Facebook船木 威徳さん投稿記事【 トロッコ 】
-----------------------------------
私は、自分の「持っていることば」が自分のいのちさえ守るのだと信じています。
-----------------------------------
息子が中学生の頃、定期試験前の勉強を私が時間のとれる早朝に見ていた時期があります。数学が苦手な私はもっぱら英語と国語を教えていました。
あるときの国語の試験範囲に、芥川龍之介の「トロッコ」が入っていました。
居眠りをしている息子を前に、私は、何十年かぶりで読む小説に引き込まれ、読み終わって、愕然としました。
そこはかとない不安を感じた、といったほうが適切かもしれません。
『・・・塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、
細細と一すじ断続している。』という、最後の一文を読んだときのことでした。
何年か前からだったと記憶していますが、高校国語の現代文が論理国語と文学国語に分けられていると聞いています。
評論文をはじめとして実社会ですぐに「使える」国語力をつけさせるという目的で、論理国語を教えることを優先しているような印象を受けました。
もしかすると、文学は、なんらかの解釈を加えてもそれが必ずしも正しいとは、断言できるわけではないという理由もあって敬遠されてしまうのではないかと私は想いました。
しかし、今では、私はもっと強い不安を覚えています。社会が「実用性」や「能率性」を
優先し、個々人が答えがひとつではない課題を、考えると言うことをやめてしまうのではないかという不安です。
「トロッコ」のなかで、成人し仕事も家庭も持っている主人公が、少年時代を回想しながら、なお消えない不安を抱えている様子は、現代の私たちや私たちの生きている社会そのものの姿ではないでしょうか。
そして、「これが唯一の、最善の答えなのだ」とだれにも断言ができないとしても、それでも私たちは、個人的な問題についてもまた社会のなかの問題についても、考えることをやめずに、考え続け、答えを出すことを決断していかねばならないのです。
人間は、ことばで考え、ことばで決断します。
その際に、そこで言う「ことば」は、ただ知っているだけでは、私たちの力にはなり得ないのです。私たちが、読み書きをするだけではなく「体験」を通じて思考、感情を掛け合わせて、
さらに深い感動を持って「自分のものにし」てからでなければ、自分の「ことば」にはならない。私はそう考えています。
そうして自分のものにした「ことば」は、私たち自身を守る最強の武具になります。
もちろん相手を攻撃する矛(ほこ)ではなく、他者から私たちのいのちを守る、盾(たて)と
いう意味で、です。
私たちの人生に起きうる辛く、悲しい経験、誰にも理解してもらえない孤独や、怒り、憤りを伴うような経験は、そのほとんどは過去に、だれかが経験し乗り越えてきたもの。
だからこそ、私たちや社会を守るために問題の本質、真の敵が誰なのか、何なのかを、だまされずに見抜くためにできるだけたくさんの「ことば」を自分のものにしなければなりません。
繰り返しますが、私たちが生きていく上で重要な問題であればこそ、簡単に答えは出ませんし、その答えがひとつとは限らないし、その答えを正しいと○をつけてくれる先生はいないということです。
自分の力で答えを出さなければならないし他人の出した答えを鵜呑みにしていては下手をすればいのちさえ失いかねません。
ひとつでも多くの「ことば」を自分のものにして考え続けることで、自分自身を守っていかねばならないのです。
そのために、文学を深く学ぶこと以上の近道はないと、私は自分の経験を通して想えてならないのです。
人間が、自身や社会を守る上で大切なことは、ほかにあるのですが、また、後日お話しします。
※写真は、畑作業中に登場した大きなキジとすくすくと育つにんにく。
明らかにこちらを見ながらも、気にかけていないような顔をしていてかわいい。
「けんもほろろ」「頭隠して尻隠さず」といったことわざがキジに由来するものだと、
私は最近知りました。
(ふなきたけのり 2023/04/13)
https://benesse.jp/kyouiku/201507/20150721-1.html 【意味を体感・実感させることで「言葉」を自分のものにする授業】より
