白隠禅師の法脈

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白隠禅師の法脈

日本の禅の系統は曹洞宗と臨済宗があります。

鈴木大拙によると現代の臨済宗は白隠宗と呼んでも良いと言っています。

現在の臨済宗諸派の法系をたどると白隠に至るからです。

白隠禅師は臨済宗中興の祖と言われています。

白隠慧鶴(はくいん・えかく)禅師(1686年1月19日 - 1769年1月18日)は江戸時代の将軍徳川綱吉の頃の人です。

白隠禅師は、東海道の宿場を取り仕切る名主にあたる問屋の五人兄弟姉妹の末っ子として生まれました。

頭のよい利発な子供でしたが、異常に地獄を怖がりました。

15歳の時に、静岡県沼津市原の松蔭寺で得度しましたが、すぐに師匠が他界してしまいました。

それ以来、白隠禅師は道を求めて諸国行脚の旅をしました。

白隠禅師は24歳の時に、越後高田の英巌寺で七日七夜の座禅にはいりました。

その時に鐘の音が響き、いままでにない境地(心身打ち失う)が起きました。

白隠禅師は、悟った(見性)と思い大歓喜しました。

しかし、英巌寺の性徹和尚は認めませんでした。

白隠禅師は「皆土塊にしかみえない。300年来俺より勝るものはいない」と有頂天になっていました。

正受老人の名で知られている道鏡慧端(どうきょう えたん)禅師のもとで修行した、宗格という僧から勧められ白隠禅師は信州飯山の正受庵を訪ねました。

白隠禅師は正受老人から「この穴蔵坊主」と罵られてから、慢心に気がつき、8ヶ月間修行に入りました。

ある日、托鉢中に早く立ち去れと言われながらも白隠禅師がわからずに立っていると、老婆にホウキで激しく叩かれて倒れてしまいました。

その時に「南泉遷化」の公案が忽然と解けたといいます。

白隠禅師は正受老人から認められ松蔭寺に帰りました。

故郷の松蔭寺に帰ってからの26歳頃に白隠禅師は腕と脚が氷雪のように冷えて、幻覚をともなうひどい禅病に悩まされました。

禅病とは下位の身体を飛び越えて上位の身体に働きかけ、それを開発しようとして起きる心身の不調のことです。

インテグラル・ヨガのオーロビンドは「The Life Divine」で次のように忠告しています。

「意識の進化・成長はどんな段階もさけて通ることはできない、高次の意識はどの段階にも潜在しているのでそれを客観し対象化しなくてはならない。

下位の身体を飛び越えて上位の身体に働きかけても、客観されなかったならばその段階で自己は取り残される。」

意識の発達段階は入れ子のような階層状になっていて、高次な段階は低次な段階を「含んで超える」という性質をもっています。

意識の発達は、その前のレベルを学習して十分に自分のものにしてから、上位のレベルに進みます。

上位の身体に働きかける時に、下位の身体が十分に咀嚼されないうちに上位の身体に移行しようとしても、うまくいきません。

上位の段階に融合できずに退行して、下位の身体に固着してしまうのです。

身体のレベルが浄化されていないと疎外され、抑圧された身体の衝動と再び出会います。

その時には一度身体レべルまで退行し、やり直さなくてはなりません。

もし、再び身体の欲求を無視して抑圧したならば、心身システムの流れが阻害されてしまいます。

自己変容のプロセスを無視して、体だけを治しても実存的な問題はそのままなので、こんどは社会や対人関係で問題が浮上してきます。

心の問題も、根本的な原因を抜きにして処理してしまうと、今度は身体の問題として出て来ます。

大きな病気や心の問題や社会的問題に会う事なく、無事に人生を送って来た人でも、人生の最後の肉体の死にゆく中で実存的危機をむかえる事が、チベットの死者の書に出てきます。

