観察的自己を育てる

Facebook清水 友邦さん投稿記事

暗く重い鉛のような固まりが身体にのしかかってきます。

絶望と無力感が心から離れません。

悲惨な状況を見れば見るほど悲観的になり、絶望感に苛まされます。

そんな苦悩の日々が続きます。

過酷な状況から眼を背けたり、逃れようとしても、苦悩から逃れる事は出来ません。

現実から逃避しても先に進む事は出来ません。

地球全体の生態系がものすごいスピードで破局に向かっています。

地球規模のターニング・ポイントに近づいています。

環境活動家のアンニャ・ライトはかつてこんなことを言っていました。

 「2、3年前までは差し迫った感じがずっと強くあって、『今、ここで伐採を止めなくては』『もう時間がない』『森を守るためには命さえ惜しくない。何でも私を使ってください』というような焦りがありました。

 でも、ある時、たとえ私が首相官邸の前で焼身自殺をはかろうと現実は変わらない、と悟ったのです。

それより、もっと長期的なコミット、決意と実践が必要なのだと。それには〝早急に結果を求める〟という態度を手放さなければなりません。

それで、『自分の努力と仕事の結果を、自分が生きている間に確かめることはないだろう』という事実を、私は受け入れたのです。

 これは私にとって深い気づきでした。〝結果を求める〟という執着を手放すことができて、私はさらに深い自由を得たのです。」

社会は私達の恐れや無知や欲望が構造化された独自の力学で動いています。

自己と社会は相互に関係し依存して生起しています。

政治家や官僚たちの心の中にも抑圧された感情があります。

もし、世界を敵味方に分けて心に境界線を引いて分離してしまえば生命エネルギーは流れず疲弊します。

社会的問題を解決しようと行動する市民も既得権益を守ろうとする保守体制の人間と同じ様に無意識の力に自我が飲み込まれてしまいます。

ジョアンナ・メイシーは「絶望こそが希望である」と絶望を通して見えてくるものがあると言いました。

孤独、無力感、あきらめ、絶望、不安、恐怖、悲しみ、などのストレスに長くさらされ、それに、うまく対処できないでいると、免疫システムは低下して、肉体の病気となって現れます。

最大の障害は恐怖です。失うことの恐怖、引き裂かれる事の恐怖、死ぬことの恐怖、過去に何度も下位の身体で死の恐怖を経験してきているので湧き上がる衝動に自我が呑み込まれて「耐えきれない」と叫んでしまいます。

あらゆる出来事を否定せずにあるがままに受け止めると 思考や感情が泡のように浮かんでは流れの中に消えています。

それを観照しているのが本当の自分です。そのことに気がつくと深い目覚めが起きます。

観察的自己を育て、その恐怖、絶望を深く味わう必要があります。

絶望的であることから目をそらすことが絶望そのもの、そこから眼を背けないで、この絶望を健全な反応として受けとめると不思議に力が湧いてきて希望と勇気を見いだしていけるようになります。

