https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/6 【上代語「言霊」と本来呼ばれるべき「言霊信仰」の意味について】より
はじめに─ひとり歩きをする「言霊」─
言霊という語は、今日、ひとり歩きしている。上代文学研究事典に、「言語に宿ると信じられた霊力のこと。汎世界的に存在する原始的観念の一つで、万物に霊がこもるとするア二ミズムの思考による。一般には「言語精霊」と説明されている……。……コト(言)がコト(事)であるとするわが国の言語のあり方は、同時にコトバ(言葉)の力によって未来のコトガラ(事柄)を左右することができるという言語に対する信仰の存在をも説明している。ゆえに言霊の信仰は、言語伝承の面だけでなく、古代の民俗生活全般にわたってその行動を律する規範ともなっていたと考えられる。……」(271~272頁、この項、伊藤高雄)とあり、また、万葉ことば事典に、「言葉の神霊。現実に影響を及ぼす言葉の力を認識し、これの霊威を表す語。上代においてコトは「事」と「言」の両者に通じ、言は事を左右し、事は言に表現されると考えられた。この語のコトの表記に、「事」「言」の二者が使用されているところからもそれがうかがえる。」(186ページ、この項、寺田恵子)とある。言葉に呪術的機能があるから「のろひ」や「とごひ」はあるのだと演繹されそうだが、それが言葉全般に及んでいたら、言葉にはいちいち霊が宿っていることになり冗談一つ言うことも憚られてしまう。そして何よりもこれらの考え方には、コトダマのタマの要素が含まれていない。タマというからには、玉(珠)の意を比喩的にであれ伝えているはずである。
大浦2019.は、「言霊」という言葉は、万葉集に三例見出されるばかりで、上代の人に基盤的な論理や信仰であったか定めがたく、「むしろ歌の主題と表現の問題として見るべきであろうと思われる。歌の表現としての「言霊」ということである。」(132頁)と捉え返している(注1)。そして、「歌の言葉を読み解くためには、日常の言葉とは異なる歌の言葉としての論理を探求してゆくことが不可欠なのである」(同頁)としている。今日まで「言霊」という言葉は安易に捉えられ、上のような認識のもとに「言霊信仰」があったなどと使われてきたが、実例としては三例しか見られないのだから眉唾であるというのは正しいであろう。それが歌の言葉であるかはさておき、また、歌の言葉とはそもそも何かもさておいて、語についての精緻な議論が求められる。言霊“信仰”についてはその後で考えればよい。
万葉集の実例「言霊」
「言霊」という語が見える万葉集三例は次のとおりである。歌群を構成する場合はその一連をあわせて記す。
好去好来の歌一首〈反歌二首〉
神代より 言ひ伝(つ)て来(く)らく そらみつ 倭(やまと)の国は 皇神(すめかみ)の 厳(いつく)しき国 言霊の〔言霊能〕 幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷(みかど) 神(かむ)ながら 愛(めで)の盛りに 天の下 奏(まを)したまひし 家の子と 撰ひたまひて 勅旨(おほみこと) 戴(いただ)き持ちて 唐(もろこし)の 遠き境に 遣(つかは)され 罷りいませ 海原の 辺にも奥(おき)にも 神づまり 領(うしは)きいます 諸(もろもろ)の 大御神(おほみかみ)たち 船舳(ふなのへ)に 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の 大国霊(おほくにみたま) ひさかたの 天のみ空ゆ 天翔(あまかけ)り 見渡したまひ 事畢(をは)り 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手うち掛けて 墨縄を 延(は)へたるごとく あちかをし 値嘉(ちか)の岬(さき)より 大伴の 御津(みつ)の浜びに 直(ただ)泊てに 御船は泊てむ 恙(つつみ)無く 幸くいまして 早帰りませ(万894)
反歌
大伴の 御津の松原 かき掃きて 我れ立ち待たむ 早帰りませ(万895)
難波津に 御船泊てぬと 聞こえ来(こ)ば 紐解き放(さ)けて 立ち走りせむ(万896)
天平五年三月一日、良(ら)の宅(いへ)に対面して献ることは三日なり。山上憶良謹みて上る大唐大使の卿(まへつきみ)記室
言霊の〔事霊〕 八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆふけ)問ふ 占(うら)正(まさ)に告(の)る 妹は相寄らむ(万2506)
