大洪水後のシュメール文明 ⑥

http://blog.livedoor.jp/melody87/archives/2525857.html 【第10章 大洪水後のシュメール文明】より

■紀元前2000年頃

 支那五帝の黄帝(こうてい)・??(せんぎょく)・帝?(ていこく)・尭(ぎょう)・舜(しゅん)の世、尭(ぎょう)は曲阜(きょくふ)に都を作り、??(せんぎょく)は高陽(コヤン)に国を開く。日本では九州に国ができ、南海道(四国)でも国ができる。

 帝?(ていこく)は国を唐として、暦象を作った。この頃にエラム王・クヅル・ナクハンタ・カルシャを征服する。

 支那(中国)では帝舜王が蒲阪(ほはん)に都を作る。日本では筑紫に国ができる。

■紀元前1894年

バビロニア帝国(バビリ)

 あの“大いなる惨禍”の後、“邪悪な風”を免れたバビリ(バビロニア)はマルドゥクが最高権力を宣言したように、彼の帝国となった。そのため、宣言通り、エンリルとニヌルタ(アラム・ムル)は海の向こうの土地へ旅立ち、ニビルのために金を入手するという特命ミッションを遂行した。また、マルドゥク一派を除く他の神々も、エンリルとニヌルタに追随した。エンキと僅かな神々を除いて。

 マルドゥクと彼の信奉者であるイギギの一派は、相変わらずエゴと欲望で歪んだままだった。自らの帝国を手中にしたマルドゥクは、神話・伝承の改竄(かいざん)を進めた。天地創造神話「エヌマ・エリシュ」ではニビルのことを“マルドゥク”と呼ばせ、ニヌルタについてはすべて、エンリルについてはほとんどの内容が削除された。エンリル系に対して、相当な恨みを抱いていたためである。これにより、十分な知識が与えられていなかったこの地域の人類は誤解し、曲解し、ありもしない妄想が妄想を生み出す事態となった。

 様々な儀式、とりわけ新年を祝う儀式もマルドゥク流に変えられ、性的な節制は不幸の原因になるとして避けられ、性を拒む女性は悪魔の手先とされた。それ故、“聖なる結婚”が性的倒錯と人間の生贄の儀式へと変貌した。それが、マルドゥクの拝ませた“空のはしけ”ベンベンの偶像崇拝と重ねられ、偶像崇拝には性的倒錯や人間の生贄が不可欠とされたのである。

 また、マルドゥクは貨幣経済を創り出した。当初、貨幣は物々交換を効率化するための“手段”だったが、それがいつしか“目的”となり、金(かね)のために人々が争い、血を流すこととなった。金に関わる神は“マモン・ラー”と呼ばれ、やはりマルドゥクを暗示する“ラー”という名が込められた。

 しかし、神々からの教えをそのまま継承していた者たちもいた。それは、ハランに派遣されたイブル・ウム(アブラハム)の一族で、彼らは神々の指示によって、安全な地下へと避難していたのである。そして、地上が安全な状態になってから、機を伺って地上へと戻って来た。

 この地下へ避難していて、地上が安全になってから出て来たイブル・ウム(アブラハム)の一族が、地底人などと思われた。それが第4の“神聖”な地域(シナイ半島)と結び付き、そのような惨禍(さんか)を生き残った者たちが地底などに避難し、理想郷=シャンバラとも言える高度な文明を築いているという誇大妄想となった。 

 シャンバラとは神々の第4の“神聖”な地域(シナイ半島)のことである。それが日本では、須弥山(しゅみせん)や弥山(みせん)と呼ばれてきた。ただし、“遠い東の土地、高い山々の土地”ヒマラヤへ行ったイギギの子孫たちは、シャンバラ伝説と混同された。彼らは人類よりも高度な文明を維持していたからである。

 偶像崇拝の根源バアルは元々エンリルで、後にマルドゥクを暗示する言葉となったがマルドゥクは偶像崇拝やら拝金主義などの根源である。“聖なる結婚”の儀式の根源はイナンナだが、それをここまで酷くしたのはマルドゥクだった。世界中で見られた人間の生贄の儀式は、この後、マルドゥクが世界を放浪して最高神であることを普及したことによる。

 また日本語では“金”と書いて“きん”とも“かね”とも読む。ニビルへのキンからカネができ、それが手段から目的へと変貌したが、使い方次第で表(=善)にも裏(=悪)にもなることを、昔の日本人はこのような“事実”から知っていて、そういう二重の意味を与えたのである。

