https://sectpoclit.com/tsukino-20/ 【梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太【季語=梅(春)】より
2018年2月20日、98歳にて他界された金子兜太師。もうすぐ4回目の命日を迎えるにあたり、この場をお借りして、師の俳句に向かい合い、師のご冥福をお祈りしたい。いつもよりも長くなることをご海容いただきたい。
日頃自分と意識している自分、である顕在意識または表層意識(文章中では単に「自分」とする)が、俳句作りに入るとき、「自分」には意識されない自分、である潜在意識、深層意識または無意識の領域(文章中では「内なる自分」とする)との対話がすでに始まっている。
「内なる自分」は身体(五感)と心を入り口としていて、「自分」にあるような言語も時間概念も持たず、「自分」が体験する外界の出来事と「自分」が想像することとの区別をせず、個人の存在の記憶や知情意(個人的無意識)のみならず全ての存在の記憶や知情意(集合的無意識)およびその彼方の根元的なエネルギーに繋がる途方もなく豊かで深遠な領域だ。
「自分」と「内なる自分」の対話による創造活動は、「自分」と「内なる自分」との共同作業。その対話は、頭ではなく心にて、理屈ではなく感覚的に、考えるのではなく感じるやり方で、起こる。
「内なる自分」は全ての創造の源泉であり、俳句でいうならば、「自分」との対話において「内なる自分」から「自分」に返事が届き、作品を成し、その作品が「内なる自分」の、その個人ならではの独創性と、もっと深いところにある存在全体であるがゆえの普遍性を得ている場合、その作品は「理屈でなくて感覚的にわかる」「言葉ではうまく説明できないけれどとても惹かれる」といった印象を読者に与える。そしてその作品は「読者に読者それぞれの自由な解釈(読者にとっての「自分」と「内なる自分」との対話)を許す」という自由を獲得する。詩の誕生である。
筆者は、掲句が作者にとっての「自分」と「内なる自分」との深い対話によって成された詩の一つと直感する。
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
掲句の伝える風景は、「〈梅〉が〈咲いて〉その〈庭中に青鮫が来ている〉」と具体的で明快かつ極めて独創的。
修辞法でいうとすると、〈梅〉が〈咲い〉たときの様子を、中七下五は暗喩しているということができるだろうか。それを明喩にほどいてみると「〈梅〉が〈咲い〉て〈庭中に青鮫がきている〉ようだ」。作者は「梅が咲いている、その庭中に青鮫がきているように感じ」ている。
たとえば、梅が咲く頃の春だけれどまだ寒い空気の感触。光、それによる陰影の具合。梅の花が風に揺れる様子。それらが渾然と溶け合うほとりに明滅する「内なる自分」の領域特有の「うめ」から「うみ」への戯れも誘い込み、海のゆらめきのような感じが体験される。その海に青鮫。冴え切った青い大気のシャープさ、梅の花の凜然とした佇まいと、青鮫の鋭さは、感覚を介して通じ合っている。
さらにこの〈梅の花〉と〈青鮫〉の出会いは鮮烈で印象的で、一見、静的な〈梅の花〉に内包されている動的なエネルギーが〈青鮫〉によって表に押し出されてくるような不思議な感覚に漂っているうちに、〈梅〉と〈青鮫〉、植物と動物と種類は違ってもその奥に爛爛と脈を打っている一つの生命が想起され、掲句自体が全ての生きものの奥底に、永遠に続く普遍の命のエネルギーの比喩のように思えてくるのだ。
それと同時に、まだ「自分」が掬いきれない「内なる自分」が伝えようとする何かが予感される。それがまた掲句の魅力であり、これからも筆者を何回も掲句に惹き寄せることだろう。
「海程」2018年7月「最終号」にて「金子先生と海程から得たもの」というテーマにて寄稿する機会をいただいた。筆者が挙げた「俳句は詩」と「俳諧自由」とは、掲句の中に存分に見られると信じる。皆さんに寄稿文を紹介させていただこうと思う。
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ありのままを探求 月野ぽぽな
海程入会に至る直接の理由は、俳句を始めて二年の独学の後、結社を探す中でみつけた金子兜太著『今日の俳句』に感銘を受けたこと、更にウェブサイト「兜太ワールド」に見る東京例会の模様が気に入ってのことだが、今思い返すと、俳句との出会いによって救われ息づき始めた私の源泉つまり魂が、小さい器である俳句が成しうる大きな救済の力を、戦時中における師自らの体験や、故皆子夫人が病床にあった時の句作活動を通して深く知る、金子兜太という深遠な源泉に強く引き寄せられらたのだと思う。このご縁に感謝して止まない。