柿本朝臣人麻呂の歌集の歌に曰く
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあ)げせぬ国 然れども 言挙げぞ吾がする 言幸く 真幸く坐(ま)せと 恙(つつみ)無く 幸く座(いま)さば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波にしきに 言挙げす吾は 言挙げす吾は(万3253)
反歌
磯城島(しきしま)の 倭の国は 言霊の〔事霊之〕 助(たす)くる国ぞ ま幸くありこそ(万3254)
右は五首
万894・3254番歌は、外国への遣使の送別に歌われている。万2506番歌は、占いの際に歌われている。二例対一例で万2506番歌は無勢なため、民間習俗的な趣を持つと見て例外とする向きもある。しかし、コトダマという一つの言葉なのだから、三例ともが包摂可能な意味に定められなければ理解したことにならない(注2)。
結論を仮説として呈示する。根本的には、言葉と事柄とは一つのことであるとする考えがあって、そこには知恵を働かせたうまい言い方によって誰もがよく言い当てていると思う状況が控えており、それは言霊信仰と名付けて遜色ないものと考えるところであるが、通説に言う意味での言霊信仰という用語法とは異なる。通説では、言葉に霊力が宿っていて力を発揮することを言っている。言葉通りの事象がもたらされるからというのでその力を信じてみるということである。しかし、それでは言→事の作用面ばかり強調されてしまう(注3)。そうではなく、言=事であるという一点のみを指してそれを強調する言葉、それがコトダマである。タマ(霊・玉・珠)と断っているのだから玉粒の言葉であると理解されよう。端的な言葉(音)と関係しなければコトダマではない。言葉と事柄の同一性を保つこと、コトのアイデンティティを玉粒のような音に示されるていることを指してコトダマと呼んでいる。言は事であり、事は言であって、それがタマなす状態にある。そのことは、コト(言)とコト(事)とが必ずしも同一なものではない可能性にあることを理解し、その理解を内に抱えながらも同一にしようと志向していた先人たちの頓智的工夫であろう。フェイクニュースやうわべばかりのおべっかは、言ではあるが事ではなく、説明のつかない超常現象や言葉に言い表せない突然の緊急事態は、事ではあるが言ではない。言=事となっておらず、コトのアイデンティティは拡散していて、それらはコトではない。そういった意に沿わない状態を嫌って、言葉どおり言=事であることを目指した時、はからずも言葉(音)的に覚ることのできる端的なうまい洒落が発せられることがあり、それをコトダマと呼んだと考える。
「言霊の 八十の衢に 夕占問ふ」(万2506)
この論理基盤仮説にしたがって実例を検証し、適合的に解釈がすすめば正しいものとし、不適合であれば棄却すればよい。そこで最初に、万2506番歌の内容を考えてみる。この歌は占いの歌であるから、仮説の意をよく反映するものであると理解される。占いは予想的に言葉にしたことが結果的に事柄となって現れるものである。いま、占いが外れることは念頭にない。言=事しかないと思っている。だから、「正(まさ)に」などと言い張っている。そして、ここでの占いは「夕占(ゆふけ)」である。夕方道を歩いている人が口にしたことを耳にして、それが現実のことになるであろうとする占いである。もちろん、占いなのだからその通りなるとは限らない。従来の言霊説に、人間が口に出して言ったことがすべて事実として現れるかのように考えるのは誤りである。神をも恐れぬ発言をすることは行われていない。「言挙げせぬ国」(万3253)とあるとおりである(注4)。この歌でも「言霊の……正に」と思想信条の自由に言っていても、最終的に「……む」と推量している。
