竹煮草いづくで憑きしひだる神

https://enraku.com/blog/?p=4871 【竹煮草(タケニグサ) ケシ科】より

<丈があるのでよく目立ちます>

竹煮草(タケニグサ)は、宇奈月の山地の日当たりのいい荒れ地に生え、高さ1mから2mにもなるケシ科の大形多年草です。竹と一緒に煮ると竹が柔らかくなり、細工しやすくなることが名前の由来となっています。

茎頂に白い小花を多数つけた円錐花序を作り、白色の2個の蕚片は開花時に落下します。葉は、掌状に深く切れ込んだ広卵形で互生し、裏面は、毛が密生し白くなり葉柄があります。茎を切ると有毒の黄色の乳液が出てきます。この有毒成分はプロトビンなどのアルカイロイドで、皮膚の炎症などを引きおこします。外用として皮膚病等に効き目があります。山が荒れはじめると竹煮草(タケニグサ)が増えるようです。

富山県水墨美術館に、菱田春草の「武蔵野」という題材の作品があります。背景に、薄墨の富士と前面に大形の植物が描いてあります。竹煮草です。掌状に深く切れ込んだ大きな葉が墨濃淡で描かれています。大形の竹煮草と大きな葉が、春草の筆を走らせたのかもしれません。


https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202106/0014431860.shtml 【旅人に取り憑き命取りに!?恐ろしい「ひだる神」をご存知ですか これからの季節、早めの補給に気をつけて】より

■西日本に伝わる怪異譚

 関西地方の古い言葉で、おなかが減ったことを「ひだるい」といいます。漢字で書くと「饑い」。あまり見たことのない漢字ですね。もう今はこういう言葉を使う人も多分居ないでしょう。

 この「ひだるい」に関して、西日本一帯の言い伝えに「ひだる神(ひだるがみ)」というのがあります。憑き物や妖怪の類のものでしょう。旅人などが歩いていると、この「ひだる神」に憑かれるのだそうです。すると突然猛烈な空腹や疲労を感じて、手足が麻痺したり身体が動かなくなって、その場に倒れてしまうというのです。

 行き倒れた旅人などの無念の霊が怨霊になって、通りかかった人を引きずり込む。昔の人はそう考えました。

 紀伊半島の内陸部はとても山が深く、主要な国道でさえ夜になると真っ暗です。ヘッドライトの光は底なしの闇に吸い込まれ、真っ暗なルームミラーはなにも映しません。現代でもそうなのですから、まして電灯などのない頃にはもう、まさに「鼻をつままれてもわからない暗闇」だったことでしょう。そんな秘境とも言える地域ですが、そこには大峰山や熊野三山など霊場や寺社もたくさんあって、古くから人々が山々を往来していました。

 そんな紀伊半島の、熊野本宮大社から熊野那智大社へ向かう古道に、大雲取越えという難所があったそうです。その近くには大雲取山と小雲取山という二つの山があって、その間には餓鬼穴という深い深い穴があったといいます。通りかかった人がその穴をのぞき込むと、必ずこの「ひだる神」に憑かれてしまう、というお話がいまに伝わっています。

 人里離れた山の中、憑かれるともうにっちもさっちもいかない。ひだる神は命取りになるようなおそろしい憑きものでした。

■その正体は…低血糖や脱水?

 もうお気づきの方も多いと思われますが、これはおそらく今でいうところの「ハンガーノック」というものですね。身体を動かすエネルギー、グリコーゲンなどを使い果たしてしまって一気に低血糖になってしまう。現代でもたとえば自転車やマラソンなどの激しいスポーツをする人が、たまにこの状態に陥るといいます。

 血糖値が下がりすぎると、身体がエネルギー不足になって動きを止めてしまいます。また、人間の脳の唯一のエネルギー源はブドウ糖ですから、脳の働きも低下してしまいます。具体的には冷や汗や動悸、手足の震え、意識障害、けいれんなどの症状が現れるとされます。

 対処法はとにかく素早くエネルギーを補給すること。ブドウ糖や砂糖など糖分を含んだ飲み物などを摂って、安静にして回復を待ちます。

 ひだる神の言い伝えでも、憑かれたときの対処はとにかく「なんでもいいから食べること」といわれています。そのための用心として「お弁当を一口だけ残して持っておく」という習慣もあったそうです。