ご紹介するのは、兵庫県の小学校で、外国から来た子どもたちに日本語を教えるAM先生の授業です。この小学校は公立ですが、世界18の国や地域から来た子どもたちが学んでいます。
取材したのは、アラビア語・スペイン語・韓国語を母国語とする6年生3人に向けての授業です。子どもたちの日本語のレベルは、日常の会話で困ることはありませんが、自分の考えや感情が、まだうまく表現ができない状態です。3人は、国語の時間だけAM先生から指導を受けています。
取材時の題材は「冬」をテーマにした詩。その詩を通じて、一つひとつの言葉に込められた「思い」を体感させていきます。
AM先生は、詩の中に出てくる「冷える」と「悲しみ」の2つの表現に注目しながら、言葉を体で感じ、心に響かせようと考えました。
まず、声に出して読んでみます。
そして、もう一度、言葉の意味を考えながら声に出します。
そのうえで、3人にそれぞれにも表現の違いがあることを気付かせていきます。その理由を聞くと、ひとつの言葉にもさまざまなとらえ方があることがわかってきます。
さらに、先生は、言葉を深掘りします。まずは、詩の前半に書かれている「手が冷える」「脚が冷える」という感覚について。
先生の質問は、「冷えるってどういう感じ?」。自分の体験と結びつけて、考えるように促します。
子どもたちからは「お皿を洗った時、手が冷たくなった」「雪で雪だるまを作った時、すごく冷えた」「朝、学校に行く時手袋をしていなかったので寒かった」などの声が出ました。
ここで、先生は、「氷水が入ったバケツ」を用意し、1分間手や足をつけてみます。すると、
「冷たさは、爪の間から入ってきた」「ビリビリしてきて、そのあと痛くなったけど、それを通り過ぎると痛さも感じなくなった」と子どもたちが口々に答えます。
実際に体感することで、「冷える」ことに対し、新たなイメージが加わったようです。これが、「体で感じ、心に響いた言葉でないと、使える言葉にならない」と言うAM先生が大事にしていることです。
AM先生が今回のような授業を始めるきっかけは、外国人児童生徒の日本語指導で主流を占める、「語彙(ごい)と文法」を中心に教えるということに、疑問を持ったことでした。記号化された言語は、実体や実感が伴いません。AM先生は、ただ記憶し、覚えこむだけで、はたして子どもたちの身に付くのかと疑問に感じていたと言います。
そんな時、アメリカへ多言語教育の視察に行き、ヒスパニックの生徒が98%を占める高校で、個人の考えや感覚をベースに、対話を軸とした授業を見たそうです。そこで、言語教育に、「驚き」「笑い」「悲しみ」「遊び」「友達付き合い」「達成感」「疑問」など、子どもたち自身にとって、意味のある状況や活動に取り組ませることが、言語習熟を圧倒的に早めると確信したそうです。
そして、詩の後半では、心の「悲しみ」について触れられています。
先生は、「大声で泣きたいようなことを、言える範囲で話してみて」と伝えました。子どもたちは「お兄さんとの別れ」「友達との別れ」「おばちゃんが死んだ時」などと話しました。
さらに、先生は、「その時悲しさは、どこで、どんな風に感じた?」と問いかけます。
「目が熱くなって、涙が出た」「胸が痛くなった」「体全身で感じた。何も考えられないくらい」など、子どもたちは口々に答え、再び、いろいろな感じ方があることに気付いたそうです。
この授業の翌日、中学受験でのエピソードをAM先生が教えてくれました。
AM先生が授業を受け持った児童が、面接で「あなたは日本語がぺらぺらですね」とほめられたあとに、「日本語を学ぶうえで大切だと思うことは何ですか?」と聞かれたそうです。
これに対してその児童は「『悲しみ』という言葉だったら、自分の『悲しみ』の心を込めて、日本語を使うことだと思います」と答えたそうです。
https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_03.jsp【言葉を実体に近づけよう】より
美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない(小林秀雄)。この名言は、俳句を作る上でのヒントになります。「美しさ」は感覚です。印象です。その実体は何かといえば「花」そのもの。感覚や印象を俳句に詠むのは当然ですが、もう一歩踏み込んで言葉を「実体」に近づけてゆく。そこが肝腎です。
