アイデンティティを喪失した魂には霊性を取り戻す治癒が必要

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アイデンティティを喪失した魂には霊性を取り戻す治癒が必要

日本は昔100あまりの国があって『倭(わ)』と呼ばれており日本は『倭人(わじん)』と呼ばれていました。

日本に最初から統一国家があったわけではありません。

漢の時代の『漢書地理誌(かんじょちりし)』に『楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国をなす』と記されています。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)には邪馬台国という大きな国があって、その下に小さな国々が従っていたとあります。

様々な人々が日本列島に渡って来るうちに各地に共同体ができて、それが徐々に部族連合社会へ移行していったのです。

日本人は単一民族と思っている人がいますがDNAの配列から日本は多民族の集まりだということがわかっています。

https://ocw.u-tokyo.ac.jp/.../gf_14/4/notes/ja/04saito.pdf

Y染色体の父系DNAの研究でわかってきた日本人のルーツは1万6千年くらい前に大陸から移動してきた縄文系のDタイプが3割で中国や韓国で多数を占める「Oタイプ」が半数を占めていました。

縄文系のDタイプは古いタイプのDNAで日本以外で残っているのはインド・アンダマン諸島のジャラワ族とチベット族です。

ネアンデルタール人のDNAも日本人に2%入っています。

母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体を調べてみると日本は混血であることがはっきりしています。

日本人の血液検査をしても日本人というDNAはないのです。

血を何万年もさかのぼれば日本人、中国人、朝鮮人、はては西洋人と東洋人も消えてしまいます。

母系を遡れば人類の先祖は一人の女性にたどり着きます。

地球に住む人々は祖母を中心とした皆兄弟姉妹なのです。

自分の属する文化・民族・国以外の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度をエスノセントリズム(自文化中心主義)といいます。

分離した自己は自分と他人を分けて自己中心的な物語の中にいます。

内面の抑圧が強い人はシャドーの投影に気がついていないので自分以外の他者、集団、国に嫌悪感をもっています。

ヘイトスピーチは思考の罠にはまっている状態です。

また、大和民族は明治になってから政府が作った概念です。

日本人とは個人を抽象して一般化した実態のない概念なのです。

国もまた概念なので時の権力者の都合により境界線は目まぐるしく変わってきました。

日本人を土地に長く住み、土着の固有の言語と文化を保持している人びとと定義すると、

2万年以上続いた旧石器時代と一万6千年続いた縄文人こそ日本人です。

縄文時代から弥生にかけて中央集権国家にいたる過程には大和朝廷の勢力になびかなかった、まつろわぬ神々がいました。

まつろわぬ神々とはヤマトから熊襲(くまそ)隼人(はやと)、肥人(くまびと)土蜘蛛・土雲(つちぐも)、国巣・国栖(くず)、八束脛(やつかはぎ)佐伯(さへき)古志(こし)粛慎( みちはせ)蝦夷・毛人(エミシ)と呼ばれた先住民のことです。

その中でも1000年以上に渡って最後まで抵抗してきたのが蝦夷(エミシ)です。

しかし蝦夷(エミシ)側の文献はなく勝者の視点で描かれた大和朝廷側の記述しか残されていません。

麻生太郎神道政治連盟国会議員懇談会名誉顧問が「2000年にわたって同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝を保ち続けている国など世界中に日本しかない」と述べて顰蹙(ひんしゅく)を買いましたが、昔から日本は単一の国ではなく異なった言語を持つ人々が住む多民族の国だったのです。

古事記の国生み神話で最初に出てくるのは淡路島です。

次に生んだのが四国、三番目に生んだのが隠岐。

そして九州、壱岐、対馬、佐渡と生み、

最後に本州を生んでいます。

北海道は出て来ません。

古事記を記述した人々の頭には西日本しかありませんでした。

東日本は風俗習慣が違う異国でした。

蝦夷は九州・近畿から見ると日の出の東の方向にあるので日の本(ひのもと)と呼ばれていました。

別名で高い太陽を見る国という意味の日高見国(ひだかみのくに)という記述が「釈日本紀」に出て来ます。

「日本書紀」には東(あづま)の夷(ひな)中に日高見国(ひだかみのくに)が有ると記述があります。

蝦夷とは自ら名乗ったわけではなく蝦夷の文字に虫がついているように中央集権を築いたヤマトが、エスノセントリズム(自文化中心主義)のマインドで先住民族に対して、劣った野蛮人としてみた名称なのです。