 “ありもしない妄想が妄想を生み出した”というのは、物質宇宙の基本的物理法則として、星々は創造のエネルギーと電磁場的に共鳴し、星々に誕生した生命体も電磁場的にその星は勿論のこと、創造のエネルギーとも共鳴しあう相互関係である。人間の想念は脳内の電気信号の作用なので、電磁場を生み出す。その思考波が共鳴したり打ち消しあったりするが、その共鳴作用によって、良い想念はより良い想念へ、悪い想念はより悪い想念へと増幅される。天皇陛下が常に祈りによって世界を良い方向へ導こうとしていたのは、良い想念の増幅作用の端的な例である。

 同様に悪い想念も増幅して、いつからか、その創り出された悪い想念エネルギー体に人間の思考が影響され始めるようになり、より悪い現実を創り出すようになった。そして、黒魔術などが生み出され、想念の負のスパイラルが始まった。これが、様々な宗教で言うところの、悪やサタンなどと言われるものの正体である。カバラで言えば、「生命の樹」の下降である。

 そのような想念を生み出す元になったのがマルドゥクだった。よって聖書では彼の帝国“大いなるバビロン”は崩壊することになっていた。こういうことがあり、日本では言霊信仰で悪いことは口にはしない、ということがあった。

 マモン・ラーも地獄の4人のサタンの1人とされ、この名が“マネー”の語源となった。つまり、21世紀初頭まで続いた貨幣経済は、マルドゥクのバビロニア帝国の貨幣経済が元だった。マモン・ラーは双頭の鷲で、フリーメイソンのシンボルでもある。双頭の鷲の意味は、狡猾(こうかつ:ずるく悪賢いこと)、虚偽(きょぎ:誤った思考)、欺瞞(ぎまん:だますこと)だ。しかし、名前に“ラー”がある以上、これもマルドゥク=バアルを象徴しており、狡猾(こうかつ)、虚偽(きょぎ)、欺瞞(ぎまん)に相応しい。

 20世紀後半から、盛んにチャネリングなどで宇宙人や高次の存在とコンタクトしたと言われ始めたが、それは、人間の悪い想念が生み出した邪悪な電磁場エネルギーへのコンタクトである。よって、テレパシーでコンタクトしたとか、UFOに乗せられて金髪碧眼の宇宙人に導かれたなどという体験談は、チャネリングによってサタン的意識が潜在意識に働きかけることによる幻覚や妄想に過ぎないと言える。変な“お告げ”の類もそうである。霊能者と言われていたほとんどは偽者である。何に共鳴しているのか、解ったものではない。本物は、僅かな人たちだけだった。

 20世紀オカルトの元祖的存在とも言えるブラヴァツキーは、古代エジプトのイシス-オシリス黒魔術を基本としており、それはマルドゥクによるでっち上げと偶像崇拝が根本である。

 カバラの類の考案はすべてニンギシュジッダでピラミッドに目のマークもそうだが、それを後からマルドゥクが利用したに過ぎない。

■紀元前2000年頃

アブラハム

 アブラハムの一族は、カナンからエジプトへ移動したため、「川の対岸からやって来た」という意味でハビル人→ヘブル人→ヘブライ人と呼ばれる。

 アブラムは後に神からの勅命を受け、アブラムをアブラハムに改名。彼はイシュマエルとイサクという2人の息子をもうけ、イシュマエルは「アラブ民族の父」となる。一方、イサクはエサウとヤコブという双子の息子をもうけ、弟のヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と変えたが、彼こそが『旧約聖書』に登場する「イスラエル民族の父」となる。

 ヤコブ(イスラエル)は4人の妻に12人の息子を生ませ、生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けた。父ヤコブの死後、それぞれ皆一族の長となり、ルベン族、シメオン族などのように支族が誕生していった。ただし、レビ族だけは祭祀を司る専門職であるため、通常、イスラエル12支族には数えない。レビ族だけを抜いて数える場合、11男ヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを独立させ、それぞれマナセ族、エフライム族とする。

ギルガメシュ叙事詩

 また古代メソポタミアの文学作品で、シュメール語版ギルガメシュ叙事詩の写本が作成される。後の旧約聖書やギリシャ神話はギルガメッシュ叙事詩が基となっており、古代メソポタミアのシュメールの都市国家ウルクに実在した王のギルガメッシュをめぐる物語である。

 その後、古代イスラエルの宗教は、長い年月をかけてユダヤ教、神道、キリスト教、イスラム教へと分かれていく。

 旧約聖書はこれらの宗教の基となり、ユダヤ教やキリスト教では正典とされ、イスラム教においてもその一部(モーセ五書、詩篇)が啓典とされている。また神道とユダヤ教には類似点が多く、由来は同じである。旧約聖書という呼称は新約聖書を持つキリスト教の立場からのものであり、ユダヤ教ではこれが唯一の聖書である。そのためユダヤ教では旧約聖書とは呼ばれず、単に聖書やユダヤ教聖書、ヘブライ語聖書、ヘブライ語聖典などと呼ばれている。また日本の古事記や日本書紀は旧約聖書の内容と類似している。

