いのちの物語

Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事

自分を愛する心を

 吉野弘さんは好きな詩人です。「二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい 立派すぎないほうがいい」とはじまる『祝婚歌』は、なんどか結婚式のスピーチにさせてもらいました。

 その吉野さんが終戦から間もなくこんなことを書かれていたのが随分と亡くなってから見つかりました。

人間は、その不完全を許容しつつ、愛し合うことです。

不完全であるが故に退け合うのではなく、人間同士が助け合うのです。

他人の行為を軽々しく批判せぬことです。自分の好悪の感情で、人を批判せぬことです。

善悪のいずれか一方に、その人を押し込めないことです。

 モカシンの箴言といわれるものがあります。「兄弟のモカシンを履いて3つの月のあいだ歩くまで、彼を批判してはならない」。

人を批判するのは、その人の人生を歩んでからできることだという意味です。その人の人生を辿ってみない限り、人への判断はくだせない=できない、ということですね。

 こんな基本的なことが見失われてか、争いが後をたちませんね。

 吉野さんは娘さんに贈った詩の中でこんなことを書いています。

唐突だが 奈々子

お父さんはお前に 多くを期待しないだろう。  ひとが ほかからの期待に応えようとして

どんなに 自分を駄目にしてしまうか。    お父さんははっきり 知ってしまったから。

お父さんが お前にあげたいものは      健康と 自分を愛する心だ。

ひとが ひとでなくなるのは         自分を愛することをやめるときだ。

自分を愛することをやめるとき        ひとは 他人を愛することをやめ

世界を見失ってしまう。

Facebookミモレ mi-molletさん投稿記事

2016年、相模原市にある障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害され、26人が重軽傷を負うという大惨事が起きました。この事件を起こした犯人はこの施設に勤務していた元職員でした。犯人は「重度・重複障害者を養うには莫大なお金と時間が奪われる」「意思疎通の取れない障害者が社会にとって迷惑だと思ったから」などと述べ、重度の障害者は社会からいなくなるべきという考えのもと、凶行に及んだのでした。この事件を題材にした辺見庸氏の小説『月』(KADOKAWA)が映画化され、10月13日から公開されています。

https://mi-mollet.com/articles/-/45379?fbclid=IwAR0GZNBIFUx2OiAt0FvX_YxDmcRp_YC0TjnXBcN3gm_nmULxWnOaOxi4pOQ 【「障害者は子どもを産むな」「障害者は社会にいらない存在」映画『月』があぶりだす、誰の心の中にも存在する優生思想】より

https://www.youtube.com/watch?v=Oiw3tza2euU

不都合なことは隠蔽される

この映画の舞台は森の奥にある重度の障害者達が暮らす障害者施設。文章が書けなくなった作家の堂島洋子(宮沢りえ)はこの障害者施設で職員として働き始めます。施設内では、職員が入所者を殴ったり、部屋に閉じ込めたりといった虐待が横行しています。洋子が担当するきーちゃんと呼ばれる入所者は、目が見えず耳も聞こえないため、意思疎通ができないと言われています。食事も胃ろうによって摂っており、10年間もの間、ベッドの上で横たわったまま生活しているといいます。きーちゃんは、最初からその状態なのではなく、施設に来るまでは歩けていたけど、縛り付けられるうちに歩けなくなり、さらに目も少し見えていたけど、窓を塞がれたことで、徐々に目も見えなくなったことが分かります。

洋子は施設内での虐待の事実を施設長に伝えますが、まともにとりあってもらえません。洋子の同僚の坪内陽子(二階堂ふみ)は言います。この施設で起きていることは、全て隠蔽される。不都合なことは隠蔽されるのがこの社会。ここで正常でいられるほうが異常なのだ、と。

障害者を殺すことと、中絶することは同じなのか

そんな中でも、さとくん(磯村勇斗)という職員は、唯一と言っていいほど、前向きに仕事に取り組んでいます。入所者のために紙芝居を手作りして読み聞かせをしたり、「きーちゃんに月を見せてあげたい」と部屋の壁に月の形に切りぬいた紙を貼ったり。でも、そんなさとくんの前向きな努力も、他の職員からは無駄だ、余計なことをするなと言われてしまいます。さとくんは、後に多くの入所者を殺害するという凶行に及ぶことになります。

洋子は以前、息子のしょういちを3歳で病気で亡くしています。しょういちは病気により寝たきりで意思疎通ができず、胃ろうで栄養を摂っていました。洋子は息子を失った悲しみから立ち直れない中、自分が妊娠したことを知ります。40歳を過ぎてからの妊娠ということもあり、再び子どもに異常が見つからないか不安に駆られる洋子は、また同じ思いをしたくないという気持ちから、夫に妊娠の事実を告げずに中絶を選択しようとします。妊娠したことを陽子には打ち明けるのですが、夫とさとくん、陽子と4人で飲んでいるときに、陽子が洋子の妊娠と、産むか決めかねている事実を話してしまいます。

ある日、さとくんが洋子に言います。「僕は洋子さんと同じ考えです」と。

自分が持つ「無駄なものは排除しないといけない」という考えが洋子と同じだ、というのです。子どもが異常を持って生まれることを恐れて中絶しようとした洋子と、障害者を殺そうとする自分の考えは同じだ、という意味なのでした。「人を傷つけるのはいけない」と諭す洋子にさとくんは言い放ちます。

「人って何ですか」

心がないなら生きる意味がない、生きる価値がない。

さとくんの中では、しゃべれない、意思疎通ができない重度障害者には心がない。だから人間ではないし、だから殺してもいい、という論理が成り立っています。心がない障害者を殺すのは、虫を殺すのと同じだと言うのです。だから実際さとくんは入所者を殺すとき、しゃべれるかどうかを、手にかける判断基準にしました。

旧優生保護法により、障害者に強制不妊手術が行われた歴史がある

さとくんと対峙するとき、洋子の心の中にいる、もう一人の洋子が語りかけます。

実際自分はさとくんと同じなのではないか。

子どもに障害があるなら“いらない”と思ったのではないか?

