チベットの死者の書

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関西の強烈な宗教学者が集結します。とくに永澤哲先生の「チベットの『死者の書』とトゥクタム」が面白そう。

トゥクタムというのは、死後にも関わらず体温が保たれている修行者の特殊な身体状態のこと。

それにしてもこのポスター、「鎌田東二」だけ緑色ってとこがよくできてますね。「なぜ?」と思われた方は、「鎌田東二」で画像検索してみてください。すぐに解決します。

平日昼ですが、無料&予約不要のお得な研究会です。

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第67回身心変容技法研究会@大阪

日時:2018年6月25日(月)13時~17時30分

講演①「看取りとスピリチュアルケア」 井上ウィマラ(高野山大学教授)

講演②「チベットの『死者の書』とトゥクタム」永澤哲(京都文教大学准教授)

司会:鎌田東二(上智大学グリーフケア研究所特任教授)

会場:上智大学 大阪サテライトキャンパス

HP:http://waza-sophia.la.coocan.jp/

参加:無料&予約不要


http://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/wa-ku_memenntomori.htm 【死のワークショップ】


https://osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai5.html 【チベットの死者の書】より

土俗の宗教から密教へ

世界にもなだたる高山に取り囲まれ、荒涼とした辺境の地、チベットに仏教による高 度な精神文化が開花したのは一つの奇跡である。チベット人にとっては、温和な気候に住む日本人の様に人と自然との一体感という生やさしい発想はない。自然は死をもたら すものであって、人間が力を合わせて対決すべきものであった。そのため、体力、力、勇気、意志が尊重され、死の問題にも目をそむける事なく直面して行った。

仏教を受容する以前のチベットには、シャーマニズム的な宗教であるボン教が存在していた。ボン教師は精霊を支配する司祭であり、邪霊をはらって病気を直す医者であり、厳しい風土を生きぬく道を示す予言者であった。

仏教の理論によると、人間は「死」、「中有」、「生」と輪廻を繰り返して行く。チベット仏教ではこの三事を清めて、仏の三身にまで高めて行く行法、「中有」において、輪廻を断ち切り、クリアライトヘの融化をはかる行法がある。一般のチベット人がどの様に死を向かえるか見て行きたい。

チベット死者の書

チベットでは宗派を問わず、一般に「死者の書」と言う教典を臨終を向かえた人の枕元でラマ僧が読む習慣がある。死者がこの世に執着しないように、肉親、親類は遠ざけられる。その教典には死者が死後に出会う光景とその対処法が書かれている。死者はまず非常な畏怖を覚えるまばゆい光に出会う。しかし、これに勇気を持って飛び込めば、真理に融化し、成仏する。そうでないと7日後にまた別の光に直面して、同じ様な状況にたたされる。このようなことが7日毎に、49日まで繰り返される。光への融化がなければ、その後、死者の生前の行為、心に応じて地獄、畜生、人間等、6つの世界のいずれかに生きているものの胎に入って行く。人間は畜生、すなわち犬、猫、牛などの動物に生まれ変わることもある。チベットには黄泉の国で、子孫の幸福、繁栄を願って働きかける祖先、それに対する祖先崇拝と言うものはない。祖先たちも現在輪廻して、人間、犬、猫、地獄、天国で苦楽を味わいつつ生きているのである。

鳥葬が生きている土地

死体は単なる魂の抜け殻として、粗末に扱われる。死体は夜明け前に、死体運搬人に引き渡され、身寄りの者が付き添うこともなく岩窟まで運ばれて行く。そこで、死体は切断され、禿鷹に投げ与えられ、その餌となる。この葬法を鳥葬(チャトル)という。骨も砕いて粘土に混ぜて焼き、仏像を作ることもある。死体を跡形もなくしてしまうのは、死者が自分の死体に執着するのを断ち切るためだと言う。もちろんチベットでは岩石が多く、凍結期間も長いので、墓穴を掘るのが困難で土葬にしがたく、また樹木に乏しいため、死体を火葬にするほどの十分の燃料がないという実際上の理由もあるという。

また、死者に対して、ポワの行を行うこともある。人間には九つの門があり、死後いずれかの門から魂が出ると言われている。その出口によって次に輪廻する6つの世界が決定されるのである。臨終の時、ラマ僧が死者に対して行う「死者のポワ」に助けられながら、頭頂から意識を阿弥陀の浄土に向かって飛び出させるのである。これがチベットの極楽往生のやり方である。同じ仏教でありながら民族によってずいぶん変わったものになってしまうものである。〈吉野〉


 https://www.ghibli.jp/tibet/comment/005644.html 【「チベット死者の書」とは 石濱裕美子】より

精神の探究者であるチベット人がつみあげてきた智慧の書

 肉体が機能を停止し最後の息がでたあとの49日間、死者は意識だけの状態(パルド)となり、その後新しい母胎に入って再生する、このような輪廻思想がチベットにはある。そして『チベット死者の書』には、このパルドの期間、死者がパニックを起こさず切り抜けられるように、導くための教えが記されている。