七夕の起源

 ギルガメッシュ叙事詩は河をはさんで男女が1年に1回、7月7日に会えるという恋愛物語の七夕の起源にもなっている。

 「ユーフラテス河の左右に分かれ敵同士だったウルク城の姫が、ラガッシュ城の王子と年1回だけの逢う瀬を、密かに7を重ねた奇跡の日だけに長く延びる青竹につかまって双方より渡り、川の中州で逢って寄り添った。」

 この話のルーツはイナンナにある。

 イナンナはウヌグ・キ(ウルク)の神聖な区域に“ギグヌ(夜の愉しみの家)”を設置し、それとは別に、王たちと一緒に新年の祝いの儀式も行うようになったので、これらが変遷(へんせん)して、年に1回、イナンナとドゥムジが逢瀬(おうせ:愛し合う男女がひそかに会うこと)する、という逸話になった。

 これがギリシア神話のオルフェウス(琴の名人)の男女の恋愛の話となり、中国に伝わり牽牛(けんぎゅう:わし座のアルタイル)・織姫(琴座のベガ)の恋愛話となり、それが日本に伝わり七夕の話になった。このギリシア神話のオルフェウスの話は、七夕の話に変化したものだけでなく、直接的にも日本に伝わり、日本神話のイザナミとイザナギの話になっている。日本での「たなばた」という言葉の語源は、古事記や日本書紀に見られ、万葉集にも七夕にまつわる歌が存在している。また先のギリシア神話が、アレキサンダー大王の大遠征による東西融合のヘレニズムで世界各地に伝わっていった事は有名であり、フィンランドにも、「愛し合った夫婦ズラミスとサラミが死後に、天の川を渡って再会する。」という七夕とよく似た話がある。

旧約聖書の誕生

 旧約聖書は紀元前2000年頃に書かれ始めた。始めはヨブ紀だった。他の部分は紀元前1500年~紀元前400年頃の1100年かかってまとめられた。聖書1700ページのうち1400ページが旧約聖書であり、残り300ページは新約聖書である。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーゼであったとされているが、実際の作者は不詳。

 ヨブ記では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。

 聖書の唯一絶対神ヤハウェは唯一絶対ではなく、何人もの「神々」が1つにまとめられたものである。例えば、次のような例である。

・天地創造:“万物の創造主”。7 日間の天地創造はエンキの話に由来。

・人類創造:エンキ、ニンギシュジッダ、ニンフルサグ。

・アダムとイブの追放:エンリル。

・カ・インの追放:エンキ。

・ノア(ジウスドラ)に箱舟を造るよう指示:エンキ。

・洪水後にノアを祝福:エンリル。

・バベルの塔に対する怒り:エンリル一族。

・アブラハムの導き:エンリル。

・ソドムとゴモラへの天罰:エンリルの指示によるニヌルタとネルガルの攻撃。

 ヤハウェの前名はEL SHADDAIであり、SHADDAIの語源はアッカド語で山脈を意味するSHADU である。つまり“EL SHADDAI=山の神”ということであり、“遠くの山に住む神”を意味するイシュクルの象徴である。

 そして、ヘブライ語の“主”を意味する“アドーナイ”は、イナンナがドゥムジを呼ぶ声である。

 また、ヤハウェは姿を見せない「神」であり、ヤハウェの出現に伴う雷や稲妻は、宇宙船からの光や轟音である。このように考えると、真沸流や対抗する畿内の物部氏(尾張氏、海部氏)の前に現れた“光り輝く金鵄”とは、「神々」の乗った宇宙船であり、そこからイエスが現れて「私は在りて在る者」と言うことにより象徴的にヤハウェ=イエスであることが判明し、真沸流が初代応神天皇となったことも理解しやすい。