自分がいまこの瞬間に存在していること 時間と空間を超えて今ここにいるということ

絶望や恐怖は心が創ったマーヤである事を見抜くことができれば、その人は状況を変えていく勇気を持つ事ができます。

そして同じ気持ちを共有する仲間がいるとわかったとき 万物とのつながりの中で存在していることに人は目覚めます。新しい意識が育ってきています。

かつてない危機が幅広い運動のネットワークを生みそれが広がって来ています。

新しい持続可能な文明を産み出そうと陣痛がすでに始まっています。

それを可能にする技術と手段はすでに持っています。

それが生きている間実現しそうもないと 絶望が湧いてきても、あるがままに自分と向き合い

結果を求めようとするマインドから脱同一化してそのヴィジョンの実現に向けて

自分が今出来る事を粛々と進めていきます。


Facebook北條 毅さん投稿記事

全部、必要な体験。

「流れ」や「構造」に意識を向けて過ごしていると思いがけない事態に遭遇して

面白いなぁと思うことがよくあります。

先週、かなり久しぶりに精神的に落ち込んでいました。ㅤ

きっかけとなる出来事はいちおうはあったんだけどそれにしては落ち込み方がひどかったし

翌日になっても変わらず底なし沼に沈むような重さの中にある。

こりゃどうしたことかともちろん星を見るよね。ㅤ

そうすると、「あぁ、そりゃそうなるか」と思うわけです。ㅤㅤ

誰もに訪れうる30年に4度ある落ち込み時期のそのうちの最も大きいものがちょうど先週にきていたわけです。

それが見えたらさ、「あぁ、そりゃそうなるよね」って、そう思うよね。

そして、星に出てるってことは「予定通りの落ち込みなんだね」って、良いも悪いもなく

ただそれだけでさ。

そりゃしんどいんだけど月曜日からはじまった落ち込みはその週の金曜日の夕方には底を打つ

ってことも予想できたから だから、じゃあしょうがないなと。予定通りに落ち込んでおくか

ってことでじっと鬱々としていたわけです。

その間に湧き出てくる内面の感じながらㅤ抵抗したり、攻撃的になったり自分を責めてみたㅤ

そんな内なる声をただただ味わってみながら じっとうずくまるように過ごしたらㅤ

やっぱり予定通り金曜日の夕方ぐらいには底を打って(体感的には予定より2時間ほど早かったけど)回復してきた感覚があったㅤ

翌日には気力が満ちていくプロセスを実感し 2日後にはすっかり回復。

で、いまはもう元気。

むしろエネルギーにあふれていて やりたいことや動きたい衝動でウズウズしているぐらいㅤ

やっぱりそうだよね、と思う。ㅤ良いも悪いでもなくバイオリズムなんだよね。

きっかけになった出来事はあるけどそれはきっかけにすぎなくて全部予定通りの流れなんだ。

人生、いろんな時があるよね。何をやっても上手くいく時もあれば何をやっても上手くいかない時もある。

朝起きて、「今日は絶好調!」と思う時もあればㅤ朝起きて、「今日はなんかダメだ、、」と思う時もある。

元気がよくて前向きで活力あふれているのは良いことで 反対に、沈んでいて後ろ向きでやる気がでないのは悪いことなんて思ったりするしㅤやる気がない日にはそんな自分に鞭打って

無理やり動くと、後に反動がきてもっとぐったりしてみたりする。ㅤ

そして、そんな自分がダメだとさらに自分を責めて落ち込んでみたりする。

でもさ、あるよねそういう時も。だって機械じゃないんだから。だって人間なんだから。ㅤ

月が満ちては欠けていくように 海が満ちては引いていくように すべてのものには

それぞれのバイオリズムがあって その大きな流れの中に生きているㅤ

ということこそが大前提なはずなんだよね。ㅤㅤ元気があるときもあればないときもある。

上手くいく時があればいかない時もある。日によって変わるような小さなバイオリズムもあれば 数年、数十年をかけて ゆっくりじっくり切り替わっていくような大きなバイオリズムもある。

良いことばかり起きてほしいなって思うよね。ㅤ

なのに、なんでこんなに大変なことが起きたりするんだろうって思う時もあるよね。

でもね、全部全部ただ必要な体験だから。ㅤ

いじめられたことがある人だからいじめられている人の辛さがわかるんだよね。

お金の苦労をした経験がある人だから貧しさの大変さがわかるんだよね。ㅤ

体験をしたからこそわかることっていくらでもある。ㅤ

というより、本当は何事も体験をしなければわからないのだと思う。

情報として知って「わかった気になる」ことはㅤ世の中よくよくあるけどㅤ

「知っている」のと「わかる」のは理解の深さの次元がまったく違うから。ㅤすべては体験なんだ。だから体験するんだ。

魂が気づき、理解を深めそして本当の深い愛に目醒めていくために僕らは人生で様々な体験を積み重ねていくのだと思う。

だから、すべての体験を受け止めてあげよう。

良いでも悪いでもなくすべてが、魂の目醒めのための必要な体験に過ぎないということを無条件で受け入れてみよう。

そして、そこで起こる出来事も、内面の動きもㅤそのすべてを許してみよう。ㅤ

そうすると、その先が必ずあるんだ。

必要なプロセスを経て僕はこれからようやく動き出せるように感じています。

いやはや、これまでの数年間思いっきり動ける状態じゃなかったからね。

ブレーキの踏み方と体に負担をかけない過ごし方はもう十分学んできた。ㅤ

ブレーキ踏んでばかりでアクセルを踏めなくなっていたらどこにも進めやしないよね。

さあ進もう。これまでのプロセスは心ゆくまで味わいきった。ㅤ

だからこそ、これからまた進めるし進みたいと思う。

すべては流れのままに。その大きな流れの中でいまを思いっきり生きるんだ。


https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202210/202210_12_jp.html 【高浜虚子:季節のうつろいと自然を素直に詠んだ俳人】より

