Facebook秋田 真介さん投稿記事
令和四年[壬寅] 文月朔日(新月) 宮崎 高千穂 天岩戸神社 西本宮にて
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
大麻飾り と 高千穂神楽面『 坤の金神 』 高千穂 天岩戸神社 ご奉納会
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
無事、執り行われました。この度、御奉納いたしました大麻飾りは
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
【 大麻飾り『太御幣フトミテグラ』】
・十六菊花結び(初公開)・神鏡 麻紐包み(初公開)・糸魚川産翡翠勾玉の輪飾り(麻紐通し)
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
完成いたしました。
(※御奉納した大麻飾りは常時、西本宮 本殿の祓戸にてご覧いただくことができます。)
大麻飾りの制作においては、構想はあったものの産みの苦しみがあり期限の三日前に舞い降りた内容は氣の遠くなるような作業量と幾重に重なる新たな手技への挑戦。
「本当にできるのだろうか?」「間に合うわけないだろう!」「できなかったらどうするの?」常識的な思考は騒ぎ出す。
しかし天岩戸開き御神事に御奉納する太御幣たる大麻飾りできるのだからこそインスピレーションが湧いたしできるのだからこそ限界を超えるお題が与えられた
これまでの神事に携わった経験からそういうことがあると知っていたのでただただ真っ直ぐにありったけの氣の集中をもってして期限当日の朝4時に見事完成を迎えその場で倒れるように眠っていました。
大麻飾り職人 ∞ 太真道 ∞ としてもひとつ上の螺旋へと昇華したことと感じています。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞
主催の猿田彦こと横山さんの発案による「鬼の角のある猿田彦」の特注神楽面とともに御奉納する大麻飾り。天岩戸の御前に立てる大麻飾り。
古事記 天岩戸開き神話に則り天太玉命がしたが如く・榊を立て・御統玉(勾玉や玉を連ねた輪飾り)を飾り・八咫鏡を取り付け・幣帛を垂らし・太(布刀)御幣(フトミテグラ)を手にする。
神話から見出し得る大麻飾りの本質を貫く太御幣。
勾玉と鏡と合わせて三種の神器となる「剣」が布刀(フト)でありそれは断つべきものを断つ祓い太刀であり連なるべきものを連ねる剣(連氣)まさに大麻の祓いと産靈である。
この考案しか思い浮かびませんでした。
そして天児屋命がしたが如く天岩戸神社 宮司 佐藤永周 様により祝詞を奏上していただき言靈による祈りが響き渡る。
その後、天鈿女命がしたが如く和泉による渦目(ウズメ)の舞にて渦の目より天に昇華していく。
丑寅(艮うしとら)の鬼門 その裏鬼門にあたる未申(坤ひつじさる)
艮の金神と坤の金神が出逢う瞬間 顕と隠がひっくり返るそこに 渦目ウズメができ
天之御中の柱立つ。
いよいよ天岩戸は押し開きてひとりひとりの内に坐します天照大神を この世に顕現するときはまさにいまなり。
回転しながらトランスに入るスーフィ舞踊を連想します。
https://www.youtube.com/watch?v=ecgmnWAUkCA
天岩戸神社 坤(ひつじさる)の金神 奉納会
https://ameblo.jp/onenessism/entry-12577802793.html 【今を結ぶ 〜 もうひとつの産靈(むすひ)】より
大麻の紐を結ぶ大麻飾り職人として、大麻の霊験でもある「産靈(むすひ)」について考察する機会に恵まれる。
「結ぶ」と言葉にどんなイメージがあるだろうか?
紐状のものを繋いだり締めたりすること や、「縁結び」のように、ふたつのものをひとつにつなぐ というようなイメージが一般的ではないだろうか。
さらによく考えてみると「結びの句」「結びの一番」「結びの挨拶」「結論」など 終わりにする、締めくくる というような意味でも使われることがわかる。
日本はそもそも「終わり方」というのをとても大事にする文化だったように感じる。
今回は、この意味での「結び」を掘り下げてみたいと思う。
因縁果の道理に隠れているカギとは因果や因縁という言葉は、仏教用語の「因縁果の道理」からきている。「原因(種)が縁と結ばれて結果(果実)となる。」 というプロセスを表し、「今のこの結果は必ずなにかしら原因があるのだ(自省しよう)」「種があっても縁がなければ果として実らない。縁を大事にしよう」などと一般的には読み取られれる。
では、種はいったい何からできているのだろうか?それは実である。実がすなわち種となるのだ。では実とは一体何なのか?それは果として結ばれた「結果」である。
原因→因縁→縁結び→結果→果実=種=原因
果として結ばれなければ次の種は生まれないのだ。「因縁果の道理」の隠れたカギは「結び」に有り。
「道の文化」における「結び」
日本文化においては、「終わりにする、締めくくる」という意味合いでの「結び」は「道の文化」において見ることができる。
「残心」という言葉を聞いたことがあるだろうか?