 これからの季節には、脱水もこれと似た症状を引き起こします。身体から水分や塩分が失われると、だるさやけいれんなど低血糖に似た症状が現れて、これも重度になると命に関わります。

 低血糖も脱水も、最初は単に疲れたときと同じような感じで区別がしにくいので、自覚がないまま陥ってしまうことも多いといいます。空腹や喉の渇きを感じたら、食べ物も飲み物も早め早めに補給して、しっかりと休憩を取るなど身体を休めましょう。

 特に近頃は、夏場には以前なかったような高温になることも多いです。日本の気温の最高記録は、ながらく1933年7月25日に山形で記録された40.8℃でしたが、2007年に埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市で40.9℃と74年ぶりに更新されました。そしてそれからこちら14年の間に、各地でたびたび40℃超えを観測しています。

 用心してしすぎはないのです。

 ひだる神の伝承も単なる怪異譚ではなくて、もしかすると当時の人々の生活の知恵や教訓だったのかも知れません。

(まいどなニュース特約・小嶋 あきら)


Facebook相田 公弘さん投稿記事

よいお話ですよ。(^_-) 「命の器」“出会いの質を変えるには”※致知2012年11月号より

作家・宮本輝さん“人生、山河あり”

昔、ある人から「俺は50を過ぎた人間の情熱しか信じない」と言われたことがあるんです。

35歳の時でしたけれど、その時は意味が分からなかった。まるで35歳の自分が否定されたような気がしてね。で、いよいよ50歳になる直前ぐらいになって、ようやく、「ああ、そうか」と。50年ですから、どんなに平々凡々と暮らしてきた人でも、やっぱりいろんな経験をしていますよ。

思い通りにいかないことばっかりだっただろうし、病気もしただろうし、人に裏切られたこともあるだろうし。

そうやって生きてきた人間の持つ「力」というものがあるんですよ。

僕は子供の頃から人よりいろいろな経験をしてきたと思っていました。

父親が事業に失敗して貧乏したり、女性問題を起こしたり、それで母親がアルコール依存症になったり。

最後は愛人のところで倒れて、僕が親父の借金を背負うことになって浪速(なにわ)の金融王みたいな連中から逃げ回ったこともあります。

作家になった後も病気(パニック障碍や結核)になったりと、まあ濃い人生を送ってきたと思っていましたが、やっぱりまだまだ洟垂(はなた)れ小僧だったなと思いましたね。

人よりいろいろな経験はしてきたかもしれませんが、僕自身は深刻になったり、人生を悲観することはなかったんですね。

そしてどこかに「10年先か20先か分からないけれど、必ずこれが自分の宝物に替わる」と思っていたところがありました。

出会いというのは、偶然ではないと思うんですね。

これは動かしようのない一つの法則性があって、どんな人に出会うかは自分次第なんですよ。

そう思いません?

運の悪い人は知り合う人もやっぱり運が悪いんですよ。

やくざの下にはやくざが集まる。

性悪(しょうわる)女は性悪男とくっつく。

これは不思議なものです。

仮に性格のいい人と付き合っても、次第に離れていきます。

それを分かりやすい言い方をすると、「命の器」だと僕は言うんです。

人と人は、その人の最も核となるもの、基底部を成している傾向性が共鳴し合う。

要するにどんな人に出会い、縁を結んでいくかは、その人の「命の器」次第ということです。

そして、その出会いの質を変えるには、自分が変わるしかないんです。

【人の心に灯をともす】より

若いときの情熱は、時として「匹夫の勇」に似ていることがある。

匹夫の勇とは、道理や理屈をわからない人が、血気にはやってがむしゃらに行動したがるような勇気を言う。

大人の情熱は表面には出ないが、深くて、成熟した、静かな継続性がある。

「同気(どうき)相求む」という易経の言葉がある。

気の合うものは自ずと親しくなり自然と寄り集まってくる、という「類は友を呼ぶ」ということだ。

「出会いの質を変えるには、まず自分が変わること」


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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