https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/10438/ 【日本人は「どうやって」「どこから」来たのか?ホモ・サピエンスの壮大な旅を探る】より
取材・文/白石宏一 画像提供/国立科学博物館 3万年前の航海 徹底再現プロジェクト
◆3万年前、日本列島に渡ってきた人々がいた
アフリカ大陸で生まれた人類は、ユーラシア大陸を移動した。ヒマラヤ山脈にぶつかった彼らの一部は北へ、一部は南へルートをとり、大陸の端から日本列島へ渡った。最初の日本列島人は、航海者だったというのだ。
この仮説を実証するべく、国立科学博物館の人類史研究グループは3万年前の丸木舟を忠実に再現し、当時の航路を人力で辿るという壮大なプロジェクトを立ち上げた。そして今月9日、台湾から与那国島まで約100㎞の航海を成功させたのだ。
実験航海を直前に控えた6月、本誌『一個人』は同グループ長の海部陽介さんに、プロジェクトの全容をインタビューした。
(月刊『一個人』8月号「古代史23の謎」特集より抜粋)
◆最初の日本人は3つのルートでやってきた
およそ20万年前、アフリカにいた人類集団が進化し、現生人類が誕生した。そして5万年前頃、我々の祖先はアフリカを出て「世界」へと広がった。ユーラシア大陸(ヨーロッパとアジア)を東に進んだ人々は、ヒマラヤ山脈で北と南に分かれ、やがてアジアの果てに辿り着く。そして、海を渡って日本列島にやって来た。※1
「それが、3万8000年から3万年前頃のことでした」
国立科学博物館人類研究部・人類史研究グループ長の海部陽介さんはこう言う。日本各地に残る旧石器時代の遺跡は、3万8000年前を境に、急に増えている。これは最初の集団が日本列島へ来た証拠ではないか。
「日本への渡来ルートは主に3つ考えられます」と海部さん。
アフリカからアジアへの人類拡散ルート/現生人類がヒマラヤ山脈を迂回した南北のルートがあった。インドネシアからオーストラリアへと海を渡るルートもあった。地図/アート工房
日本列島への到達可能な3つのルート/4万年から3万年前の氷期は80mほど海水面が低かった。日本列島は「古本州島」「北海道」「沖縄列島」に分かれていた。5万年前頃にアフリカを出た現生人類は、拡散しながら徒歩でユーラシア大陸を移動して来た。そして、およそ3万8000年前に海を渡って日本列島へとやって来たのだ。地図/アート工房
これは氷期で海面が80mほど下がった4万年から3万年前の推定地図だ。瀬戸内海はなく本州・四国・九州は一つの「古本州島」だった。対馬と朝鮮半島、九州北部の距離はそれぞれ40㎞くらい。この海を渡って人類がやって来た。その痕跡が、南九州の石の本遺跡(熊本県)や長野県野尻湖畔にある貫ノ木(かんのき)遺跡で、およそ3万8000年前頃と推測されている。南九州から東海・中部地方で3万年以前の遺跡が440以上発見されているから、対馬ルートを来た集団は古本州島全域に広がっていったのだろう。
次が、大陸と台湾が地続きだった3万年前頃に沖縄・琉球列島を辿って来た集団だ。宮古島のピンザアブ遺跡(3万年前頃)、石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)遺跡(2万7500年前頃)、沖縄本島の山下町第一洞窟(3万6500年前頃)などでは化石人骨が発掘されている。沖縄島南部のサキタリ洞遺跡では世界最古2万3000年前の釣り針が見つかった。
最後がユーラシア大陸の北側からサハリンを南下して北海道に来た2万5000年前の人々。帯広市の若葉の森遺跡では3万年前頃の地層から石器が出土している。
「この遺跡などが示すように北海道には3万年前から人がいますが、その由来は不明です。2万5000年前になると、新しく北から人の流れがあったことが分かっています」 現生人類が、我々の祖先なのだ。
◆身長1mの原人もいた! アジアの人類史は滅法おもしろい
「『日本人はどこから来たのか?』という書名は出版社が付けました。まだ〝日本〟という言葉すらなかった時代だから〝日本人〟と呼ぶべきではない、という意見もありますが、僕はそこはあまり気にしません。日本列島に最初に来た人、という程度の意味です」
この国に海を渡って来た人類がいる。このことには疑いがない。だが、どうやって? という疑問には答えがない。海部さんたちは、それに迫ろうと、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」を推し進めてきた。話を伺ったのは、その〝最後〟の本番実験航海を間近にした日だった。
「教科書で、ヨーロッパのネアンデルタール人やクロマニョン人については習うけれど、アジアに関しては北京原人やジャワ原人くらいしか知らない人が多いでしょう。でも、アジアの人類史は、もっとおもしろいんです」
インドネシアのフローレス島では身長1m(!)の成人フローレス原人の化石人骨が発見されている(2004年)。台湾沖の海底からは澎湖人(ほうこじん)が発見され(2015年)、2019年にはフィリピンのルソン島でルソン原人の化石が見つかったと報告された。セイロン島、マレーシア、ベトナム、タイなどでも化石人骨が発掘されている。