たとえば、剣道で綺麗な面が入った時、「よっしゃー!」とガッツポーズをしようものなら一本にはならない。
「打突した後に油断せず、相手のどんな反撃にも直ちに対応できるような身構えと心構え」であり「又 心を残さず力を余さず、全身全霊を以って打つことも残心」ともある。
空手道や弓道、、、そして武道だけでなく、書道や茶道などの芸道においても、、、
「道」にはそれぞれに「残心」が存在する。
私はこの残心を「いまここに全身全霊である。ゆえに事後も油断なく氣が巡っている」ことであり、これこそが日本の道の文化における「結び方」であると理解している。結果が全てではなく、結果の後も一連の今の連続は続いているのだ。
∞ 太真道 ∞ を提唱している私の大麻飾り道は、たとえば紐結びの工程では、結ぶという所作においていまここに在ることが大事であり、同時に結んだ後も「極まるべきところに極まった」自覚があることも大事であると捉えている。
結んだときに、次の結び、次の結びと意識を先に走らせるのではなく、ひとつひとつ丁寧に「結び納める。」という意識が大事なのだ。
そして紐結びだけでなく、他の様々な工程での所作においても「残心」を大事にしている。
文章の終わりの「結び」
日本語の文章における結びは、「。」(句点)という図形で表すことができる。
これが実に深いなぁと感動すら覚える。○であり、丸の中身が空洞なのだ。
句点の中が空なのは、そのまま「空(くう)」を表しているのではないだろうか?
この結んだ後の空の間、つまり残心の領域に「真の結び」がある。
「ありがとう」と言う言葉は、「ありがとう。」があって双方の感謝の気持ちが結ばれるのだ。
これこそまさに「残心」そのものではないだろうか?
いまここに湧き上がる「ありがとう」の気持ちを全身全霊で表現し、「。」の空の間で結ばれる感覚を共有する。
理想的なことであって、毎時毎回することはなかなか難しいかもしれない。
それでも少しでも意識の片隅において行動をすると、人や、世界、ひいては私自身との関係性がより濃密に結ばれることと確信している。
そしてしっかりと「結ばれる」ことによって何が起きるのか?
「産靈(むすひ)」という漢字が表す意味の如く、次の種=「因」が生まれるのだ。
そうして関係性は、次の縁起をもって循環し、サスティナブルに発展していくのではないだろうか。
いまここを丁寧に生き、今を結び納める。すると自然と氣は巡り、縁が巡る。
日本が醸成してきた尊い在り方。日常の小さな行動から始めてみませんか?
ありがとうございます。
https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/9e932eeb9fca7c65a82f6a17307a0bb4 【ウズマキには逆向きのウズで鎮めます】より
今朝に感じましたことは、宇宙から観た地球の上半分(北半球)に集中して、大小様々なウズマキが20個ほど発生している光景でした。
台風かな?と思いましたが、大陸の中央にもウズマキが発生していますので、おそらく竜巻だと思います。
これが陸地だけではなく、大海の海中にも多くのウズマキが発生していました。
これから海のシーズンですが、従来にない潮の流れの発生に注意しなければ生けません。海水浴による水死者が、世界中で増加すると感じます。船の運航事故、座礁事故も増えるかも知れません。
日本では、大雨の被害が始まっていますが、これから大風害への準備をしておきましょう。
ウズマキと言う現象は、古神道でも古来から重視していまして、龍神信仰や蛇神信仰とも関係しました。
霊覚・神覚が備わって来ますと、見える自然の風景がすべてウズを巻く「気」を発散している様に見え出します。これは、画家ヴァン・ゴッホがかいま見た風景です。
古代人が神社の元となる祭事場を決める時も、大地からウズを巻く「気の柱」が立ち昇る場所を選んでいます。()
とにかく神気というモノは、ウズを巻く性質が有ります。これを生物の長モノ(ヘビなど)に共通点を見て、信仰の対象にされました。
では、なぜウズマキが発生するのか?
