http://www.ksky.ne.jp/~shouden/sanemori.html 【斎藤別当実盛公伝】より
武蔵国幡羅郡長井庄庄司 斎藤別当実盛公
越前国、南井郷(なおいごう)の河合則盛の子(幼名:助房)として、生まれる。
13歳の時、長井庄庄司 斉藤実直の養子として、長井庄に居住、名を実盛とする。
祖父の実遠以来、源氏との主従関係を結ぶ。武蔵武士として、数々の戦いで功を挙げた。
1155年(久寿2年)大蔵館の変
鎌倉に住む源氏の棟領義朝と、大蔵館に居住する義賢(義朝の弟)は、武蔵国をめぐって対立。義賢は義朝の息子義平に討ち取られるが、遺児駒王丸を実盛公がかくまい、後に信州の豪族に養育を依頼する。
1156年(保元元年)保元の乱
天皇と上皇の対立に、源氏・平氏・藤原氏等が同族入りみだれての戦。
実盛公は熊谷直実、畠山重能(しげよし)ら坂東武士と、源義朝に従い出陣。悪七別当を討ち、ずば抜けた手柄をたてる。
1159年(平治元年)平治の乱
実盛公はじめ、坂東武士17騎でめざましい手柄をたてたが、平清盛の策略に破れ、長井庄に帰る。
×源氏 VS ○平氏
これらの戦いによって長井庄は平清盛の二男、宗盛の領地となる。長井庄における、これまでの功績を認められた実盛公は、平宗盛の家人となり、別当として長井庄の管理を引き続き任じられる。
その後の実盛公は、農民の住み良い土地を作る為、庄内の開拓、治水、土地改良に努め、農作物の出来具合の面倒を見る事などから、農民から大きな信頼を得るようになる。
厚い信仰心を持つ実盛公は、庄内の平和と戦死した武士の供養、領内の繁栄を願って1179年、長井庄の総鎮守として聖天宮を建立。
1179年(治承3年)冨士川の戦い
実盛公は、戦死した武士の供養と領内の平和と繁栄を祈願して、治承三年(1179)に自ら守本尊である「大聖歓喜天」を古社に祀り聖天堂と称し、長井庄の総鎮守とする。
1180年、源頼朝が挙兵し、再び源平による戦乱の時代となる。実盛公は平宗盛の恩に報いるため、平氏として戦うことを決意。敵となった源氏方の、かつて命を助けた木曽冠者義仲(駒王丸)と戦うことになる。
平家物語より
赤地錦の直垂(ひたたれ)に 萌葱威(もえぎおどし)の鎧着て 鍬形(くわがた)打ったる 甲(かぶと)の緒をしめ 金(こがね)作りの太刀を帯き 二十四さいたる 切斑(きりふ)の矢負い 滋藤(しげどう)の弓持って 連銭葦毛(れんぜんあしげ)なる 馬に黄覆輪(きぷくりん)の鞍をいてぞ乗ったりける
平家軍は、義仲追討のため実盛公の生まれ故郷の北陸に向かう。篠原(石川県加賀市)は実盛公の一族同門の地である。故郷に錦を飾るという言葉に従い、宗盛からいただいた大将用の赤地錦の直垂を着て、年老いた武士とあなどられないよう白髪を墨で黒く染め、篠原へ出陣した。
1183年(寿永2年5月21日)篠原の戦い
木曽義仲の軍の勢いに押され、敗走していく平氏の兵の中、最後尾でただ一騎ふみとどまり防戦するが、義仲軍の手塚太郎と戦いとなり壮烈な討死をする。享年73歳。実盛公は最後まで名を名乗らなかった。
大将らしき姿で名を名乗らない武者が、白髪を染めた実盛公であったことに気が付いた義仲は、命の恩人の無惨な最後に泣き崩れたという。この壮烈な戦の悲劇は、後に「平家物語」・「源平盛衰記」・歌舞伎「実盛物語」・謡曲「実盛」など、数多く語り継がれている。
妻沼聖天山内の実盛公銅像
平成8年、開創818年御開扉の記念事業として建立されました。 手鏡を見ながら髪を染めている姿です。
サウンドモールからは尋常小学校唱歌「斎藤実盛」が流れ、歌で実盛公の遺徳を讃えています。
http://misasiblog.blogspot.com/2013/06/blog-post_28.html 【いろは歌・・・諸行無常・・虫送り(実盛さま)】より
今朝(6/28)の愛媛新聞にいろは歌 七五調の「色は匂えど散りぬるを」から始まる歌。
音の異なる47文字から成り、同一の文字の重複がないように作られた。
手習い歌のほか、順序を示すのにも使われた。
10世紀末から11世紀中ごろに成立した・・(以下、略)(上掲載、写真の解説文を写す)
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて
あさきゆめみし ゑひもせす
仮名交じりにすれば
色は匂へど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
解釈はいろいろあろうけど 文中の「有為」は仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物。転じて有為の奥山とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである。
中世から現代にいたるまで各種の解釈がなされてきたが、多くは「匂いたつような色の花も散ってしまう。この世で誰が不変でいられよう。
いま現世を超越し、はかない夢をみたり、酔いにふけったりすまい」などと、仏教的な無常を歌った歌と解釈してきた。
12世紀の僧侶で新義真言宗の祖である覚鑁は『密厳諸秘釈』(みつごんしょひしゃく)の中でいろは歌の注釈を記し、いろは歌は『涅槃経』の中の無常偈(むじょうげ)
「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」(諸行は無常であってこれは生滅の法である。この生と滅とを超えたところに、真の大楽がある)の意訳であると説明した。
Wiki「いろは歌」より
平家の栄華と没落を描いた『平家物語』
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。 沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。 猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ
入試前に、ここまで暗唱したが^^;『平家物語』が鎌倉時代の作とされることを重ね合わすと、単なる文字遊びではなく、世の諸行無常なるを幼子にも教え伝える響き、韻を感じたりするがこの「いろは歌」・・現代の小学校の教科書に採りあげてあるんだろうか?