占いは、言葉が事柄になることを期待、予想するものである。この歌では、「八十(やそ)の衢(ちまた)に 夕占(ゆふけ)問ふ」に「言霊の」という修飾語が冠されている。八十字路で夕方に人が何か言ったことが現実の事となるのだろうと占っている(注5)。言っている言(こと)が実際の事(こと)になるから、ないしは、なることを期待してのものだから、「言霊の」と冠されているとされて正しいが、そればかりではない。行われている場所は、他でもない「八十の衢」である。「八十(やそ)」という言葉は数の多いことを表し、「島」、「湊(みなと)」、「氏(うぢ)」、「楫(か)」、「隈(くま)」などに冠することがあり、それらはそのまま、eighty islands などの意に取ることができるが、「衢(ちまた)」は、チ(路)+マタ(股)の意だから、ヤソチ(八十路)+マタ(股)と語を分離させるような不思議な働きをしている。せいぜい八衢(やちまた)程度に盛られて言われるはずが、大層な言われ方をしている。「夕占」をしたと思しい例に「占部(うらべ)をも」と冠するほか、「椿市(つばいち)の」(万2951・3101)、「百(もも)足らず」(万3811)とする例が見える。百に足りない八十は言葉遊びとして単純である。「椿市」は古代に最大級のマーケットであった海石榴市(つばいち)のことでとても繁華である。「八十(やそ、ソは甲類)」などとわざわざ断っているのには、それがヤソという音を持っていて、「衢」ならではの喧騒を表しているからであろう。人々は行き交い、荷物も馬に積まれて運ばれてきている。すなわち、人に呼び掛ける言葉が「や」であり、馬を追い動かせるための言葉が「そ(甲類)」である。にぎやかな声がしているから、その声をもってして「夕占」の対象となる。火のないところに煙は立たず、声のないところに夕占はできない。「言霊」という言葉に表される言葉とは、必ず音声言語である。
……呵嘖して言(のたま)はく、「咄(や)、汝、何ぞ此の穢(きたな)き地に居る」とのたまひ、……(霊異記・下・七)
まそ鏡〔喚犬追馬鏡〕(万3324)
「そ(?)」(一遍聖絵・巻7写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591579/12をトリミング)
「や」や「そ」は、そう発声する時、何が起きているか。人間であれ、馬であれ、相手の反射行動を促すものである。人に向って「や」と言えば、振り向いて自分に関心を寄せてくる。馬に向って「そ」と言えば、その馬は誘導に従って歩を進める。つまり、「言霊の」は「八十(やそ)」と密接な関係にある語、あるいは枕詞と考えても差支えないような冠辞になっている。歌に歌われている言葉どうしが、互いに定義しあうようにして一語一語定位していきながら歌い進められている。しかも一音一音確かめられる形になっている。このことが、「言霊」のコトダマたるゆえんである。言葉(音)が言葉(音)として納得ずくで了解されて広められていくことは、このような音声言語の体系をまるごと掌握したうえにしか成り立たない。ヤマトコトバの系のなかで、循環的にヤマトコトバを用いていくやり方は、確かにいわゆる歌言葉の用い方として肝要なことであろう。現状では必ずしも理解されるに至っていないが、そういった言葉遊びの面白味が歌にはあり、その特徴を発揮するのにかなった言葉が歌言葉なのである。好例が万2506番歌であり、逆言すれば、そのようなユーモアを兼ね備えていない歌が歌われていたとするに、何が面白くて声を張り上げて歌っているのかわからないことになる。どこに面白味があるのかを見極めることが、万葉集の歌を研究するうえで最大の関心事にならなければならない。
このことを踏まえれば、我々はさらにもう一段、深い理解に近づくことができる。上代の人の文化は無文字文化、声の文化である。声に出すたびにしか「言」なるものを確認することはできない。そのことを論理階梯を混濁させるように言い放っている。八十の衢というところは交差点である。三叉路や十字路どころか八十字路だと誇張している。どの方向へ進むかはまったくわからない。占いでもしてみなければどの方向へ進んだらいいかさっぱりわからないということである。その事情を表すことができるのは、ほかならぬ「言霊」であり、冒頭に用いられている。言葉と事柄との間の関係は、一対一対応にあるにはあるのだが明示的ではなく、一行の言葉に一つの事柄がノート整理されて対置されてあるわけではなく、あみだくじのように、あるいは、お祭りの屋台の景品についている紐を引くかのような対応関係であり、それは占いと同様のことであって、その紐を手繰り寄せる際の手掛かりが言葉の音である。“コト”の複雑さを繙くのに的確に表現した言葉がコトダマである。巡り巡って言葉の音が言葉を形成して事柄を表すことになっている様相が的確に表されている。後世、辻占が呪歌をもって始められたのは、歌と占のあいだに親和性があったからである。一方、散文調に文章としたものは、譚であり、縁起である。記紀の説話の多くはこの形をとっていて、それぞれの話の終わりに結句を置いていて証として明かされている(注6)。歌ではその短い発声時間のなかで“コト”の顛末が盛り込まれている。歌は譚の端的表現と捉えればよいであろう(注7)。そして「言霊」は譚の超端的表現であると考えられる。
