械もおなじようにできる「手助け」ですね。
立:共感的な想像のことを英語でempathy(エンパシー)と言います。辞書にも、このようにでてきます。
Empathy: the imaginative projection of a subjective state into an object so that the object appears to be infused with it.
(じぶんの状態を周囲のものに投影し、あたかもそのものと一体になっているかのように感じられる想像)
大:エンパシーの本義には「自己を忘れる」があるわけですね。
立:はい。それはあらゆる他己、森羅万象の力を借りること。それが共感の源。
大:「正法眼蔵」は、思想の詩画です。実は、共感的な想像力のプラクティス道場だったんですよ。
・自己をならふなり learn one’s self
・自己を忘るるなり unlearn one’s self
・Learn to unlearn your “self” (じぶんを忘れるプラクティス)
・Unlearn to learn your “self” (そのふるまいによって、じぶんというものに気づく)
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