ミノア文明

 古代ギリシャのクレタ島で、ミノア文明が栄える。地中海交易によって発展した。リトル・アトランティスの文化を残す場所である。

■紀元前1808年頃

 中国古代の殷(いん)王朝の開祖である湯王(別名は天乙:てんいつ)は、飛行機製造を命じた。そして河南のテスト飛行で成功するが、悪用を恐れ処分した。

 中国の遼寧省(りょうねいしょう)の春秋末期(紀元前400年頃)の遺跡から、飛行機の形の青銅細が見つかっている。

■紀元前1694年頃

インダス文明、大まかな歴史の流れ

 ヒンドゥースタン平原を形成したインダス川に沿って南西に進むとシンド(スィンドゥ)に辿り着くが、ここから偉大なインダス文明が始まった。後にインド亜大陸に進入してきたのはイナンナが主神のペルシャ系アーリア人で、インド語の"s"がペルシャ語では"h"に対応するので、“シンド”が“ヒンドゥ=ヒンズー”となった。更に、後にアレクサンダー大王と共に大量進入してきたギリシャ語では“インド”となる。また、スィンドゥの“スィ”は英語の"th"の発音に相当し、“テンドゥ=テンジク”となり、これが漢字で“天竺(てんじく)”となった。インド人は自分たちの国をバーラト(バーラタ)と言い、これは二大叙事詩の1つ「マハーバーラタ」に由来している。

 モヘンジョダロやハラッパーのインダス文明の担い手はドラヴィダ人だったが、それは第3の地域(インダス川流域)の最初の人たちだった。“大いなる惨禍”の後、アーリア人が浸入してきたので、ペルシャとインドの神話はほとんど同じだが、登場人物の敵と味方の関係が逆である場合が多い。これは、どちらがイナンナを招聘(しょうへい)するかという対立関係にあったためである。

 アーリア人が侵入し、支配者として君臨してから階級制度(ヴァルナ)が誕生した。4つのヴァルナは上位からバラモン(宗教者)、クシャトリヤ(王族、貴族、戦士)、ヴァイシャ(一般市民)、シュードラ(奴隷)である。15世紀にインドに来たポルトガル人が、人種や血統を意味する“カスタ”と呼んだが、それが英語化してカーストとなった。更に、これ以外にもアウト・カーストが存在し、不可触民(ふかしょくみん:カースト制度の外側の差別されてきた人々)とされている。

 アーリア人が口頭伝承してきた宗教思想がインド哲学の根源で、後に文書化されてヴェーダとなった。根本聖典(サンヒター)はリグ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダで、主に祭祀のしきたりや呪文、神々への讃歌などが記されている。最も重要で最も古いのがリグ・ヴェーダである。

 ヒンズー教の礎であるバラモン教はヴェーダを基礎とし、祭儀書ブラーフマナ、森林書アーラニヤカ、奥義書ウパニシャッドから成る。その特徴は、人間と宇宙の対応にある。“永遠に存在する個人の本体=我=アートマン”と“宇宙の根本原理=梵(ぼん)=ブラフマン”は究極的に一体であり、一体化させるのが人間の生きる目的であり、それを“梵我一如(ぼんがいちにょ)”と言い、“悟りの境地”である。そこにインダス文明と土着信仰が合流し、祭祀中心のバラモン教となった。バラモン教は更に土着神を取り込んでヒンズー化し、叙事詩の成立を経て、ヴィシュヌ派とシヴァ派へと二大宗派化していった。

 梵我一如(ぼんがいちにょ)の概念は、ヘルメス思想と同じである。ヘルメス思想では、創造主と被造物は本質的に同一であり、同じ一者の異なる現れにすぎず、「全は一であり、一は全である」と考える。そして、下のものと上のもの、小宇宙と大宇宙が本質的に同一であり、互いに照応し合っていると考える。

 輪廻転生を説くのはバラモン教で、人間は必ず人間に生まれ変わるとされている。どの階級に生まれ変わるかは、前世での行いによる。だから、低カースト者は前世の行いが悪かったのであり、そのため、彼らがどんな悲惨な目に遭っていようと助けないし、助けられようとも思わない。そして、輪廻転生の循環から抜け出す方法が梵我一如(ぼんがいちにょ)であると考えた。

 釈迦は、ペルシャからインドにかけての広大な地域に住んでいたトルコ(セム)系遊牧民の流れを汲む北インドのサカ族の王子で、本名はガウタマ・シッダールタである。釈迦は形骸化したバラモン教を批判した。そして、バラモンが認めていたヴァルナも輪廻転生も否定した。人間が行いによって動物界などに転生するというのは後世の例え話で、釈迦は言っていない。実は、輪廻転生の概念は根本聖典には無く、後のウパニシャッドで初めて登場する概念で、元々は無かったのである。それもほとんどが例え話で、真実ではない。

 梵我一如(ぼんがいちにょ)の概念がヘルメス思想と同一と言っても、ヘルメス思想はギリシャである。アーリア人のもう一方は西方へ移動し、ギリシャへの窓口となっている場所のアナトリア高原にヒッタイト王国を築いた。つまり元は同じである。