高浜虚子(たかはま きょし。1874〜1959年)は、四季のうつろいや自然の事象を素直に見つめ、客観的な描写による俳句を数多く詠むとともに、俳人の育成にも力を入れた。

高浜虚子(以下「虚子」)は、1874年、現在の愛媛県松山市に生まれた。中学生の時に同郷の俳人・正岡子規*(1868〜1902年。以下「子規」)に師事して俳句を学ぶようになる。これは、同級生で、後に子規門下で虚子と双璧をなす河東碧梧桐(かわひがし へきごとう。1873〜1937年。以下、碧梧桐)の紹介であった。「虚子」という俳号は子規が名付けたもの。20歳の時、碧梧桐と共に東京に住む子規を頼って上京。その当時、重い病により自らが人生の最期を迎えようとしていることを悟っていた子規は、俳句の才能を認めた虚子に自分の後継者になってほしいと頼んだが、まだ若かった虚子はこれを受け入れなかった。しかし、子規と虚子との師弟関係は子規が亡くなるまで続いた。

1898年、虚子は、子規の協力で前年に創刊した俳句雑誌『ホトトギス』の編集発行を全面的に引き受けることになる。結果、虚子が手掛けるようになった『ホトトギス』は、俳句だけではなく、小説なども掲載する総合文芸誌になった。

虚子は、『ホトトギス』の編集において、読者から投稿された俳句を選句するようになる。虚子は後に「選は創作なり」と述べている。数多くの句の中から何を選び、どこに着目し、どのように評価するのかは、選ぶ側の審美眼にかかるのであり、立派な創作行為なのだと虚子は言う。彼にとって、俳句を選ぶことは、俳句を詠むこととと同様に創造的な行為だったのである。

虚子が詠んだ俳句の特徴とはどのようなものだったのか。虚子記念文学館の学芸員・小林祐代(さちよ)さんは、こう説明する。

「虚子は、自身の句の主眼は『花鳥諷詠』(かちょうふうえい)と『客観写生』にあると記しています。花鳥諷詠は虚子の造語ですが、春夏秋冬の季節のうつろいや自然界のさまざまな事象を素直に見つめ、敬い、季語を大切にするという俳句創作についての理念です。客観写生とは、自分の主観で物事を表現するよりも、客観的な描写を積み重ねることを通して、作者の心情を浮き彫りにすることとされます」

虚子は、俳句の創作だけでなく、俳句指導者としても能力を発揮するほか、俳句の入門書を著し、多くの弟子の育成にも努めた。また、まだ俳句を詠む女性が少なかった1910年代から、女性のための句会の開催やホトドキスに女性を対象とした投稿欄を設ける等、女性俳人の育成にも力を入れた。

虚子は、1954年、日本政府から、俳人として初めて文化勲章を受章した。その5年後の1959年に85歳で亡くなった。虚子は生涯で3万を超える句を詠んだという。俳人として長く活躍して、19世紀末から現代へとつながる俳句の世界をけん引し続けた生涯を全うした。

* Highlighting Japan 2022年9月号「正岡子規:俳句を革新した俳人」参照 https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202209/202209_12_jp.htmlOpen a new window

白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅(こう)ほのか

1925年、51歳の作。季語は「白牡丹」で初夏。虚子の代表的な句の一つである。「白牡丹という名の花だけれど、よく見ればほのかに紅い色が差している」という意味。白い花を観察している時、少しだけ紅くなっている部分があることに気づく虚子の眼差し(まなざし)に、自然に対する客観的な観察とともに賛美の心も感じられる。

遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな

1900年、26歳の作。季語は「枯野」で冬。「遠い山には冬の日が当たっていて明るいが、目の前には寒々とした枯野が広がっている」という光景を詠んでいる。虚子は、「激しく日が照るような人生も悪くないが煩わしくもある。遠い山の端に日が当たるような静かな景色。それが私の望む人生である」という意味の言葉を記し、「この句によって私の俳句を詠む心境が定まった」と語っている。若い時の句であるが、最晩年に至るまで虚子が繰り返し揮毫(きごう)した句である。

時ものを解決するや春を待つ

第一次世界大戦が勃発した1914年、虚子40歳の作。季語は「春待つ」で冬。この句について虚子は、「なまじ紛糾を解こうと急ぐとますますもつれる。ただ自然にまかせていると月日が経つうちにほぐれてくる。寒い冬の日はじっと耐えて暖かい春の日が来るのを待つことにしよう」と注釈を付けている。虚子の人生観が読み取れる句である。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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