具体的に師から何を得たか。まずは「俳句は詩」であるということ。『今日の俳句』の中で師は、それを、身体をくぐった自分の言葉で語っている。「<詩>とは理知の根にあって、やがて理知を燃え立たせる力となる<感情>に根拠を置くということ・・・その言うに言われぬもの、それが人を動かし、表現への意欲をかきたてる、目に見えぬエネルギーであって、これをしも、感情の純粋衝動という」「感情という言葉を<存在感>という言葉に置き換えたいのである。<存在>という概念が強く求められるのは、まさに<詩>においてであると私は思うからだ」「<詩>の本質は、<叙情>であるが、その<情>つまり<感情の純粋衝動>とは、<存在感>への純粋反応である・・・感情が、つまり心的機能が生地のままであればあるほど、その反応は<存在>に向かって深く行われる」師の声が聞こえてきそうだ。作品から<存在感の純粋衝動>つまり<詩>を鋭く感知する師の目を私は信頼し句作してきた。
そして「俳諧自由」。最短定型を母体とする他は、季語に囚われず、特定の題材に囚われず、俳句を成す言葉はすべて「詩の言葉」になり得ると心して発想も措辞も自由に作ること。これを師は実作や選によって、また海程の仲間の個性溢れる作品によって俳壇に発信してきた。過去からの恵み豊かな俳句への絶対的な信頼と絶大なる愛情があるからこそ、師はその恵みを尊びながらもそこに安住することなく、さらに豊かな未来への可能性を意識的に、積極的に開拓してきたのだと、そしてその可能性の種を持っているのは俳句に魅せられた仲間の一人一人であると師は確信していたのだと思う。一人一人がそれぞれの<存在>つまり、その人の<ありのまま>に向けて、心を凝らし、肉体を凝らし、その人でなければ通れない道筋で近づいてゆくことが、あらかじめ何かは説明できないが、見ればそれとわかる新しい何かを含む<詩>の生成を可能にする。ありのままの自分の探求は、人類の普遍的な<存在>に通じ、終にはその最も深くにある万物共通の源泉、アニミズムに至る。師が信じた、一人一人の中にある俳句の可能性が私の中にもあることを信じて、地道に句作を続けてゆきたい。
「海程」2018年7月 544号(最終号)より
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師が他界された日のおよそ1ヶ月前にあたる2018年1月26日、角川俳句賞贈呈式のご報告のため初めてご自宅を訪ね、笑顔の先生と幸せな時間をご一緒した。
ふと師の庭に目をやると梅の樹に花が一輪咲いているではないか。この日の熊谷はよく晴れそしてよく冷え込んだ。庭に満ちる空の青さと光に映える花の赤。きりりとくる体感。庭の土や樹々から滲み出る、爆発のときを待つかのように蠢うごめく生命のエネルギー。
そのとき、庭に、青鮫を、見た
一指李承憲@ILCHIjp
人生が思うようにいかない。何かを逃しているような感じがする。道を見失ってさまよっている気がする。そんなときはしばし立ち止まり、自分の周りや内面で起こっていることを眺めてみる時間が必要です。瞑想は、そんなときのためのものです。瞑想は、現在に完全にとどまることから始まります。
Facebook五島 秀一さん投稿記事
善だと思っていたものが、悪でもあり、悪だと思っていたものが、善でもある。
被害者だと思っていたものが、加害者でもあり、加害者だと思っていたものが、被害者でもある。自分の外にあるものは、常に不安定であり、真の光は、自分の内側にしかない。
誰かを批判する事は、無意味であり、ひたすら自分の内なる光と対話しながら、より良きものを生み出すしかない。
https://note.com/shuoffice/n/n3b46ea82c8bf?fbclid=IwAR2lEAw2CZ9MdrUsSDh21BzNwVCvSI7PeXrcfwWF0GxM2GHF3BLd902pBGY 【反復する歴史【スサノオを演じた織田信長】】より
僕は昔から歴史物語が大好きだ。
それはフィクションではなくノンフィクション、そこには生きた人間の真実がある。
例えば、戦国武将の物語ひとつとっても、その物語の中には、サラリーマンでも主婦の人でも、身近な人との小さな諍いにしても、すべての人、すべての人生のヒントになるものが散りばめられている。
事実として何が起きたか?よりも、人間の心理描写に目を向けると、自分と共通するものを見つけて、それは現実の問題を解決する糸口のきっかけとなるのだ。
今日のようにカリスマ性を失った時代、国もそう。アメリカも急速に求心力を失いつつあるし、次はどこの国が取って代わるのか。
