http://eikojuku.seesaa.net/article/261973490.html 【「男体山(日光)」に残る神々の物語。】より
「日光(にっこう)」という信仰の地は、江戸時代に徳川家康が祀られたことにより一躍有名になった土地であるが、その信仰の歴史はそれよりもずっと古い。
「日光」という文字が文献に現れるのは「鎌倉時代」。言い伝えによれば、さらに時代が下る「空海」がこの文字を当てたのだという(空海は820年に日光を訪れたとされている)。
それ以前の記録(記紀六国史)では、「日光」という漢字ではなく、「二荒(にっこう)」という漢字が当てられている。
元々の「二荒」は「ふたら」と読まれ、それは「山の崩落部」を表す古語であったとともに、「二荒神」という神様を表すものでもあったのだという。
その二荒神を祀るという日光の「男体山(なんたいさん)」はかつて「二荒山(ふたらさん)」とも呼ばれた山である(その山頂には「二荒山神社」が鎮座している)。
この男体山を信仰の山として開いたのは、奈良時代の僧である「勝道上人」。
当時、「物の怪(もののけ)でも近寄れぬ」と恐れられていた男体山は、その標高およそ2,500m。関東以北では最高峰である。
その恐ろしい山に挑まんとした勝道上人。
「もし山頂に至らざれば、菩提に至らず(もし山頂に達することができなければ、悟りを開くことは叶わない)」と、その決意は極めて固いものであった。
そして、さらなる苦行を自らに課すため、勝道上人は登山がより一層困難になる残雪期を選んで前人未到の男体山に挑むこととした。
しかし、物の怪ですら恐れる男体山は、決して一筋縄では行かなかった。
嵐や悪天候に阻まれ、勝道上人は何度も撤退を余儀なくされる。
その宿願が果たされるのは、初挑戦から16年をも経てからのことであった。
聖なる衝動―小説・日光開山勝道上人
勝道上人の不屈の意志により男体山に開かれた「二荒山(ふたらさん)神社」は、以後この地の山岳信仰の中心となっていく。
そして、多くの高峰が連なる日光連山にあって、その信仰は男体山の周辺の山々へも広がりを見せていく。
隣りの「女峰山」は男体山の対の山とされ、その夫婦両山の子供たちとして「太郎山」「大真名子山」「小真名子山」と、家族は増えていった。
※かつては「二荒山(ふたらさん)」と呼ばれていた山が男体山と呼ばれるようになったのは、むしろ女峰山との対称で名付けられたものとのこと。
山の宗教 修験道案内
男体山が家族を増していったのは、その信仰の根底に流れていた「神話の世界」が物語を膨らませていったからなのかもしれない。
諸説あるものの、ある一説によれば「二荒神」とは「天照大御神(アマテラス)」と「須佐之男命(スサノオ)」のこととなる。
※この両神はアマテラスが姉で、スサノオが弟の兄弟である。
暴れん坊だったスサノオは、父親のイザナギから海を支配するように命じられたのに、母親のイザナミのところ(黄泉の国)に行きたいと駄々をこねる。
怒った父・イザナギは息子・スサノオを追放。困ったスサノオはとりあえず姉のアマテラスの元(高天原)へ向かうことにする。
スサノオが高天原に昇って行くと、国中の山川が響動して大地が大きく震動し始める。
何事かと慌てた姉・アマテラスは、てっきり暴れん坊の弟・スサノオが国を奪いに来たものと勘違いして、弓矢を構えて臨戦体制をとる。
「おのれスサノオ!高天原を乗っ取るつもりか!」
姉・アマテラスと弟・スサノオが対峙したのは「天の安河(天の川)」の両岸。
※「天の安河」はのちの「天の岩戸隠れ」の舞台ともなる場所。
スサノオは姉の誤解を解かんとして、自らの剣(十拳剣・とつかのつるぎ)を姉に差し出す。
その剣を受け取ったアマテラスは剣を3つに折って、三柱の女神(宗像三女神)を生み出す。
※「柱」は神々を数える時の単位。
今度はアマテラスが髪に巻いていた勾玉(八坂の勾玉)をスサノオに渡す。
スサノオはその玉を水(真名井)で清め、五柱の男神を生み出す。
※アマテラスの生んだ三女神とスサノオの生んだ五男神(合わせてハ柱)は、五男三女神として「八王子神社」などに祀られることになる。
以上が「天の安河」における「アマテラスとスサノオの誓約(うけひ)」の物語である。
