ケン ウィルバーbot @KenWilber_botJP
人間は、少なくとも三つの眼を持っている。客観的な世界のできごとを感知する「肉体の眼」、イメージ、欲求、概念、観念を感知する「心の眼」、そしてスピリチュアルな経験や状態を感知する「観想の眼」である。(p.207)
http://sakuramitih32.blog.jp/archives/9097611.html 【春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり】より
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり 道元
(はるははな なつほととぎす あきはつき ふゆゆきさえて すずしかりけり)
詞書・・本来の面目を詠ず。
意味・・自然は美しくて良いものだ。春は野や山に美しい花が咲いて、心がなぐさめられる。夏には鳥が来てホトトギスもさえずり日々の暮らしに潤いをもたらしてくれる。秋は月を愛でながらしみじみと昔を想い出す。冬は雪が降ってもその冬景色は美しい。
こういった事が自然の姿である。自然を大切にして子々孫々まで残し自然と共に生きて行きたいものだ。
自然を痛めつけていてはホトトギスは来てくれなくなる。豊かな自然を大切にして、季節の移り行く趣の深さを、心の支えとして生きて行こうではないか。
詞書の「本来の面目」とは自己の本来の姿、自己の実相のことで次の言葉の略です。
「回向返照(えこうへんしょう)の退歩を学ぶべし、自然に心身堕落して、本来の面目現前せん」。 意味は「前ばかり向いて歩かずに、時には立ち止まり後ずさりして、自然と同化し、仲良く自然と語り合う気持ちのゆとりを持ちなさい。そうすれば、身も心も抜け落ちたようになり、自然のもっている本来の実相までが見えてきますよ」。
私たちはメガネをかけてものを見ているので、どうしても自分の都合のいいように、得になるように、という先入観が無意識のうちに働いて、そういう目で見るから本当の姿が見えない。自分の真実の姿を見つめる事の大切さを言っている。
(下記に山田無文さんの解説文を載せました。長文なので時間が許す時に読んで下さい)
注・・さえて=・・までも、・・でさえ。すずし=澄んで清い、さわやかである。
面目=人に会わせる顔、世間に対する名誉。 本来の面目=自己の本来の姿、自己の実相。
作者・・道元=どうげん。1200~1253。道元禅師。曹洞宗 の開祖。
出典・・建撕記・けんぜいき(松本章男著「道元の和歌」)
参考・山田無文さんの解説です。
1968年12月11日の新聞に、川端康成さんがスエーデンのストックホルム・アカデミーで、ノーベル文学賞受賞記念講演をされたその全文が出ておりました。川端さんは道元禅師の
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけりという歌と、明恵(みょうえ)上人の雲を出でて 我にともなふ 冬の月 風や身にしむ雪や冷めたきという歌を冒頭に掲げて、わたしは人から字を書けと頼まれると、よくこの二首の歌を書きますということから話しだされて、良寛和尚を語り、一休禅師を語り、西行法師を語り、日本の茶道を語り、生け花を語り、庭園を語り、焼き物を語り、さらに『源氏物語』から『枕草子』まで引き
出して"美しい日本の私"という話をされたのであります。
終始一貫、仏教の話ばかりのようでした。ということは、仏教をとってのけて、日本に語るべき文化もないということであろうと思うのであります。
はじめの道元禅師の歌は、"本来の面目"という題で歌われたものでありますが、悟りくさいことは何もいわずに眼前の自然を歌っておられるようであります。目前の自然がすべてそのまま道元禅師の本来の面目でありましょうか。禅師の心と自然の間には一分の隔たりもない、そういう境地が道元禅師の悟りであったろうと思うのです。
川端さんはさらに良寛和尚の歌を引かれております。
形見とて 何か残さん 春は花 山ほととぎす 秋はもみぢ葉
道元禅師の焼き直しのようでもありますが、実は良寛の辞世であります。良寛は死んで後に遺すものは何もありません。
春には花を夏にはほととぎすを、秋には満山の紅葉を遺しておきますから、どうか良寛の遺品だと思って可愛がってやってください、というわけでありましょう。
自然がそのまま良寛であり、良寛がそのまま自然であったでありましょう。この不二の心境を体得することが仏法、ことに禅というものだと思います。そしてそういう心の眼を最初にお開きになったお方が釈迦牟尼世尊であらせられるのであります。
この自然のすべてがそのまま"荘厳浄土"であり、一切衆生がそのまま"仏"であると、はっきり認識される、すばらしい人類最初の眼を釈尊がお開きになったのであります。
暁の明星をごらんになって成道された瞬間、眼を転じて山を見、川を見、森を見、花を見、小鳥をごらんになったとき、釈尊は飛び立つほどの驚異と感激を覚えられたと思うのであ
ります。何とすばらしい美しい世界ではないか。光明国土、一点の非の打ち所もないこの大自然の荘厳さよ!「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」と思わず歓声を挙げられたことであろう。「この世の中に美しくないものはひとつもない。
もしもこれが見えないならば、見えないものの眼があかんのだ」とロダンも言われたと聞く。一木一草、すべての美しさに心の眼を開くべきであります。
よく見れば首すじ赤きほたるかな
毎日見ている当たり前のことを芭蕉は幼な子のような驚異をもって眺めたのです。なぜほたるの首は赤いのか、誰が赤く染めたか。理屈はない。ただ、このままにその美しさに讃嘆のことばをおくる以外にどうすることも出来ないであろう。
馬をさえながむる雪の朝(あした)かな
白一面の雪景色の中に、まだ人の子一人通らない朝、馬が一匹飛び出すと、「あ!馬だ、馬じゃないか、馬だ、足が四本ある」と思わず眼を見張った句である。
私どもはあまりにも常識にとらわれているために、心の眼がつぶれておるんじゃないかと思うのであります。あまりにも妄想が多いために驚かないのじゃないかと思うのです。しかし芭蕉は見るもの聞くものいちいちに驚いたのです。その驚きの生涯が芭蕉の俳句の世界であり、そこに禅があると思うのです。
よく見ればなずな花咲く垣根かな
春ともなればみんな桜ばかり求めているが、芭蕉は垣根の下のペンペン草を見失わなかった。白いさびしい小さな花だが、力一杯咲いているじゃないか。この花はこの花でりっぱな使命を
持っているようだ。一木一草も見逃さず、見捨てるものは何一つない。すべてが、そのまま光明に輝いている。そう分かることがこの世に生まれた人間にとって、最高の意義であり喜びで
はなかろうかと思うのであります。
「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生ことごとく皆如来の智慧徳相を具有す」。奇なる哉、奇なる哉、と釈尊ほどの教養の高い方が驚かれたのです。一切衆生ことごとく皆如来の智慧徳相を具
有す。いま自分が6年の苦行の暁ようやく悟ったこのすばらしい境地は、実はもとからあったんだ。一切衆生がみんな生まれたときからもっているのだ。いまももっているのだ。と分かっ
たときの驚異はどんなにか大きかったかと思うのであります。
「ただ妄想、執着あるがために証得せず」
ただいらざる分別、いらざる思いごとが多すぎるために気がつかないのだ。釈尊は成道の朝、こう叫ばれたのであります。
この世界に美しくないものは一つもない。美しくない人は一人もいない、みんな仏になれる。こういう大歓喜を得させていただくことが仏法という宗教であります。
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