私は地球の中心に存在するドロドロに溶けた金属性の核が、ウズを巻くことにより発生する磁場が反映していると思います。
この地球の核のウズの流れに、地球の意識と感情を私は感得します。
これが、近年の地球の大気層の厚みが減少したことにより、太陽から届く電磁波が地球の核の流れを活発化させているのではないか?と感じるのです。
この大自然にウズを巻かせるほどの巨大な磁場の流れは、金属成分を血液に持つ人類にも必ず影響していると思います。
これから血流が大切であり、循環器系の障害(心臓・脳出血など)による死亡者が増加する可能性を感じます。50代以降の人間は特に注意です。
小マメな水分補給と、ミネラル成分とオメガ3系油の摂取が大切だと思います。
もう人類同士で争っている場合ではなく、人類は地球と向き合うべき時期に来ています。
せめて日本から大自然に感謝する習慣を持ちましょう。
人間が発する大自然への感謝の気持ちも、大きな磁気を持つのです。
大自然の慟哭(どうこく)のウズマキを沈静化させるには、この人間の感謝磁気をウズマキとすることが唯一の方法なのです。
生かして頂いて ありがとう御座位ます
https://ameblo.jp/blog-hajime/entry-12667157478.html 【表と裏と、どっちも大事!】
前回は「物理」の話を書いて、逆にアクセス数は落ちましたが、一部の方には意外と好評?でしたので、本日も調子に乗り、量子物理のお話をさせて頂こうと思います。^^;
私達の身体や食べ物や、本や机などは、目に見える物質で出来ていますよね。
その物質をどんどん細かくして行くと、原子は原子核と電子からなり、原子核を更に細かくして行けば、陽子や中性子になります。ここまでは中学や高校の授業で習ったと思います。
そして、陽子や中性子を更に細かくして行くと、クオークと言った素粒子になり、「量子物理学」の世界に突入です。
陽子と中性子はバリオン、電子はレプトンで、ニュートリノは電荷を持たないレプトンです。名前はどうでも良いのですけれど、そんな素粒子の世界に行くと、私達に馴染みの深い、電子や陽子、中性子も、性質が逆の反粒子が存在するのだそうです。
ニュートリノは左巻きですが、反ニュートリノは右巻きで、その他の素粒子も、右回転するものと左回転するものがあるそうで、そんなミクロの世界にも、右回転と左回転があり、
対になっているということ。私はそこに大変興味をそそられてしまうのでした。
何故、台風は北半球では左巻きに渦を巻くのだろうかと、不思議に思った事はありませんでしょうか。(それも理科好きだからですかね^^;)
簡単に言うと、地球が自転していて、「コリオリの力」が発生するからですが、
その地球の「自転」も「公転」も、左回りですよね。でもでも、金星は、右回りに自転しているのですって!面白くありませんか?(^^)
これは以前、神道の記事で書いた気がしますが、日本の『古事記』では、「造化三神」と言って、「天之御中主(アメノミナカヌシ」が顕れた後に、「高御産巣日(タカミムスビ)・神産巣日(カミムスビ)」が登場します。
合気道の創始者である植芝盛平翁は、「右に螺旋して舞い昇り、左に螺旋して舞い降りる」と表現しています。
一つは中心に向かい「収束」するエネルギーで、もう一つは中心から「拡散」して行くエネルギーの象徴でしょうか。
片方だけでは、「収束」するばかり「拡散」するばかりで、きっと両方あるから、この世界は循環しているのだと思います。
中国にも太極図で有名な「陰」と「陽」と言う思想がありますよね。
「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる」「陰の中にも一点の陽を含み、陽の中にも一点の陰を含む」表があれば裏がある。「表裏一体」も、よく言われる事だろうと思います。
どうやら自然界には「相補性」があって、双方が補い合っていると言うことでしょうか。
右があるから左もあり、光があるから影もある。何かを出せば、何かが入って来る。
寄せる波も然り。呼吸もまた然りです。そもそも地球自体が大きな磁石で、地磁気によって、N極とS極がありますけれど、
季節は巡り、自然界は循環し、その目に見えない大いなる流れは、そんな二つの相反するものから産まれているのかなぁと思うと、単純に凄いなって思うのでした。
例えばここに、何も印刷されていない真四角で何の変哲もない、ただの「白い紙」が一枚あるとします。
