男体山

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=683 【男体山】より

日光火山群中の単独峰で、標高二四八四・四メートルの円錐状成層火山。南面に中禅寺ちゆうぜんじ湖が広がる。山頂部の旧火口は直径約四〇〇メートル、火口壁北部は欠落しているため馬蹄形をしている。山腹各所に薙とよばれる山崩れの跡がみられ、南東部に大おお薙、南西部に古こ薙、北部に御真仏ごしんぶつ薙、南部に明治三五年(一九〇二)崩落の観音かんのん薙などがある。

古くから補陀洛ふだらく山・二荒山・黒髪くろかみ山ともよばれた二荒山神社の神体山で、南麓湖畔には中宮祠、山頂には奥宮が祀られている。山頂の遺跡の出土品などから、奈良時代末期には信仰されていたとみられ、弘仁五年(八一四)空海が撰文した沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序(性霊集)には「補陀洛山」とあり、勝道が神護景雲元年(七六七)から度度登頂を試み、ついに天応二年(七八二)に山頂を極めたと記される。「堂社建立記」によれば、二荒山の名は山の北東方の「羅刹崛」とよばれる岩穴から年に二度暴風が吹出すことによるとし、空海がこの岩穴を結界し、日光山と改めたとする。また男体山の号は祭神大己貴命の居所であることから、黒髪山はその山容が女の髪を洗い乱したようにみえることにちなむとある。黒髪山は「五代集歌枕」「八雲御抄」に歌枕としてあげられ、「続古今集」に人丸の「むばたまのくろかみやまをあさこえてこのしたつゆにぬれにけるかな」、「散木奇歌集」に「むば玉のくろかみ山に雪ふればなも埋もるゝものにぞ有りける」などの歌がある。文明一八年(一四八六)中禅寺湖まで登った聖護院道興は「黒髪山のふもとを過侍るとて」と記し(廻国雑記)、宗長の「東路の津登」も日光へ向かう折、「わかえみんくろ髪山の秋の霜」と吟じている。元禄二年(一六八九)四月、日光山に詣でた芭蕉は「黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し」と記し、曾良の「剃捨てて黒髪山に衣更」の句を書留めている(おくのほそ道)。男体の晴雪は日光八景の一。

古来峰修行の中心行場で、補陀洛夏峰・惣禅頂で登拝する。また男体禅頂もしくは山禅頂とよばれた当山のみに登拝する修行もあり、近世には毎年七月一日から七日まで、中禅寺上人の先達で日光山の修験者のほか、講中の者が禅頂行法を行った。このための禅頂小屋が山麓に多数設けられていた。講は下野から常陸に分布し、各町村の講中からは代参が送られた。禅頂に際し行人は七月一日から五日頃までに中禅寺(中宮祠)に登り、六日まで参籠、湖水で水垢離を取り、七日中禅寺上人たちの引率で登頂した(旧記)。天保一五年(一八四四)の行人は四千五八三名と記録される(「御納戸日記」高野忠治文書)。

明治四年の神仏分離以後全山二荒山神社の境内地となり、同五年女人禁制が解かれた。登山道は中宮祠の登拝門から直登する経路、北側志津しづ小屋から登る経路、西側三本松さんぼんまつ・戦場せんじようヶ原からの経路がある。明治一〇年E・S・モースは中宮祠から当山に「径は恐ろしく急で、継続的で、休もうと思っても平坦な山脊も高原もない」と苦労して登り、頂上まで一〇〇フィートの所は「その一方の側は、千フィートをも越える垂直な面で、古い噴火口の縁である」などと記している(日本その日その日)。同二〇年八月一九日には山頂で北白川宮なども加わって皆既日食の観測が行われ、写真も撮影された。

https://www.narisuba.com/entry/2019/08/21/123448 【日光の世界遺産、二荒山神社を紹介します(本社、中宮祠、奥宮)】より

二荒山と日光の由来

日光は自然や歴史遺産が豊富な観光地として、多くの観光客で賑わいを見せています。

現在の地名は日光と呼ばれていますが、実は元々は日光ではなく、日光のシンボルとなる男体山からきているそうで、長い歴史の中で様々な呼び方に変化して今に至っています。

日光の名山と言えば、富士山のような秀麗で美しい裾野を持つ男体山が挙げられますが、この男体山は開山の勝道上人がこの地に訪れる前から観音浄土の山として考えられ、観世音菩薩の住む補陀落山(ふだらく)と呼ばれていました。