 ヘルメス思想では、人間と神は本質的に同一であり、それを“認識(グノーシス)”しさえすれば、人間を神のレベルにまで高めることができると説く。ヘルメスはギリシャでは叡智の神とされ、別名トートなので、ニンギシュジッダのことである。その証拠に、ヘルメスは長い剣に2匹の蛇が巻き付いたカドゥケウスの杖を持つ姿で描かれ、ニンギシュジッダと同じシンボルである。これが後に誤解され、ヘルメスを神官、王、賢人(哲学者)である三重に偉大な者“トート・ヘルメス・トリスメギストス”と言われ、エノクと同一視された。そして、マルドゥクの影響によってエノクはあらゆる秘教の大元とされ、彼が天使との会話に用いたエノク語は、至高の力と叡智をもたらす呪文とされてしまった。

 その影響は輪廻転生の概念にも表れている。“復活、長寿=不老不死”を例えたものが、誤解されてしまった。だから、釈迦はそれを否定した。そもそも、助けないのは良くない行いだから、来世は低カーストに生まれ変わるはずだ、という矛盾に彼らは気付いていなかった。この釈迦は、後に登場するヘブライの民の末裔である。

ヒンズー教の主神とインダス・カバラ

 ヒンズー教の神々の最大の特徴は、多種多様な化身(アヴァターラ)が存在すること、多くの顔や腕を持つ非現実的な姿であること、そして、男性器の象徴であるリンガと女性器の象徴であるヨニを崇拝することである。

  主たる創造神はブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三柱である。ブラフマーは仏教の梵天(ぼんてん)だが、宇宙の根本原理ブラフマンが擬人化された創造神。后(きさき)はサラスヴァティーで、仏教の弁財天。ヴィシュヌやシヴァはブラフマーの命令によって魔人退治に出掛けたりする。だが後に、この二神がブラフマーに取って代わることとなった。これら三神は本来一体であり、同一の神が宇宙の最高原理を創造する時にはブラフマー、維持する時にはヴィシュヌ、破壊する時にはシヴァとして現れる三神一体=トリムルティという考えが一般的である。トリムルティを表す図では、向かって左からブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの順に描かれ、本来、均衡の柱として中心に描かれるべきブラフマーは、向かって左に追いやられている。

 ヴィシュヌは仏教の那羅延天(ナラエンテン)、毘紐天(ビチュウテン)で、リグ・ヴェーダでは数ある太陽神の中の1つ。后(きさき)はラクシュミーで、仏教の吉祥天女。破壊を司るシヴァが恐怖と温和の二面性を有するのに対して、ヴィシュヌは温厚で慈悲深く、熱心な信者に対して必ず恩恵を与える。この性格は、世界が危機に瀕した時、人間や動物に姿を変えて出現し、窮状(きゅうじょう)を救うという化身あるいは権化による“救世主的性質”によく表れている。

  ヴィシュヌの化身にはラーマ、クリシュナ、マツヤ(魚)、クールマ(亀)、ヴァラーハ(猪)、ヌリシンハ(人獅子)、ヴァーマナ(矮人)、斧を持つラーマ、ブッダ、カルキがあり、特にクリシュナはイエスの予型とも言える類似性を示している。ヴィシュヌ本来の身体的特徴としては、青黒い肌と4本の腕、蓮華のような目を持つ。黄色い衣服を纏い、アナンタ龍王(7つのコブラの頭を持つ龍の化身、ナーガ)に腰掛けたり、その上で眠ったり、体に巻きつけたりしている。また、4本の手に円盤、法螺貝(ほらがい)、棍棒、蓮華を持っている。

  シヴァは仏教の大自在天(だいじざいてん)、大黒天(だいこくてん)で、世界の創造・維持・破壊を司る。最もシヴァに愛されていた后(きさき)はパールヴァティーで、仏教の烏摩(うま)。シヴァにはヴィシュヌのような化身はほとんど無いが、性格を描写する多くの異名を持っている。その暗黒面としては、恐るべき者ということでバイラヴァ(畏怖者)、運命と死を支配することからカーラ(時間)、世界の破壊を司るハラ(破壊者)と呼ばれ、他にもブーテーシャ(悪鬼たちの主)、ムンダマーラー(髑髏”どくろ”を首に掛ける者)などといった呼び方もある。光の側面としては、恩恵を授けるのでシャンカラ(吉祥者)、支配者なのでマヘーシュヴァラ(大自在天”だいじざいてん”)、全知全能であることからマハーデーヴァ(大天”だいてん”)、牧童(ぼくどう)に従う家畜のように人々がシヴァに従うのでパシュパティ(家畜の主)などと呼ばれる。