実存的変容は、誰も避けては通れない道なのです。

意識は上昇し再び下降しそれを実感します。

超越意識と合一するまでそれは何度も繰り返されます。

「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と宮沢賢治はいいました。

宇宙全体が解脱するまで個人の解脱、覚醒はありえないのです。

そして、文字の解脱、覚醒は実体のない言葉でもあります。

白隠禅師のお墓のまわりには、沢山の若い僧侶のお墓がありました。

白隠禅師が修業していた時代の松蔭寺では、沢山の若い僧侶が禅病でなくなっていたのです。

白隠禅師は、白幽という仙人から「内観の法」と「軟酥の法」を教えられその病を克服することができました。

「軟酥の法」と「内観の法」は、気功でいえば松放功と身体下部の丹田に働きかける吐納功のことです。

白隠禅師は晩年の「夜船閑話」という本の中で禅病を抜け出す秘訣を、「禅のことなど考えるのをやめて、ぐっすり眠って目を覚せと」といっています。

健康を回復した白隠禅師は、42歳の時にこおろぎの泣き声を聞いた時に正受老人の教えをすっきりとわかったと言っています。

白隠禅師は、晩年「動中の工夫は静中の工夫にまさる」と言っています。

白隠の禅の法脈を象徴しているのが徳雲寺(東京都文京区小日向)です。

ここは昔至道庵と呼ばれ、白隠の法を嗣いだ東嶺(とうれい)、白隠、白隠の師の正受老人、そして正受老人の師匠の至道無難(しどう むなん)禅師の寿塔があります。

至道無難(しどう むなん)禅師が出家したのが師匠の愚堂国師(愚堂東寔ぐどうとうしょく)開山の正燈寺(東京都台東区竜泉一丁目)です。

愚堂国師の禅が江戸に伝わって至道無難禅師から正受老人へ、そして白隠禅師のところで禅が開花しました。

それまでは師から弟子へ世間に知られることなく秘教的に禅の法脈が伝えられていたのです。(曹洞宗ではなく白隠禅師の法脈の話です。)

愚堂国師の禅の法脈は、愚堂国師から13代前の関山国師(関山慧玄かんざんえげん)です。

妙心寺を開山した関山国師の師は大徳寺を、開山した大燈国師(宗峰妙超しゅうほうみょうちょう)です。

関山国師(別名無相大師)の名前の由来は公案から来ています。

「仏法は誤って説いたり、あまり老婆親切に説きすぎると、仏罰が当たって眉やひげが抜け落ちるといわれているが、どうじゃ、ワシの眉毛はまだ生えているだろうか?」唐の時代の翠巌(すいがん)禅師のこの問いに雲門大師は「関」と答えました。

「関(かん)」とは、容易に通ることができない関所のことです。

古来、雲門大師のこの「関」の一字が、問題でした。

26歳の大燈国師はこの雲門大師の公案で3年間苦しみましたが、ついにある日、大きな鍵がガシャと鳴って落ちた瞬間に解けました。その悟りの境地を詩に詠んでいます。

「客、亭主の区別もなく、迷いも悟りも無い。清風がかけぬけるようなすがすがしさだ」

客、亭主とは客体と主体のことで、二元性を超えた無境界の境地のことを指しています。

大燈国師の師匠の大応国師(南浦紹明 なんぽじょうみょう)は、大いに驚いて、次のように語りました。

「汝は、雲門大師の再来(生まれ変わり)である。もう私は、お前にはかなわない。私の法は、お前のところで大いに栄えるだろう。ただ、二十年、長養してから、この法を広めなさい。」

大燈国師はその言いつけを守り、京都の三条の河原で20年間乞食をしていました。悟りを開いて世に出てくるまで20年間ホームレスをしていたのです。

南北朝時代の関山国師は大燈国師に参じて悟りを得たあと、8年間美濃国伊深の山里に籠もっていました。

白隠禅師は「悟後の修行」は永遠だといっています。

中国を旅して禅宗の六祖慧能と雲門大師の足跡を訪ね、そして、京都大徳寺と妙心寺、鎌倉の建長寺と円覚寺、白隠禅師四代にわたる禅の法脈を伝える東京の至道庵・徳雲寺と江戸の禅の始まり正燈寺、至道無難禅師のお墓がある東北寺を参拝しました。