実際中絶しようとしたじゃないか。

障害者のことを自分事だと捉えられているのか。

きーちゃんが自分の家族だったらどうなのか。

友達にきーちゃんみたいな赤ちゃんが産まれたらおめでとうって言えるのか。

そんな声を振り払うように、洋子はさとくんに言います。

「あなたを絶対に認めない」

それに対し、さとくんは言います。

無傷で手を汚さずに善の側に立とうとしている人はズルい、自分は存在意義をかけてやるのだ、と。障害者を殺すのがよくない、なんて綺麗事。「障害者はいらない」それこそが社会の“隠された本音”なのだ、と。 

さとくんは、「心がないならば人間ではない」「障害者は不要な存在」という思想のもと、実際に殺人に及びます。さとくんの先鋭化した優生思想は、一見異様なものにも見えるかもしれません。一方で、日本には1948~1996年に旧優生保護法というものが存在しました。この法律のもと、障害者に対する強制不妊手術が行われていました。国家が、生まれるべき命とそうでない命の選別を行っていたのです。今でも、強制不妊手術の被害者が国に賠償を求める裁判は全国各地で続いています。そのニュースが記事になる度、コメント欄は「自分の世話もできない人が子どもを産んではいけない」「障害者が子どもを望むのはおかしい」といった主旨のコメントで溢れます。障害者同士の夫婦が子育てをしていることがテレビで取り上げられると、非難の嵐が起きました。そんな様子を見ると、建て前の部分でも、優生思想を批判さえしない人は今でも本当に多いのだと痛感します。障害者にも子どもを産む権利がある、というのは多くの人にとっては建て前や綺麗事ですらない、絵空事なのです。

「障がい」と表記しても何も解決しない。障害があるのは社会の側ではないのか

さとくんが言うように、隠された本音の部分では、社会の中に優生思想は色濃く存在していると思います。正直、優生思想を持っていない人なんていないとも思います。持っていながらも、洋子のように理性で律しているのではないでしょうか。

筆者の父親は精神障害者で、定職に就けなかったため、家庭は経済的に困窮し、苦労が絶えませんでした。貧困家庭で育った体験を書くと、よくこんなことを言われました。

「障害者が子どもを作るからそうなるんだ」

「障害者は子どもを産んではいけない」

正直「私にそんなこと言われてもなあ」と思いました。つまりそれって、私は生まれてきてはいけなかった存在って言われているようなものですから。

障害者が生きていくのは大変です。障害者をサポートする人も大変です。でも、それは社会にバリアがあるからです。障害者が健常者と同じように生きられるように、社会の整備が追いついていないからです。

よく「障害者」を「障がい者」と表記するという配慮があります。これに対し、乙武洋匡さんは「『障害』を『障がい』と表記しておけばいいだろうという安直さにドロップキック。」という記事の中で次のように疑問を示しています。

「障」だって「差し障る」という意味なので、社会にとって差し障りのある存在といったイメージを与えかねません。こちらも「しょう」と表記しなければならないのでしょうか。

「しょうがい者」

いやあ、いいですね。やわらかい響きですね。これなら誰からもクレームが来ず、なんだか地球環境にまでやさしいイメージが湧いてきますね。

なめんなよ。

と、思うのは私だけでしょうか。

「障がい者」と呼ぶようにしたところで、そう呼ばれる人々に向けられる意識や彼らを取り巻く環境を変えていかなければ意味がない。

「障害者は子どもを産むべきじゃない」という意見はメインストリームになりつつある

そうなんです。本来、障害とは社会の中にあるんです。私たちの意識の中にあるんです。それをなくす努力を怠って、健常者だけが不自由せずに生活できる社会で満足している。障害者施設を社会から隔離された存在にして、蓋をしている。不都合な存在を隠蔽するのはいつも社会の側なんです。

「障害者は子どもを産むべきじゃない」という本音は、もはや不謹慎な隠された本音ではなく、メインストリームになっているように感じます。障害者を殺すのはよくないこと、でも障害者は子どもを産むべきではないと思っている人は多いと思います。でも、どちらも剥き出しの優生思想であり、同根だと思うのです。たとえ障害を持っていても、健常者と同じように暮らせる社会になっていたら、同じ事が言えるのだろうか、と思うのです。社会の責任を果たさずに、障害者の存在を否定するのは間違っています。

さらに、やはり筆者は、生きるにふさわしい人間なのか、逆に生きるべきではない存在なのかを他者が選別することが、とても恐ろしいと思います。さとくんにとってその基準は「心があるか」でした。心があるかどうかの判断基準は、しゃべれるか、意思疎通ができるか、です。でも、意思疎通ができないから、心がないなんて、なんで決めつけられるんでしょう。自分の基準で命の価値づけをするのはさとくんだけじゃなくて、社会の人々もそうです。経済的な利益を生み出す人、頭がいい人、何か秀でた才能がある人、見た目がいい人。そういう人は生きるべきで、さらにはそういう人たちが優秀な遺伝子を残すべきで。逆に、低所得者や生活保護受給者は社会のお荷物で、子どもなんて産むべきではない、なんて言う人もいます。

でもその選別、線引きって、その人の主観でしかないんです。どこまでも独善的なんです。人間の命の価値を人間がはかる。それはやっぱり間違っていると思います。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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