  暗黒の側面は、戦いと殺戮の女神ドゥルガーとカーリーである。ドゥルガーは航海の神として知られ、獅子を従えた美しい女神として描かれることが多い。カーリーは“時間”と“黒色”の2つの意味を持つ“カーラ”という言葉の女性形である。故に、別名を“時の女神”とも“黒色の女神”とも呼ぶシヴァの暗黒面を司る妃であり、シャクティとしてのシヴァのエネルギーの源泉ともなっている。神々の世界を支配しようとした魔神シュムバとその兄弟、手下のチャンダやムンダらと戦うことになったドゥルガーが、その怒りによって顔色を黒色に転じると、そこからカーリーが現れたという。

 シヴァの一般的な姿は一面四臂(いちめんよんぴ)で、全身に灰を塗り、首には蛇を巻きつけている。腰には虎の皮を巻き、頭髪は荒々しく束ねて高く巻き上げ、その髪の中には聖なるガンジス川の女神ガンガーがいて、そこからガンジス川が流れ出している。2本の手には三叉戟(さんさげき)と斧を持ち、残りの手は恩恵を与える印(いん)と恐怖を取り除く印を結んでいる。

 カーリーは黒色の肌で、首には仕留めた魔神たちの生首や髑髏(どくろ)の首輪を掛け、4本の手には血糊(ちのり)の付いた剣や縄、三叉戟(さんさげき)などの武器、髑髏(どくろ)の付いた棒、血の滴る生首を持っている。腰には虎の皮を巻き付け、大きく開いた口からは長い舌を出している。横たわるシヴァにまたがり、目は血走り好戦的で、血を好み、破壊と殺戮を楽しむ強大なパワーを持った女神である。

 また、シヴァといえばリンガ(男性器)崇拝である。リンガは普通石で造られ、頭の丸い円筒形をしている。多くの場合、女性器を象ったヨニという台座に直立しており、陰陽の合一を表す。

  通常、リンガは石龕(せきがん)の内部に祀られている。龕(がん)は子宮を表し、生命の創造を表現している。ヒンズー教徒は、ここでマントラを唱えて祈る。リンガの先端にミルクやギー(水牛や山羊の乳から作られた脂)、胡麻油(ごまあぶら)などが掛けられる。これらはシヴァの精液を表しており、下のヨニに流れ落ちる。これにより、シヴァの精液はパールヴァティーの子宮へ入り、新たな生命を創造すると考える。

  エジプトのカルナックにあるアモン神殿には、パピルス柱とロータス(蓮)柱が建っており、パピルスは下エジプト、蓮は上エジプトを象徴すると同時に、蓮は花で女性原理、下エジプトのピラミッドはそそり立つ山で男性原理を象徴するので、女性原理と男性原理の統合=陰陽の合一を表す。これを更に象徴化すると、ヨニに座すリンガ、蓮華に座す釈迦となる。また、リンガはシヴァ、ヨニは妃パールヴァティーで陰陽の合一である。このような性器崇拝の起源はインダス文明にまで遡るが、これがヴェーダ由来のシヴァ信仰と結びつき、大いに発展した。更に、リンガは柱である神を、ヨニは器である神殿を表し、神殿に神が降臨することも暗示する。

 ブラフマーは最高神で、その后(きさき)サラスヴァティーが仏教の弁天様、弁天様は日本ではイチキシマヒメで、天照大神とスサノオとの誓約で生まれた三女神の一柱である。つまり日本神話では天照大神が最高神的なので、それとブラフマーを重ねた。サラスヴァティーはブラフマーが自らの体から造り出した存在なので、構造としては全く同じ。日本神話の原型は、こんなところにもある。

 サラスヴァティーは水と豊穣の女神なので、原型はイナンナである。そして水の神なので、イチキシマヒメも福岡県の宗像大社(むなかたたいしゃ)の海神三姉妹の一柱として祀られている。更に、インダス文明の創造神がイナンナだということは、ブラフマーもイナンナだと言え、サラスヴァティーがブラフマーの分身というのも納得できる。

 ブラフマーは本来中心のはずなのに端に追いやられているが、カバラ「生命の樹」は、場合によって、状況によって見方を変えることができるということである。

 中心が均衡(きんこう)の柱、向かって右が慈悲(じひ)の柱、左が峻厳(しゅんげん)の柱で、均衡(きんこう)の柱は普段は関わりが少ないが最高神的な神、慈悲(じひ)の柱が最も普段関わりの深い神、峻厳(しゅんげん)の柱は厳しさを備えた神である。よって、神道で言えば慈悲(じひ)の柱が和魂(にぎみたま)、峻厳(しゅんげん)の柱が荒魂(あらみたま)に相当する。

 しかし、これはある側面から見た見方であって、別の側面から見れば慈悲の柱と峻厳の柱の役割が入れ替わったりする。つまり、三柱の神々は同等だが、状況に応じて、見方によって当てはまる柱が変わってくる。だから、本来の最高神だからといって、必ずしも中心の均衡の柱でなければならない、ということではない。