日本国内を見てもそう。このような無極時代というか、極のない時代は、またすごい統率力を持った人間が必ず出現する。
それは時代がどうであれ、無風状態で無秩序な状態。しかし必ずいつの日か、極、渦、中心が生まれてくる。
ランダムになるほど渦が生じる
コップの中の水の水分は、非常にランダムな動きをしている。これがどんどん加速すると、最終的に無秩序になるのではなく、逆に渦ができる。
渦は一つだけでなく、あちらこちらにたくさん生じ、無秩序状態が続けば続くほど、逆に小さな秩序を作っていく。
ちょうど今の世界のように、グローバリズムが広がっていくと、逆にナショナリズムの小さな世界が展開していく。
皮肉なものだ。広がっていくと逆に縮まっていく。
同じことがコップの水の中の渦にも起きる。ランダムになればなるほど、だんだん渦ができてくる。
この渦が生じることを、数学で証明することもできる。
無秩序になればなるほど次第に渦が生じて、秩序化して渦の中心を作る。
世界から自分を見た信長の生き様
新しい時代が必ずはじまる。
戦国時代もまさにそうだった。
群雄が割拠する戦国大名、戦国大名の役目の一つは領主だ。「安堵する」と言うのは、領主が認可すれば土地を所有することができるというもの。
今の日本は、国が認可しない限り自分の私有地を確保することができない。しかし戦国時代は、領主がいて、その勢力が及ぶ範囲内で、例えば信長や信玄などの認可状さえあれば、土地を所有することができた。それが領主の働きだ。
そのように群雄割拠して、日本国中が入り乱れていった時に、織田信長という一人の英雄が出現した。
第一に信長からわかることは、武田信玄にしても、上杉謙信にしても、自分の城の拠点を、生涯一度も変えたことがないのに対し、信長は不思議なことに、岐阜に移動したり滋賀の安土城を拠点としたり点々とした。
自分の拠点に全く執着しない信長が天下を取っていく。これはある意味、重要なヒントになるものだ。
それは、自分の職業や居場所に全く執着しない。外から見るとジプシーのように彷徨ってるようにしか見えない。時には人生観すら変えてしまうかもしれない。
そんな信長が天下統一の道しるべを作った。それは、「自分から世界を見ていた」のではなく、「世界から自分を見ていた」ということ。
当時は宣教師が持ってくる地球儀を見て、世界と判断するしかなかったはずだ。しかし信長は、少なくとも日本全体を見て、今の自分はどこにいるべきなのかと考えた。
今は岐阜、次は安土城だ、というように、全体から見て自分の居場所を決めるという、不思議なバランス感覚を持っていたのが信長だった。
時には朝に言ったことと夕方言ったことが変わってもいいじゃないか。
全体を俯瞰する能力、全体を見て自分の意見を決める。
だから宣教師から地球儀を渡されて、「地球は丸い」と言われた時に、「そうだろうな」と言った。普通の戦国大名だったらそんな反応はしない。
反復する歴史
古事記の中に出てくるスサノオは、出雲に行ってヤマタノオロチを退治し、尾から剣を発見する物語だ。
剣は銅ではない、鉄だ。古代に鉄器文明が行われていた暗示であろうと思われる。
しかし銅にしても鉄にしても、従来の石や木に変わる非常に合理的な文明のはじまりを象徴している。
事実はともかくとして、どうも歴史というのは、太古の人が行なったことを、近世現世の人が反復する傾向があるようだ。
その点から考えると、信長というのは歴史的に見るとスサノオの役割を演じたのではないか。公家を相手にあしらっていく。公家はアマテラスだ。
アマテラスは偉大で素晴らしいリーダーだったと思うが、それだけでは外国の文明にやられてしまう。だからスサノオが悪役を買って出た。
平和的な農耕文明に対し、スサノオは国家を強くするための鉄器文明を作った。それまでの農耕文明にとっては、鉄器文明は大きな脅威となり、信長が急進的に合理的な文明を進めていったことは、スサノオと信長が重なるところだ。
アマテラスと公家、スサノオと信長、歴史は反復されていく。
そうするとアマテラスや信長に象徴されるような出来事が確かにあったはずだ。
人間は魚類、両生類、哺乳類と二十数億年の生命の歴史を、母親の胎内で十月十日の間に反復するように、歴史には反復性があると言える。
そのように、合理的な時代がもたらすスサノオのような存在がいたことを、信長の生き様を見て、スサノオの存在を理解することができるはずだ。
なぜ光秀は謀反を起こしたのか
大河ドラマなどを見ていて疑問に思ったことは、果たして光秀はなぜ謀反を起こしたのか?ということだ。
その動機を知りたい。しかし納得できる解説されたものがない。
秀吉がバックで糸を引いたのではないか? 一番特をしたのは家康だから家康が仕組んだのではないか?