すなわち、「言霊」とは言葉と事柄とが一致することに相違ないと気づくとともに、言葉の音から考えをめぐらせてみればそのとおりだということにようやく思い至るという、紆余曲折を含んだ論理思考を全肯定的にみる観察においてのみ見出されるものなのである。大切なのは、言葉は音としてあるヤマトコトバであり、事柄は生じている現象でありつつそれを理解するためには言語化が必要で、その場合にもヤマトの人はヤマトコトバを用いて思考していた、それも瞬時に消えていく音によって即解していたというところである。「や」「そ」なる音をもって言=事なのだというアハ体験を示しているから、言=事なのだという当時の人にとって当たり前のことをコトダマ(言霊)などという尤もらしい言葉を作って述べている。これは音声言語としてのヤマトコトバでの思考の産物である。起っていることが物理的現象と捉えられ、万国共通全人類的に数式で表されると考えることはなかった(注8)。
「言霊の 幸はふ国と」(万890)・「言霊の 助くる国ぞ」(万3254)
万890・3254番歌は、遣唐使や遣新羅使の派遣に際して歌われた歌である。それら遣使に対して「言霊」という言葉が現れるは、あるいは理の当然と受け取られるかもしれない。ヤマトコトバの使われていない外国へ派遣されている。外国でヤマトコトバは通じない。おのずからヤマトコトバの常識が通用しないと自覚される。ヤマトコトバにあっては言葉(音)と事柄とが密接に関係しているのに、外国語においては発音される言葉(音)と、了解されるべき事柄とが一致しない。異邦人はカオスを経験する。自国意識、自民族意識を否が応にも経験させられる。ここまでは従来の説に語られていることである。しかしそれは、「偉大な文字文化を持つ大唐帝国と対峙する対外関係の中で、自国の言語活動を自覚したことが、この語を用いる契機となったと考えられている。」(万葉ことば事典186頁)(注9)といったことではない。万3254番歌は遣新羅使であろうから相手を見下している可能性がなきにしもあらずである。もちろん、重要なのは、言葉が音ばかり、音そのものが言葉であった点による。無文字文化のなかにあった。遣使は訳者(をさ)を同行させつつ、片言は勉強して赴いているとしても、そのとき、中国語、朝鮮語の音のなかになるほどと思わせる意を嗅ぎわけられることはない。ヤマトコトバは一つの体系としてあって、そのなかにあって洒落を言うこと、聞くこと、面白いと思うことができるが、母語でない外国語に洒落を聞き取ることはできない。「八十(やそ)」と聞いて人に呼び掛ける「や」、馬に呼び掛ける「そ」などと直感して「衢」に行き交う喧噪な声にまで思い及ぶことは、ヤマトコトバに通じていなければできない相談である。平安時代以降、文字に飼いならされた我々の言語感覚も気づいて来なかった。万890・3254番歌にもその気づかない点があるから指摘しよう。
万890番歌は、前後を捨象するべきではないが、説明のために「言霊の 幸(さき)はふ国と」部分を取り出して解読してみる。万2506番歌同様、「言霊の」は逐語的に後接の「幸(さき)はふ」という語に掛かっている。サキハフという語は、古典基礎語辞典に、「サク(咲く、カ四)の連用形名詞サキに、アヂハフ(味はふ、食物などの味を感じとる意)やニギハフ(賑はふ)などと同じ接尾語ハフ(あたりに這うように広がる意)が付いた語。用例は上代にのみある。」(540頁、この項、我妻多賀子)と解説されている。語幹のサキ(幸)という語には、類義語サチ(幸)がある。サツヤ(猟矢)、サツヲ(猟人)のサツの音転で、狩猟や漁撈の道具で弓矢や釣り針のこと、また、それによって得られる獲物のこと、すなわち幸福のことを広く含めて表していた。海幸・山幸の話はよく知られている。「山さちも己(おの)がさちさち、海さちも己がさちさち。」(記上)という言説が行われ、人々に受け入れられている。つまり、サチ(矢)はサチ(狩猟の獲物)、サチ(鉤、釣り針)はサチ(漁撈の獲物)と等価であると考えていて、そのような言葉遣いが行われていた。機知にとんだヤマトコトバである。
鯛縄(河原田盛美『水産小学 上』錦森閣、明治15年、38頁、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/842629/45をトリミング)
