山八つ谷九つ身は一つ我が行く末は柊の里

https://frogcroaks.hatenablog.com/entry/2019/09/29/140647 【山八つ谷九つ身は一つ我が行く末は柊の里】より

歴史民俗系 川中島八兵衛

やまがやつ、たにがここのつ、みわひとつ、わがゆくすえわ、ひいらぎのさと

「山が八つ、谷が九つ、身は一つ、我が行く末は柊の里」

川中島八兵衛御詠歌二番の歌詞であり、お札にも書かれるこの文句。八兵衛の御利益のあらたかさを讃えるものである御詠歌のなかで、二番の歌詞だけが異色というか、どういう意味があるのかはっきりしません。いったい誰かどういう理由でどこの柊の里へ行くのでしょうか。

この文句は紙に書いて家の戸口に貼るとか、三回唱えるとかすると、疫病除けになるともいわれていたそうです*1。こうした扱いをみるに、意味のある文章というよりは、一種の呪文のようなものだったのかなという感じがします。

で、山が八つとか柊の里とかなんだろうということですが、これについては現在までのところ以下のような説が唱えられてきました。

修験道醍醐寺当山派の疫癘払いの呪文

もっとも御詠歌の二番にある「山が八つに谷九つに身はひとつ、我が行く末は柊の里」は「□□□*2」(藤枝市茶町2丁目天野信直提供)という修験道醍醐寺当山派の呪文「サワリナス荒振神ヲオシナヘテ ヱキレイ拂アララ木(現在はイチイのことを云うが古代はフジバカマ・ノビルなどをさす)ノサト ミ子(峰)ワ八ツタニ(谷)ワ九ツ戸(身)一ツワカ(我が)ユクサトワアララギノサト 云々」に由来するものと考えられ、八兵衛(または八郎兵衛)は同家*3の縁者ながら修験の群に身を投じ、高野山などで修業に励んだものと見られる。

大井川町史編纂委員会編『大井川町史』下巻、大井川町、1992年、p.817

密教思想の呪文

「やまやつ」は胎蔵界八葉曼荼羅、「たにはここのつ」は金剛界九界曼荼羅、「みはひとつ」は胎(理)・金(智)両部の一元を意味するもので、密教思想の呪文のように思える。

静岡県編『静岡県史』資料編24民俗2、静岡県、1993年、p.1127

八兵衛出身地候補の一つである御坊市の地名

参考に、吉田家は、御坊市に有る道成寺より南へ一直線に出た藤吉田町*4で、田園地帯に有りその北西に八兵衛さんの御和讃に有る山八つとは、八幡山、其の山の北側に、九艘谷(くそうだに)、谷は九つと詠はれる。*5

川村辰己『川中島八兵衛見聞の記』1991年、p.2

しかしどこか別のところで聞いた気がする……

それはそれとして、この「山八つ谷九つ」という文句、どこかで聞いたこともしくは読んだことがあるような気がしていたのです。なんだろうと思って調べてみて、たぶん八岐大蛇の八丘八谷だったらしいと思い至りました。

で、調べている過程で知ったのですが、「山八つ谷九つ」と似たような文句が他地域の神楽歌などにもみられるのでした。たとえば以下のように。

石見神楽・道反しの神楽歌「峰は八つ谷は九つ音にきく、鬼の住むちょうあららぎの里」*6

高千穂神楽の神楽歌「谷が八つ峯が九つ戸が一つ鬼の住処はあららぎの里」*7

広島県広島市八幡川水系の荒平舞「峯は八つ、谷は九つ戸は一つ、我らが通ひし道は一時が一時。(五日市)」「峯七つ谷は九つ戸は一つ、鬼が住む町あららぎが里、峯七つ谷九つこれやこの、大葉の通う時は一時。(白川)」*8