その「白い紙」は、折り目も印も付いていないのなら、その時点では、「裏・表」も、「上・下」も、「左・右」もないのですよね。
誰かが「こっちが表」だとか「こっちが上」だと決めるまでは・・。
前回も、観測者が観測した時にその位置が確定し、それまでは不確定と言う「量子論」の考えを紹介しましたけれど、まさに「無」から「有」(意味)が産まれるようですよね。
スーパーには「左回りの法則」と言うのがあるそうです。
売場を左回りのレイアウトにすると、売り上げが伸びるのだとか。
その様に歩かされると、人はつい物を買ってしまうのだそうです。逆に買わされたくない時は、右回りに入れば良いですよね。(^^)/
よく見ると、野球のベースランニングも、陸上競技場のトラックも左回りで設計されています。その辺りも、もしかすると地球が左回りに自転・公転している事と、何かしら関係しているのかもしれませんね。とにかく右があれば左もあり、表があれば裏もある。
武術の「形(かた)」にも、例えば合気道の「一教(表)」には、「一教(裏)」というのがあり、私が習っている神道夢想流杖術にも、「表」と言う技の体系と、全く同じ名前で、「影」と言う一群の「形」があります。
何かそんなところにも「対になっている」ことの意味を感じて、「おー!」と、感動してしまうのでした。^^;
不幸がなければ幸せは分からない。困難がなければ成長しない。おー。偉大な神よ!なんて。宇宙の95%は未知なるもので、潜在意識も95%と言われています。
その数字も諸説あって、細かい数字はどうでも良いのですけれど、私達が捕えているものなど、たかだが5%程度だと思うと、何となく大らかな気持にはなりますよね。(^^)
成るようにしか成らないし、裏を返せば、成るように成るだろうと・・。
歴史でも物理でも、何でも良いと思うのですけれど、自分の中に一つそういう世界観も持っておくと、煮詰まった時に、少し俯瞰したところから状況を見れて、精神衛生上も良いのかなぁなんて思ったりもします。
でもこれは真面目にですが、必ず反対概念も押えておくこと。それって結構、大事なのではないかと思います。
そうじゃないと簡単に声の大きい方や数の多い方、流行ものの方に流されてしまう気がします。宗教、スピリチュアル、人の噂、悪口、悪いニュース、お得な情報、耳よりな話、全部同じ気がします。
仏教では「中道」を説いています。弦は余りきつく張り過ぎても、反対に弦が緩く張っていても良い音は出ないのだと・・。
武術でも、相手の力が入らない技を掛けるタイミングがあって、大きく言えば、一つは動き始めを押えてしまうこと、そしてもう一つは、相手が動き終わった瞬間です。
でも意外とこれって、何にでも言える事の様な気がします。
「両端」って、片方にしか行けないのですよね。「正義」も行き過ぎれば、「暴力」になる事もあります。「陽が極まれば陰になる」です。
「表舞台」を支える存在として、「裏方さん」が要る。片方だけでは成り立たない・・。
どっちも大事!でも片方だけにも偏らない。
本日もお読みいただき、感謝です。
https://www.phantaporta.com/2017/12/blog-post1831.html 【実在していた? 日本神話の冥界・天界はどんな場所?】より
突然ですが、皆さんは死後の世界は存在すると思いますか? 人は死んだら天国や地獄に行くと考える人も、またそのような世界はなにもないと考える人もいるでしょう。
『天国と地獄』(草野巧 著)では、世界の様々な宗教や神話などに登場する死後の世界について、古今東西の多様な考え方を紹介しています。今回はその中から、知っているようで知らないことも多い日本神話の冥界と天界についてご紹介します。
冥界は複数あった 古代日本人にとっての死後の世界
古代の日本人たちは、死後の世界はひとつではなく、様々な場所に存在するものだと考えていました。
712年に成立した日本最古の歴史書『古事記』や、720年に完成した歴史書『日本書紀』には、高天原(たかまがはら)、黄泉(よみ)の国、常世(とこよ)の国といった死後の世界が登場します。これらはそれぞれ天上、地下、はるか遠い海上にあり、住んでいる者も異なるとされていました。
3つの死後の世界がどのような場所なのか、簡単にご紹介しましょう。
・高天原
天上にあり、神々や天皇の霊が住む尊い他界。