すると、サキハフという言葉からは、サチ(矢・鉤)=サチ(獲物)がつぎつぎと這うように連なっている感じが思い浮かぶ。遣唐使船に船出をしているのだから、この場合、釣り針のことを暗示していると考えるべきである。すなわち、延縄である。長い釣り糸に間隔を取りながら道糸をつぎつぎにかけていってそれぞれに餌のついた釣り針がついている。そのそれぞれの釣り糸に魚がつぎつぎにかかる。サチ(幸)がハフ(這)ようになっているから、「言霊の」という語がサキハフという言葉に冠していて、「語り継ぎ 言ひ継がひけり」と連続していて確かである。言=事、鉤=魚でありつつ、それが玉に貫くように数珠つながりを果たすことを示すこと、しかも、言い伝えに伝承されている事象のなかにあって、体系としてヤマトコトバが立っていることをよく示していて、それをコトダマという言葉が担っている。コト単独の語ではなく、タマ(霊・玉)という語との複合語である点が明確に理解されよう。
万3254番歌では、「言霊の 助くる国ぞ」とある。言霊が助けるのは、言葉の音、発声の仕方によって意の理解が助けられるということを表面的には説明する。タスクという語は、タ(手)+スク(助)という語構成によって成っている。手を差し伸べて何かを手助けすることであるが、言葉を捉え返せば、手を助けるもの、手の補助となるもの、その補助具を用いることで手助けするのに役立つもの、といった意を含意していると考えられる。音声言語における発想として、洒落の世界では今でもそうであろう。ロボットアームという言い方が行われているのは、手の延長線上にあると認められるからである。そのような例を古代に探せば、手袋のこと、とりわけ、弓を扱う際に手を傷めないようにしつつ、弓弦を引くために手の力を最大限に発揮させる手袋のことが思い浮かぶ。古語に、ユガケ(弓懸、弽、韘)という。ユガケは、他にも手を助ける役割を果たしたことがひそかに知られている。允恭記、允恭紀四年九月条に載る盟神探湯(くかたち)は、氏姓を偽って登録したものを裁くために行われた審判である。熱湯のなかに手を入れて偽っていなければ火傷せず、偽っていたら火傷して傷痕として残るというものであった(注10)。すなわち、ユガケ(湯掛)である。天皇の信認あつい者にはあらかじめ弽が配布されており、動じることなく手にはめて盟神探湯に臨み、火傷しないように保護した。熱湯に手を入れ、熱いといって出した手は、ユガケ(弽)の模様に爛れたように見せている。それを目にした氏姓を偽っている者は、自ら気づいているわけだから尻込みして盟神探湯の前に白状してしまう。結局、弽をしていた手は火傷せずに済んでいる。よって、氏姓の秩序は保たれた。言い伝えに聞く盟神探湯により、ヤマトコトバにタスクルものとはユガケであり、ユガケは弽であって、湯掛に対処できるものということが音をもって理解される構造となっており、言葉の音に宿っているきらりと光る霊なるがゆえということになって、コトダマというに値することなのである。
弽(弓懸)(指懸図、武器袖鏡二編、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200000845/viewer/98をトリミング)
この万3254番歌が遣新羅使の際の歌と考えられる点は興味深い。言い伝えに新羅は欺く性格を有していると評されることが多い。嘘をついて貢納をしなかったり、反目したりする国と見なされていた。派遣される遣使に求められるのは、新羅が嘘をつかないかどうか確かめることである。本邦で行われた有名な審判は盟神探湯であったから、そのときの小道具のことが思い浮かべられているのである。
ヤマトコトバの言語世界にどっぷりと漬かっていた人が、外国語圏へ遣使に向うことは、確かにカオスへ迷い込むのと同じことと思われるところであり、それがコトダマという語を誘発する事情ではあったろうが、コトダマの本意を示すものではない。われらがヤマトコトバの優秀性を誇りこそすれ、他国文化に引けを取っているなど露ほども考えていない。言葉(音)を聞けば、その音を頼りに、バックグラウンドになっている言い伝えを手掛かりにして、豊穣な意味深さをことごとく理解できる。“わかる”ことの快感をたまらなく素晴らしいことと思っている。粗放な言語文化の唐や新羅では、言葉を聞いても表面的に意味を理解することはあっても、洒落や頓智の効くような頭脳力など微塵も感じ取れない点は、外国人だからわからないのではなくて、そもそも彼らが言語に不在だからである。