「うけひ」というのは、あらかじめ約束した事柄がその通りに実現するかどうかを占うことであり、この時の「うけひ」は「子を産む」ということであった。
スサノオの持ち物(剣)から生まれたのは「か弱い女神たち」であったため、アマテラスはスサノオの「邪心のない清らかさ」を確信し、和解に至ることになるのである。
ところが、スサノオはその和解を勘違いする。
姉・アマテラスが折れたことで、「自分が勝った」と思い込んだのだ。
しかも、アマテラスから受け取った勾玉から自分が生んだのは「男神」であったため、スサノオは勝手に「男を生んだ方が勝ち」だと信じ込んだのである(最初の「うけひ」においては、男を生んだ方が勝ちとは決めていなかったのだが…)。
調子に乗ったスサノオはやりたい放題に高天原を荒らし回る。
激怒したアマテラスは、その後「天の岩戸」に籠ることになるのだが、それはまた別のお話。
そうだったのか! すっきりわかる日本の神話
日光にそびえる男体山とその家族たちは、こうした神々の神話を想起させる。
男体山の二荒山神社に祀られる「大国主」は、結局は高天原を追われたスサノオの6代目の子孫であり、妻・女峰山に祀られる「田霧姫(たぎりひめ)」は、三つに折られたスサノオの剣から生まれた三女神のうちの一人である。
そして、男体山と女峰山の子供とされる太郎山に祀られるのは、「味鋤高彦根(あじすきたかひこね)」。神話においても大国主と田霧姫の子供である。
※幼い頃のアジスキタカヒコネはその泣き声がとても大きく、それをあやすのに日本全土の島々(八十島)を巡ったり、天と地に梯子をかけて何度も昇り降りしたりと大変だったそうだ。
静かなる山々に、古代の人々はなんと躍動的な姿を見たことか。
荒々しい神々ですら、どこか微笑ましい人間味に満ちている。
男体山を開いた勝道上人は、地元である栃木県(下野国)の住人であったというが、男体山に祀ったのは遠き出雲(島根)の神「大国主」。
なぜ、地元・下野国の祖とされる「豊城命(とよきのみこと)」ではなかったのか?
この不自然さは今なお謎とされている。
「豊城命(とよきのみこと)」は第10代・崇神天皇の第一皇子であり、皇位継承の権利を有していた。
しかし、夢占いによって東国を治めるために派遣され、次期天皇となったのは第三皇子の弟「活目命(いくめのみこと)」であった。
兄・豊城命の見た夢は「東に向かって槍や刀を振り回す夢」であり、弟・活目命の見た夢は「四方に縄を張ってスズメを追い払う夢」である。
その夢のお告げに従い、東国に派遣された豊城命は、のちに上野(群馬)・下野(栃木)の始祖となっていったとのことである。
一方、天皇となった弟・活目命は「垂仁天皇(第11代天皇)」となり、諸国に多くの池を作って、夢のお告げ通りに国の農業を盛んにしたそうである(殉死を禁じて、その代わりに埴輪を埋葬させるなど、心優しき天皇でもあったようだ)。
強き兄・豊城命、そして優しき弟・活目命。彼らはそんな兄弟だったのかもしれない。
神話から歴史へ (天皇の歴史)
下野国の神となった豊城命(とよきのみこと)。
その土地の神を勝道上人は男体山に祀らなかったわけだが、その代わりに宇都宮に設けた「宇都宮二荒山神社」には豊城命を主祭神として祀った。
「宇都宮」という名の由来の一つに、「移しの宮(うつしのみや)」というのがあるが、「二荒山神社」は男体山と宇都宮の二ヶ所に設けられたのである。
「二荒神」という響きには、暴れん坊の神様・スサノオの姿もあれば、強き皇子であった豊城命(とよきのみこと)の姿もある。
スサノオも豊城命もともに兄弟同士の逸話が残ることも共通している。
二つの神と二つの宮を持つ「二荒山神社」。
そのイメージは、天の安河を挟んで対峙した姉・アマテラスと弟・スサノオの姿もだぶり、兄は外部との戦闘を、弟は内政を担った豊城命と活目命の兄弟の姿もある。
さらには男体山と女峰山という二つの峰が、その奥に堂々とそびえている。
神を生み、国を生み、山を生んだ日光に残る信仰。
そこには喧嘩するほど仲の良い二人の姿が見え隠れしているようだ。
男女一対の山岳は日本全国に各所あれど、子をなした夫婦山というのは珍しい。
二つに別れることは悲しいこともあるかもしれないが、それらが新たなものを生むのであれば、それはそれで喜ばしいことなのでもあるのだろう。