日本書紀に「斉明記5年7月(659年)服従させた蝦夷を唐に見せるために連れて行った。」とあります。

中国唐の正史の新唐書では「倭国の使者と蝦夷が共に入朝した。その使者はヒゲが4尺ある。」と記述されています。

唐の史書「通典(つてん)」は「蝦夷国 倭国の国使と共に入朝した」とあり蝦夷と倭国は同等であり唐では蝦夷を独立国としてみなしていました。

『旧唐書』では、「倭国伝」と「日本伝」の2つがあって倭国と日本は別国扱いで記述されていました。

青森県東北町には蝦夷の国の中心地をしめす「日本中央」と刻まれた「壺の碑(つぼのいしぶみ)」があります。

「壺の碑」は歌枕として、多くの歌人に詠まれています。

津軽の安東氏は日之本(ひのもと)将軍と呼ばれていました。

豊臣秀吉の文書でも東北を日の本と呼んでいました。

中国の歴史書『旧唐書(くとうじょ)』に「小国の日本が倭国を併合した。」あるいは「倭国は小国の日本を併合してその国号を奪って日本とした。」とあります。

倭国(ヤマト)は日の本(蝦夷)を併合して国号を日本としたのです。

日本は統一国家ではなく西の大倭と東の日高見の二つの国があって日高見国は独自の文化と言語をもって千年以上も独立を保っていました。

2000年(平成12年)に三内丸山遺跡を凌駕する大規模な縄文集落、大清水上遺跡(おおすずかみいせき)が岩手県の胆沢で発見されました。

大清水上遺跡(おおすずかみいせき)では直径約20mの中央広場を中心に長さ 10m以上もある大型竪穴住居62棟が 中心部へ向けて同心円状に集落が形成されていました。

縄文時代の東北は戦いのない平和な暮らしをしていました。

中央集権国家体制を整えようとしていたヤマトは異民族「蝦夷」を制圧するために軍隊を動員して、何回も東北に侵略してきました。

800年頃、ヤマトは坂上田村麻呂を大将として東北に侵入してきました。

蝦夷征討を目的とした官位が歴代徳川家の称号の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)です。

蝦夷の組織的な抵抗は811年、坂上田村麻呂の後を継いだ文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさったい)(二戸市仁左平)を制圧したという記録が最後です。