東京都奥多摩町の獅子舞歌「山が八つ谷が九つ是は又 御前御出での御礼なるもの(大氷川)」「山が八つ谷が九つこれは又いせんおいでのお礼なるもの(小留浦)」*9

東京都西多摩郡檜原村人里の獅子舞・ふじがかり「山わ八つ 谷は九つ これわまた 入りは よくみて でわに迷うな」*10

三重県亀山市加太北在家のたいこ踊り唄・獅子踊「峯は八つ、谷は九つ川越えて、それへまいりて御目にかかろよ。」*11

行者が行う送り出し流行病法の神歌「峰の八ツ谷は九ツ山こえて道は一ツで迷ふ方なし」*12

岡山県真鍋島のはらいた(腹痛)や高熱のまじない「我本所は祇園なる彼方にここのつそねはやつらんやあららぎの里」*13

このように、どうやら様々な信仰や芸能に絡んで広く流布していた文句だったようなのですね。

7番目などはもろに流行病除けであり、『大井川町史』掲載の修験道の呪文とも通じるものがあり、これはもしや修験道が元ネタかという気持ちになってしまいます。ただ、似てる度合いだけでいえば神楽歌も似てますね。8番目は明確な類似点はないが、「あららぎの里」とかなんとなく語感が似てる気がしたのでメモっておきました。

ところで神楽歌や修験道の呪文にもみられる「あららぎの里」ですが、各地に伝わる八兵衛御詠歌のなかでも藤枝市高田のものは「柊の里」ではなく「あららぎの里」だったそうです*14。もしかしたら八兵衛御詠歌も元はあららぎだったのでしょうか。

あららぎってあまり身近な言葉ではないと思うのです。いわれて何かわからない。柊のほうが普通に生えてる。音が似ているからより親しみのある柊に変化してしまったとも考えられます。それとも、柊に何か特別な由縁があったのでしょうか。関係があるのかどうか、旧大井川町上小杉の高畑組の八兵衛碑*15は、かつては成案寺川畔の大きな柊の木の下に安置されていたそうな*16。

柊の里よいずこ

それで、結局、「山八つ谷九つ」とか「あららぎの里」、「柊の里」とはなんなのでしょうか。

たぶん、最初のほうで述べたように、意味のある文章というよりは、一種の呪文のようなものなのだとは思います。想像をたくましくするなら、八兵衛が生前、病除けとして用いたことがあるのかもしれません。ただ、八兵衛の生前の活動や御詠歌が作られた過程などが不明である以上、この文句の由来もわかりません。

他地域の神楽歌などではこの文句は何を意味しているのでしょうか。

高千穂神楽においては「あららぎの里」は高千穂神社があるあたりのこととされ、かつて三毛入野命に退治された鬼八(キハチ)が住んでいたということだそう。高千穂には鬼八の首塚や力石、膝付き石など、鬼八にまつわる遺跡が今も残るそうな。

石見神楽の道反しも鬼退治のストーリーであり、やはり山奥の鬼の住む場所という意味のよう。「あららぎの里」を「荒れ狂う里」とする説明もありました*17。

おまじないに現れる山が意味するところについて、ハルトムート・オ・ロータモンドはこのように述べています。

病み目や虫歯治療関係の歌では、悪が追い払われる所が奥山とされる。また「峯は八つ、谷は九つ、山は三つ」等の唱えごとの場合にも同様の意味が含まれている。

ハルトムート・オ・ロータモンド「和歌にみる日本人の宗教心」

この「峯は八つ、谷は九つ、山は三つ」の唱えごとがどのような時に用いられるのかわからないのですが、ともかく、いくつもの山や谷を越えた奥山へ災いを追いやってしまうということのようです。

では、八兵衛御詠歌二番に込められたイメージはなんなのでしょう。山越え谷越え柊の里へと行く者、「我が行く末」というからには御詠歌を唱える本人か八兵衛のようにも思えますが、これを「お前の行く末」ととって病魔をそこへ追いやるのだと考えることもできます。

八兵衛御詠歌について、長谷川一孝は以下のように述べています。

然し、紀伊国川中嶋小長谷八兵衛とある以上、生まれは紀伊国のどこかであろうし、何かのきっかけで八兵衛が信仰され、それが六部によって志太地区に勧請されたのかもしれない、と考えられないこともない。

