Facebook清水 友邦さん投稿記事
九州に大和朝廷に従わなかった土蜘蛛と呼ばれる古代日本の先住民がいました。
土蜘蛛(ツチグモ)は中央集権を築いた朝廷が、それ以前からの先住民に対して、劣った野蛮人としてみた名称です。
中央集権が確立される前の古代の日本は隼人(ハヤト)熊襲( クマソ)肥人(クマビト)土蜘蛛(ツチグモ)国樔・国栖(クズ)八束脛(ヤツハカギ)佐伯(サヘキ)古志・高志(コシ)粛慎(ミチハセ)蝦夷・毛人(エミシ)と呼ばれた数多くの異なった言語、文化、生活習慣を持った集団で構成されていました。
天皇に従わない先住民は大和朝廷と異なる言語、風俗、習慣、価値基準を持っていた異民族とみられていました。
「この人、つねに穴の中に居り。故、賤しき號(名)を賜ひて土蜘蛛といふ」(風土記逸文摂津國)
土蜘蛛とは狩猟採集をして竪穴式住居に住む、背が低く手足が長い縄文の末裔の人々だったようです。
日本書紀には、九州の福岡に侵攻した神功皇后の軍が土蜘蛛(先住民)の田油津媛(タブラツヒメ)を誅殺した記述が出てきます。
宗教や文化が異なる先住民が征服されると文化が近い民族の場合は、税を収集するだけで文化を破壊せず社会構造は温存されました。異文化の集団は文化の破壊と虐殺が起きています。
自分の属する文化・民族・国以外の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度をアメリカの社会進化論者ウィリアム・サムナーの造語でエスノセントリズム(自文化中心主義)といいます。
分離した自己は、自分と他人を分けて自己中心的な物語の中にいます。
内面の抑圧が強い人はシャドーの投影に気がついていないので自分以外の他者、集団、国に嫌悪感を持ち攻撃をしてしまいます。
肥前風土記に「肥前の国に大勢の土蜘蛛がおり、景行(けいこう)天皇(紀元前13年~紀元後130年)の命令に従わなかったため、 退治された」と出てきます。
肥前国風土記に出てくる土蜘蛛のほとんどは景行天皇に誅殺されています。
佐賀県佐賀市大和町東山田の佐嘉川上流に、土蜘蛛のオホヤマダメ(大山田女)・サヤマダメ(狭山田女)がいました。
この地に荒ぶる神がいたので、この土地の支配者「大荒田」が、二人の土蜘蛛に占わせて、荒ぶる神を祀ったら、静まりました。そこで二人の女性は崇められ感謝されて「賢女(さかしめ)」と呼ばれました。
それが佐賀の地名の由来となったと言われています。
土蜘蛛が賛辞を贈られる例は珍しく、オホヤマダメ(大山田女)・サヤマダメ(狭山田女)は人々から尊敬される偉大な女性シャーマンだったのでしょう支配者の大荒田が敬意を払った様子が伺えます。
支配者の大荒田も土蜘蛛のオホヤマダメ(大山田女)・サヤマダメ(狭山田女)も田がつくところからこの地では古くから稲作をしていたようです。
またこの地区には嘉瀬川を護る水神様を祀る與止日女(よどひめ)神社があります。
別名 豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」世田姫(ヨタヒメ)豊玉姫(トヨタマヒメ)とも言われています。
荒ぶる神だった與止日女命(よどひめ)を祀った與止日女神社は肥前国一の宮になっています。
この地域の土蜘蛛は比較的平和に融和していったようです。
佐賀県唐津市見借(みるかし)の海松橿姫(みるかしひめ)という名の土蜘蛛は景行天皇に従わないので誅殺したという記述が肥前国風土記に出てきます。
景行天皇が豊前国の宇佐(大分県宇佐市)にいたときにハヤキツヒメ(速来津媛)は率先してこの土地の情報を報告して土蜘蛛を捕らえさせたという記述が出てきます。
景行天皇が熊襲親征で海部郡(大分佐賀関あたり)宮浦に停拍された時、 その村の長・速津媛が来て、この山に鼠の岩屋という大きな岩屋があり、土蜘蛛が二人(青・白)住んでいる。 また、直人の郡祢疑野に、土蜘蛛が三人(打猿・八田・国摩侶)が住んでいると奏上した。 そこで、天皇は兵士を遣わして討伐した。これによって名を速津媛の国といった。後の人が改めて速見の郡という。『豊後国風土記』
速来津姫(ハヤキツヒメ)の名前は早く天皇に服属したという意味に取れます。
三種の玉を天皇に献上したとありますので、この地域の女性リーダーだった速来津姫(ハヤキツヒメ)は平和的な解決を望んで近隣の同族を説得して戦いを避けたのかもしれません。
速来津姫と速津媛は早吸日女神(ハヤスイヒメノカミ)として、大分県大分市大字佐賀関の早吸日女神社に祀られています。
長崎県彼杵郡(そのぎぐん)浮穴郷の 浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)は天皇に逆らったので滅ぼしたと書かれています。
日田市天瀬町五馬市に玉来神社(たまらいじんじゃ)がありますが景行天皇と土蜘蛛のイツマ姫(五馬媛)を祭神としています。
