宝積寺の由来

https://www.town.takanezawa.tochigi.jp/town/miryoku/rekishi/housyakuji-yurai.html 【宝積寺の由来】より

「宝積寺」とは?

宝積寺という寺は群馬、山梨など各地にあるが、最古の寺は京都の大山崎町にある。724年に有名な僧行基が創建したという真言宗の寺院で、俗に「宝寺(たからでら)」という。

 「宝積寺」の由来については史料に諸説はあるが、はっきりしたことは解っていない。

 宝積寺の村名についての初出は文禄2年(1593)の大和田重清日記(史料編Ⅰ)だが、由来を記した最初は「地誌編集材料取調書・宝積寺村」(明治18年)で、次のようである。

 「本村下阿久津村ヲ宝積寺村ト改名セシハ、旧領主宇都宮弥三郎国綱氏の妹、慶長ニ酉年中(1597)本村月馬場ニ宝積寺ト称ス尼寺ヲ建立シ田畑ヲ開キ寺 料トナシ居住セシニ、慶長八卯年中(1603)相州鎌倉ニ転ジ廃寺スルニ寺号ヲオシミ給ヒ、宝積寺ノ号ヲ村号トシ永称セヨト寺料諸品不残本村ニ給リ下阿久 津ノ村ヲ廃シ慶長八卯年ヨリ改メテ宝積寺村ト称ス」

 慶長ニ年は宇都宮氏改易の年で、国綱の妹の出家は考えられるが、確かめる手段はなく、宝積寺の村名は慶長八年以前、既に使われていた。

謎の中の「妙清尼」

もう一つは昭和五年阿久津尋常高等小学校編纂の「郷土教育資料」で、次のように述べている。

 「永観年中(十世紀末)阿弥陀寺の開基を見、建仁年中(十三世紀初め)木曾義仲の御台所清子の姫落ち来たり、宇都宮氏の血族なりしを以て夫の菩提を弔うべく妙清尼と名乗り、妙清山を開基し、宇都宮泰綱(やすつな)公寺領の地五十町歩を与えたり。(中略)

 慶長ニ年妙清山宝積院宝蔵寺の住職、永年此の地は寺の地なりとし、宝積寺村と届出をなせしより起これリと」

 ここで興味深いのは宇都宮氏の姫の木曾義仲妻説だが、義仲と宇都宮氏を結びつける史料があるのだろうか。宇都宮氏は義仲挙兵の二年後に源頼朝に仕えるので、義仲と縁を結ぶ可能性は少ない。

 村名を届けたという慶長ニ年前後は高根沢地域で太閤検地が行われているから、この頃村名を変えたことは考えられる。しかし、前述のようにそれ以前に宝積寺の村名は使われていたのだ。

 宝蔵寺は寛延二年(1749)「宝積寺村指出帳」(史料編Ⅱ)にある古寺だが、天保年中に無住となり慶応元年(1865)の「村明細書上帳」(同前)では、宝性山宝蔵院宝蔵寺で、妙清山宝積院ではない。そして、明治初年廃寺となっている。

幻の「宝積寺」

「宝積寺」伝承に最もふさわしいと思われるのは、寛延二年の「指出帳」に載っている「惣村支配」の「阿弥陀堂」である。堂伝来の宝物として親鸞聖人筆の 「阿弥陀如来画像」「六字御名号」、恵信僧都筆及親鸞の曾孫覚如上人筆の「阿弥陀如来」各一幅、計四点が慶応元年の村明細書上帳に記されている。

 この阿弥陀堂と伝来の宝物をめぐる伝承があって、それが「宝積寺」伝承を生んだとしたら、念仏三昧で暮す改易大名の妹や木曾義仲の若後家という主人公の設定は、なかなか味なものである。

 月馬場には「西門前」という屋号が残っていて、寺があった痕跡はある。

 巴御前のような女丈夫に夫を奪われた薄幸の妙清尼が、夫の菩提を弔いながらこの地で果てたと想像すると、宝積寺の地名も今とは別の色合いをおびて、私たちの前に現れてくるのではないだろうか。

地名「宝積寺」の由来について(史料)

〔1〕地誌編集材料取調書「宝積寺村」の記述

 本村古時塩谷郡ニ属シ阿久津村ノ一郷ニシテ、后、寺号ノ称ヲ用フ。

 本村往昔本郡上阿久津村ト一村タリ。建長五丑年(1253)中、上阿久津村、中阿久津村、下阿久津村ト三村ニ分カル。其后本村下阿久津村ヲ宝積寺村ト改 名セシハ、旧領主宇都宮弥三郎国綱氏ノ姉、慶長ニ酉年(1597)中、本村字月馬場ニ宝積寺ト称ス尼寺ヲ建立シ、田畑ヲ開キ寺領トナシ居住セシニ、慶長八 卯年中、相州鎌倉ニ転シ廃寺スルニ、寺号ヲオシミ給ヒ宝積寺ノ号ヲ村号トシ永称セヨト寺料諸品不残本村ニ給リ下阿久津ノ村ヲ廃シ慶長八卯年(1603)ヨ リ改メテ宝積寺村ト称ス。

  (明治十八年六月 塩谷郡上阿久津村外四ケ村戸長 永倉半次郎)

〔2〕阿久津尋常高等小学校 郷土教育資料 昭和五年度編

 永観年中(983~985)阿弥陀寺の開基を見、建仁年中(1201~1204)、木曾義仲の御台所清子の姫落ち来たり、宇都宮の血族なりしを以て、元 久元年(1204)、夫の菩提を弔うべく妙清尼と名乗り、妙清山を開基し、宇都宮泰綱公寺領として、この地五十町歩を与えたり。

 承久年中、阿弥陀仏山を河原内地内に移し、承久山と改めたり。時に親鸞上人行脚され当寺に泊れリといふ。氏家馬場明神年番帳に応永二十年(1413)下阿久津の孫八年番総代とあり、よって下阿久津とも称せしことあきらかなり。

 慶長ニ年妙清山宝積院宝蔵寺の住職、永年此の地は寺の村なりとし、宝積寺村と届出でをなせしより起これリと。

 而して明治二十二年阿久津村の大字となる。河原内は河原の中の沢なるを以て其の名ありしなるべし。幾多の洪水に苦しみ、殊に天保八年の五十里洪水の災害に遭ひ、現地に移住せしなるものと考察す。

〔3〕高根沢町史史料編Ⅰ

 (1)大和田重清日記 文禄ニ年(1593)十~十二月文禄の役で名護屋城へ在陣の後、九月に水戸へ帰ってからの部分に宝積寺の百姓が肴持参、年貢皆済などの記述がある。その他、宝積、宝尺の記載がある。

 (2)今宮祭祀録〔正安元(1299)年~天和元(1681)年の記録〕

 応永二十年下阿久津郷の記載がある。

〔4〕宇都宮氏系図

 (1)国綱姉は系図にない。

 (2)泰綱の前後に木曽氏と縁組したと推定できる女子は見当たらない。

 (3)はやい時期に頼朝に仕えた宇都宮氏が木曽義仲と結ぶのは不自然なところがある。

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