果たして歴史上の登場人物たちは皆、いかなる時も理性的に合理的に動いたのであろうか? 私たちも止むに止まれぬ衝動で起こす出来事がたくさんあるはずだ。
後世の人間はそれを振り返った時に、きっと何か意味があったに違いないと、歴史家たちは合理的で知的な側面からだけ過去を推理する。
その手法が功を奏することもあるが、どうも光秀はそれでは解せないところがある。一体なぜ謀反を起こしたのか?
僕の個人的見解では、明らかに光秀は、信長の家来からするとよそ者だ。長く信長に仕えていた人たちから見たら、足利政権と仲の良い光秀が突然やってきて雇用される。
だから光秀は、昔からいる家臣たちにとっては面白くない存在で、仲間外れにされる傾向があった。
信長は、男性も女性も好んでいたと思われる形跡があり、真実かどうかは別として、前田利家は信長の寵愛を受けていたという説もある。
うごめく巨大な嫉妬心
光秀と利家のエピソードを追いかけていくと、面白いことが浮かび上がってきた。
1581年、利家は二十三万石の領地を安堵された。その一年前の1580年には、光秀は丹波一国を与えられ三十四万石となっていた。
時系列に並べてみると、1580年に光秀は先に大領主となっていた。その後を追いかけるようにして、利家は能登の国の城主となっていく。光秀のすぐあとを利家が追いかけてくる、その差が十一万石と言っても光秀はヒヤヒヤの状態だ。
そして1582年5月、光秀は突如家康の饗応役を解任される。無作法があったのか。出世レースにすると、一歩先を走っていた光秀に異変が起きたことになる。
突然大役を解かれ、あとを追いかけてくる利家のことが気になっていたとすると、居ても立っても居られない状態だ。
そして1582年6月21日、本能寺の変が起きた。
どれだけ頑張って実力で凌駕しようとしても、利家が寵愛を受けているせいで、光秀は出世レースから外されていく。
その巨大な嫉妬心が光秀に働いたのではないだろうか。
光と闇の両方を持つ英雄
信長は、欲しいものは全て手に入れるという、ある意味ものすごい闇の力を持っていた。それは光にも闇にもなる可能性があるが、どちらかというと闇の方が強い。
一方で、秀吉など外から来た人間にも活躍の場を与えるという光も持っていた。
信長は光と闇の両方を持っていた。
光秀は信長の闇の部分を一手に引き受け、それを浄化する役目として引き受けざるおえなかった。
寵愛を受けたのは利家で光秀ではなかった。信長に愛されたい一心で闇を引き受け、精神的に追い詰められた。その嫉妬心から突発的に起こしたのが、「本能寺の変」だと思われる。
歴史で活躍した偉人や英雄たちというのは、光のエネルギーが強いと同時に闇のエネルギーも強い。
近くにいる人間は、光だけをとりいれるか? 闇だけをとりいれるか?
それは、命を削った戦国時代の運が開くか開かないかの、非常に重要なファクターだった。
力が強ければ強いほど闇のエネルギーも強く、その闇に巻き込まれないよう自覚して努力しないと、出世はおろか謀反として処罰されたり転落していく運命だ。
この世は力を持てば持つほど、光が強く闇も強くなる。その闇の部分に巻き込まれないようにすることで戦国時代を生き延びていった。
すべてを光に変えていく
今日、戦争の時代が続いている。
まさに歴史は光と闇のエネルギーが満ち満ちている。
現実の社会も光と闇のエネルギーが満ち満ちている。
政治家にも、経営者にも、光と闇がある。
人間も世の中も、光と闇などと、簡単に分けられるほど単純なものではない。
この人は正しくてこの人は間違っていると色眼鏡で見たら、とんでもないどんでん返しにあう可能性もあるだろう。
大事なことは、光であろうと闇であろうと、すべてを光に変えていこうとする勇気だ。
利家は信長の光も闇も知り尽くした上で、光だけをとったのではないか。
主体性を持って生きること。
光も闇もあなた次第だ。
自分軸を大事にする生き方
土壌の中には良い菌もいれば悪い菌もいる。
悪い菌は寒い時期に死滅する、そのために寒い冬が来るのだ。そしてその年を越した良い菌だけが、春に向かってグングン成長していく。
土壌の中の、良い菌も悪い菌も選別しながら生命力に変えていく雑草のような強さ。それは人の闇や光にとらわれず、自分の軸を大事にして生きること。
私たちは歴史上の先人たちの良い部分だけをとりいれ、それが自分にとって良い運を作っていくに違いない。
そして果たされなかった先祖の想いや先人の想いを我が人生に招き入れるためには、強い意欲を持つことだ。
できる!信念を持て!意欲を持つとセロトニンがどんどん出てくる!
このように僕は、歴史物語を自分なりに解釈し、自分の人生に取り入れることで闇を光に変えていく。
2021年8月 Dr.Shu 五島秀一
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