その点については、八兵衛ご詠歌二番、四番の文は、示唆的であるとも考えられる。

長谷川一孝「川中嶋八兵衛」大井川民俗の会編『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、p.38

八兵衛信仰が六部によって勧請され云々というのは、藤枝市弥左衛門で紀伊国から八兵衛を勧請したという話が聞かれたこと、志太地区において六部が庚申堂勧請などに関わったとする伝承があることなどから導かれた仮説です。長谷川が弥左衛門の伝承に注目するのは、この付近に最も古い八兵衛碑が集中しており、「志太地域に於ける八兵衛信仰発祥の地ではないか」とも考えられるためです。*18

発祥の地はともかくとして、ここで今一度、長谷川の指摘する御詠歌二番と四番を確認してみます。

二番「山が八つ、谷が九つ、身は一つ、我が行く末は柊の里」

四番「紀の国は遠きわたりと聞きぬれど、祈れば近いお恵みもあり」

紀の国は遠いところと聞いたけれど、祈れば近いお恵みがある。「近い」とは空間的時間的に近いこと、この場で祈ればすぐにお恵みがあるという風にも読めます。こうみると、「お恵み」は本来は遠く紀の国にあったかのようです。

長谷川もそう述べているように、碑銘にもよく見られる「紀伊国」は八兵衛の出身地とする説が主流です。紀伊国といえば紀伊山地、熊野三山、高野山、それに西国三十三所霊場もあり、なんとなく山、かつ、有難いお恵みがあふれていそうな土地という感じはします。長谷川説にのっとるなら、恵みあふれる紀伊国の「山八つ谷九つ」越えた奥深くにある八兵衛の故郷「柊の里」というイメージになるのでしょうか。

しかし、結局、「柊の里」へと行く「我」とは誰なのでしょう。個人的には、御詠歌二番は八兵衛が人々の願いを背負ってどこか遠くへ旅立つようでもあるし、四番をみると八兵衛が紀伊国からなんらかの有り難いものを運んできてくれるようなイメージが湧きます。御詠歌を実際に唱えていた人たちは、これらの文句にどのような印象を持っていたのでしょうか。

ところで、八兵衛とは関係ありませんが、旧紀伊国、和歌山県には、「蘭島(あらぎじま)」というところがあるんですね。川に囲まれた島のような土地なのです。残念ながら柊島ではないのですが。

*1:大房暁『山西の特殊信仰』(西駿曹洞宗史)久遠山成道寺、1961年、p.21

*2:「竹かんむりの下に、車へんに、疑の右側」「竹かんむりの下に、雁だれの下に、斬」「乙」。読めない。

*3:大井川町が中心となった調査において八兵衛出身地と推定された和歌山県御坊市の旧家吉田家のこと。

*4:藤田町吉田の誤り。

*5:和歌山県で八兵衛出身地の調査にあたったのは、大井川町より依頼を受けた御坊市の郷土史家である熊代佐市。よってこの説の出所は熊代と思われる。

*6:道がえし(鬼がえし) | 石見神楽演目紹介 | 石見神楽公式サイト

*7:高千穂町の民話と伝承 - 高千穂町コミュニティセンター

*8:三村泰臣「八幡川水系の神楽」

*9:各地の獅子舞歌 - 高水山古式獅子舞

*10:神無月の道(人里の獅子舞)...月に翔ぶ注連縄・完 | ゴン太親父のお散歩日記

*11:亀山市史民俗 口頭伝承

*12:柄澤照覚『神仏秘法大全』神誠館、1901年、p.145

*13:第5章 真鍋島の習俗 | 真鍋島の歴史と習俗(伝承の記録)

*14:長谷川一孝「川中嶋八兵衛」大井川民俗の会編『民俗大井川』第1号、大井川民俗の会、1973年、p.35

*15:現在は上小杉の自衛隊官舎近くの墓地にある。

*16:静岡県編『静岡県史』資料編24民俗2、静岡県、1993年、p.1125

*17:解説付き! 嘉戸神楽社中 道がえし - YouTube

*18:長谷川は藤枝市泉町(旧弥左衛門川原)の碑に「嘉□七年丑七月」の文字を発見しており、これが嘉永7年であれば最古の八兵衛碑になる。その次は安政6年で、藤枝市高岡(兵太夫上)の碑と同市高洲(兵太夫南)の碑の2基。ただし弥左衛門川原では八兵衛は川除の人柱になったと伝えている。(長谷川 pp.37-39)

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