http://minorino.blog31.fc2.com/blog-entry-388.html 【雛あらば ・ 正岡子規】より
雛あらば 明治27年、当時27歳だった俳人 正岡子規 は上野の山に近い上根岸の貸屋に転居し、それを「子規庵」と名付けました。
生涯独身だった子規は、まもなく郷里愛媛県松山にいた母八重と妹律を東京に呼び寄せ、その子規庵で一緒に暮らしました。
子規の長い闘病生活の間、子規庵でこれら二人の女性が献身的に子規の世話をしたとのことです。
当然、子規は、女性の優しさを、身にしみて感じていたでしょう。
その子規に、次の俳句があります。ひな祭りのころ、子規庵の近所で女児たちが着飾って歩いているのを見て詠んだ句でしょうか。
雛あらば
娘あらばと
思いけり 正岡子規
独身だった子規は、世間で雛を祝ってもらっている女児たちの愛らしさを見ておもわずこの俳句を詠んだのでしょう。
いかにも子規らしいたださらりと詠んだだけの率直な俳句ですが、なんという優しくまた瑞々しい句調でしょうか。女児の愛らしさ、いとおしさを知っている者すべての共感を呼んでやみません。
Facebookさん坪内 稔典投稿記事
テレビ放送の案内です。3月3日(金曜日)の9:00からBSプレミアムで歴史秘話ヒストリア「友よ、泣かずに笑え―正岡子規・闘病を支えた絆」が放送されます。2009年製作ですが、何度も放送されてきました。今回は4日0:30からも放送されます。私はちょっと顔を出す程度ですが、皆さん、ご覧ください。
http://katobuntaro.blog18.fc2.com/blog-entry-437.html?sp 【正岡子規と闘病を支えた絆】より
歴史秘話ヒストリア 正岡子規と闘病を支えた絆 友よ、泣かずに笑え
正岡常則
大勢の友人と写っている俳人、正岡子規。
このころ32歳で、ほとんど寝たきりの状態。友人たちの支えで文学史に業績を残した。最も苦しい最中に、大勢の友人に囲まれている。
明治の俳人、正岡子規。
一番の友人は、同級生の夏目金之助。後の夏目漱石だ。
子規=ホトトギス
口の中が真っ赤なことから、結核の象徴とされた。
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夏目漱石との友情
明治の中期の東京。全国から東京にあこがれた数万人の若者が集まってきた。
明治17(1884)年、東京帝国大学予備門に入学。ガキ大将だった。新しい遊びの野球に熱中。弁論大会、酒の飲み比べ。友人たちを巻き込む。遊びに熱中するあまり、落第をする。正岡常則とつきあわないようにという話も出た。
遠慮なくお節介だが裏表のない性格で、友人たちを惹きつけた。最も親しかったのが夏目金之助、後の文豪夏目漱石だった。
内向的な漱石と友達になった。その関係もいかにもお節介なつきあいだった正岡流。
文学が共通の趣味ということで積極的に近づいた。
漱石の漢文の旅行記を赤字で批評する始末であり、これには漱石もびっくりした。これ以降、批判合戦をする2人。遠慮のない正岡常則の性格から心からの交流があった。
正岡常則は、明治22(1889)年、結核を発病した。
漱石が真っ先に見舞いに来た。
「卯の花の 散るまで鳴くか 子規」
子規(ホトトギス)とは、口の中が赤いことから、結核の象徴だった。
漱石から正岡常則(子規)への手紙。
「帰ろうと 鳴かずに笑え 子規」
病気を笑い飛ばせ、と漱石が作った初めての俳句だという。
常則は、東京で文学をする意志を固めた。これから「子規」を名乗った。
明治25(1892)年、子規は新聞社に文芸記者として入社した。こうして世に出た「正岡子規」
悪く言えばお節介、良く言えば親密だった。
友人の臨終から葬儀まで実行した。友人とは清水友則のことで、友人である彼の死を悼んでからであった。
子規の思いの深さに他の友人もびっくりした。
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episode 2
名句誕生秘話
子規の秘められた想い 名句誕生の舞台裏
「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