漢籍に典故を踏まえた作品がいかに見られようが、いずれ知識の問題で、知っているか知らないかはどんぐりの背比べの低次元極まりない言語活動である。知恵の入り込む余地がない。言語遊戯に楽しむことのできない地へと遣わされてさぞかし面白くなかろうが、大丈夫だ、帰ってくれば、必ずやまた言葉と事柄とが一致しつつ、口のなかでその音をなぞればあれと思うように重なり合って、縦横に張り巡らされた言葉のネットワークが確かなことを悟らせてくれる、ヤマトコトバのゆたかにして楽しめる世界に戻ることができるのだからと告げて励ましている。歌という、ヤマトにしかなくてヤマトコトバでしかない表しえない口頭言語の表現形式のうちに、ヤマトコトバでしか表しえない頓智をもって高らかに歌い上げている。
ここには論理階梯を混濁させたもの言いがある。歌が歌われていること自体、言葉の機知、頓智、洒落を含んでいて、その状況自体ですでに言霊性を表明している(注11)ところ、その表明に「言霊」という言葉が入り込んでいる。その「言霊」が「幸(さき)はふ国」「助くる国」であると言っているのは、歌を贈っている相手は外国へ赴く遣使だからである。あなたを含めてわれわれは、ヤマトノクニの人であり、ヤマトコトバ人なのだと歌って、そこに居合わせている人たちが聞いてもなるほどその通りだと納得されて皆に認められる歌に仕上がっている。自国意識を直接示す語はクニであって、コトダマではない。我らを結びつけているのはヤマトコトバという音声言語であって、それは超絶的に込み入った言語遊戯を楽しみ合うことのできる仲間である。発達したヤマトコトバのひとつの結実を表すために「言霊」という語が用いられている。
おわりに─「言霊信仰」概念の刷新─
言葉が事柄とイコールになることは、表面的にはありきたりのことである。しかし、それを突き詰めるために、音声言語であるヤマトコトバは複雑な知恵を繰り出して、言葉を発しながら同時に発した言葉を自己定義していくことをくり返す循環論法を楽しんでいた。そのうちの、短い言葉(音)のうちにずばりと言い当てていることが意識化されて、コトダマ(言霊)という語が使われている。そのようなことは、ヤマトコトバの系にあっては実は日常茶飯事であった。ひとつの音で表されながら異なる意味を有する言葉が、どこか裏で意味に通い合う事柄が控えているからくりがあるのがヤマトコトバである。それは実例として見た「言霊」という言葉の意味と同じことである。当時の人にとっては当たり前のことと考えられていたから、当たり前すぎて言説にはなりにくかった。たまたま夕占や異国への遣使の際に、ふだん使いの言葉を顧みられてひとつの言葉に形作られている。言語体系の周辺の端のところから根底が透き見えて捉えられている。言葉に呪力が内在するのではなく、言い伝えられてきて常識となっていることに塗り重ねるように、“正しく”言葉を使っている。
言葉と事柄とが一致するものであるという見方は、何ら不思議なことではない。逆に、事柄と一致しないことを言葉にすることは、何かを述べていることにはならない。でたらめを言っていることにもなり、意図的に悪だくみをもってしているとすれば嘘をついていることになる。ヤマトコトバに生きた人はそのようなことを排斥することに努めた。最初にまず、言葉と事柄は必ず一致しなければならないと前提に据え、終始貫き通したのである。彼らは文字を持たなかったから、後から証文を見せて違うではないかと異議を唱えることができなかった。そんな状況下で言事不一致が罷り通れば、それは外国へ赴いた遣使のようにカオスのなかに暮らすことになる。社会の安定を保つためには、言葉と事柄とが一致すること、その目的のためにはどのように知恵を働かせてもかまわないこととして、言語の“論理学”が重んじられたわけである。
筆者は、筆者なりの「言霊信仰」という用語を用いている。近代社会が、“個人”の人格を聖なる存在として崇拝しあうべくして、それを“個人主義”と呼んでひとつの新しい“宗教”であると捉え返したこと(デュルケーム)と並べ比べてみるならば、上代の人たちが言葉と事柄との一致にこだわってヤマトコトバを築き上げ、用いながらたゆまず再構成していく動態について、そこには頓智や洒落が介在するわけであるが、そのこと自体を“言霊信仰”と言い表して然りであると考えている(注12)。通説で行われる用語法とは異なり、言葉に霊力があるとは想定していない。玉のような輝きをもった言葉を「言霊」と言っているように、言=事になるように、言葉のことをとても大切なものとしていた事情にふさわしい呼称であると考える。