それから後に補陀落山の北東にある羅刹崛の岩穴から年に二度暴風が吹く事から二荒山へ変化し、この年に二度の暴風を鎮めた空海が二荒山の名前が良くないと答え、二荒(にこう)を日光(にっこう)に改めて今の地名になったと伝えられています。

つまり、“ふだらく”から“ふたら”そして“にこう”から“にっこう”へと変化したそうで、いかに日本人はだじゃれ好きな民族である事もよく分かると思います。

ちなみに、現在は男体山と呼ばれていますが、明治の神仏分離により山の御祭神を男神である大国主命とされた事から男体山と名付けられたそうです。

二荒山神社の御祭神、二荒山大神とは

男体山は下野国の僧である勝道上人によって開かれ、これに連なる女峰山と太郎山の三山を合わせて日光三山と称し、日光修験の霊場として栄えていきました。

神仏習合の山として開かれたために、日光三山は神の山と同時に仏の山と見なされ、男体山を千手観音、女峰山を阿弥陀如来、太郎山を馬頭観音とする日光三所権現がなり立ち、修験道場として発展されました。

明治以降は神と仏は明確に分離され、男体山は大己貴命(大国主命)、女峰山は田心姫命、太郎山は味耜高彦根命として現在に至り、これら三神を合わせて二荒山大神と称されています。

三神一体で二荒山大神と称されていますが、主神は男体山の大己貴命(大国主命)となり、女峰の田心姫命は姫神、太郎山の味耜高彦根命は御子とされ、大己貴命(大国主命)を中心とする親子神としても信仰されています。

家族の中で父親は一家の大黒柱とよく言われていますが、これは大国主のだいこく様からきているそうで、二荒山大神も一番高い男体山に大国主命が祀られ、更に日光三山の主峰として日光信仰の中心となったと思われます。

二荒山神社の成り立ち

二荒山神社の創建は勝道上人が男体山山頂を極め、二荒山権現を祀った事から始まったと伝えられていますが、登頂以前より大谷川北岸に千手観音、五大明王を安置された四本龍寺を創建された事から日光山の信仰が始まったそうです。

勝道上人が男体山の山頂を極めたのは登り始めてから十五年かかったそうで、その後も修行を続け中禅寺湖畔に中禅寺を建て、現在の二荒山神社本宮の位置に二荒山権現を祀る二荒山権現社が建てられました。

二荒山の神が最初に祀られたのが本宮神社なので、二荒山神社の発祥の地と言われていますが、現在は太郎山の神である味耜高彦根命が祀られています。

何故かというと、この地は大谷川の氾濫により何度も被害に遭い、現在の二荒山神社へ移動されたそうで、残されたこの地に太郎山の神が祀られ、現在は二荒山神社の別宮として存在しています。

つまり、二荒山の神が最初に勧請されたのは本宮なので、二荒山神社の起源として重要なお社なのではないかと思われます。

このように二荒山神社は明治以前は大自然で開かれた神仏習合の一大宗教施設の一つとして存続され、後に東照宮も建てられるようになり、三社は密接な関係を保ちながら発展されました。

そして、明治以降の神仏分離により、二荒山権現社も二荒山神社と改められ、輪王寺と明確に分離されて今では日光二社一寺(二荒山神社、東照宮と輪王寺)として歩み、世界遺産に登録されるようになりました。

二荒山神社の各社

二荒山神社は本社を中心に男体山の麓の中宮祠、山頂の奥宮、日光信仰を語るに重要な本宮神社と滝尾神社の大きく分けて三社から成り立ち、本社・本宮神社・滝尾神社を合わせて日光三社と言われています。

日帰りだったので本宮神社と滝尾神社は残念ながら立ち寄る事が出来ず、今回は本社、中宮祠、奥宮を中心にお伝えします。(本宮神社と滝尾神社はいつか訪れます)

本社

正面の銅製鳥居

二荒山神社と書かれた額は比較的新しいものだと思われます。

境内は広く正面に拝殿と社務所が設けられ、入ってすぐ左に神楽殿、社務所の向かい側に授与所があります。

神楽殿の様子

なんと、中には大きなだいこく様が安置されています!神楽殿を使用する際にはどけるのでしょうか?東側にも銅製の鳥居が建てられています。

鳥居の下部に注目すると、蓮の花の模様になっているのが分かると思いますが、蓮は仏教において観音様が乗る花と信じられており、二荒山神社が神仏習合であった事を物語っています。