荒ぶる神は時として「破壊の神」でありながら、分裂によって多くの子をなす創造の神でもある。
アマテラスが荒神スサノオに求めた「誓約(うけひ)」は、「子をなす」ことではなかったか。
生むものがあるのであれば、その争いも是とされるのかもしれない。
もし何も生まぬのであれば、その争いは「不毛」であろう。
日光の男体山は幸いにして「黒髪山」とも呼ばれるほどに、山頂まで黒々と樹々が生い茂っている。そして、太郎山をはじめとする数々の子供たちにも恵まれているのである。
https://fu1to.i-ra.jp/e505020.html 【男体山頂の大剣ポキリ 修復困難 頭抱える関係者】より
折れた男体山頂上の剣。右に根元が残っている(現在は、写真右奥の二荒山神社奥宮社務所に保管されている)=日光市で
今年で開山千二百三十年を迎えた栃木県日光市の男体山(標高二、四八六メートル)山頂のシンボルだった鉄製の大剣が折れてしまい、関係者が対応に苦慮している。山を管理する日光二荒山神社中宮祠(ちゅうぐうし)(同市中宮祠)は、七月三十一日から八月七日まで営まれる登拝大祭までに対策を講じたい考えだが、見通しは立っていない。 (石川徹也)
同神社によると、剣は長さ約三メートル、幅約十五センチの鉄製で、大人三人でやっと持てる重さ。一八七七(明治十)年、茨城県結城地方の人が、宇都宮市の刀鍛冶に作らせて奉納したとされる。
剣は、山頂の三角点横の岩をうがって、天にそそり立つように突き立てられた。片刃の刃は、神同士で争ったとの伝説が残る群馬県の赤城山の方向に向けられていた。
この岩は、日光山を開祖した勝道上人(しょうどうしょうにん)が七八二(延暦元)年に初登頂した際、男体山の神・三祭神(さんさいじん)に出会った場所とされ、「対面石」と呼ばれる。かつては聖域とされ、鉄柵に囲まれていた。
今年三月上旬、この剣が折れているのを登山者が発見。同神社が確認したところ、根元部分の約三十センチを残して、刀身が岩場に横倒しになっていた。経年による腐食が原因とみられるが、はっきりとは分からないという。
その後、折れた刀身は誰かが根元近くの岩の間に突き刺したが、今月上旬、同神社の職員が再度登って回収。奥宮の社務所にとりあえず保管している。
同神社は「長年の風雪や雷でかなり傷んでいる上、とても重く、溶接などの修復は困難」と頭を抱える。さらに、同神社は、奉納品は奉納者の子孫が修復するのが一般的な慣例としているが、この剣の奉納者は不明のままだ。
(2012年6月18日 東京新聞)
https://my-roadshow.com/mountaineering/nantaisan-3/ 【【栃木】男体山 登山 ~ 生まれ変わった大剣が天を切り裂く、今一度始まりの旅】より
9月の男体山 登山 2014年9月14日
栃木県の日光男体山にっこうなんたいさんに登ってきました。標高は2448mです。
日本を代表する霊山で、麓には二荒山神社があり、山全体がご神体とされています。下野富士という別称があり、均整の取れた形をしています。栃木県内の学校の効果には必ずと言っていいくらいに登場する名前です。
9月の男体山 登山
男体山の登山は通算3回目です。
自分の誕生日が9月17日であるため、始まりの山である男体山にお礼参りしたいというが動機でした。
運動らしい運動をしてこなかった自分が今まで登山を続けていられるのも、初めての登山に男体山を選び叱咤激励してもらったからこそだと思っています。その時は、体重が3キロ減り、足の爪が一つ剥がれ、翌日立ち上がれない程の筋肉痛になりました。よく登山が嫌にならなかったな…。
新しくなった山頂に奉納された大剣を目にしたいということもあり、一人旅をしてきました。(略)
http://lcymeeke.blog90.fc2.com/blog-entry-1852.html?sp 【日光の大剣、再び立つ】より-
今年の6月、日光の男体山頂上に突き立っていた長さ3mの大剣が折れてしまいました。
→ 日光男体山の大剣折れる 原因は腐食によるもの。
明治時代に奉納されたものでしたから、山頂の厳しい気象条件に100年以上耐えてきたのが逆に不思議なくらいでした。