そして、白隠禅師の誕生地とお墓がある松蔭寺を最後に訪ねたことで、いつのまにか白隠禅師の法脈を辿る旅が成就したことに気がつきました。

まことにありがたいことでした。

〜白隠禅師 坐禅和讃〜

衆生本来仏なり 水と氷の如くにて      水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし

衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり

長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり

闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき 夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり

布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等    そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり

一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ   悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず

かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時 讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし

いわんや自ら回向して 直に自性を証すれば  自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し   無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず

無念の念を念として うたうも舞うも法の声  三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん

この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに  当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり


https://rokko-navi.media/culture/rokkogreatman1/ 【鹿行偉人伝その1~芭蕉の師 仏頂和尚~】より

 旧白鳥村(現鉾田市)出身の仏頂河南は松尾芭蕉の師匠でした。仏頂河南は「奇人」仏頂とも言われました。芭蕉はご存じ、元禄三大文化人(井原西鶴・近松門左衛門)の一人。その芭蕉の精神的・思想的師匠が「奇人」仏頂和尚だったのです。本当なんです。

 芭蕉は江戸日本橋滞在中の延宝8年、妻寿貞と甥桃印の密通によって、失意のどん底にいました。その年の冬、身一つで深川に移住。同じ深川の臨川庵にいた鹿島根本寺住職仏頂和尚と運命的な出会いをしたのです。芭蕉は「朝暮に来住」(現臨川寺「芭蕉由緒の碑」)し仏頂に教えを乞いました。蕉門十哲の一人支考も「(芭蕉翁は)仏頂和尚の禅室にまじはり」(『俳諧十論』)とあります。精神的にゆきづまっていた芭蕉は、仏頂の説く禅の思想―生死も愛憎も虚であり実である―が心に染みました。仏頂の「物心一如」論・「仮想実相」論は、以後芭蕉の「不易流行」論となり、蕉風確立に大きく寄与していったのです。

 芭蕉は貞享4年8月下生根本寺に仏頂和尚を訪ねました。そこで「月早し 梢は雨を 持ちながら」などの句を作ります。こうして二人の親交は芭蕉が亡くなる元禄七年まで続きました。

 仏頂河南は、寛永19年(1642)鹿島郡白鳥村字札(現鉾田市札)の農家平山家(現存)に生まれました。額に円珠あり眉目秀麗であったと伝えられています。腕白少年だったようです。河南仏頂の原点は、旧白鳥村での二つの体験にありました。明蔵寺(後の普門寺)の柿を盗んでも、和尚さんに怒られるどころか、頭をなでてもらったのです。父親とは大違い、なんと心が広いことかと感銘を受け、仏門に入る決心をしたのです。 「出塵之志(しゅつじんのこころざし)」(『続禅林僧宝伝』)。もう一つは母親との確執にありました。全国修行中の河南17歳は急きょ帰国し、重態の老母になんと、「俺は以前からあんたを握りつぶしたいと思っていた。仏門に入るのをなぜ邪魔し続けたのか!」と口角泡を飛ばして面罵したのです。母親は少年河南を根本寺から何度も何度も家に呼び戻したからでした。生来利発だったがゆえに、仏門に入らず仕官して出世してもらいたかったのでしょう。この二つの体験がトラウマ的エネルギーとなって、仏頂河南を禅の修行にまい進させたのです。冷山和尚の根本寺で修業を積んだ後、十四歳で全国修行の旅に出ました。青年河南の「鹿島立ち」。その後生まれ故郷に近い大儀寺(現鉾田市阿玉)を再興したり、那須雲巌寺(74歳臨終の地)や各地に赴いて布教活動や弟子の指導にあたりました。

仏頂が再興した臨済宗宝光山大儀寺(鉾田市阿玉)

 仏頂和尚は念仏仏教や葬式仏教を嫌い、路上に出て民衆に呼びかけ、社会悪があればそれと戦えという実践の人でした。鹿島神宮との裁判闘争でも先頭に立って、勝利しました。仏の道に入らずとも、「工夫」して仕事や学業や家事等日常的な行為=修行を続ければ、誰でもどのような世になっても前向きに生きていけるのだ、とのメッセージを残してくれました。

文・写真 鹿嶋古文書学習会 鹿野 貞一

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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