 肉体を失った意識はもろもろの外界の刺激から離れることによって穏やかになり、もっとも根源的なものに触れることができる。チベット人にとって死は「仏の意識」(菩提)にもっとも近づくことのできるまれなチャンスであるため、死について積極的に話題にするし、命の期限を宣告されても動じることなく受け入れる。高僧に至っては、死に臨んでは、座禅をくんで瞑想に入り、その中で「死の光明」を迎える。深い瞑想と死は限りなく同じ状態であると考えられている。

『死者の書』によると、肉体が死んだ直後、死者はもっとも微妙な意識の現れである根源的な光と出会う。もし死者の意識がその光の中に入っていくならば仏の境地を得ることができる。しかし、これまでに積み重ねてきた様々な行為の力により、死者の意識はすぐに光の状態から引き戻されてしまう。しばらくすると、死者の意識にはやさしい姿の仏たちが現れる。そして、次の一週間にはその仏たちが今度は恐ろしい忿怒の姿をとって現れ、様々なヴィジョンや音で死者を脅かす。そして最後の一週間、死者の意識はついに母胎を探す再生の旅に入り、次の生へと移行する。

 この書の素晴らしいところは、49日にわたって現れる光やヴィジョンはすべて死者自身の意識が作り出したもので一切が幻想であると何度も強調するところである。つまり、『死者の書』とは、精神の探求者であるチベット人がつみあげてきた意識のありようについての智慧の書なのだ。したがって、ここに説かれている光とは、宗教や人種をとわず死に瀕した人が見るという臨死の光や音にも通じる。

現実を別の側面から見直そうとするたびに、思い出されてきた書物

 チベットには死者の書が数多くあるが、カルマリンパが発掘したこの『死者の書』が一番注目を浴びているのは、この書がこれまでに何度も世界的な大ブームをひき起こしてきたからである。はじまりはイギリスの神智学者エヴァンス・ベンツがオックス・フォード大学から1928年に出版したこの書の初英訳が、たちまちベストセラーとなり、カール・ユングをはじめとする当代の知識人の愛読書となった。六十年代に入ると、ハーバート大学のティモシー・リアリー博士がLSD体験と『死者の書』に描かれる死者の体験が類似していることを指摘したため、『死者の書』はLSDを吸い反戦を謳うヒッピーたちのバイブルとなった。また、七十年代以後は、生の世界ばかりに目を向け、死の世界を等閑に附してきた現代文明への反省として「メメントモリ」(死を思え)が叫ばれ、『死者の書』は臨死体験の書物として脚光をあびた。

 日本においては、1993年にNHKスペシャルでこの『チベット死者の書』が放映されるや臨死体験の一大ブームが始まり、この番組の第一部を書籍化した『チベット死者の書 仏典に秘められた死と再生』(NHK出版)と、第二部の台本を収録した中沢新一氏の『三万年の死の教え』(角川書店)と、チベット語原典からの死者の書の和訳である『原典訳チベット 死者の書』(ちくま学芸文庫)がいずれもベストセラーにランクインし、みながこぞって死について語り始めた。つまり、『チベット死者の書』は我々が今ここにある現実を別の側面から見直そうとするたびに、思い出されてきた書物なのである。

不安にみちた現代人にこそ

 チベット人の社会は物質的にはきわめて貧しいレベルにあるが、彼らの心は我々よりずっと平穏である。普段から死を生の一部として意識し、来世に備えて体や言葉や心で善い行いを積むように心がけているため、死を前にしても動じることはない。彼らにとって死は、古くなった着物を脱いで新しい服を着るような感覚であり、怖れるべきものではない。

 一方、我々の世界は物質的には豊かであるものの、その心はじつに不安定だ。経済成長が人々に幸せをもたらすという幻想のもと、物欲を肥大させ、競争心や嫉妬心をあおった結果、多くの人は心に不安を抱えるようになった。死の間際まで死をまったく無視して生きるため、死に直面せねばならなくなった時、ひたすら恐怖して一分一秒でも長く生きようとする。生まれてから死ぬまで不安にみちたこの現代人の心を鑑みるとき、今こそ、生のもう一つの半分、死に対する知識を取り戻すべき時がきていることは明かであろう。『死者の書』はその一助となるはずである。

 日本で『死者の書』がブームになった1993年の4月、わたしは母をガンで亡くした。たった一人の家族を失った喪失感から、眠れない日々を過ごしていたが、この書を手にし、その根源的な死生観に触れた時、ずいぶんと心が落ち着いたことを記憶している。生は死の一部であり、忌むべきものではないことに気づき、自分の人生を見直す契機ともなった。

 親しい方を亡くした方、また近い将来亡くすかも知れない方には、とくにおすすめしたい。

「熱風」(1月10日号)より転載

石濱裕美子(いしはま・ゆみこ)

1962年、東京都生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。文学博士。研究対象はチベット仏教世界(チベット・モンゴル・満州)の歴史と文化。著書に『図説チベット歴史紀行』(河出書房新社)『チベット仏教世界の歴史的研究』(東方書店)『チベットを知る50章』(明石書店)など。訳書に『ダライ・ラマ仏教入門』(春秋社)、『ダライ・ラマの密教入門』(光文社)がある。

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