(注)
(注1)大浦2019.は、「言霊」という語が万葉集に三例見られるだけなのに、当時「言霊信仰」が始原的、全般的に遍在していたと考えていくことは、「「言霊」というものに対して現代の側に形作られた信仰─現代における「言霊」信仰─の様相すら呈している」(125頁)と、辛辣にして適切な判断を下している。
筆者が考えようとしていることも具体的なコトダマ(言霊)に従ったものであって、ゲンレイ(言霊)についてではない。現代の言霊信仰に関する議論は、抽象化されたゲンレイ(言霊)という概念のもとに古代人の思考はクロマトグラムされると述べるものである。現代人の尺度を当て嵌めて理解できるほど同じような言語活動をしていたのなら、枕詞の掛かり方がわからないはずはあるまい。
(注2)鎌田2017.に、「「事靈 八十衢」から人麿の「事靈之 所佐國叙」へ、そして山上憶良の「言靈能 佐吉播布國等」へと至るプロセスには、明らかに「言霊」意識ないし言語意識の変化、もしくは相違が見られる。」(84頁)として議論を進めてしまっているが、昨日まで orange の意味であったミカンという日本語が、今日は apple の意に、明日からは strawberry の意に使われるといったことがあったとしたら、日本語はすでに滅んでいるであろう。
(注3)他方、事→言を偏重させる考え(伊藤1990.119頁)も行われている。けれども、契沖・和字正濫鈔に、「有 レハレ事必 ラス有 リレ言、有 レハレ言必 ラス有 リレ事。」(国立国語研究所・日本語史研究資料https://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/show.php?title=wajisyoransyo&issue=1&num=3&size=50&page=2)とあるのがすべてである。事→言、言→事に分離して、前者を現実世界を言語世界に写しとることとしてそれが先行していると考えるのは誤りである。「言語」化しなければわれわれには「現実」が浮かび上がらない。
(注4)「言挙げ」は事態に関係なく言葉を発することであり、「言霊」を検討する際に絡めて論じられることが多い。滅多やたらに言葉を弄することがなかったのは、言葉に霊力が備わるから呪術儀礼においてしか用いられなかったとの考えである。議論が道を逸れて行っている。「のろひ」「とごひ」「うけひ」といった言語儀礼は、それぞれの言葉を有していて、言語活動一般に及ぶものではない。それは、「言挙げ」についても同様である。
稲作農耕儀礼に予祝行事が行われることがあるが、いつごろから始まったことか不明である。それにならって予祝の歌が行われたとされているが、予言の自己成就(マートン)といったレベルのこと以外、現実問題として何か発言したら必ず実現することなど起ろうはずはなく、外れたらもうたくさんだと思う人が出て不思議ではない。言ったら成るといった信仰が行われていたとは想定できない。外れてばかりの天気予報は当てにされないが、昨今のようによく当たると企業のマーケティングにも活用される。人には信用が大事とされるのは、信用を失うと誰も言うことを聞いてくれなくなるからで、信用が積み重なり積み上げられていったとき、亡くなってからも聖徳太子信仰のようなことが起こるのであろう。言葉と事柄とが違わぬように苦心し、社会の安定をはかって国の礎を築くに大きな功績があった。ヤマトコトバが知恵の体系としてできあがっていることの多くは、太子に負うことが多いと見込まれる。
(注5)折口1919.に、「ゆふ‐け【夕占】 日暮頃にする占なひ。辻に出て往き来の人の口うらを聴いて、自分の迷うてゐる事、考えてゐる事におし当てゝ判断する方法で、日の入つた薄明りのたそがれに、なるべく人通りのありさうな八衢を選んで、話し話し過ぎる第一番目の人を待つたのである。夕方の薄明りを撰んだのは、精霊の最力を得てゐる時刻だからであらう。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958698/247、漢字の旧字体、繰り返し記号は一部改めた。)、和田1995.に、「言霊は、道と道とが行き合う八十のチマタに、それも夕暮時に、群れ蠢くと観念されていた。古代においては、チマタが、言霊のような精霊の活動する場所と観念されていたからこそ、夕占が行なわれたのである。こうした観念は、近世に至っても、辻占の習俗に微かに残っていた。」(341頁)とある。拾芥抄、二中暦を引いて説明している。冗談の一つも言えないドグマに支配されていたわけではあるまい。