東北の支配は志波城が北限でそれ以上北に城が造営されることがありませんでした。寒冷の北国の気候風土は稲作に適さず盛岡までの支配が限界だったのです。

爾薩体(にさったい)を攻めたのは早くからヤマトに服従を誓った俘囚(ふしゅう)の蝦夷でした。蝦夷をもって蝦夷を討ったのです。

侵略で捕らえられた蝦夷の人々は片っ端から強制移住させられ職業の自由も、居住・移転の自由もない奴隷としてヤマトの管理下に置かれました。

蝦夷の聖地には神社や寺院が建立されました。

極端な人種差別をされ土地や財産、文化や言語まで奪われた蝦夷はアメリカ大陸のインディアンと同じ運命をたどりました。

宗教や文化が異なる先住民が征服されると文化の破壊と虐殺が起きて多くの民族が消滅しました。

現代でも先祖伝来の土地を追われた少数民族は言語と宗教を奪われる同化政策をとられ絶滅の危機に瀕しています。

郷土に侵略した司令官の田村麻呂は神となり、侵略者に立ち向かった郷土の英雄たちは悪い鬼・山賊にされました。

蝦夷たちは悪さをする鬼や山賊と教えられました。

先住民の族長「大武丸・大嶽丸(おおたけまる)」の生誕地を「鬼生田」と、その死骸が埋められた場所を「鬼死骸村」(一ノ関市真柴)と名付けられています。

鬼の首が飛んでいった場所は宮城県玉造郡の鬼首です。

八幡平市では山賊まつりという名前のイベントをしています。

山賊とは占領された側からすれば侵略者に立ち向かった郷土の英雄です。

ヤマトの同化政策により蝦夷(エミシ)は文化を奪われてしまいました。

東北の人々は自分たちの先祖が鬼だったということを忘れてしまったのです。

東北には今でもトチモチやドングリを食べる習慣があります。

縄文遺跡から発掘された植物の繊維で編んだ籠とまったく同じ編み方の籠がいまでも使われています。

今も人が住んでいる茅葺の南部曲がり屋は縄文時代と同様な素材と技術で建てられています。

東北には縄文時代から続く暮らしの伝統が色濃く残っていました。

しかし高度経済成長以降、東北の山村はなにもかにも急速に変貌しました。

神話を失い伝統的な生活様式と世界観を喪失した民族は皆苦しんでいます。

西洋文明を受けいれ工業化社会に突き進んだ日本も同じ運命にあります。

日本の神道は縄文の自然崇拝から来ています。

神社には鎮守の森があり、神の使いである蛇や鹿や動物がいました。

縄文時代、森羅万象に精霊が宿っていました。

岩、樹木、泉、山、川を神の依代として自然の恵みに感謝してきました。

縄文の末裔のマタギやアイヌの人たちは、山に入つて山菜や獣を獲るとき、かならず山の神に祈り許しを乞いました。

野生の物を得る時アイヌのフチ婆さんは生きているものに申し訳ないって泣きながら得たといっています。

アイヌ語で「母乳」のことをトペといいました。

自然の恵みに感謝する暮らしをしているアイヌの人たちは、大地から湧き出る泉の清水を飲むときは「女神のお乳をいただきます」と感謝の言葉を述べていました。

先住民の人々は大自然の恵みに感謝して、必要以上の捕獲はしませんでした。

子供や子を生むメスを獲るのは避けていました。子供もメスも根こそぎ獲ってしまっているのが現代社会の狩猟です。

そのために大型捕食魚の90%が20世紀後半で姿を消してしまいました。

現代の人々はあれが欲しい。これが欲しいと御利益を求めて神社に参拝しますが、本来の神社は自然の恵みの中で生かされていることを感じて感謝する聖なる場所でした。

縄文の人々は個性や能力の差を認めながら助け合う心、無駄な競争や暴力を避け、富を独り占めにせず、誰でも平等に分け与える心を持っていました。

人を殺す武器を持たず、集落はどこまでも開放的で家に仕切りはなく鍵はかかっていませんでした。

       縄文と 縄文以後の違い

         母系  男系

       精霊信仰  祖先信仰

         祭器  武器

       平等社会  階級社会

開放的な円環構造の集落 堀と柵に囲まれた村

   仕切りのない住居  区分された住居

      財産の共有  私有財産

      神話的思考  科学的合理的思考

縄文人は森林を伐採する農業を拒否して1万年以上豊かな実りをもたらす森を守ってきました。

縄文は文明の痕跡を残さないほど、何万年も環境を破壊せずに来たのです。

蝦夷は自然の循環や生命のリズムに即した生き方をしていた縄文人の末裔でした。

人間は自然界の関係性の中で生かされています。

それがいつのまにか命のネットワークの一員であることを忘れてしまい地球規模の環境破壊をしています。

癌細胞は組織の一部だったのに調和を乱して増殖し、宿主の人間を殺して自分も滅びてしまいます。

いまや人間が地球の癌細胞になっています。

縄文の記憶は古層にしまいこまれてしまい、人々は自分が誰か忘れてしまいました。

アイデンティティを喪失した魂には霊性を取り戻す治癒が必要なのです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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