 これを端的に表しているのが、太秦(うずまさ)の蚕ノ社(かいこのやしろ)などで見られる三つ柱鳥居である。3本の柱は均等だが、どこから見るかによって、中心の柱が変わってくる。

 ここがカバラの難しいところでもあり、他にも混乱しやすい点を挙げれば、例えば、神Aと神BがそれぞれA1とA2、B1とB2という2つの側面から構成されているとする。ここで、神AからはA1、神BからはB1という側面を持ってきて神Cを創作した場合、A1=C、B1=C だからと言って、A2とB2は異なるので、A=Bとはならない。これを勘違いすると、A=A1=C=B1=Bとなって、神Aと神Bが同一、という誤った解釈となってしまう。

 インダス・カバラでは、特にヴィシュヌの持っている法螺貝(ほらがい)がキーとなっている。法螺貝(ほらがい)はヴィシュヌの化身クリシュナに退治された海の悪魔パンチャジャナであり、ヴィシュヌがこれを吹き鳴らすと、悪魔が震え上がるという。この法螺貝(ほらがい)は左巻きである。

 巻き方の見分け方は、巻き貝の尖った方を上に向け、殻の入り口が見えるように持ったとき、殻の口が向かって右側に見えるのが右巻き、左側に見えるのが左巻き。巻き貝の巻く方向の理由は良く解っていないが、9割以上が右巻きである。そうすると、ヴィシュヌの法螺貝(ほらがい)は通常の巻き方とは逆になっている。つまり、インダス・カバラは他の文明のカバラとは逆ということを暗示している。すなわち、インダス・カバラでは「生命の樹」の慈悲の柱が向かって左、峻厳の柱が右なのであるこれは、シュメール、エジプト、マヤなどの創造神は男神、インダスはイナンナで女神だからである。

 さらに仏教では釈迦の説法を“大法螺(おおぼら)を吹く”と言ったが、今では“いい加減なことを言う”意味に変化してしまった。つまりヴィシュヌの化身クリシュナはイエスの予型(よけい)で、イエスの原型はイナンナで、ヴィシュヌの法螺貝(ほらがい)が最高神はイナンナだと暗示しているということは、ヴィシュヌがわざわざ中心に持ってこられたのは、ヴィシュヌがイナンナを暗示しているからである。そうすると、ブラフマーもヴィシュヌもイナンナ、ということになる。イナンナは大神アヌに愛されたので、ブラフマーはアヌだとも言える。更に言えば、シヴァもイナンナである。ブラフマーもヴィシュヌもシヴァも蓮華の上に立っているが、エジプトでは増水期に開花する蓮を生産力の象徴と見なし、夕方に沈み翌朝再び水面に出て開花する姿から再生のシンボルとも見なした。“再生、復活、不老不死”と言えばイナンナである。リンガとシヴァの関係について、神話では次のように説明されている。

 “カルパ(劫”こう”)が終滅する時、ヴィシュヌは水底で眠っていた。すると光明が出現し、その中からブラフマーが現れた。ブラフマーはヴィシュヌを見つけて、どちらが真の創造者かということで口論となった。その時、火炎を発する途方もなく巨大なリンガが姿を現した。驚いた2人は口論を止め、このリンガの果てを見届けてきた方がより偉大だと認めよう、と合意し、ブラフマーは白鳥に、ヴィシュヌは猪に姿を変えて果てを確認しに行った。しかし、両者とも果てを確認することはできず、自分たちよりも偉大な存在に気付き、そのリンガに向かって讃歌を唱えた。その時、リンガの中から千手千足(せんじゅせんぞく)、三眼を有し、弓と三叉戟(さんさげき)を手に持ち、象の皮を纏(まと)い、蛇でできた聖紐を身に着けたシヴァが現れ、雷鳴のような声で告げ、姿を消した。

「かつて我々三神は一体であったが、今はこのように分かれている。未来においてブラフマーはヴィシュヌとなり、私はカルパ発生時にヴィシュヌの怒った額から生まれるであろう」これ以来、リンガはシヴァの象徴となった。”

 この神話は、三神がイナンナだということを暗示している。シヴァはガンジス川の女神ガンガーを閉じ込め、そこからガンジス川が流れ出している。これは、シヴァをガンガーが洗礼している暗示で、洗礼の原型はエンキが、ドゥムジの死の際の瀕死のイナンナを救った時に使った「生命の水」である。よってこの場合、ガンガーがエンキ、シヴァがイナンナで、「合わせ鏡」で男神・女神が逆転している。