男体山のシンボリックな大剣だっただけに、先の大震災時に倒壊した石の鳥居とともに、再建をみなさん、心待ちにしておられました。
“復活”のニュースは今年9月のことでした。
読売新聞から、 男体山のシンボル復活へ 日光二荒山神社
今年で開山1230年を迎えた栃木県日光市の霊峰・男体山(2486メートル)山頂から姿を消した二つのシンボルが、10月13日の奉告祭で復活することになった。
東日本大震災の影響で倒壊したとみられる日光二荒山神社奥宮の石鳥居と鉄製の大剣(長さ約3.5メートル、幅15センチ)で、いずれも奉納の申し出を神社が快諾した。
石鳥居はヒノキ製に、大剣はステンレス製になる。
山を管理する同神社中宮祠によると、石鳥居は震災後の昨年4月下旬、神職が安全確認のため登山したところ、倒れているのを発見した。
震災の影響による倒壊とみられる。
高さ約2メートルの御影石製で、勝道上人の男体山初登頂の1200年記念事業の一環として1975年頃に建立された。ケーブルで石材を荷上げして設置されたという。
神社は石鳥居の再建を検討したが、石材や運搬などに数百万円以上の費用が必要なことから、当面は見送ることにしていた。
そこへ昨年秋、日光市内の男性から「ヒノキ材ではどうか」と奉納の申し出があり、再建することになった。
大きさは以前と同規模で、事前に型作りし、分解して山頂へ人力で運び、組み立てる。
一方、大剣は今年3月上旬、根元部分を残して折れているのを登山者が見つけたという。
1877年に現在の茨城県結城市の人から奉納されたとされ、経年による腐食が原因とみられた。
神社は折れた部分を接着することも検討したが、再び折れる危険性があるため断念した。
現在は神社の宝物館倉庫で保管されている。
報道で大剣が折れたことを知った下野市の男性から奉納の申し出があり、腐食に強いステンレス製で、以前と同じ大きさで作られることになった。
10月7日にも神社に奉納され、13日までに山頂に設置。
鳥居の完成と合わせて、同日に奉告祭を行う予定だ。
中宮祠は「大変ありがたい話。震災復興のシンボルになれば」と話している。
そして、昨日の10月13日、3.5mもの大剣は見事に復活しました。
朝日新聞から、
男体山の大剣復活復活した男体山山頂の大剣 日光市の男体山(標高2486メートル)の山頂のシンボル、岩に突き刺さる約3.5メートルの大剣が13日、復活した。
1880(明治13)年、宇都宮の刀鍛冶の作が奉納されたと伝えられてきたが、今春、根元から折れているのがみつかった。
開山1230年の今年、下野市の男性が新たにステンレス製の剣を奉納することになり、この日、山頂で剣の除幕や神事が行われた。
昨年の大震災で倒壊したとみられた山頂付近の石鳥居も、日光市の男性がヒノキを奉納し、木の鳥居として蘇った。
剣と鳥居の復活に日光二荒山神社中宮祠は「震災復興の象徴としたい」と話している。
下野新聞から、
シンボルの大剣復活 男体山山頂で奉納奉告祭
開山1230年を迎えた霊峰・男体山(2486メートル)の山頂から消えたシンボルの大剣と鳥居が再建され、13日に山頂で奉納奉告祭が執り行われた。
130年にわたって登山者に親しまれてきた大剣は3月、腐食のため根元部分を残し折れてしまった。また奧宮の前にあった鳥居は昨春、倒壊した。東日本大震災の影響とみられる。
いずれも奉納者が名乗り出て、男体山を管理する日光二荒山神社が快諾。
9月下旬から10月上旬にかけ、それぞれ再建された。
この日は快晴に恵まれ、大勢の登山客が見守る中、吉田健彦宮司が奧宮で祝詞をあげた後、奉納者や関係者が玉串を供えた。
その後、鳥居前でテープカットを行い、くぐり初めをした。大剣の前では除幕式を行った。
吉田宮司は
「大剣と鳥居は、連綿と受け継がれる信仰の象徴であり、後世への道しるべになります」
と期待を寄せた。
下野新聞から、
鏡のような刀身に、男体山山頂からのパノラマが写り込んで青く輝いた姿、かっこいい!
錆が浮いて曇った剣しか知らないから、奉納されたばかりの刀って、こんなに綺麗なんですね!
鳥居も蘇り、神様も安心して降臨していただけることでしょう。合掌。
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