高浜虚子に「待たれたる葭簀の雨を見上げけり」という句があります。夏の日、一雨欲しいと思っていたら、葭簀(よしず)=窓などに立てかける日除け=に雨の音。思わず空を見上げたのです。
この句は当初「うれしさの葭簀の雨を見上げけり」でしたが、推敲(すいこう)して「うれしさの」を「待たれたる」に変えました。「うれしさの」の実体が何かといえば、待ち望んでいた雨が降って来たときの気持ちです。そこで「うれしさ」より、もう一歩実体に近い言い方を探した結果「待たれたる」という表現が得られたのです。今回はまず、この虚子の句に似た作例の添削を試みます。
実体を強調する
辞書たどる指の細さよ春の夕
加藤菜々さん(由利本荘市、会社員23歳)の作。辞書の文字を指でたどるように読んでいる。春の日がしだいに暮れてきた。そんなときに指の「細さ」を感じたのです。ここで「指」という実体を強調する添削を試みます。まず思いつくのは
辞書たどる指細くして春の夕
「春の夕」の柔らかい感じに合うと思います。辞書をたどっている状態を強調するなら
辞書たどりつつ細き指春の夕
「指」そのものを強調するならば
辞書たどるその指細し春の夕
「その」は、目の前にある「その指」という意味です。作者もきっと、いろいろな言い方を試みたことと思います。
視点を変えて詠む
夕蛙(ゆうかわず)魑魅魍魎の本捲る
京野晴妃さん(秋田市、専門学校1年)の作。蛙が鳴く夕ぐれ、開いてあった本の頁がひとりでに捲(めく)れた。作者はそれを「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」のしわざと見た。逢魔(おうま)が時ともいう日暮れ時の気分を捉えた句です。この句、魑魅魍魎のことが書いてある本(たとえば『日本妖怪図鑑』)を作者が捲っているとも解釈できますが、魑魅魍魎が本を捲っていると解釈したほうが面白い。そこで、
夕蛙魑魅魍魎が本捲る
としてはどうでしょうか。「が」は音がよくないので出来れば避けたいのですが、「何が」という主語をはっきり言いたいときは「が」を使ってよいのです。山口誓子に「掃苔や餓鬼が手かけて吸へる桶」という句があります。墓参のとき桶の水が漏れて減ってしまった。きっと目に見えない餓鬼(がき)が桶に手をかけて中の水を吸っているのだろうというのです。水を吸う行為の主語をはっきり示すため「餓鬼が」としたのです。
文字の無駄を省く
初雪やインターホンの鳴るやうに
米屋結衣さん(県立大1年)の作。初雪の捉え方が新鮮です。俳句では、文字の無駄を省く、といいます。「風が吹く」と言わなくても「風」だけで意味が通じるというような場合がよくあります。この句もパッと見たとき、インターホンは鳴るものだから「鳴る」は無駄かな、とも思いました。たとえば「初雪が或日インターホンのやうに」という案も考えました。しかし初雪は突然ピンポーンと鳴るように到来する。そう思えばやはり「鳴る」は必要です。よって、この句は添削不要です。
https://www.sakigake.jp/special/2020/haiku/article_29.jsp 【擬人法で表情豊かに】より
国語の時間に「擬人法」を習ったことをご記憶のかたも多いと思います。「風がささやく」「母なる大地」のような言い回しは俳句にも登場します。
落花のむ鯉はしやれもの髭長し 高浜虚子
池に浮く桜の花びらを呑(の)みこむ鯉。髭(ひげ)が長い。その様子はいかにも洒落者。
しぐれつつ留守守る神の銀杏かな 虚子
時雨のなか、神社の銀杏(いちょう)が、神様の留守を守っている。
雪解くるささやき滋し小笹原 虚子
笹原の雪がとける。そのかすかな雫(しずく)の音が、人のささやきのようだと言ったのです。以上の三句は下線部が擬人法です。では次の句はどうでしょうか。
東山静に羽子の舞ひ落ちぬ 虚子
京都の東山。正月の羽根突きで突き上げた羽子が静かに舞い落ちて来る。この句の「舞ひ」もまた擬人法です。「舞」という漢字は、人が両手に飾りを持って舞うさまを表します。「舞う」は本来、人が舞うときに使う言葉です。それを転用して、木の葉や蝶(ちょう)が舞い、ときには砂埃(すなぼこり)が舞う。これらも一種の擬人法なのです。