風土記では昔、五馬山に土蜘蛛がいて、名をイツマ姫(五馬媛)といったという簡単な記述しか残されていません。
土蜘蛛のイツマ姫(五馬媛)が景行天皇と一緒に神社に祀られているのは異例といってもいいと思います。
ほとんどの土蜘蛛は天皇に誅殺されているので全国でも土蜘蛛を祭る神社は見当たらないので神社に祀られている土蜘蛛はおそらくイツマ姫(五馬媛)だけかもしれません。
イツマ姫(五馬媛)は人々に尊敬された女性リーダーだったのでしょう。
イツマ姫(五馬媛)を祀る玉来神社は現在の日田市ですが古墳や遺跡がある古代から栄えていた地域です。
戦前に日田の古墳から金銀(きんぎん)錯嵌(さくがん)珠龍文(しゅりゅうもん)鉄鏡(てっきょう)が出土しました。
卑弥呼の時代の鉄鏡なので、卑弥呼か後継者のトヨのものではないかと邪馬台国論争の舞台にもなっています。
豊後国風土記に景行天皇が熊襲征伐後に日田にやってきたとき、ヒサツヒメ(久津媛)という神が人の姿をして出迎え、地域の状態を報告し、それによってヒサツヒメ(久津媛・比佐津媛)の郡というようになり、訛って日田郡というようになった由来が書いてあります。
『日本書紀』の景行天皇の巻によると、豊国のカムナツソ姫(神夏磯媛)は、天皇の使者が来ると賢木の枝に八握剣と八咫鏡と八尺瓊勾玉をかけ、船の舳先に素幡(白旗)をたてて帰順したことが出てきます。
三種の神器を持っていたカムナツソ姫(神夏磯媛)は山口県から福岡にかけての地域の首長でした。
山口県防府市富海の国津姫神社と福岡県田川市夏吉の若八幡神社はカムナツソ姫(神夏磯媛)を祀っています。
『日本書記』(神功記)に、山門(やまと)県で土蜘蛛のタブラツ姫(田油津媛)が天皇の軍に誅殺されると、軍を起こしていた兄の夏羽は逃げたとあります。
福岡県の山門(やまと)を治めていた兄妹はカムナツソ姫の孫かひ孫だったようです。
福岡県みやま市に女酋長の宇津羅姫(うづらひめ)の墓があります。
ここは昔宇津と呼ばれる川の合流点で黒崎から岩津の高田行宮に至る航路を宇津良姫(うつらひめ)が景行天皇を守護して案内したという伝承が残されています。
天皇に帰順しないものは土蜘蛛にされて誅殺され、従うと媛の敬称がつきました。
日田のヒサツヒメ(久津媛・比佐津媛)神は神の尊称まで受けています。
そのほかに別府のハヤツ姫(速津媛)、由布院のウナグ姫(宇奈岐日女)福岡県八女郡のヤメツ姫(八女津媛)の名前が残っています。
佐賀県杵島郡(きしまのこほり)に景行天皇が行幸した時、八十女(ヤソヲミナ)という土蜘蛛がいた。八十女は背いて降伏することも無かった。そこで、天皇は兵に命じて滅ぼした。これによって嬢子山(おみなやま)と呼ばれるようになった。「肥前国風土記」
土蜘蛛のリーダーは土蜘蛛八十女人(大勢の女性土蜘蛛の意味)と呼ばれたようにほとんどが女性達でした。
縄文時代から出土する土偶はほとんどが女性像です。
そして世界を見ても古代は母系社会で女神信仰だったことが明らかになっています。
母系社会の子供は母親の一族が育て家と財産は娘が相続します。男性と女性は一緒に生活しないで夜だけ女性の元へ男性が通いました。家に父親はいないので一家の主人は女性でした。
九州では早くから稲作が行われていましたが縄文から続く母系社会の伝統を継続していましたので族長は女性が多かったのです。
縄文時代は母系社会で女性が主導権をにぎっていました。
それで土蜘蛛には女性リーダーが大勢いたのです。
弥生時代の3世紀ごろは女性シャーマンの卑弥呼が「まつり(祭り)」をして「まつりごと(政治)」は男性だったことが『魏志倭人伝』に書かれています。
中央集権制が確立する前の古代は女性が祭りごとのリーダーだったのです。
戦争をするのは男性でしたので軍事リーダーは男性でした。
古代は男性と女性が入れ替わり王として即位していましたが、古墳時代になると徐々に女性リーダーは姿を消していきました。
祭祀も男性が独占するようになると聖地の女人禁制が現れました。
室町時代あたりから男性が祭祀と政治を完全に独占するようになりました。
古代においては女神が最高の神でした。
それが戦いが始まると男性原理が優位になり女神・女性は憎悪の対象になって引き摺り下ろされてしまいました。
そこには、愛を受けれとれなかった男性による母なるものへの投影があったと見ています。
長い間、分離敵対する男性原理の優位が継続してきました。
その結果、人間の経済活動が環境を一定の状態に保ちつづけようとする地球生命体のホメオスタシス(恒常性)の許容範囲を超えてしまいました。
生命は環境の変化に応じて自身を変えていく変容性(トランジスタシス)をもっているので、女性原理がこれから加速していくでしょう。
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