だが、アジアのこうした遺跡のことを知る人は少ないだろう。※2
「これらは石灰岩の地質だから人骨が残りやすいんです」と海部さん。なるほど、アジアの人類史は滅法おもしろい。
※1 海部陽介著『人類がたどってきた道』(NHKブックス)参照
※2 川端裕人著・海部陽介監修『我々はなぜ我々だけなのか』(講談社ブルーバックス)参照
難関の沖縄ルート、大航海の再現実験で日本人のルーツを探る
九州から台湾まで1200㎞の海に連なる琉球列島に3万年前、突然、人類が登場する。それは、なぜか。どうやったのか――この謎を解くべく、海部さんたちが立ち上げたのが「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」だ。※3
台湾と与那国島は直線距離で100㎞以上。そこを最大幅100㎞で秒速1~2mの黒潮が流れている。実験用漂流ブイを流しても琉球列島には漂着しない。だから、意図的に琉球列島を目指した人々がいたと考えるのが論理的だ。
「台湾から海を渡って沖縄へ来た集団がいたことは確かです。でも、どうやって海を渡ったのか分からない。その答えは遺跡を掘っても見つからない。不思議で、知りたいから、自分でやってみようと思ったんです」
プロジェクトは、台湾や与那国島にある材料を旧石器で加工して舟を作り、それが実際の航海に使えるか検証するものだ。海図もGPSも通信手段も目的地(与那国島)の情報もない、場所によっては舟から見えないほど遠く、小さな島を目指して漕いでいく。
「それは本当に〝命がけ〟だったはずです。旧石器時代の人類のチャレンジの難しさは実際に体験してみないと分からないと思います」
しかも、彼らの意図は〝移住〟だった。「祖先たちは琉球の島々に住み着き、人数を増やします。だから男女でやって来た。出生時の死亡率や初産の年齢などさまざまな要素が関わりますが、理論上では10人の男女がいれば人口が増えていく、という計算が成り立つようです。女性もいっしょに舟を漕いで来たんですね」
と、いうわけで、海部さんたちの実験航海では男女合わせて5人が丸木舟に乗り組む。人類の移住を再現するためには「2艘で行かなければならないのですが、予算の関係で叶いませんでした」。
そう、海部さんたちはインターネットのクラウドファンディングで一般から資金を募ったのだ。2016年4月に2000万円を目指して支援者を募集、875人が合計2638万円を拠出した。2018年9月には「完結編」として877人から3304万2000円を集めている。海部さんたちはこれら支援者を〝クルー〟と呼んで、研究チームの一員と考えている。
「こんなにおもしろいことをサイエンティストだけの楽しみにしておいちゃいけません。ぜひオープンサイエンスとして、みんなで考えたい。知識や科学的謎解きの面白さを、多くの人と共有したいんです。私たちの先祖のことを、みんなに知ってもらいたい、いや、知っておくべきだと思います」
◆草束舟から竹筏舟、そして丸木舟と航海可能な舟を模索
これらの資金を使って、与那国島に生えているヒメガマという草を束ねて昔から島で使われているツルで縛った〝草束舟〟をこしらえたのが2016年だった。南米ペルーのチチカカ湖でいまも使われているトトラ(カヤツリグサ)舟作りを習得した、石川仁さんの協力を得て行った。舟はしっかりした浮力があり、水を吸って船底が重くなるので安定性があった。
だが重い分、スピードが出なかった。7月17日に島から東南東75㎞にある西表島(いりおもてじま)を目指して出航したが、海流と風で北へ押し流されてしまい、企ては失敗した。
2017年には、かつて竹の筏でトビウオ漁をしていた台湾のアミ族の協力を得て、籐(とう)で縛った筏を試作。山に生えている直径17㎝もある太い麻竹(まちく)を3万年前の石器(複製)で伐きり倒してみると意外に簡単だったという。台東県の南部で海に浮かべた竹筏「イラ1号」は、安定性抜群で、6月11日に黒潮が洗う沖合の緑島へと漕ぎ出したが、14時間の奮闘も空しく海流に流されてしまった。重さと舟底の摩擦抵抗という難点を改良した2018年の「イラ2号」も、浮力不足と竹が割れ易いという欠点が明らかになって、実際の航海には適さなかった。
この間、海部さんたちが第3の候補として注目したのが縄文時代に多用されていた丸木舟だ。材料にする直径1mの大きな杉の木は、6日間かかったが旧石器時代の刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)(複製)で伐り倒すことができた。これが、2017年9月。それから1年かけてこれを刳り貫き、舟の姿に仕上げて熾おき火びで表面を滑らかにして形を整え、軽くした。
こうして自分たちの手で作り上げた丸木舟で、千葉県館山市から伊豆大島へ向けたテスト航海も試みた。このときは毎秒1~1.7mで流れる黒潮の分流を横断することに成功した。出航を前に、海部さんは言う。
「舟は仕上がっています。あとは、漕ぎ手の準備次第です。黒潮は暑い。台湾も暑い。そのなかを漕ぎ続けなければならない。黒潮に流されたら、おそらく逃げられない」
最後は、そう、〝漕ぎ手〟〝人〟なのだ。
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