(注6)仏教語に「空」と言っている。記紀の説話や初期万葉の歌が諳んじられて伝えられるものであったことは示唆的である。「言霊」信仰は、仏教思想の「縁起」、「空」に等しいと言っても過言ではない。話(咄・噺・譚)は、虚実をともどもに兼ね備えた方便、比喩の形をとっている。
(注7)大浦2019.が「言霊」という語は歌言葉ではないかとする考えは、高らかに音声をもって歌う点で正しい着想であろう。
(注8)万国共通全人類的に“神話”で表されるとする試みが何を謂わんとしているのか筆者には不明にして、何をか謂わんやである。
(注9)太田1966.の「「言さへく」ばかりでいっこうに通じない、たとえて言えばまさに禽獣が「囀る」のと変わるところがない行為に照らし合わせてみるにつけても、自恃あるいは誇りにも似た感情をともなって意識されたみずからの言語活動の意味の深さ、その恩恵とそれに対する期待というものではなかったろうか。」(216頁)というのは一面では当たるが、西郷1964.の「文字的文化のケンランたる巨大な国にたいし抱いたであろう烈しい憧憬の念の、いわば反対項として、「言霊の幸はふ国」という意識はよびさまされた」(42頁)というのは違うであろう。黙読する「文字」は、文字を使ったアニメーションや音声変換機能が生まれる以前、「言(こと)」であった試しがない。読書百遍義自ずから見(あらは)る、という格言は、音読の重要性を説くものであった。田中2006.参照。
(注10)拙稿「古事記、走水と弟橘比売の物語について」参照。
(注11)歌に声を挙げて歌うことは、言=事であることを歌う。大浦2019.が指摘するように、「言」ではあるが「事」にならなかったことは、「言にしありけり」と歌われている。言葉どおりに事柄が運んだらいいなと思う場合、断定の助動詞は用いられず希望の助動詞が用いられる。推量の助動詞や疑問の助詞などにしても同じことである。万葉集歌に文法の議論がやまないのは、言=事をいかに歌うか、各自、手腕を競っていたからである。
(注12)社会学は社会を裏返してみて的確な捉え方を試みる。デュルケームのいう“個人主義”という言葉が巷間の評価と異なるように、筆者のいう“言霊信仰”も異なっている。近代社会において、人間は人間にとって神となり、人格は聖なるものであるから尊敬の対象であって、人格は尊敬の対象なのだから聖なるものであるという循環論法は、言葉を事柄とイコールにしたから言葉には、ないしは事柄には、言霊的性質が付随することになって言い得て然り、有り得て然りな構造になっているという状況に相似している。
ふだん使いのヤマトコトバに如上の言霊的性格が普遍的にあったことは、すべての語にいちいち説明していくほか証明の方法を持たない。例をあげておく。
ハタという語がある。機、旗、端、将、鰭などが一つの言葉にまとめられている。旗は風にパタパタと靡くもので、機によって織り上げられる。機は梭(ひ、ヒは甲類)を左右の端から端へと渡しながらパタパタと動かして使うものである。機小屋の中で南を向いて、毎日毎日、左の端から右の端、左の端から右端へと日(ひ、ヒは甲類)が移動するように梭を移動させることをくり返して織り上がる。将(はた)~や、将(はた)~やとくり返されてパタパタ喋ってみたり、ハタマタなどと用いられるように、振れを連想させる言葉である。鰭(はた)は魚体の左右についたパタパタ揺れ動かす脇ひれをいう。二十をハタと言うのも数えるときに印をつける際、線を10刻んで端とし、それを一段として次の段にまた10刻んでいく。そこに上と同様の意味を見て取ったからであろう。
このようなヤマトコトバの組成は、言葉がほうぼうに点在しながら意味が芋蔓式に通底して数珠つながりに根粒を示しており、コトダマという呼び方は当を得ていると考える。たまたま、たまさかに現れ見える。そして、言葉はみなそうなっているのかと問うたとき、本当にそうなっていると思われるし、今後ともそうでありつづけるように知恵を働かせていけば言=事が保たれて秩序は維持されていくのだからそうしようと暗黙裡に取り決めていたであろう。アノミー化したコト(言・事)という想定自体、想定し難いものである。“言霊信仰”には優位性があり、累次性を成して構築されていったと言って適当であろう。
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