・常世の国
はるか遠い海上にあり、日本人の祖霊が住む明るい他界。幽世(かくりよ)とも呼ばれます。中国の神仙思想の影響を受け、常世の国は不老不死の国であるとする信仰や、死者の魂が赴く理想的な国であり、熊野を中心に船に乗って沖に漕ぎだし、そこで捨身入水することで浄土に生まれ変われると考える補陀落(ふだらく)信仰などを生み出しました。この他、民俗学者の折口信夫は、常世の国は暗い死者の国で、地下や海底にあると考えました。
・黄泉の国
地下にあり、死者が赴く暗い他界。日本神話には「根の国」・「底の国」という冥界も登場し、この2つも黄泉の国のことだと考えられることもあります。
こうした死後の世界の考え方とは別に、民間信仰では山もまた死者の国であり、霊の住処だとされています。万葉集では山や天が死者の国として歌われていますし、立山や恐山には山岳霊場が存在し、現在でも信仰を集めています。
このように、死後の世界に関する古代日本人の考え方はひとつではなく、実に多様なものでした。次項からは上記でご紹介した高天原と黄泉の国について、もう少し詳しくみていきましょう。
天照大神の支配する天界、高天原と天岩屋戸の神話とは
高天原は天上にある他界で、地上の国土と同じような景色だとされています。日本神話によれば、そこには天安河(あめのやすかわ)が流れ、天真名井(あめのまない)という井戸や稲田、灌漑用の溝、新嘗祭(しんじょうさい)用の御殿や神々の御殿、天金山(あめのかなやま)という高山などがあるといいます。
また、日本神話に登場する天岩屋戸(あめのいわやと)もこの高天原にあります。神話の内容を簡単にご紹介しましょう。
須佐之男命(すさのおのみこと)の蛮行に心を痛めた天照大神(あまてらすおおみかみ)は、ある日この天岩屋戸に引きこもってしまいました。すると世界が暗闇に包まれ、様々な災いが起きたため、八百万の神々はなんとか天照大神に天岩屋戸から出てきてもらおうと儀式を行います。最終的に、アメノウズメノミコトの舞をきっかけに天照大神は外に出ることになり、世界は明るさを取り戻すという神話です。
この他、高天原には天香具山(あめのかぐやま)という山もあります。これは大和の国(奈良県)に実在する山ですが、百人一首に収録されている持統天皇の和歌「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」でご存知の方も多いのではないでしょうか。
では、そんな高天原の住人は誰なのでしょう?
高天原は日本神話の神々のふるさとであり、天照大神が支配しています。神々は地上に降りて仕事を終えた後、高天原に帰るのです。
さらに古代日本では、天照大神の子孫である天子(天皇)や天皇家に属する人々の霊も、死後は高天原に住むとされていました。
死者の赴く暗い冥界、黄泉の国とその神話
続いて、黄泉の国がどんなところなのかみていきましょう。
黄泉の国は地下にある暗く汚れた場所ですが、生前に悪いことをした者が落とされる地獄のような場所ではなく、日本神話では死んだ者みなが赴く冥界とされています。
この場所は黄泉神(よもつかみ)または黄泉大神と呼ばれる王が治めており、黄泉醜女(よもつしこめ)や八雷神(やついかずちのかみ)といった鬼たちが番人をつとめていました。
黄泉の国と地上との間には、黄泉平坂(よもつひらさか)という坂があり、これは島根県出雲にあるといわれています。
日本神話の中から、黄泉の国にまつわる有名な神話をご紹介します。
伊耶那美の命(いざなみのみこと)は、火の神カグツチを産んだ際に亡くなってしまい、夫である伊耶那岐の命(いざなぎのみこと)は、伊耶那美の命をこの世に連れ戻そうと、黄泉の国に向かいます。しかし、「決して私の姿を見ないでください」という妻の願いに背き、黄泉の国の御殿の中を覗いてしまいました。すると目に入ったのは、ウジ虫がわき汚い姿に変わり果ててしまった妻の姿で、伊耶那岐の命は驚き地上へと逃げ帰ってしまったという神話です。
余談ですがギリシア神話にも、亡くなった妻を連れ戻そうと冥界へ向かうオルペウスという男の話が存在します。しかしこちらも、日本神話と同様に最後は悲しい結末を迎えてしまいます。
以上、古代日本で信じられていた様々な死後の世界と、それを彩る神話の物語をご紹介しました。なんとなく知っているようで、案外知らない日本神話の世界。お楽しみ頂けたら幸いです。
0コメント