今回は「舞う」も含めた擬人法の用例に着目し、投稿作を見ていきます。
語感に配慮する
黄砂舞う七色の風潮騒と
太田穣(ゆたか)さん(男鹿市、55歳)の作。春先に飛んで来る黄砂によって空が七色に輝き、海のひびきが聞こえて来る。スケールの大きな佳句です。「舞う」は、さきほど申した通り一種の擬人法ですが、この句にとっては語感が優美に過ぎるように感じます。添削では「舞う」を消します。「潮騒」も良い言葉ですが、もう少し単純な言葉を使ってみます。「七色」は「虹色」に言い換えてみましょう。 虹色の風は黄砂や海の音
めりはりをつける
初蝶の舞いぬ発車ベルの鳴りぬ
米屋結衣さん(秋田県立大2年)の作。発車が作者と蝶の別れであると鑑賞してもよいと思います。初蝶はひらひらと舞っている。そのときに発車ベルが鳴った。時間の表現に関しては、蝶には継続の、発車ベルには完了の助動詞を使うと、時間の表現にめりはりがつくと思います。 初蝶の舞いをり発車ベル鳴りぬ
別の表現も試みる
山蟻の散歩の道は墓の上
平野智子さん(秋田市、45歳)の作。蟻(あり)が墓石の上を歩いていた。「散歩」という擬人法によって蟻に親しみが感じられます。蟻の巣から餌に向かって行列を作った状態を「蟻の道」といいますが、この句の山蟻は一匹だけでうろうろしている状態を想像します。添削では突き放した(非情な?)表現を試みます。非情な表現にすると墓石の無機的な感じが出ると思います。 山蟻の歩いてゆくは墓の上
存在感を際立たせる
半分の西瓜静かに出番待つ
柳原夕子さん(美郷町、38歳)の作。大きな西瓜(すいか)の存在感を詠んだ句です。「出番待つ」が擬人法で、この西瓜はこのあと美味(おい)しく食べられる運命にあることがわかります。
添削では、西瓜の存在感だけに絞った表現を試みます。
半分の西瓜静かにありにけり
擬人法を使うと、メルヘン風になったり、滑稽味が出たり、句の表情が豊かになります。そのいっぽうで、擬人法を使わない素っ気ない表現にも別の魅力があります。
擬人法を使った句を作った場合、擬人法を使わない代案も作って、両案を見比べることをおすすめします。
https://jphaiku.jp/how/gizinn.html 【擬人法は月並みなのか?】より
明治時代を代表する俳人、正岡子規に連なる俳人たちは、月並み俳句の特徴の一つとして『擬人法』を上げました。参考『月並み俳句とは?』
擬人法とは、植物や動物や自然などを人に見立てて表現することです。例えば、鳥が歌う、花が笑う、などといったものです。月並み句とは、要するに駄句のことです。
しかし、正岡子規の後継者である高浜虚子は、 大寺を包みてわめく木の芽かな
という植物を擬人化した句を詠んでいます。
また、松尾芭蕉の名句である さみだれをあつめて早し最上川 も川を擬人化したものであるとされます。
この他にも、擬人法を使った名句は、多々あります。『NHK俳句』の俳句選者を務めた高野ムツオも、うしろより来て秋風が乗れと云うという風を擬人化した句を詠んでいます。
つまり、擬人法を使っているから、悪い句であるとは一概には言えないということです。
擬人法は意外性のある句を作れる魅力的な手法として知られています。
子規派の俳人たちが『擬人法』を月並み句の特徴に加えたのは、これを安易に使うと、気取った作意が透けて見える、薄っぺらい句になってしまうからです。
また、擬人法の発想というのは、どうしても似たり寄ったりになりがちで、陳腐な句が生まれやすいという欠点があります。
もし擬人法を使うのであれば、常識から外れた発想が必要となるのです。
しかし、初心者が突飛な発想をしようとすると、人をアッと言わせることに力を入れるあまり、対象を良く観察しないで作ったものになりがちです。
これでは動物や植物などに接したことで得られた、ありのままの「感動」を伝えることができません。
「いかにうまい俳句を作るか? ではなく、いかに素材に接した感動を伝えるか?」が俳句本来の醍醐味です。
初心者の場合は、擬人法に頼ろうとしないで、まずは対象を良く見て、写生するところから始めるのが正解となります。
しっかりとした写生の表現技法を身につけ、自身の句を冷静に、客観的に見られるようになってから、擬人法に挑戦するのです。
擬人法は難易度が高い、玄人向けの手法であると言えるでしょう。
0コメント