そうじゃないなら、英語授業の前に採用してもらいたい・
さて6/30は「田穂の虫送り」(西予市城川町)虫送り(むしおくり)とは日本の伝統行事のひとつ。農作物の害虫を駆逐し、その年の豊作を祈願する目的で行われる。
春から夏にかけての頃(おもに初夏)、夜間たいまつをたいて行う。また、藁人形をつくって悪霊にかたどり、害虫をくくりつけて、鉦や太鼓をたたきながら行列して村境にいき、川などに流すことが行われるところもある。地域によっては七夕の行事と関連をもって行われる。
「平家物語」に斎藤実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたために、実盛が稲を食い荒らす害虫(稲虫)になったとの言い伝えがある。そのため、稲虫(特にウンカ)は実盛虫とも呼ばれ、虫送りのことを実盛送り(または実盛祭)ともいう。(『角川俳句大歳時記』夏)
農薬が普及するまで全国各地で見られたが、現在は火事の危険などから行われなくなったところが多い。
Wiki「虫送り」より
稲を食い荒らす害虫ウンカ・・実盛虫と呼ばれるそうだが「こんどの日曜は「虫送り」ですね」と声を掛けたら「そうじゃ、実盛さまじゃ。実盛さまじゃ。」と古老がその口調には「お迎えする」って響きを感じた・・
(実盛の非業の最期に涙し、その無念を想う心)が、その顔に、その声色に顕れているように見えた いまに伝承される平家物語を感じることができるかも
30日は田穂へ行こう
平家物語 · 巻第七. 八実盛最期. (現代語訳)
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斉藤別当実盛
越前国、南井郷(なおいごう)の河合則盛の子(幼名:助房)として、生まれる。
13歳の時、長井庄庄司 斉藤実直の養子として、長井庄に居住、名を実盛とする。
祖父の実遠以来、源氏との主従関係を結ぶ。武蔵武士として、数々の戦いで功を挙げた。
●1155年(久寿2年)大蔵館の変・・・鎌倉に住む源氏の棟領義朝と、大蔵館に居住する義賢(義朝の弟)は、武蔵国をめぐって対立。義賢は義朝の息子義平に討ち取られるが、遺児駒王丸を実盛公がかくまい、後に信州の豪族に養育を依頼する。
●1156年(保元元年)保元の乱・・・天皇と上皇の対立に、源氏・平氏・藤原氏等が同族入りみだれての戦。
実盛公は熊谷直実、畠山重能(しげよし)ら坂東武士と、源義朝に従い出陣。悪七別当を討ち、ずば抜けた手柄をたてる。
●1159年(平治元年)平治の乱・・・実盛公はじめ、坂東武士17騎でめざましい手柄をたてたが、平清盛の策略に破れ、長井庄に帰る。
×源氏 VS ○平氏
これらの戦いによって長井庄は平清盛の二男、宗盛の領地となる。長井庄における、これまでの功績を認められた実盛公は、平宗盛の家人となり、別当として長井庄の管理を引き続き任じられる。
その後の実盛公は、農民の住み良い土地を作る為、庄内の開拓、治水、土地改良に努め、農作物の出来具合の面倒を見る事などから、農民から大きな信頼を得るようになる。
厚い信仰心を持つ実盛公は、庄内の平和と戦死した武士の供養、領内の繁栄を願って1179年、長井庄の総鎮守として聖天宮を建立。
●1179年(治承3年)冨士川の戦い
1180年、源頼朝が挙兵し、再び源平による戦乱の時代となる。実盛公は平宗盛の恩に報いるため、平氏として戦うことを決意。敵となった源氏方の、かつて命を助けた木曽冠者義仲(駒王丸)と戦うことになる。
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