寛政11年(1799)に建てられたそうで、現在は重要文化財にも選ばれています。

拝殿向かって左には神苑という神域があり、拝観料200円で中に入る事が出来ます。

間近に本殿を眺められ、奥には二荒山神社周辺から湧きだした水を受け取る事の出来る霊泉があるので、入られる事をおすすめします。

拝観時間 4~10月:午前8時~午後5時

     11~3月:午前9時~午後4時

神苑の中にもいくつか社殿が設けられ、主神である大国主命を中心に大国主命にゆかりのある神も祀られています。

入ってすぐのところにある大国殿には全国でも珍しい幸福を呼ぶ「招き大国」が祀られ、多くの方が大国主命の御神徳をお受けになるそうです。

奥に行くと鎌倉の銭洗弁天を思い起こすような、日光銭洗所があります。

古くからここには弁財天が祀られており、今はこの霊水の守護神とされているそうです。

お金とは皆さまもご存知の通り色々な人が手に触れ、様々な思いを込められて使われたものなので、知らず知らずにケガレとしての存在になってしまいます。

なので、このような大自然から流れ出る霊水はケガレを洗い流し浄化させ、幸運をもたらすと信じられてきたそうです。

霊水で丁寧に洗ったお金は大切に持ち帰りましょう。

銭洗所のすぐ横にも二荒霊泉という湧水があります。

若返り、酒、知恵の三種類あり、それぞれの水を頂く事が出来ます。

二荒霊泉の横にはあづまやという茶屋があります。

お茶やコーヒーは霊泉の水を使用された有難い飲み物となっていて、大福やところてんなどもあり、小腹がすいた時に立ち寄る事をおすすめします。

あづまやの更に奥に進むと、日光連山遥拝所に到着します。

大小様々な石が積まれ、周りには注連縄が張られていて、まるでさざれ石のような造りになっており、実際の山の配置通りに山の名前が並べてあります。

山そのものを御神体とする神体山信仰において、このような遥拝所は特に重要で、実際に山に登る事が出来ない方にも山の神様と向き合い、祈りを捧げる場として設けられています。

拝観料のかかる神苑の中にありますが、神苑の最奥で静かな場所に設けてあるので訪れた際はぜひ、日光の山々を拝んでみてはいかがでしょうか。

中宮祠

中宮祠は中禅寺湖の北部に鎮座し、男体山の登山口にもなっています。

山頂の奥宮と大谷川北岸の本社との中間に位置する事から中の宮として中宮祠と名付けられたそうです。

元々は勝道上人が開山にあたり、男体山を遥拝するために設けられた跡とされ、中宮祠の境内からは立派な男体山を望む事が出来ます。

朱塗りの拝殿、奥には本殿が設けられ、まさに男体山を拝む形に建てられた社殿になっています。

拝殿向かって左には山霊宮という社殿が設けてあります。

このお社は男体山を中心に日光連山に篤い崇敬を抱いた人たちの御霊が祀られています。

恐らく生前は何度も男体山を登り、山頂から眺める景色やご来光に心を洗われたに違いありません。

男体山に登り、今も昔も変わらない山頂からの素晴らしい景色を仰ぐ事が出来たのなら、下山後にこのお社に祀られている御霊にご報告したいものですね。

ちなみに、山霊宮の後ろには樹齢1100年の御神木であり、栃木の名木百選に選ばれている“いちい”の木が生えています。

拝殿向かって右奥には奥宮への登山道が続き、登山口には立派な登拝門が構えています。

毎年の男体山登拝大祭には多くの登山者で賑わいを見せるそうで、大祭期間中は深夜0時から門が開けられているとの事です。

登拝門をくぐり、一合目手前には男体山の遥拝所があり、山を登らない人にとっての最奥の遥拝所となるので、ぜひここまで来られるのをおすすめします。

登拝門の手前には何やら金ピカなとぐろを巻いた龍が安置されています。

龍のように見えますが、実はこれは大蛇の像で、二荒山の神と赤城山の神が領地争いされたと伝えられています。(二荒山の神が大蛇、赤城山の神が大ムカデ)

周辺の地名はこの伝説にちなんで付けられたそうで、隣の戦場ヶ原は戦いの地から名付けられたとの事です。

奥宮

二荒山神社で最も重要な場所である奥宮は男体山の山頂にあり、開山の勝道上人が山頂に二荒山権現を祀った事から二荒山神社の歴史が始まりました。

開山当初は社殿ではなく、ほんの小さな祠に祀られていたそうで、十五年という長い歳月をかけてようやく登頂し、その後麓に二荒山権現社を建てて信仰を深めていったそうです。