 また、シヴァの持っている三叉戟(さんさげき)は「生命の樹」の暗示だが、ギリシャ神話の海神ポセイドンのシンボルで、海神エンキの暗示でもある。そして、シヴァの額の真ん中にある“第3の目”は、瞑想ばかりしているシヴァに退屈した妻のパールヴァティーがふざけて後ろから両手で目隠ししたところ、世界は闇に覆われ、生類が恐れおののいたため、それを救おうとしてシヴァの額の中央が裂けて生じた新しい目である。世界が闇に覆われ、額が裂けて光が復活したことは、イエスの“死と復活”の予型で、イエスの原型はイナンナである。更に言えば、この“第3の目”はいわゆるピラミッド・アイの暗示で、それは“ニニギク、ニンイギク(目の清い神)”と言われたエンキの暗示だった。

 そして、シヴァといえばリンガ(男性器)崇拝で、性的なシンボルの根源はイナンナだった。ドゥルガーは航海の神だが、イナンナは航海術に優れたフェニキアの主神でもある。フェニキアという地名はイナンナの好物で「生命の樹」の元となったナツメヤシの学名フェニックスに由来する。フェニックスと言えば、不死鳥で火の鳥だが、これはフェニキアの女神アシュタルテ、すなわち、イナンナに奉げられた聖なる王の意味でもある。つまり不老不死の根源はイナンナである。

 また、ドゥルガーは獅子を従えた美しい女神だが、イナンナは美の女神で、しばしば獅子あるいは豹(ひょう)を従えて描かれている。幾つかの“イナンナの冥界下り”のヴァージョンの中には、イナンナを冥界の門から救い出すために、エンキはナズシュ・ナミル(Nadushu-namir)と名付けられた人獅子を創った、という逸話もあるので、獅子はイナンナと関係が深く、ドゥルガーはイナンナそのものと言っても良い。

 そのドゥルガーからカーリーが現れたということは、カーリーもイナンナということである。ドゥルガーが光の側面なら、カーリーは暗黒の側面である。血や魔人たちの生首や髑髏(どくろ)は、好戦的な戦いの女神イナンナの側面を暗示し、横たわるシヴァにまたがり、シャクティとしてのシヴァのエネルギーの源泉ともなっているのは、性的妄想の根源となったイナンナの側面を暗示している。カーリーもシヴァも腰に虎の皮を巻き付けているのは両者が同じであることを暗示し、インドでは獅子よりも虎の方がメジャーだからである。そして日本には虎がいないのに、いろいろな虎の話が登場するのは、イナンナを暗示している。

 このように、カーリーはシヴァの荒魂(あらみたま)、パールヴァティーは和魂(にぎみたま)、ドゥルガーはその両方を併せ持つ性格ということは、神道の荒魂(あらみたま)、和魂(にぎみたま)の大元がここにあると言っても良い。

 さらに、一部のキリスト教異端派では“黒いマリア”が崇拝されていたが、原型はカーリーである。つまりマリアもイナンナに関係があるが、このようにインダスではカバラ的に解釈すると、化身はすべて同一であることを暗示する。そして、多くの顔や腕はメルカバーや「生命の樹」におけるセフィロトなどを象徴する。

 ヴィシュヌの黄色い服は黄龍(こうりゅう)の原型で、アナンタ龍王の7つのコブラの頭はユダヤ教のメノラー=「生命の樹」。しかし、コブラは毒蛇なので「死の樹」でもあり、「生命の樹」と「死の樹」を同時に象徴している。これは、インダス・カバラの解釈を間違えると、即座に「死の樹=左道」に堕ちることを意味する。

 ヴィシュヌの人差し指の先で回転する円盤(チャクラ)は、万物を断ち切る恐るべき兵器で、一切の無知を破る宇宙神の偉大な力の象徴だが、「生命の樹」における栄光のティファレトあるいは隠されたダアトである。

 棍棒は力と権力の象徴だが、木なので「生命の樹」を象徴している。蓮華は水と再生と創造の象徴で、「生命の樹」を上昇していく象徴。そして、棍棒=「生命の樹」は柱なので男性原理、蓮華は花なので女性原理で、蓮華と棍棒で陰陽の合一を表すと同時に、「生命の樹」を表す。

 ヴィシュヌとシヴァの4本の腕は神の戦車メルカバーで、青黒い肌はシュメール系蒙古斑(もうこはん)の象徴。これが後に誤解され、シャンバラの住人は青い肌、ということになってしまった。

 シヴァの全身の灰は破壊という“罪”を行うが故の、主に祈る姿勢。蛇を巻きつけている体は「生命の樹」だが、コブラ故、「死の樹」でもある。特に重要なのは、イナンナの両面が投影されているシヴァである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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