これととても似た句がある。
「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」
子規の足跡を裏付ける資料がたくさんある。
明治28(1895)年8月、正岡子規27歳。
結核の療養のために帰郷した。
松山にいた夏目漱石は、愚陀佛庵とよばれた下宿に、結核が観戦する危険があるという周囲の反対をよそに、子規を同居させ、ウナギの蒲焼きなどの栄養のあるものを毎日食べさせたという。
子規は徐々に回復した。子規は漱石に俳句を教えた。やがて子規は再び、東京へ行く。
その途中、奈良に立ち寄った。旅費は漱石が出した。
「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
この句の一ヶ月半前、愛媛の「海南新聞」に
「鐘つけば 銀杏散るなり 建長寺」
という、似たような句がなんと漱石が作者で投稿したモノだった。
子規は漱石への感謝の意を込めて、この有名なくを載せた。
とても似ているので、問題はあったが、そこは2人の友情の間柄だから、そんなことはどうでもよかった。
子規は、「柿食へば、、、」を漱石に見てもらうため、愛媛県の新聞にわざと発表した。2人の絆の強さだ。
「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
写生俳句の一つ。情景が浮かぶ。ありのままの言葉で詠まれた句だ。現在の俳句の原型となっているが、今はそれをふつうのこととして詠んでいるが、子規が大きく取り上げて完成させた方法だ。
この句の天候は秋の夕暮れをイメージしやすいが、実際の所どうだったのだろうか?
子規の奈良の滞在は、明治28(1895)年10月26日~29日まで。
最終日に、斑鳩の里の法隆寺を訪ねた。
子規が法隆寺を訪ねたときは雨だった。観測記録から。
他の子規の句には、雨の様子が詠われていた。
子規の想いは何か?
「くだもの」という随筆に載っている。
東大寺のそばの宿屋に泊まっていた。宿の女中が柿をむいていた。16歳から17歳の女で、色は雪の如く白く、目鼻立ちも申し分なかった。梅の精霊か?と思った。柿もうまい、場所もよい。うっとりとしていると、鐘が一つ聞こえてきた。
子規が聞いた鐘の音は、そばの東大寺の初夜、午後8時の鐘の音だったという。子規の非常に昂揚した気持ちが込められている。
この有名なくは、漱石との友情と、少女に対する淡い想いからできた。
柿は奈良の特産品。
子規は柿が好物。100以上の句に柿が出てきている。
子規庵(東京・根岸)母と姉
7年に及び闘病生活。友人たちの励まし。
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episode 3
最後の日々 闘病を支えた絆
脊椎カリエスで、猛烈な痛みを伴う。
自分の足で立ち、外を歩いてみたい。
友人からの贈り物。ロシア・アムール川の石を新聞社の友人から。双眼鏡、地球儀。
親友夏目漱石は英国に留学していて、ロンドンから子規へ手紙を送ってきていた。
「居ながらにしていて西洋のことがわかる。」
中村不折
不折は、子規に水彩画を勧めた。苦しみを慰めるためだ。ケイトウの赤。鋭い子規の観察眼。
雑誌「ホトトギス」高浜虚子
闇汁パーティ
どんなに苦しくても、友人たちが遠慮なく横にいてほしい。
最後の俳句の勉強会が、明治35(1902)年9月10日、正岡子規34歳に開かれた。子規が亡くなったのはそれから9日後。
明治35(1902)年9月19日、正岡子規永眠。34歳。
その最後は眠るように静かだったと言われている。
東京・根岸、子規庵
手入れをしたのは妹の正岡律。病状にあわせ、何度も庭を変えたという。
大きな鳥かごで鳥の声を聞かせる。寝たままでも見ることがで来るようにヘチマだな。友人たちの胸に刻まれた想い。
中村不折のパリの下宿には正岡子規の写真。
夏目漱石の「吾輩は猫である」には子規を登場させている。
死語も毎年、家に集まり、句会を開いた。
友と遊び、友と競い合う
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