二荒山山頂からは日光連山の全てが見渡せ、運が良ければ富士山まで見えてしまうほど素晴らしい展望です。

山頂からの景色を詳しく知りたい方は登山録をご覧ください

山頂からはご覧の通り中禅寺湖も見渡せます。

勝道上人も初めて登頂した時には、今も変わらないこの光景を眺め感動したに違いありません。

東側に進むと二荒山大神の御神剣が祀られています。

高さ2mは越えているであろう御神剣は男体山山頂のシンボルとなっています。

刀は武器として使用される以前は神聖なものとされ、人や物をいとも簡単に切り裂く瞬間を目の当たりにした人たちは刀に畏れを感じ、神への捧げものとされていたそうです。

武器として使用された武士の時代でも武器を神に捧げる習慣が受け継がれ、刀が奉納されている神社は多数存在し、二荒山神社にも中宮祠の宝物館に祢ヶ切丸(ねねきりまる)という刀が安置されています。

この祢ヶ切丸は“ねね”という妖怪を退治した事から付けられた名前で、このような妖怪や魔を切り裂く力が刀にはあると信じられ、御神剣としても考えるようになりました。

つまり、この山頂の御神剣も男体山に悪しきものや魔が入らないように安置され、登山者や登拝者たちを見守っているように感じます。

奥宮から西側に進むと、太郎山神社が鎮座されています。

男体山の八合目には女峰山の神が祀られている滝尾神社があり、男体山を登る事は同時に日光三山の神を拝む事であり、日光三山の主峰である事が分かります。

男体山山頂には数多くの山岳信仰に関わる道具や祭祀の跡が発見され、開山以降山頂は山岳信仰の霊場だった事を物語っています。

また、勝道上人が登頂する以前の遺物も発見されたそうで、それはつまり修験道以前の素朴な山岳信仰としての一面も有する山であった可能性も秘めているそうです。

発掘された遺物は麓の宝物館に展示されているので、行かれる事をおすすめします。

合わせて訪れたい日光東照宮と日光山輪王寺

現在、二社一寺として世界遺産に登録されている日光の社寺は、かつては一体となって栄えていた為、密接に建てられていました。

二荒山神社を参拝した足でそのまま東照宮と輪王寺の参拝も可能で、境内は広いですが、時間に余裕のある方はぜひ参拝されてみてはいかがでしょうか。

ちなみに、駐車場は各社に完備されており、どれか一つの駐車場に停めておけば三社行き来しても大丈夫だそうです。

二荒山神社のアクセス、駐車場

本社

電車の場合:東武日光線日光駅から東武バスで

      停留所ナンバー⑨「西参道入り口」下車

      徒歩7分で二荒山神社に到着

【外部リンク】日光路線バス|日光エリア・川越エリア|路線バス|東武バスOn-Line

車の場合:日光宇都宮道路日光IC下車

【公式サイト】日光二荒山神社

中宮祠と奥宮

電車の場合:東武日光線日光駅から東武バスで湯元温泉方面行きのバスで約50分

      停留所ナンバー30の「二荒山神社中宮祠」で下車

      詳しくは上の外部リンクをご覧下さい。

車の場合:日光宇都宮道路の清滝IC下車、いろは坂経由で約30分

※奥宮に行くには残念ながらロープウェイやリフトは無く、登山以外の方法はありません。

奥宮は標高2000mを越える山頂に鎮座しているので、訪れる際は必ず登山の格好で登りましょう。

     引用元:地図でめぐる神社とお寺2版 著者 武光誠

二荒山神社と東照宮、輪王寺にはそれぞれ駐車場があります。

二荒山神社に参拝したい方でも東照宮と輪王寺の駐車場は利用可能との事です。

※中宮祠の駐車場は鳥居をくぐり、境内に参拝者駐車場と登山者用の駐車場があります。

最後に

日光の観光と言えばやはり日光東照宮のイメージがあると思います。

私も小学校の修学旅行は日光を訪れ、戦場ヶ原や華厳の滝、そして日光東照宮を巡る行程だったので、日光の歴史建設と言えばやはり東照宮を思い浮かべていました。

今回紹介した日光二荒山神社は日光東照宮が出来る前に建てられた宗教施設で、日光信仰の発祥と言っても過言ではない神社であり、明治以前は輪王寺と後に東照宮も加わり二社一寺が一体となって歴史を歩んできました。

現在はそれぞれ独立していますが、日光東照宮と二荒山神社と輪王寺の二社一寺がそろって世界遺産に登録されているので、ぜひ二荒山神社も一緒に参拝されてみてはいかがでしょうか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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